42 / 61
雨の匂いと、問いかけの予感
しおりを挟む
雨の気配を残したまま、ガラス扉が静かに開いた。鈍い鈴の音が控えめに店内に響き、湿った夜の空気がふわりと流れ込んでくる。扉の向こうから現れたのは、駒川だった。濃紺のコートの肩に小さな水滴が光り、前髪の先がしっとりと濡れて額に貼りついている。まるで雨そのものを纏って現れたような姿に、涼希は思わずまばたきを一つ遅らせた。
彼は何も言わず、ただ一歩ずつ奥の席へと歩み寄ってくる。りょうとしての涼希は、すでにその席で待っていた。薄く色づけられた唇の端が、ほんのわずかに揺れた。笑みではなかった。揺らぎとしか言いようのないその変化は、胸の奥に沈んだ小さな不安の波紋を、そっと広げていた。
「こんばんは」とは言わなかった。挨拶すらも、今夜は異物のように思えた。駒川が何を思ってここへ来たのか、涼希にはもうわかっていたから。あるいは、自分が何を恐れているのかが、すでに形になり始めていたから。
駒川はりょうの隣に腰を下ろした。ゆっくりと、息を吐きながら。まるで座ることすらひとつの選択のように慎重に。店内の照明はいつもより少しだけ落とされていて、ピアノの静かなソロが低く流れていた。グラスやボトルの反射が微かに瞬き、二人の輪郭を曖昧に溶かしていく。
「寒かったですね」
涼希が口にした声は、ごく自然に聞こえたはずだった。だが、グラスを持った右手がほんのわずかに震えていた。氷の音が控えめに鳴る。左手は膝の上に重ねたまま、動かせずにいる。その手に、今にも言葉がにじみ出しそうで、何かを繋ぎとめているようだった。
駒川はうなずきもせず、ただ前を向いていた。テーブルの縁に置かれた指先が、静かに、円を描いている。そこに無意識の動きがあった。落ち着かない思考のなかを漂うように、ぐるぐると同じ軌道をたどっていた。
「いつもより、静かですね」
また、涼希が言う。自分の声が余計に響く気がして、少しだけ語尾を短く切る。けれど駒川は、すぐには応えなかった。視線はグラスにも、涼希にも向けられていない。天井のどこか、あるいは自分の思考の底に沈んでいるようだった。
「…そうだな」
ぽつりと落ちたその声に、何かを削ぐような硬さがあった。涼希は横目で、彼の横顔を確かめた。頬のラインにかかる雨に濡れた髪、伏せたまつげ、僅かに緊張した口元。それらすべてが、何かを探しているように思えた。
涼希はグラスをテーブルに戻し、指先をそっと離す。その小さな動きだけで、内側にたまった呼吸がわずかに漏れた。背筋を正し、姿勢を整えるようにして言葉を探す。けれど、語るべきことは、たぶん駒川のほうが持っていた。
「…りょうさんって、時々…」
彼が口を開いたとき、その声は低く、掠れていた。けれど、確かな重みがそこにあった。
涼希は身じろぎもせず、その続きを待った。胸の奥で、何かが小さく音を立てる。
「うちの会社の同期に、似てるなって思うことがあるんだ」
その言葉が落ちた瞬間、世界の色がほんの少しだけ褪せた気がした。
涼希は表情を崩さなかった。崩せなかった。ただ、唇の内側をそっと噛んだ。
「そうですか?」
声は穏やかだった。けれど、明らかにわずかな掠れを含んでいた。
「どこが似てるんでしょう」
涼希がそう付け足したとき、駒川の視線が初めて彼に向けられた。じっと、まっすぐに。その瞳の奥には、まだ言葉にされない何かが宿っていた。疑いか、確信か、あるいは…それを知ることへの恐れか。
「声、かな。あと、仕草とか、爪とか。時々だけど、あ、って思う瞬間がある」
涼希の指が、またわずかに震えた。けれど今度は、左手がそっと右手を包み、震えを抑えた。冷たくなった掌の内側に、心のざわめきが静かに閉じ込められていく。
「それって、嬉しいです」
涼希は笑った。仮面のように、美しく整えた微笑みだった。
「その方、きっと素敵な方なんでしょうね」
駒川の瞳が、ほんのわずかに揺れた。その奥に浮かんだものを、涼希は見逃さなかった。
「…いや」
駒川が口を開く。けれど、その先の言葉は、まだ落ちなかった。
そして、また沈黙がふたりの間に戻ってくる。
涼希は、もう目をそらさなかった。自分の中の何かが、すでに答えを知っていることに、気づいていたから。
そして駒川もまた、その視線の先にあるものから、逃げきれなくなっていた。
夜の店内は静かだった。
雨の匂いだけが、まだ、どこかに残っていた。
彼は何も言わず、ただ一歩ずつ奥の席へと歩み寄ってくる。りょうとしての涼希は、すでにその席で待っていた。薄く色づけられた唇の端が、ほんのわずかに揺れた。笑みではなかった。揺らぎとしか言いようのないその変化は、胸の奥に沈んだ小さな不安の波紋を、そっと広げていた。
「こんばんは」とは言わなかった。挨拶すらも、今夜は異物のように思えた。駒川が何を思ってここへ来たのか、涼希にはもうわかっていたから。あるいは、自分が何を恐れているのかが、すでに形になり始めていたから。
駒川はりょうの隣に腰を下ろした。ゆっくりと、息を吐きながら。まるで座ることすらひとつの選択のように慎重に。店内の照明はいつもより少しだけ落とされていて、ピアノの静かなソロが低く流れていた。グラスやボトルの反射が微かに瞬き、二人の輪郭を曖昧に溶かしていく。
「寒かったですね」
涼希が口にした声は、ごく自然に聞こえたはずだった。だが、グラスを持った右手がほんのわずかに震えていた。氷の音が控えめに鳴る。左手は膝の上に重ねたまま、動かせずにいる。その手に、今にも言葉がにじみ出しそうで、何かを繋ぎとめているようだった。
駒川はうなずきもせず、ただ前を向いていた。テーブルの縁に置かれた指先が、静かに、円を描いている。そこに無意識の動きがあった。落ち着かない思考のなかを漂うように、ぐるぐると同じ軌道をたどっていた。
「いつもより、静かですね」
また、涼希が言う。自分の声が余計に響く気がして、少しだけ語尾を短く切る。けれど駒川は、すぐには応えなかった。視線はグラスにも、涼希にも向けられていない。天井のどこか、あるいは自分の思考の底に沈んでいるようだった。
「…そうだな」
ぽつりと落ちたその声に、何かを削ぐような硬さがあった。涼希は横目で、彼の横顔を確かめた。頬のラインにかかる雨に濡れた髪、伏せたまつげ、僅かに緊張した口元。それらすべてが、何かを探しているように思えた。
涼希はグラスをテーブルに戻し、指先をそっと離す。その小さな動きだけで、内側にたまった呼吸がわずかに漏れた。背筋を正し、姿勢を整えるようにして言葉を探す。けれど、語るべきことは、たぶん駒川のほうが持っていた。
「…りょうさんって、時々…」
彼が口を開いたとき、その声は低く、掠れていた。けれど、確かな重みがそこにあった。
涼希は身じろぎもせず、その続きを待った。胸の奥で、何かが小さく音を立てる。
「うちの会社の同期に、似てるなって思うことがあるんだ」
その言葉が落ちた瞬間、世界の色がほんの少しだけ褪せた気がした。
涼希は表情を崩さなかった。崩せなかった。ただ、唇の内側をそっと噛んだ。
「そうですか?」
声は穏やかだった。けれど、明らかにわずかな掠れを含んでいた。
「どこが似てるんでしょう」
涼希がそう付け足したとき、駒川の視線が初めて彼に向けられた。じっと、まっすぐに。その瞳の奥には、まだ言葉にされない何かが宿っていた。疑いか、確信か、あるいは…それを知ることへの恐れか。
「声、かな。あと、仕草とか、爪とか。時々だけど、あ、って思う瞬間がある」
涼希の指が、またわずかに震えた。けれど今度は、左手がそっと右手を包み、震えを抑えた。冷たくなった掌の内側に、心のざわめきが静かに閉じ込められていく。
「それって、嬉しいです」
涼希は笑った。仮面のように、美しく整えた微笑みだった。
「その方、きっと素敵な方なんでしょうね」
駒川の瞳が、ほんのわずかに揺れた。その奥に浮かんだものを、涼希は見逃さなかった。
「…いや」
駒川が口を開く。けれど、その先の言葉は、まだ落ちなかった。
そして、また沈黙がふたりの間に戻ってくる。
涼希は、もう目をそらさなかった。自分の中の何かが、すでに答えを知っていることに、気づいていたから。
そして駒川もまた、その視線の先にあるものから、逃げきれなくなっていた。
夜の店内は静かだった。
雨の匂いだけが、まだ、どこかに残っていた。
3
あなたにおすすめの小説
勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される
八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。
蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。
リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。
ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい……
スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(2024.10.21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる
cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。
「付き合おうって言ったのは凪だよね」
あの流れで本気だとは思わないだろおおお。
凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
【完結】おじさんダンジョン配信者ですが、S級探索者の騎士を助けたら妙に懐かれてしまいました
大河
BL
世界を変えた「ダンジョン」出現から30年──
かつて一線で活躍した元探索者・レイジ(42)は、今や東京の片隅で地味な初心者向け配信を続ける"おじさん配信者"。安物機材、スポンサーゼロ、視聴者数も控えめ。華やかな人気配信者とは対照的だが、その真摯な解説は密かに「信頼できる初心者向け動画」として評価されていた。
そんな平穏な日常が一変する。ダンジョン中層に災厄級モンスターが突如出現、人気配信パーティが全滅の危機に!迷わず単身で救助に向かうレイジ。絶体絶命のピンチを救ったのは、国家直属のS級騎士・ソウマだった。
冷静沈着、美形かつ最強。誰もが憧れる騎士の青年は、なぜかレイジを見た瞬間に顔を赤らめて……?
若き美貌の騎士×地味なおじさん配信者のバディが織りなす、年の差、立場の差、すべてを越えて始まる予想外の恋の物語。
孤毒の解毒薬
紫月ゆえ
BL
友人なし、家族仲悪、自分の居場所に疑問を感じてる大学生が、同大学に在籍する真逆の陽キャ学生に出会い、彼の止まっていた時が動き始める―。
中学時代の出来事から人に心を閉ざしてしまい、常に一線をひくようになってしまった西条雪。そんな彼に話しかけてきたのは、いつも周りに人がいる人気者のような、いわゆる陽キャだ。雪とは一生交わることのない人だと思っていたが、彼はどこか違うような…。
不思議にももっと話してみたいと、あわよくば友達になってみたいと思うようになるのだが―。
【登場人物】
西条雪:ぼっち学生。人と関わることに抵抗を抱いている。無自覚だが、容姿はかなり整っている。
白銀奏斗:勉学、容姿、人望を兼ね備えた人気者。柔らかく穏やかな雰囲気をまとう。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
Please,Call My Name
叶けい
BL
アイドルグループ『star.b』最年長メンバーの桐谷大知はある日、同じグループのメンバーである櫻井悠貴の幼なじみの青年・雪村眞白と知り合う。眞白には難聴のハンディがあった。
何度も会ううちに、眞白に惹かれていく大知。
しかし、かつてアイドルに憧れた過去を持つ眞白の胸中は複雑だった。
大知の優しさに触れるうち、傷ついて頑なになっていた眞白の気持ちも少しずつ解けていく。
眞白もまた大知への想いを募らせるようになるが、素直に気持ちを伝えられない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる