君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

文字の大きさ
51 / 61

濡れた足音と、扉の向こうで

しおりを挟む
玄関の向こうに、気配が立っていた。
湿った路面を踏みしめる足音が、夜の静けさにしっとりと溶け込んでいた。
涼希はその音を、部屋の内側でじっと聞いていた。
呼吸を止めたまま、玄関のドアの前に立ち尽くす。手のひらが、かすかに汗ばんでいる。

チャイムは鳴らなかった。
代わりに、そっとノックの音が一度だけ響いた。
涼希は深く息を吸い、震えないように意識して手を伸ばす。
ドアノブを回し、少しだけ開いた隙間から、見慣れた人影が立っているのが見えた。

「…駒川さん」

名を呼ぶ声は、自分でも驚くほど小さく、細く掠れていた。
雨はすでに止んでいたが、彼の肩にはまだ微かに湿り気が残っている。
くすんだグレイのジャケットの襟元が濡れていた。
その下から覗く髪が、額にぴたりと貼りついていた。

「…入っていいか」

駒川はそれだけを言った。
涼希は頷く。喉が詰まりそうになるのを堪えながら、扉を開けた。

部屋の中に、冷たい外気が少しだけ入り込んだ。
それは一瞬のことだったのに、全身を通して何かが切り替わったように感じた。
もう、後戻りできない。そういう空気だった。

ふたりは言葉を交わさぬまま、並んで玄関の中に立った。
駒川が靴を脱ぐ動作は静かで丁寧だった。
まるで、何かを乱すことを恐れているように、時間をかけていた。

涼希は、薄手のニットのカーディガンを羽織っていた。
その襟元を、無意識に指先で摘む。
濡れた髪は乾きかけていたが、まだ首筋に張りついていて、そこから体温が逃げていくのがわかった。

「どうぞ」

その言葉を発するまでに、数秒の間が必要だった。
駒川は短く頷き、リビングへと足を進める。
足音は絨毯に吸われ、ほとんど音にならなかった。

部屋はいつもと変わらず、整頓されていた。
けれど今夜は、その静けさが異質に感じられた。
照明は明るすぎず、間接照明が壁を淡く照らしている。
空気は湿気を帯びていて、それがどこか甘い香りのようにも思えた。

駒川が座るのを確認してから、涼希はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける手が、わずかに躊躇う。
冷たいペットボトルを取り出すまでに、ひと呼吸の間を置く。

「お茶、でいいですか」

「…ああ」

その返事は、どこか遠くにあるような声だった。
涼希はグラスに水を注ぎ、駒川の前に差し出す。
ふたりの指先がすれ違った瞬間、ほんの僅かに触れた。
それだけで、心臓が跳ねるように脈打つのを感じた。

沈黙が続く。
けれど、それは不自然なものではなかった。
互いに、言葉よりも先に確かめたいものがあることを知っていた。
言葉を挟むことで、その繊細な輪郭を壊してしまいそうだった。

涼希は、ソファの端に腰を下ろした。
駒川との距離は、ひとり分と少し。
けれどその距離は、今夜に限って、恐ろしく近く思えた。

視線を逸らした。
けれど、逸らした先でさえ、駒川の存在が染み込んでくる。
部屋の空気すべてが、彼の呼吸に同調しているようだった。

喉が渇いているはずなのに、水には手をつけられなかった。
代わりに、指先がグラスの縁をなぞる。
滑らかな感触のなかに、微かな震えが混じっている。

駒川が視線を向けたのを、横目で感じる。
それでも、目を合わせることができない。
何かを見透かされそうで、怖かった。

「…さっきから、ずっと緊張してるな」

静かにそう言われて、涼希ははっとした。
笑おうとして、できなかった。
唇の端がわずかに引きつっただけで、それ以上の表情は作れなかった。

「…ごめんなさい」

謝る理由が、自分でもわからなかった。
でも、そう口にするしかなかった。

「謝らなくていい。俺も…たぶん、同じだから」

その言葉に、ようやく顔を上げた。
駒川の目が、まっすぐこちらを見ていた。
その眼差しは、責めるでもなく、試すでもなかった。
ただ、まっすぐに、静かに見つめていた。

涼希は、息をのんだ。
その視線の奥に、自分のすべてを受け入れようとする覚悟が見えた。

そしてようやく、心のどこかにあった“扉”が、ゆっくりと音もなく開いていった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される

八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。 蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。 リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。 ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい…… スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)

【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】

紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。 相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。 超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。 失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。 彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。 ※番外編を公開しました(2024.10.21) 生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。 ※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。

オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」 そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。 しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は―― ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。 (……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ) ところが、初めての商談でその評価は一変する。 榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。 (仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな) ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり―― なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。 そして気づく。 「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」 煙草をくゆらせる仕草。 ネクタイを緩める無防備な姿。 そのたびに、陽翔の理性は削られていく。 「俺、もう待てないんで……」 ついに陽翔は榊を追い詰めるが―― 「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」 攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。 じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。 【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】 主任補佐として、ちゃんとせなあかん── そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。 春のすこし手前、まだ肌寒い季節。 新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。 風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。 何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。 拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。 年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。 これはまだ、恋になる“少し前”の物語。 関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。 (5月14日より連載開始)

冷徹勇猛な竜将アルファは純粋無垢な王子オメガに甘えたいのだ! ~だけど殿下は僕に、癒ししか求めてくれないのかな……~

大波小波
BL
 フェリックス・エディン・ラヴィゲールは、ネイトステフ王国の第三王子だ。  端正だが、どこか猛禽類の鋭さを思わせる面立ち。  鋭い長剣を振るう、引き締まった体。  第二性がアルファだからというだけではない、自らを鍛え抜いた武人だった。  彼は『竜将』と呼ばれる称号と共に、内戦に苦しむ隣国へと派遣されていた。  軍閥のクーデターにより内戦の起きた、テミスアーリン王国。  そこでは、国王の第二夫人が亡命の準備を急いでいた。  王は戦闘で命を落とし、彼の正妻である王妃は早々と我が子を連れて逃げている。  仮王として指揮をとる第二夫人の長男は、近隣諸国へ支援を求めて欲しいと、彼女に亡命を勧めた。  仮王の弟である、アルネ・エドゥアルド・クラルは、兄の力になれない歯がゆさを感じていた。  瑞々しい、均整の取れた体。  絹のような栗色の髪に、白い肌。  美しい面立ちだが、茶目っ気も覗くつぶらな瞳。  第二性はオメガだが、彼は利発で優しい少年だった。  そんなアルネは兄から聞いた、隣国の支援部隊を指揮する『竜将』の名を呟く。 「フェリックス・エディン・ラヴィゲール殿下……」  不思議と、勇気が湧いてくる。 「長い、お名前。まるで、呪文みたい」  その名が、恋の呪文となる日が近いことを、アルネはまだ知らなかった。

【完結】大学で再会した幼馴染(初恋相手)に恋人のふりをしてほしいと頼まれた件について

kouta
BL
大学で再会した幼馴染から『ストーカーに悩まされている。半年間だけ恋人のふりをしてほしい』と頼まれた夏樹。『焼き肉奢ってくれるなら』と承諾したものの次第に意識してしまうようになって…… ※ムーンライトノベルズでも投稿しています

転生DKは、オーガさんのお気に入り~姉の婚約者に嫁ぐことになったんだが、こんなに溺愛されるとは聞いてない!~

トモモト ヨシユキ
BL
魔物の国との和議の証に結ばれた公爵家同士の婚約。だが、婚約することになった姉が拒んだため6男のシャル(俺)が代わりに婚約することになった。 突然、オーガ(鬼)の嫁になることがきまった俺は、ショックで前世を思い出す。 有名進学校に通うDKだった俺は、前世の知識と根性で自分の身を守るための剣と魔法の鍛練を始める。 約束の10年後。 俺は、人類最強の魔法剣士になっていた。 どこからでもかかってこいや! と思っていたら、婚約者のオーガ公爵は、全くの塩対応で。 そんなある日、魔王国のバーティーで絡んできた魔物を俺は、こてんぱんにのしてやったんだが、それ以来、旦那様の様子が変? 急に花とか贈ってきたり、デートに誘われたり。 慣れない溺愛にこっちまで調子が狂うし! このまま、俺は、絆されてしまうのか!? カイタ、エブリスタにも掲載しています。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

孤毒の解毒薬

紫月ゆえ
BL
友人なし、家族仲悪、自分の居場所に疑問を感じてる大学生が、同大学に在籍する真逆の陽キャ学生に出会い、彼の止まっていた時が動き始める―。 中学時代の出来事から人に心を閉ざしてしまい、常に一線をひくようになってしまった西条雪。そんな彼に話しかけてきたのは、いつも周りに人がいる人気者のような、いわゆる陽キャだ。雪とは一生交わることのない人だと思っていたが、彼はどこか違うような…。 不思議にももっと話してみたいと、あわよくば友達になってみたいと思うようになるのだが―。 【登場人物】 西条雪:ぼっち学生。人と関わることに抵抗を抱いている。無自覚だが、容姿はかなり整っている。 白銀奏斗:勉学、容姿、人望を兼ね備えた人気者。柔らかく穏やかな雰囲気をまとう。

処理中です...