君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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日常が愛になるまで

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駅前のスーパーには、夕暮れのやわらかな光が斜めに差し込み、陳列棚の上で野菜の影を細く揺らしていた。ガラス扉を押して入った瞬間、ひんやりとした空調と食材の匂いに包まれ、涼希は少しだけ呼吸を整えるように肩を動かした。並んで歩く駒川は、仕事終わりのシャツの袖を軽く捲っていて、少し汗ばんだ肌が赤く見えた。

「今日、うちで食べてく?」と、駒川がふいに言う。

その言葉は、特別な抑揚もなく、ただ日常のなかに滑り込むように自然で、けれどどこかで確かな意志を感じさせた。涼希はカートの取っ手を握ったまま、顔を上げる。

「…うん」と短く頷いた。声はそれだけだったが、その目にはどこかゆるぎないものが宿っていた。

駒川が先に歩き出し、カートを押す涼希がその隣に並ぶ。棚を眺めながら何を食べたいかを言葉にするわけではなく、互いの呼吸と視線で少しずつ決めていくような静かな時間が流れる。トマトを手に取った涼希が、裏返して産地を確かめながら「こっちの方が甘いらしいよ」と言うと、駒川はその声に微かに笑った。

「そういうの、よく知ってるな」

「好きな人には、ちゃんとしたもの食べさせたいだけ」

一瞬、口にしてから涼希は視線を横に落とす。駒川は言葉を返さずに、ただその横顔を見つめていた。ライトに照らされた涼希の頬に、トマトの赤がかすかに映り込んでいて、それが照れ隠しのように見える。だがその照れは、隠すためのものではなく、見せても構わないと思える距離にあることの証でもあった。

「じゃあ、肉もちゃんと選ばないとな」そう言って、駒川は冷蔵ケースの前にしゃがみ込む。パックに並んだ鶏肉と豚肉を交互に見ながら、「炒め物にするか、それとも煮込み?」と問いかけると、涼希は少し考えるふりをして、「炒め物かな」と返した。

「じゃあ、にんにくと生姜も…」

言いながら涼希がカートを押して移動するとき、その指先がカートの取っ手からふと離れて、駒川の手に触れる。ほんの一瞬のことだったが、駒川はそのぬくもりを指に残しながら、涼希の手の甲を自分の掌でそっと包んだ。

周囲に買い物客のざわめきがある中で、ふたりの間には別の静けさが流れていた。その沈黙は、言葉がなくても安心できる種類のものだった。ふと、涼希が笑みを漏らす。

「なんかさ、夜のことが、昼のなかでちゃんと続いてる感じがするね」

「うん。記憶じゃなくて、今にあるっていうか」

そんなふうに笑いながら言えるようになった涼希に、駒川は何も返さず、ただその表情を見つめていた。柔らかい光のなかで、何気なく伸ばされたカートの手から肩へと続く線が、どこか満たされた静けさを纏っている。

会計を済ませたあと、ふたりは並んでビニール袋を持ち、店を出る。空は深い藍に染まりつつあり、街灯がひとつずつ灯りはじめていた。足音がアスファルトに吸い込まれていくなか、ふいに駒川がつぶやいた。

「涼希と並んで歩くと、背筋の力が抜ける」

「それ、いい意味?」

「すごく、いい意味」

涼希は小さく息を吐いて、歩調を合わせた。右手には買い物袋、左手は自然と駒川の手に重なっていた。手のひらから伝わるぬくもりが、生活という名の確かな地面の感触を思わせる。そうしてようやく、彼らは“選ばれた関係”ではなく、“選び直した日常”のなかを、歩き始めていた。

信号待ちの間、赤く染まった交差点の光がふたりの頬を照らす。ふと見上げた涼希が、夜空の向こうに月の気配を探し、そして何も言わずに微笑んだ。

その横顔を見ながら、駒川もまた、ゆるやかに頷いた。

ふたりの歩幅は、もう、ずれていなかった。
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