君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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昼の世界でふたりは

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春の光が、社屋の屋上をやわらかく包み込んでいた。遮るもののない空の下で、昼の陽射しはまだ冬の名残をわずかに留めつつも、確かにあたたかい。涼希は屋上のベンチの端に腰を下ろし、軽く伸びをしながら空を見上げた。高層ビルの隙間から見える空は、どこか遠く、なのにどこか近く思える。手を伸ばせば、届きそうな気がするのは、この場所に彼がいるからだ。

「ここ、まだ空いてる?」と声がかかる。振り返るまでもなく、その声が誰かを、涼希は知っていた。

「ああ、どうぞ」と笑いながら言うと、駒川がベンチの隣に腰を下ろす。その仕草は以前と変わらないはずなのに、なぜか少しだけ静かで、そしてあたたかかった。

風が、ふたりのあいだをなでて通り過ぎていく。昼休みという短い時間、オフィスの喧騒から切り離されたこの空間は、まるで別世界のようだった。

「風、気持ちいいですね」と涼希が呟く。駒川は何も言わずにうなずき、前を見たまま、ほんの少しだけ口角を上げた。

沈黙は、居心地が悪いものではなかった。むしろ、何かを無理に埋める必要がないと、互いに知っているからこそ、黙って並ぶことが許されている。そんな関係になれたことが、少し誇らしかった。

「変な感じだな」と駒川がぽつりと呟く。「こうして昼間に、会社の屋上で、何もなかった顔して座ってるなんて」

「うん、でも…なんか、それもいいなって思います」

涼希の声は、風に溶けていくように静かだった。言葉にするほどでもない気持ちが、互いの呼吸のあいだを行き来している。夜のあのときのように激しくもなく、熱もなく、けれど確かにふたりのなかに息づいていたもの。それは“知っている”という事実だった。

「夜のことが、ここで息をしてるみたいだ」と涼希が言ったとき、駒川はほんの少し目を見開き、そして笑った。

「俺も、今ちょうど同じこと考えてた」と言い、涼希の横顔に視線を向ける。

涼希は照れたように視線を逸らしたが、笑みは口元に残ったままだった。以前の自分なら、こういう場面でもっと気を張っていたかもしれない。相手の顔色を伺ったり、自分の表情を作り込んだり。だが今は、肩の力を抜いた自分が、こうして隣にいられる。

「俺ね、あの夜、怖くなかったって言ったけど、本当はちょっと怖かったんです」

「うん」と駒川が静かに応える。「でも…俺は、あれがあって、やっと本当に好きになれた気がする」

「りょうを、じゃなくて?」

「うん。中野涼希を」

その言葉を聞いて、涼希は少しだけ目を伏せた。昼の光が睫毛の先を照らし、長く落ちた影が頬をかすめる。指先が、そっと駒川の手の甲に触れた。ほんの一瞬のためらいのあと、駒川がその手を包むように握り返す。

社内にいる人が屋上まで来ることは滅多にない。それでも、誰かに見られるかもしれないという意識は、完全には消えなかった。けれど、その手を離す理由にはならなかった。

「会社でこうしてるの、ちょっと不思議ですね」と涼希が言うと、駒川は「まあ、昼ドラみたいだな」と冗談を返す。

「そんなつもりじゃなかったのに」と涼希が笑うと、駒川も釣られて笑った。ふたりの笑い声が小さく重なり、まるでその場に陽だまりが生まれたかのようだった。

手を繋いだままの時間は、まるで空気が止まったかのように静かで、やがてまた風がそっと吹いて髪を揺らした。

「今が一番、ちゃんと息ができてる気がする」と涼希が言う。

「俺も」と駒川は短く答えた。

その声色には迷いがなかった。あの夜を越えてから、言葉が少なくても伝わることが増えた気がする。触れた肌の感触も、見つめた瞳の奥の光も、すべてが確かだった。

もう仮面は要らない。そう思えた瞬間が、こうして日常の中にあってくれることが、何よりの救いだった。

屋上のチャイムが昼休みの終わりを告げる。ふたりは名残惜しそうに手を離し、それぞれの背筋を伸ばす。視線が合ったそのとき、何も言わずとも、ふたりのなかに確かな約束が生まれた気がした。

今日もまた、一緒にこの世界を生きていくという、静かな確信だった。
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