君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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重なる気配

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コピー機の白い音が、事務室の片隅に機械的に響いていた。
駒川はその音を背に、隣で話す同僚の声に相槌を打ちながら、ファイルを手にしたまま何気ないやりとりを続けていた。今日も終わろうとしている一日。疲れが筋肉の奥で鈍く滞り始めていたが、特別なことは何もない、はずだった。

それは、ふとした瞬間だった。
自分のすぐ後ろを、誰かが通り過ぎる気配がした。
すれ違ったのは、涼希だった。営業補佐として同じフロアに席を持つ、控えめで几帳面な同僚。

その存在に気づいたのは、足音でも気配でもなく――香りだった。
涼希の髪からふわりと立ち上った、あの甘い香り。湿度を帯び、少しだけスパイシーな香水の残り香。
その瞬間、駒川の意識は一気に過去へと引き戻された。

あのバー「Le Papillon」で、何度も嗅いだことのある匂い。
“りょう”と名乗るキャストが傍にいた夜、すぐ隣から漂ってきた、あの香りだった。

肌を通り越して、呼吸にまで入り込んでいた、記憶の中の香り。
曖昧な残像が一気に色を持ち始めた気がして、駒川は思わずファイルを持つ手に力が入った。

「気をつけて…また」

その声が、耳元をかすめる。
涼希が通り過ぎる際、隣にいた同僚に向けてかけた挨拶。
それだけの一言だった。だが、聞き覚えのある声の抑揚。
優しくて、どこか名残惜しげで、それでいて相手との間に一定の距離を保とうとする言い回し。
それが、完全に“りょう”と重なった。

駒川の足が、止まった。
同僚が話を続けているのが遠く感じられる。ファイルの角が、指の間で少し傾いていた。
唇がわずかに開いたまま、閉じることを忘れていた。

「……」

息を吸い込もうとしても、胸が狭くてうまく入ってこなかった。
香りの残滓はすでに遠ざかっているのに、脳内には鮮明なまでにあの夜の情景が甦ってくる。

「今日は…ありがとうございました」
「気をつけて…また」

何度も繰り返されたそのフレーズが、今や現実の声と寸分違わぬ響きで重なっていた。
まるで、仮面を外す音が耳の奥で鳴ったようだった。

駒川は、もう立っていられなかった。
隣にいる同僚の言葉も聞き流したまま、小さく会釈だけしてその場を離れる。
脚が勝手に動いた。呼吸も乱れたまま、気づけば事務室を抜け、廊下の窓際まで来ていた。

壁にもたれかかり、額を軽く押さえる。
頭の奥がじんと疼いていた。
あれは偶然だろうか。
それとも――。

「まさか…」

誰にも聞こえない声で呟いたその一言は、思考の中で拒絶よりも先に肯定されていた。
ずっと感じていた違和感。
仕草、声、手の所作、会話の節々に滲む人懐っこさと繊細さ。
ただの勘だと思い込んでいたものが、現実味を帯びて迫ってくる。

背筋に汗が滲んでいた。
冷たいのに熱を持ったような、落ち着かない感覚。
けれど、そのどれもが確かに“りょう”を思わせた。

手に持ったままだったファイルが、ふとした拍子に床へと滑り落ちた。
拾おうとした手が、自分でも驚くほど震えていた。

今まで、どれだけの仮面の奥に気づかないふりをしてきたのだろう。
彼の笑顔も、沈黙も、そしてあの夜に交わした肌の熱も――全部、今ここにいる涼希と繋がっていたのだとしたら。

そう思った瞬間、胸の奥がひどく騒がしくなった。
それは恐れでも、後悔でもなかった。
名前もつけられない、ただひとつの感情だった。
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