君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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知らないふりの境界線

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駅のホームには、夜風がゆっくりと吹き抜けていた。
平日の終わりにしては珍しく、人影のまばらな構内。終電にはまだ時間があったが、空気にはもう“帰る”ための気配が染みついていた。電車を待つ数人の背中が遠く見えるなかで、涼希は一人、ベンチの前に立ち尽くしていた。

飲み会の帰り道、自然な流れで駒川と同じ方向の電車になった。
別に驚くことでもないし、気まずがる理由もない――はずだった。
けれど、駅に着いてからの数分、ふたりのあいだに言葉はなかった。
涼希は手持ち無沙汰にスマホを取り出し、画面を開いたまま指先だけを動かしている。けれど、目はまるで文字を読んでいなかった。

すぐ横には、駒川がいた。
少し離れた位置に立ち、ホームの先を見つめている。
顔は真正面を向いていたが、その表情はまるで読めなかった。
薄暗い照明のせいでも、背中越しのせいでもない。
彼自身が、何も見せていないように思えた。

涼希は、喉の奥が乾いていく感覚を覚えていた。
空気が、薄い。
何かを話したいのに、言葉にならない。
胸の内に渦巻く感情が、のど元にまでせり上がってくるのに、それを飲み込むしかなかった。

やがて、堪えきれずに涼希が口を開く。

「今日は…お疲れさまでした」

自分でも気づくほど、その声は少し高く、不自然に明るかった。
まるで何かを誤魔化すように、無理に笑いながら口にした言葉だった。

駒川は、すぐには返事をしなかった。
わずかな沈黙が、ふたりのあいだに張り詰めた糸のように伸びていく。
その時間が、ほんの一拍だったとしても、涼希には永遠にも思えた。

そして、ようやく彼の口から漏れた言葉は、ひどく短かった。

「…ああ」

低く、抑えた声だった。
その声に感情はなかった。
少なくとも、そう思いたかった。
けれど涼希は、その一音に含まれた“ためらい”を聞き逃さなかった。

そこに確かにあったのは、疑念、そして戸惑い。
そして――おそらく、確信。

涼希は、呼吸を整えようと、ほんのわずかに口を開いた。
でも次の言葉は出てこなかった。
喉がつまって、空気が抜けなかった。

ふたりの距離は、以前と変わらぬはずだった。
けれど、その感覚は完全に失われていた。
目には見えない隔たりが、足元に静かに横たわっている。
それはいつか越えるべきだった境界線であり、越えてはいけなかった境界線でもあった。

ふと視線を横にずらすと、駒川の横顔が見えた。
表情は変わらず、唇はきゅっと引き結ばれていた。
その硬さが、彼の中にある葛藤を雄弁に物語っていた。

風が吹いた。
駅のホームをすり抜けるように冷たい風が、ふたりの髪をわずかに揺らした。
けれど、それ以上に心を揺らしたのは、その沈黙だった。

涼希は、自分がすでに“知らないふり”ではいられないことを悟っていた。
駒川が何かを感じ取り、それを確かめようとしていることに、もう気づいていた。
そして、それを受け入れる覚悟が、自分にはまだできていないことも。

電車が来る音が、遠くから聞こえはじめた。
ホームに流れるアナウンスが、その緊張をさらに浮き彫りにしていく。

何かを言わなければ。
でも、何を言えばいいのかわからなかった。

「また…会社で」

なんとか口にしたその言葉も、どこか薄っぺらく響いた。
駒川は、こちらを向かなかった。
ただ小さく頷いたような気配だけがあった。

電車の扉が開き、乗り込む人々の足音が響いた。
涼希もその流れに乗りながら、横目で駒川の動きを確かめた。
けれど彼は、少しだけ後ろに残ったまま、まだホームの端を見つめていた。

涼希は、扉の内側から彼を振り返った。
そしてその瞬間、駒川がわずかにこちらを見上げた。
その視線には、やはり何も書かれていなかった。
けれど――何もかもが伝わってくる気がした。

電車が動き出した。
ふたりの距離は、視界の中でゆっくりと遠ざかっていく。
けれど、心の中ではまだ彼の存在がはっきりと焼きついていた。

知らないふりのままでは、いられない。
そう思いながらも、まだ名を呼ぶ勇気はなかった。
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