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透明なひと、天王寺くん
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春先の雨が上がったばかりの朝だった。
濡れたアスファルトのにおいがまだ空気に残る時間、会社のガラス扉が開くたび、水気を含んだ風がフロアの隅にまで届いた。
天王寺悠は、いつものように七時五十二分に出社した。
誰よりも早く来るつもりはなかったし、遅くもなりたくなかった。
ちょうどいい、誰にも挨拶されない時間。
それが、彼にとっての「最適」だった。
無地の白シャツに黒のジャケット、どこにでもいるようなスーツスタイル。
細身だがしなやかな骨格は服の下に隠れ、眼鏡のフレームがその目元を無表情に保つ。
「おはようございます」
誰かが入ってくるたびに、オフィスの空気が少しずつ賑やかになる。
彼の席は、窓際の一角。
陽が入らないその場所は、会議室にも近く、同僚たちからも適度に遠い。
選ばれたのではなく、自然とそうなった。
誰もがそこにいることに気づかない、そんな場所。
悠は黙ってPCを立ち上げ、メールを確認する。
必要最低限の返信を、最短の文章で返す。
表情は動かない。眉も口角も、何も。
ただ、タイピングの指だけがやけに滑らかで、白く整っていた。
──空気のようでいたい。
それは希望というより、戒めに近かった。
過去に自分を見た人々の、変化していった目を、彼は忘れていなかった。
最初は興味、次に羨望、そして熱、やがて猜疑、嫉妬、支配、欲望。
そんなものを何度も浴びて、自分という存在が徐々に変質していくような気がしていた。
だから、眼鏡をかけて、表情を消して、服装を地味にする。
目立たず、印象に残らず、ただ「いるだけ」の人間になる。
そう決めてから、ずいぶん楽になった。
「うめださーん、昨日の合コンどうでした?」
「え、あのあと? 終電なくなってタクシーで帰ったわ。もう最悪」
「うわー、絶対ウソや。絶対どっか行ってたでしょ~」
笑い声が飛ぶ。朝の空気に弾けるように、声と気配が広がる。
天王寺は、ふとその中のひとつに、耳を傾けた。
「おはよーっす。今日も爽やかチャラさ全開やな~、梅田!」
「あはは、ええやろ。朝からビタミン出してこ」
明るい声が、斜め後ろから聞こえてくる。
口調は軽く、言葉にはノリがあり、声質はどこか人懐こい。
隼人──梅田隼人。営業部では名の知れた存在で、客にも同僚にも愛想よく、仕事の要領も良い。
数字を取る力もある。上司受けもいい。
けれど、天王寺は必要以上に関わらないようにしていた。
一度、プレゼンの場で梅田と隣になったことがある。
そのとき、彼は何の悪気もなく「天王寺って、地味やけど資料のまとめだけはマジすごいよな」と言った。
「だけは」が、彼の耳の奥に、ずっと残っていた。
梅田が通り過ぎていく。
柔らかいグレースーツ、ネイビーのネクタイ、茶色がかった髪。
軽快な足取り。大きめの声。
場を明るくしていく力を持っているのは事実だった。
天王寺はキーボードを打つ手を止めず、
顔も上げずに、ただその気配が通り過ぎていくのを待っていた。
(うるさいな…けど、まあ。慣れてる)
視線を上げれば、また目が合ってしまうかもしれない。
そう思って、彼は下を見ている。
そうしていれば、誰も自分を“見ない”。
何も始まらないし、何も終わらない。
PCの画面に映る文字列に集中しながら、
彼は誰にも気づかれないまま、静かに朝をやり過ごしていく。
まるで自分の存在すら、そこに最初からなかったかのように。
それが、天王寺悠の「朝の過ごし方」だった。
濡れたアスファルトのにおいがまだ空気に残る時間、会社のガラス扉が開くたび、水気を含んだ風がフロアの隅にまで届いた。
天王寺悠は、いつものように七時五十二分に出社した。
誰よりも早く来るつもりはなかったし、遅くもなりたくなかった。
ちょうどいい、誰にも挨拶されない時間。
それが、彼にとっての「最適」だった。
無地の白シャツに黒のジャケット、どこにでもいるようなスーツスタイル。
細身だがしなやかな骨格は服の下に隠れ、眼鏡のフレームがその目元を無表情に保つ。
「おはようございます」
誰かが入ってくるたびに、オフィスの空気が少しずつ賑やかになる。
彼の席は、窓際の一角。
陽が入らないその場所は、会議室にも近く、同僚たちからも適度に遠い。
選ばれたのではなく、自然とそうなった。
誰もがそこにいることに気づかない、そんな場所。
悠は黙ってPCを立ち上げ、メールを確認する。
必要最低限の返信を、最短の文章で返す。
表情は動かない。眉も口角も、何も。
ただ、タイピングの指だけがやけに滑らかで、白く整っていた。
──空気のようでいたい。
それは希望というより、戒めに近かった。
過去に自分を見た人々の、変化していった目を、彼は忘れていなかった。
最初は興味、次に羨望、そして熱、やがて猜疑、嫉妬、支配、欲望。
そんなものを何度も浴びて、自分という存在が徐々に変質していくような気がしていた。
だから、眼鏡をかけて、表情を消して、服装を地味にする。
目立たず、印象に残らず、ただ「いるだけ」の人間になる。
そう決めてから、ずいぶん楽になった。
「うめださーん、昨日の合コンどうでした?」
「え、あのあと? 終電なくなってタクシーで帰ったわ。もう最悪」
「うわー、絶対ウソや。絶対どっか行ってたでしょ~」
笑い声が飛ぶ。朝の空気に弾けるように、声と気配が広がる。
天王寺は、ふとその中のひとつに、耳を傾けた。
「おはよーっす。今日も爽やかチャラさ全開やな~、梅田!」
「あはは、ええやろ。朝からビタミン出してこ」
明るい声が、斜め後ろから聞こえてくる。
口調は軽く、言葉にはノリがあり、声質はどこか人懐こい。
隼人──梅田隼人。営業部では名の知れた存在で、客にも同僚にも愛想よく、仕事の要領も良い。
数字を取る力もある。上司受けもいい。
けれど、天王寺は必要以上に関わらないようにしていた。
一度、プレゼンの場で梅田と隣になったことがある。
そのとき、彼は何の悪気もなく「天王寺って、地味やけど資料のまとめだけはマジすごいよな」と言った。
「だけは」が、彼の耳の奥に、ずっと残っていた。
梅田が通り過ぎていく。
柔らかいグレースーツ、ネイビーのネクタイ、茶色がかった髪。
軽快な足取り。大きめの声。
場を明るくしていく力を持っているのは事実だった。
天王寺はキーボードを打つ手を止めず、
顔も上げずに、ただその気配が通り過ぎていくのを待っていた。
(うるさいな…けど、まあ。慣れてる)
視線を上げれば、また目が合ってしまうかもしれない。
そう思って、彼は下を見ている。
そうしていれば、誰も自分を“見ない”。
何も始まらないし、何も終わらない。
PCの画面に映る文字列に集中しながら、
彼は誰にも気づかれないまま、静かに朝をやり過ごしていく。
まるで自分の存在すら、そこに最初からなかったかのように。
それが、天王寺悠の「朝の過ごし方」だった。
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