君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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昼を少し過ぎた時間、冬の曇り空はまだ光を差し込ませることもなく、灰色の雲が低く垂れこめていた。職場の屋上に出ると、冷たい風がコートの襟をめくり上げる。けれど、駒川はその冷たさに気を留めることもなく、手すりの前に立ち、目の前の空を見上げていた。

ビルの合間から見える空は、まるで磨りガラスのようにぼやけていた。澄んだ青でもなく、沈む黒でもない中途半端なその色が、今の自分の気持ちとよく似ていると、ふと思った。感情に名前がつけられないまま、ただ静かに胸の奥が動いている。その動きに、ようやく自分の意識が追いつき始めた気がした。

風が吹き、髪の一部が額にかかる。それを直そうともしないまま、駒川はただ黙って立ち尽くしていた。ポケットの中の手が、自然と拳を握っていた。知らぬ間に力が入りすぎていたことに気づき、指をひとつずつほどいていく。その動作が、妙にゆっくりと感じられた。

今朝から続く、あの微かな香りの記憶。
すれ違いざまの声。
目線の向け方、会釈の角度、言葉の選び方。
すべてが、どこかで知っているものだった。

いや、違う。
“どこかで”ではなく、“誰か”のものだった。
あのバーで、何度も繰り返した時間のなかで、彼の隣にいた“りょう”という存在。その輪郭が、徐々に、はっきりと“涼希”という名と重なっていく。

手すりに肘をつきながら、駒川はふっと目を細める。
冷たい金属の感触が、少しずつ熱を持ち始めている気がした。
記憶がゆっくりと一本の線になっていく。その先に、確かに“彼”がいる。

「…やっぱり、あいつだったんだ」

口の中でこぼれた言葉は、風に混じって消えていった。
けれど、その言葉を声に出したことで、心のなかでくすぶっていた霧のようなものが、すうっと消えたような気がした。

怒っているのか、という問いが一瞬頭をよぎる。
だが、違った。
そんな感情は、どこにもなかった。

隠されていたことへの裏切りではない。
知らされなかったことへの怒りでもない。
ただ、彼が彼としてそこにいたことへの、ある種の納得があった。

ずっと違和感があったのだ。
会議中、ふとしたタイミングで見せる眼差し。
飲み会での距離の取り方。
そしてなによりも、あの声と、香り。
意識しないようにしていたものが、今ではすべて腑に落ちる。

「俺は…最初から、あいつに惹かれてたんだな」

それが“りょう”であっても、“涼希”であっても、もう関係はなかった。
仮面の裏にあったのは、誰かになろうとした涼希の、精一杯の本心だった。
その想いが、今になってようやく自分のなかでつながったのだと、駒川は思った。

空は相変わらず曇っていた。
けれど、その下に立っている自分の心の中にだけ、わずかに光が差し込んだような気がしていた。

ポケットのなかで、開かれた手がそっと動く。
何かを握りしめていた感覚が、今ではもうない。
心の中もまた、少しだけ軽くなっていた。

この気持ちをどうすればいいのか、まだ答えは出ない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
駒川は、彼の名前を、もう一度呼びたくなっていた。
仮面ではない、素顔のままの彼の名前を。
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