39 / 61
崩れかけた演技
しおりを挟む
店内の照明は今夜も柔らかで、低く流れるシャンソンが空間をやさしく満たしていた。薄く漂うアルコールと香水の匂いの奥に、静けさにも似た親密がある。カウンター越しの会話はときおり笑いに弾み、ふたり連れの客がグラスを傾けながら談笑している。けれどその静かな熱気のなかで、涼希の心は騒がしかった。
駒川が再び「Le Papillon」に姿を見せたのは、ここ数日の沈黙が嘘だったかのように自然だった。
店の奥の席に座る彼の姿は以前と変わらない。
けれど、そこにある空気は、以前とは明らかに違っていた。
どこか…探るような視線。
そして、まるで“確かめに来た”ような沈黙。
涼希は、グラスを手に彼のテーブルに向かっていた。
“りょう”の顔を貼り直すように、微笑を整え、ヒールの音を一定のリズムで刻む。
それでも、彼に目が合った瞬間、胸の奥が妙な音を立てた。
「こんばんは。また来てくださったんですね」
いつもの調子で声をかけながら、彼の前に座る。
駒川は、穏やかな笑みを見せて頷いた。
それは礼儀正しく、けれどどこかしら…静かな緊張を含んでいた。
「こういう場所ってさ、慣れないんだけど、不思議と落ち着くんですよね。あなたがいるからかな」
その言葉に、涼希は「うれしいです」と微笑んでみせる。
それは半ば反射だった。
けれど、心はついてこなかった。
どこか…警戒している自分がいた。
何かを見透かされているような、そんな気配が、今夜の駒川には確かにあった。
会話が進むうち、常連客のひとりがふいに話しかけてきた。
「りょうちゃんて、どんな仕事してる人が好み?やっぱりスーツ系?真面目なやつ?」
「そうですね…」
ふとした油断だった。
答える声の調子が、“りょう”ではなかった。
そして、その語尾に、涼希自身がふだん使っている口癖が混ざっていた。
「意外と、不器用な人って…守りたくなりませんか」
その言葉が口を離れた瞬間、涼希の身体の奥で警鐘が鳴った。
それは“りょう”としての台詞ではなかった。
涼希個人の思想であり、癖であり、声だった。
しかも、その“言い回し”は、あまりにも中野涼希としてのそれだった。
そして、そのミスに気づいたのは自分だけではなかった。
駒川のまなざしが、わずかに揺れた。
言葉にはせず、表情も崩さなかったが、その目が確かに“記憶を手繰っている”動きを見せた。
涼希の手が、テーブルに置かれていたグラスの縁をなぞっていた。
指先に力が入り、動きが止まる。
それが、自分の動揺を浮かび上がらせてしまったのだと気づき、慌ててグラスを持ち替えた。
その拍子に、テーブルの下で膝に置いていた手がわずかに震える。
それはほんの一瞬のことだったが、涼希の中では永遠にも思えた。
汗ばむ手のひら。
締めつけるような心臓の鼓動。
駒川の視線が、こちらに戻ってくる。
変わらぬ顔のまま、けれどその目の奥には、確かに何かが灯っていた。
理解。あるいは…気づきの兆し。
終わった。
そう思った瞬間だった。
「りょう、ちょっといい?」
背後からかけられた声。
ジンだった。
彼は、笑顔を崩さないまま、やわらかな手つきで涼希の肩を軽く叩いた。
「グラス、替えてくるってさ。俺が代わるよ」
自然な流れだった。
まるでよくある交代のように装って、ジンは涼希をその場からそっと下げた。
「今日は、これ以上近づくな」
耳元で、低く、小さく呟かれた言葉。
ジンの声音は、冷静だったが、その中に鋭いものが潜んでいた。
「目が、揺れてた。あれじゃ、バレるよ」
涼希は小さく頷くしかなかった。
喉が渇いていた。
息を吸うのも忘れていた自分に、ようやく気づいた。
店の裏へ引き下がる通路で、肩がひとつ落ちる。
手のひらの中で汗がにじんでいて、まるで自分の熱が逃げてしまったかのようだった。
後ろを振り返ると、ジンが客席に戻っていた。
駒川は何も言わずに、ただ視線を追っていた。
その目は、静かで、揺るぎがなかった。
逃げられない。
そう思った。
けれど、それでも…どこかで、もう逃げたくないという気持ちも、確かにあった。
自分を守るための仮面が、皮膚の内側から剥がれていく感覚。
それが苦しくもあり、どこか…心地よくもあった。
胸の奥で小さく、なにかがきしんだ。
それが恐れなのか、希望なのか、まだわからなかった。
駒川が再び「Le Papillon」に姿を見せたのは、ここ数日の沈黙が嘘だったかのように自然だった。
店の奥の席に座る彼の姿は以前と変わらない。
けれど、そこにある空気は、以前とは明らかに違っていた。
どこか…探るような視線。
そして、まるで“確かめに来た”ような沈黙。
涼希は、グラスを手に彼のテーブルに向かっていた。
“りょう”の顔を貼り直すように、微笑を整え、ヒールの音を一定のリズムで刻む。
それでも、彼に目が合った瞬間、胸の奥が妙な音を立てた。
「こんばんは。また来てくださったんですね」
いつもの調子で声をかけながら、彼の前に座る。
駒川は、穏やかな笑みを見せて頷いた。
それは礼儀正しく、けれどどこかしら…静かな緊張を含んでいた。
「こういう場所ってさ、慣れないんだけど、不思議と落ち着くんですよね。あなたがいるからかな」
その言葉に、涼希は「うれしいです」と微笑んでみせる。
それは半ば反射だった。
けれど、心はついてこなかった。
どこか…警戒している自分がいた。
何かを見透かされているような、そんな気配が、今夜の駒川には確かにあった。
会話が進むうち、常連客のひとりがふいに話しかけてきた。
「りょうちゃんて、どんな仕事してる人が好み?やっぱりスーツ系?真面目なやつ?」
「そうですね…」
ふとした油断だった。
答える声の調子が、“りょう”ではなかった。
そして、その語尾に、涼希自身がふだん使っている口癖が混ざっていた。
「意外と、不器用な人って…守りたくなりませんか」
その言葉が口を離れた瞬間、涼希の身体の奥で警鐘が鳴った。
それは“りょう”としての台詞ではなかった。
涼希個人の思想であり、癖であり、声だった。
しかも、その“言い回し”は、あまりにも中野涼希としてのそれだった。
そして、そのミスに気づいたのは自分だけではなかった。
駒川のまなざしが、わずかに揺れた。
言葉にはせず、表情も崩さなかったが、その目が確かに“記憶を手繰っている”動きを見せた。
涼希の手が、テーブルに置かれていたグラスの縁をなぞっていた。
指先に力が入り、動きが止まる。
それが、自分の動揺を浮かび上がらせてしまったのだと気づき、慌ててグラスを持ち替えた。
その拍子に、テーブルの下で膝に置いていた手がわずかに震える。
それはほんの一瞬のことだったが、涼希の中では永遠にも思えた。
汗ばむ手のひら。
締めつけるような心臓の鼓動。
駒川の視線が、こちらに戻ってくる。
変わらぬ顔のまま、けれどその目の奥には、確かに何かが灯っていた。
理解。あるいは…気づきの兆し。
終わった。
そう思った瞬間だった。
「りょう、ちょっといい?」
背後からかけられた声。
ジンだった。
彼は、笑顔を崩さないまま、やわらかな手つきで涼希の肩を軽く叩いた。
「グラス、替えてくるってさ。俺が代わるよ」
自然な流れだった。
まるでよくある交代のように装って、ジンは涼希をその場からそっと下げた。
「今日は、これ以上近づくな」
耳元で、低く、小さく呟かれた言葉。
ジンの声音は、冷静だったが、その中に鋭いものが潜んでいた。
「目が、揺れてた。あれじゃ、バレるよ」
涼希は小さく頷くしかなかった。
喉が渇いていた。
息を吸うのも忘れていた自分に、ようやく気づいた。
店の裏へ引き下がる通路で、肩がひとつ落ちる。
手のひらの中で汗がにじんでいて、まるで自分の熱が逃げてしまったかのようだった。
後ろを振り返ると、ジンが客席に戻っていた。
駒川は何も言わずに、ただ視線を追っていた。
その目は、静かで、揺るぎがなかった。
逃げられない。
そう思った。
けれど、それでも…どこかで、もう逃げたくないという気持ちも、確かにあった。
自分を守るための仮面が、皮膚の内側から剥がれていく感覚。
それが苦しくもあり、どこか…心地よくもあった。
胸の奥で小さく、なにかがきしんだ。
それが恐れなのか、希望なのか、まだわからなかった。
2
あなたにおすすめの小説
勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される
八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。
蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。
リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。
ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい……
スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(2024.10.21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
【完結】大学で再会した幼馴染(初恋相手)に恋人のふりをしてほしいと頼まれた件について
kouta
BL
大学で再会した幼馴染から『ストーカーに悩まされている。半年間だけ恋人のふりをしてほしい』と頼まれた夏樹。『焼き肉奢ってくれるなら』と承諾したものの次第に意識してしまうようになって……
※ムーンライトノベルズでも投稿しています
Please,Call My Name
叶けい
BL
アイドルグループ『star.b』最年長メンバーの桐谷大知はある日、同じグループのメンバーである櫻井悠貴の幼なじみの青年・雪村眞白と知り合う。眞白には難聴のハンディがあった。
何度も会ううちに、眞白に惹かれていく大知。
しかし、かつてアイドルに憧れた過去を持つ眞白の胸中は複雑だった。
大知の優しさに触れるうち、傷ついて頑なになっていた眞白の気持ちも少しずつ解けていく。
眞白もまた大知への想いを募らせるようになるが、素直に気持ちを伝えられない。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
冷徹勇猛な竜将アルファは純粋無垢な王子オメガに甘えたいのだ! ~だけど殿下は僕に、癒ししか求めてくれないのかな……~
大波小波
BL
フェリックス・エディン・ラヴィゲールは、ネイトステフ王国の第三王子だ。
端正だが、どこか猛禽類の鋭さを思わせる面立ち。
鋭い長剣を振るう、引き締まった体。
第二性がアルファだからというだけではない、自らを鍛え抜いた武人だった。
彼は『竜将』と呼ばれる称号と共に、内戦に苦しむ隣国へと派遣されていた。
軍閥のクーデターにより内戦の起きた、テミスアーリン王国。
そこでは、国王の第二夫人が亡命の準備を急いでいた。
王は戦闘で命を落とし、彼の正妻である王妃は早々と我が子を連れて逃げている。
仮王として指揮をとる第二夫人の長男は、近隣諸国へ支援を求めて欲しいと、彼女に亡命を勧めた。
仮王の弟である、アルネ・エドゥアルド・クラルは、兄の力になれない歯がゆさを感じていた。
瑞々しい、均整の取れた体。
絹のような栗色の髪に、白い肌。
美しい面立ちだが、茶目っ気も覗くつぶらな瞳。
第二性はオメガだが、彼は利発で優しい少年だった。
そんなアルネは兄から聞いた、隣国の支援部隊を指揮する『竜将』の名を呟く。
「フェリックス・エディン・ラヴィゲール殿下……」
不思議と、勇気が湧いてくる。
「長い、お名前。まるで、呪文みたい」
その名が、恋の呪文となる日が近いことを、アルネはまだ知らなかった。
転生DKは、オーガさんのお気に入り~姉の婚約者に嫁ぐことになったんだが、こんなに溺愛されるとは聞いてない!~
トモモト ヨシユキ
BL
魔物の国との和議の証に結ばれた公爵家同士の婚約。だが、婚約することになった姉が拒んだため6男のシャル(俺)が代わりに婚約することになった。
突然、オーガ(鬼)の嫁になることがきまった俺は、ショックで前世を思い出す。
有名進学校に通うDKだった俺は、前世の知識と根性で自分の身を守るための剣と魔法の鍛練を始める。
約束の10年後。
俺は、人類最強の魔法剣士になっていた。
どこからでもかかってこいや!
と思っていたら、婚約者のオーガ公爵は、全くの塩対応で。
そんなある日、魔王国のバーティーで絡んできた魔物を俺は、こてんぱんにのしてやったんだが、それ以来、旦那様の様子が変?
急に花とか贈ってきたり、デートに誘われたり。
慣れない溺愛にこっちまで調子が狂うし!
このまま、俺は、絆されてしまうのか!?
カイタ、エブリスタにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる