君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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雨の匂いと、問いかけの予感

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雨の気配を残したまま、ガラス扉が静かに開いた。鈍い鈴の音が控えめに店内に響き、湿った夜の空気がふわりと流れ込んでくる。扉の向こうから現れたのは、駒川だった。濃紺のコートの肩に小さな水滴が光り、前髪の先がしっとりと濡れて額に貼りついている。まるで雨そのものを纏って現れたような姿に、涼希は思わずまばたきを一つ遅らせた。

彼は何も言わず、ただ一歩ずつ奥の席へと歩み寄ってくる。りょうとしての涼希は、すでにその席で待っていた。薄く色づけられた唇の端が、ほんのわずかに揺れた。笑みではなかった。揺らぎとしか言いようのないその変化は、胸の奥に沈んだ小さな不安の波紋を、そっと広げていた。

「こんばんは」とは言わなかった。挨拶すらも、今夜は異物のように思えた。駒川が何を思ってここへ来たのか、涼希にはもうわかっていたから。あるいは、自分が何を恐れているのかが、すでに形になり始めていたから。

駒川はりょうの隣に腰を下ろした。ゆっくりと、息を吐きながら。まるで座ることすらひとつの選択のように慎重に。店内の照明はいつもより少しだけ落とされていて、ピアノの静かなソロが低く流れていた。グラスやボトルの反射が微かに瞬き、二人の輪郭を曖昧に溶かしていく。

「寒かったですね」

涼希が口にした声は、ごく自然に聞こえたはずだった。だが、グラスを持った右手がほんのわずかに震えていた。氷の音が控えめに鳴る。左手は膝の上に重ねたまま、動かせずにいる。その手に、今にも言葉がにじみ出しそうで、何かを繋ぎとめているようだった。

駒川はうなずきもせず、ただ前を向いていた。テーブルの縁に置かれた指先が、静かに、円を描いている。そこに無意識の動きがあった。落ち着かない思考のなかを漂うように、ぐるぐると同じ軌道をたどっていた。

「いつもより、静かですね」

また、涼希が言う。自分の声が余計に響く気がして、少しだけ語尾を短く切る。けれど駒川は、すぐには応えなかった。視線はグラスにも、涼希にも向けられていない。天井のどこか、あるいは自分の思考の底に沈んでいるようだった。

「…そうだな」

ぽつりと落ちたその声に、何かを削ぐような硬さがあった。涼希は横目で、彼の横顔を確かめた。頬のラインにかかる雨に濡れた髪、伏せたまつげ、僅かに緊張した口元。それらすべてが、何かを探しているように思えた。

涼希はグラスをテーブルに戻し、指先をそっと離す。その小さな動きだけで、内側にたまった呼吸がわずかに漏れた。背筋を正し、姿勢を整えるようにして言葉を探す。けれど、語るべきことは、たぶん駒川のほうが持っていた。

「…りょうさんって、時々…」

彼が口を開いたとき、その声は低く、掠れていた。けれど、確かな重みがそこにあった。

涼希は身じろぎもせず、その続きを待った。胸の奥で、何かが小さく音を立てる。

「うちの会社の同期に、似てるなって思うことがあるんだ」

その言葉が落ちた瞬間、世界の色がほんの少しだけ褪せた気がした。

涼希は表情を崩さなかった。崩せなかった。ただ、唇の内側をそっと噛んだ。

「そうですか?」

声は穏やかだった。けれど、明らかにわずかな掠れを含んでいた。

「どこが似てるんでしょう」

涼希がそう付け足したとき、駒川の視線が初めて彼に向けられた。じっと、まっすぐに。その瞳の奥には、まだ言葉にされない何かが宿っていた。疑いか、確信か、あるいは…それを知ることへの恐れか。

「声、かな。あと、仕草とか、爪とか。時々だけど、あ、って思う瞬間がある」

涼希の指が、またわずかに震えた。けれど今度は、左手がそっと右手を包み、震えを抑えた。冷たくなった掌の内側に、心のざわめきが静かに閉じ込められていく。

「それって、嬉しいです」

涼希は笑った。仮面のように、美しく整えた微笑みだった。

「その方、きっと素敵な方なんでしょうね」

駒川の瞳が、ほんのわずかに揺れた。その奥に浮かんだものを、涼希は見逃さなかった。

「…いや」

駒川が口を開く。けれど、その先の言葉は、まだ落ちなかった。

そして、また沈黙がふたりの間に戻ってくる。

涼希は、もう目をそらさなかった。自分の中の何かが、すでに答えを知っていることに、気づいていたから。
そして駒川もまた、その視線の先にあるものから、逃げきれなくなっていた。

夜の店内は静かだった。
雨の匂いだけが、まだ、どこかに残っていた。
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