君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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崩れかけた演技

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店内の照明は今夜も柔らかで、低く流れるシャンソンが空間をやさしく満たしていた。薄く漂うアルコールと香水の匂いの奥に、静けさにも似た親密がある。カウンター越しの会話はときおり笑いに弾み、ふたり連れの客がグラスを傾けながら談笑している。けれどその静かな熱気のなかで、涼希の心は騒がしかった。

駒川が再び「Le Papillon」に姿を見せたのは、ここ数日の沈黙が嘘だったかのように自然だった。
店の奥の席に座る彼の姿は以前と変わらない。
けれど、そこにある空気は、以前とは明らかに違っていた。
どこか…探るような視線。
そして、まるで“確かめに来た”ような沈黙。

涼希は、グラスを手に彼のテーブルに向かっていた。
“りょう”の顔を貼り直すように、微笑を整え、ヒールの音を一定のリズムで刻む。
それでも、彼に目が合った瞬間、胸の奥が妙な音を立てた。

「こんばんは。また来てくださったんですね」

いつもの調子で声をかけながら、彼の前に座る。
駒川は、穏やかな笑みを見せて頷いた。
それは礼儀正しく、けれどどこかしら…静かな緊張を含んでいた。

「こういう場所ってさ、慣れないんだけど、不思議と落ち着くんですよね。あなたがいるからかな」

その言葉に、涼希は「うれしいです」と微笑んでみせる。
それは半ば反射だった。
けれど、心はついてこなかった。
どこか…警戒している自分がいた。
何かを見透かされているような、そんな気配が、今夜の駒川には確かにあった。

会話が進むうち、常連客のひとりがふいに話しかけてきた。
「りょうちゃんて、どんな仕事してる人が好み?やっぱりスーツ系?真面目なやつ?」

「そうですね…」

ふとした油断だった。
答える声の調子が、“りょう”ではなかった。
そして、その語尾に、涼希自身がふだん使っている口癖が混ざっていた。

「意外と、不器用な人って…守りたくなりませんか」

その言葉が口を離れた瞬間、涼希の身体の奥で警鐘が鳴った。
それは“りょう”としての台詞ではなかった。
涼希個人の思想であり、癖であり、声だった。
しかも、その“言い回し”は、あまりにも中野涼希としてのそれだった。

そして、そのミスに気づいたのは自分だけではなかった。
駒川のまなざしが、わずかに揺れた。
言葉にはせず、表情も崩さなかったが、その目が確かに“記憶を手繰っている”動きを見せた。

涼希の手が、テーブルに置かれていたグラスの縁をなぞっていた。
指先に力が入り、動きが止まる。
それが、自分の動揺を浮かび上がらせてしまったのだと気づき、慌ててグラスを持ち替えた。

その拍子に、テーブルの下で膝に置いていた手がわずかに震える。
それはほんの一瞬のことだったが、涼希の中では永遠にも思えた。
汗ばむ手のひら。
締めつけるような心臓の鼓動。

駒川の視線が、こちらに戻ってくる。
変わらぬ顔のまま、けれどその目の奥には、確かに何かが灯っていた。
理解。あるいは…気づきの兆し。

終わった。
そう思った瞬間だった。

「りょう、ちょっといい?」

背後からかけられた声。
ジンだった。
彼は、笑顔を崩さないまま、やわらかな手つきで涼希の肩を軽く叩いた。

「グラス、替えてくるってさ。俺が代わるよ」

自然な流れだった。
まるでよくある交代のように装って、ジンは涼希をその場からそっと下げた。

「今日は、これ以上近づくな」

耳元で、低く、小さく呟かれた言葉。
ジンの声音は、冷静だったが、その中に鋭いものが潜んでいた。

「目が、揺れてた。あれじゃ、バレるよ」

涼希は小さく頷くしかなかった。
喉が渇いていた。
息を吸うのも忘れていた自分に、ようやく気づいた。
店の裏へ引き下がる通路で、肩がひとつ落ちる。
手のひらの中で汗がにじんでいて、まるで自分の熱が逃げてしまったかのようだった。

後ろを振り返ると、ジンが客席に戻っていた。
駒川は何も言わずに、ただ視線を追っていた。
その目は、静かで、揺るぎがなかった。

逃げられない。
そう思った。
けれど、それでも…どこかで、もう逃げたくないという気持ちも、確かにあった。

自分を守るための仮面が、皮膚の内側から剥がれていく感覚。
それが苦しくもあり、どこか…心地よくもあった。

胸の奥で小さく、なにかがきしんだ。
それが恐れなのか、希望なのか、まだわからなかった。
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