君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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あなたが好きなのは

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「…あなたが好きなのは、りょう?それとも、本当の私?」

その問いは、まるで何かを壊すために選ばれた言葉のように、しかし同時に、誰よりも優しく柔らかく放たれた。

涼希は、小さく笑ったつもりだった。けれどその笑みには、どこにも余裕がなかった。唇の形だけを笑みに見せかけて、声の奥には、諦めと恐れと…そして捨てきれないほど細い希望が揺れていた。

駒川は、その言葉を聞いた瞬間、わずかに身体を強張らせた。眉間に深くしわを寄せ、視線を落とす。その目の奥に走った感情を、涼希は読めなかった。けれど、答えを探しているのは、彼も同じだった。

静寂がふたりの間に満ちていく。グラスに溶けた氷が、小さな音を立てて揺れた。それは、まるで返答を促すかのような合図にも聞こえたが、駒川は沈黙を守ったまま、指先でグラスの縁をなぞり続けた。

やがて、ひとつ息を吐くようにして、駒川が言葉を落とす。

「…わからないんだ。俺自身が、何を…誰を、好きになったのか」

その言葉は、言い訳ではなかった。彼なりの、正直だった。けれど、涼希の中で何かがそっとほどける音がした。ゆるやかに張り詰めていたものが、断ち切れることなく、ただ疲れ果てて崩れていくように。

肩が、すとんと静かに落ちた。その動きはわずかで、けれど見た人間には確かに伝わる重さがあった。睫毛がかすかに震え、頬がわずかに引きつった。言葉はもう出てこなかった。ただ、飲み込むようにして、すべてを受け入れるしかなかった。

涼希は視線を下げたまま、膝の上で組んだ手をきつく握った。自分の爪が手のひらの肉に食い込む感触だけが、唯一の現実だった。喉の奥に、何かがせり上がる気配があったが、声にはならなかった。

「すみません」

その言葉が、どちらから発せられたのか、一瞬わからなかった。けれど、それは涼希の唇から、無意識にこぼれていた。謝る理由など、ないはずだった。けれど、この空気のどこかに、自分がいてはいけないような気がしたのだ。

「なんで謝るんだよ」

駒川がそう返したとき、声にかすかな怒りが混じっていた。それは、涼希にではなく、自分に向けられたものだった。

「俺が…俺がちゃんと気づいていれば、もっと…」

言いかけて、彼は口をつぐんだ。グラスを持った手が、ゆっくりと下ろされ、テーブルの上に置かれる。気づいていたのだ。いや、気づいていたふりをして、知らないふりをしてきた。気づいてしまえば、今まで築いてきたすべてが揺らいでしまうことを、恐れていた。

「俺…ずっと、誰かを好きになるって、こういうことなのかわからなかった」

その独白のような言葉に、涼希は目を閉じた。駒川の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。けれど、自分の胸の奥には、ちゃんと届いていた。

「でも、今でもわからないんだ。俺は“りょう”が好きだったのか、それとも、“本来のりょう”が好きだったのか。いや…どっちでもなくて…」

駒川の声が途切れた。涼希はゆっくりと目を開けた。テーブルの上で交差することのないふたりの視線が、わずかな距離を保ったまま、時間を止めていた。

「…どっちでも、ない?」

涼希がそう問い返したとき、その声には感情が抜け落ちていた。答えを聞くことを恐れていたのではない。もう、答えがどうであっても、今夜を越える覚悟を決めていたからだ。

「どっちかじゃなくて…“あなただから”って、言えるような自分だったらよかったって、思った」

駒川のその言葉に、涼希の視線が初めて真正面から彼を捉えた。胸の内で崩れていた何かが、また形を変えて固まり始める気配がした。けれど、それは希望ではなかった。望んでいた答えではなかったから。

涼希はゆっくりと首を横に振った。静かに、何かを否定するように。

「…その“あなた”が、仮面をつけていなかったら、同じように言えましたか?」

駒川は、答えなかった。いや、答えられなかった。今の自分には、その問いに応えるだけの言葉も、確信も持っていなかったのだ。

涼希は席を立たなかった。けれど、心だけが静かに、その場を離れていく感覚があった。
仮面をつけていない自分が、もうそこにいた。
そして、それを前にして言葉を失った彼を、もう責めることはできなかった。

「もう、いいです」

その言葉には、区切りの響きがあった。怒りではなく、諦めではなく、ただ“終わり”を知る人間の声。

その夜、ふたりの間には言葉以上のものが流れ、けれどそれは、どちらの手にも残らなかった。
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