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正体不明の感情
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駅を出てすぐの交差点で信号を待ちながら、駒川はふと足を止めた。人波に紛れて渡るつもりだった道の向こうに、なぜか今夜は進む気になれなかった。バー「Le Papillon」へ向かうつもりだった足が、いつの間にかその手前の路地へ逸れていた。無意識だった。けれど、どこかでそれを望んでいた気もする。
湿った夜風が肌を撫でる。まだ地面には午後の雨の名残があり、アスファルトから上がる微かな湿気の匂いが鼻をかすめた。目に入った喫茶店の小さな看板。ふだんは素通りするだけの場所だったが、今夜はなぜかその灯りが妙に柔らかく見えた。
店内は薄暗く、客も少なかった。小さな照明がテーブルをひとつひとつ照らしている。奥の席に腰を下ろし、コートを脱ぎながら、駒川は深く息をついた。ガラス越しに見える街の灯りが、ぼんやりとにじんでいる。コーヒーをひと口含むと、苦味が静かに舌に広がり、ようやく思考が浮上してきた。
指先に、ふと感覚が蘇る。あの夜、“りょう”に触れたときの皮膚の柔らかさ。手を重ねた瞬間の温度。唇が触れたときの微かな震え。誰にでも同じように接しているふうでいて、どこかで心が宿っていた、確かなぬくもり。
その感触が、今朝、中野とすれ違ったときに触れた手の記憶と重なる。あの香り。あの整えられた爪先。あの、ふとしたときに視線をそらす癖。重なるはずのない二つの人間が、少しずつ交わり始めている。無理やりこじつけているわけでもない。ただ、自然と頭がそう結びつけようとしていた。
「…もし、中野だったら」
声に出してみて、駒川はすぐに唇を噛んだ。
想像のつもりだった。たったそれだけのはずだったのに、その言葉は予想以上に胸に響いた。
中野涼希。
職場では控えめで、どちらかと言えば空気のような存在。あまり会話も交わしてこなかった。だが、ふとしたタイミングで言葉を交わすようになってから、その物静かな中にある確かな芯のようなものに、駒川は気づき始めていた。視線の運び方。空気の読み方。声の抑揚。どれも、“りょう”に似ていた。
そして何より、“りょう”が語った言葉のいくつかが、どこかで中野の価値観に通じていた気がした。
仕事の愚痴を零すようでいて、責任を背負い込もうとする癖。
誰にも頼らずに、自分だけで全部抱え込もうとする孤独。
それを、どこかで知っているような気がした。
「…でも、だからって何なんだよ」
言葉が喉をすべり落ちるようにして、唇から漏れた。
コーヒーカップを持っていた手が、気づかぬうちにぎゅっと握り締められていた。
白くなった指先を見て、駒川はゆっくり力を抜く。
もし、中野が“りょう”だったら。
そんなのは、ただの偶然だ。ありえない。ありえない、はずだった。
なのに。
胸が痛い。
喫茶店の静けさの中で、その痛みだけがやけに明瞭だった。
それは混乱でもあり、恐れでもあり、けれど不思議な安心感でもあった。
あの夜を思い出すたびに、駒川の中に湧き上がっていたもの。
それは、相手が誰であるか以上に、あの夜、確かに自分は“誰か”と心を通わせたという事実だった。
名前を知らなくても、顔を偽られていても。
あの瞬間、自分の胸に触れてきた感情は、本物だった。
ならば、もしそれが中野だったとしたら。
笑ってすませることなんて、できるわけがない。
むしろ、自分はもっと深く、その人を知りたいと願ってしまう。
…そんなふうに考えている自分がいることに、駒川は戸惑った。
まるで、気づかないうちにどこかへ引き込まれていたかのような感覚。
そこから戻れない場所に、足を踏み入れてしまったような感覚。
目を閉じる。
暗闇の中に、“りょう”の声がよみがえる。
優しくて、でもどこか遠くて、孤独を抱えたまま微笑む声。
それが、オフィスで書類を丁寧に並べていた中野の仕草と、何度も重なる。
もう、見ないふりはできない。
気のせいでは済まされない。
駒川は深く息をついて、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
カップをソーサーに戻す音が、店内の静けさにわずかに響いた。
夜が、少しずつ濃くなっていく。
けれどその濃さが、彼の心の色を映しているようにも思えた。
黒く沈むその奥で、小さな灯だけが、静かに揺れていた。
湿った夜風が肌を撫でる。まだ地面には午後の雨の名残があり、アスファルトから上がる微かな湿気の匂いが鼻をかすめた。目に入った喫茶店の小さな看板。ふだんは素通りするだけの場所だったが、今夜はなぜかその灯りが妙に柔らかく見えた。
店内は薄暗く、客も少なかった。小さな照明がテーブルをひとつひとつ照らしている。奥の席に腰を下ろし、コートを脱ぎながら、駒川は深く息をついた。ガラス越しに見える街の灯りが、ぼんやりとにじんでいる。コーヒーをひと口含むと、苦味が静かに舌に広がり、ようやく思考が浮上してきた。
指先に、ふと感覚が蘇る。あの夜、“りょう”に触れたときの皮膚の柔らかさ。手を重ねた瞬間の温度。唇が触れたときの微かな震え。誰にでも同じように接しているふうでいて、どこかで心が宿っていた、確かなぬくもり。
その感触が、今朝、中野とすれ違ったときに触れた手の記憶と重なる。あの香り。あの整えられた爪先。あの、ふとしたときに視線をそらす癖。重なるはずのない二つの人間が、少しずつ交わり始めている。無理やりこじつけているわけでもない。ただ、自然と頭がそう結びつけようとしていた。
「…もし、中野だったら」
声に出してみて、駒川はすぐに唇を噛んだ。
想像のつもりだった。たったそれだけのはずだったのに、その言葉は予想以上に胸に響いた。
中野涼希。
職場では控えめで、どちらかと言えば空気のような存在。あまり会話も交わしてこなかった。だが、ふとしたタイミングで言葉を交わすようになってから、その物静かな中にある確かな芯のようなものに、駒川は気づき始めていた。視線の運び方。空気の読み方。声の抑揚。どれも、“りょう”に似ていた。
そして何より、“りょう”が語った言葉のいくつかが、どこかで中野の価値観に通じていた気がした。
仕事の愚痴を零すようでいて、責任を背負い込もうとする癖。
誰にも頼らずに、自分だけで全部抱え込もうとする孤独。
それを、どこかで知っているような気がした。
「…でも、だからって何なんだよ」
言葉が喉をすべり落ちるようにして、唇から漏れた。
コーヒーカップを持っていた手が、気づかぬうちにぎゅっと握り締められていた。
白くなった指先を見て、駒川はゆっくり力を抜く。
もし、中野が“りょう”だったら。
そんなのは、ただの偶然だ。ありえない。ありえない、はずだった。
なのに。
胸が痛い。
喫茶店の静けさの中で、その痛みだけがやけに明瞭だった。
それは混乱でもあり、恐れでもあり、けれど不思議な安心感でもあった。
あの夜を思い出すたびに、駒川の中に湧き上がっていたもの。
それは、相手が誰であるか以上に、あの夜、確かに自分は“誰か”と心を通わせたという事実だった。
名前を知らなくても、顔を偽られていても。
あの瞬間、自分の胸に触れてきた感情は、本物だった。
ならば、もしそれが中野だったとしたら。
笑ってすませることなんて、できるわけがない。
むしろ、自分はもっと深く、その人を知りたいと願ってしまう。
…そんなふうに考えている自分がいることに、駒川は戸惑った。
まるで、気づかないうちにどこかへ引き込まれていたかのような感覚。
そこから戻れない場所に、足を踏み入れてしまったような感覚。
目を閉じる。
暗闇の中に、“りょう”の声がよみがえる。
優しくて、でもどこか遠くて、孤独を抱えたまま微笑む声。
それが、オフィスで書類を丁寧に並べていた中野の仕草と、何度も重なる。
もう、見ないふりはできない。
気のせいでは済まされない。
駒川は深く息をついて、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
カップをソーサーに戻す音が、店内の静けさにわずかに響いた。
夜が、少しずつ濃くなっていく。
けれどその濃さが、彼の心の色を映しているようにも思えた。
黒く沈むその奥で、小さな灯だけが、静かに揺れていた。
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