【完結】天使のスプライン

ひなこ

文字の大きさ
26 / 37
5・氷川朝子(ひかわ・あさこ)

5-1

しおりを挟む
 
「モネ、モネ。起きろ。仕事。ファイルこれ」
 ファイルの角が顔に当たって目が覚めた。
「痛いよ、起こさないでって言ったじゃない」
「モネ寝過ぎ。豚になる。働けよニート」
 ニート……それはまるで定義が違うが。

「何これ。ファイル?」寝ぼけまなこで表紙を見る。
 名前は氷川朝子。寂しげにぼんやりと光る赤ファイル。
「お前がいつまで経っても動かねえから、俺が選んだぜ。たまには人のリクエストにも乗ってみろよ」
「人じゃなくて鳥だよね」
「うっせえな。とにかくめげてないで再開しろよ」
 起きあがりファイルを開く。何枚かの顔写真と、運命係数パネルが数字を示し生涯略歴が表示された。

 氷川朝子。
 物理学者として、宇宙素粒子そりゅうしや量子力学に関して数々の研究論文を残す。幼少時から月や星に興味を深く持ち、高校では天体部に所属。日本科学大学の工学部物理学科を経て、時間論に興味を抱く。大学院修了後、ハーバードへ留学……。

「この人を助けるの?」
 生涯独身で通したようだが、特に悲壮ひそうな最期を遂げたとか、問題があるようには見えないが。
「赤ファイルなんだから、満足できなかった人生なのは今までの連中と一緒だ。今回はむしろお前が勉強しに行くべきだ。彼女が一番活躍していた時代に」
「勉強?」
「この学者は、俺らを理解しうるだろう。多次元や別の宇宙について、学び続けたようだから」
 追い立てるようにタブレットとショルダーバッグを投げ、カノンはせっついた。

「クライアントに選ばなくても、朝子さんには私たちが見えるのかな?」
「はいはいはい、四の五の言わずにレッツゴー」
 モネの頭に乗ると、空間を翼で切り裂き時空の穴へと飛び込んだ。

 降り立ったのはまだ冬の肌寒さ残る、大学のキャンパスだった。
 薄紅色の花びらが雪のように舞い上がり、意志を持って飛び回る光の群れに見えた。そのひとつが、微風にあおられ右へ左へ円を描いてモネの手のひらに着地する。

「きれいだね。風に弱いのがもったいないけど」
「さくら、って言うんだぞ。日本では春先に咲く花だ」
 花吹雪を抜けると、そこにレンガ造りの校舎があった。

 明治時代に創立した校舎を、文化的に保護するために改築せず補強工事を続けている。いかめしい建物の奥に、現在学生たちが通う鉄筋の新校舎があった。
 現在朝子は三十歳。留学から帰ってきて講師に復帰し、学生を教えながら研究に没頭している。 

 校舎の中に入り、開け放たれたドアをのぞきながら朝子の教室を探す。
 当然ながら、モネにセキュリティーチェックなどは機能しない。元々見えないのだから。ごく普通に通り抜けた。

 教師の説明をよそに、机に突っ伏して眠り込む男子学生、明らかに違う教科を開いて内職している女子学生。別の角度から見るといろんな細部が見えて面白い。

「モネ、あっちじゃね?女の声が聞こえる」
 朝子以外には、存在を察知される心配はない。気兼ねなくパタパタと走って移動する。
 ややソプラノの、耳障りのよい声が聞こえた。
 あれが、朝子の声?

「……本来私たちの住むこの三次元では、それ以上の次元を知り得ることはありません。直線の上しか知らない生物がいたとして、彼らは平面の概念を持つことはない。それと同じです。そこに次元という越えられない壁があります」
 後ろのドアからひょこっと顔を出す。
 教室には半分くらい学生が着席していて、思い思いにノートを取ったり、他の事をしていた。教壇に立ち闊達かったつとした語りで、授業を進行している細身の女性こそが氷川朝子だった。
 髪は斜め分けのボブカット、白衣姿でスクエアフレームのメガネをかけていた。

「うわ、すごい才女な感じだね。厳しそう?」
「お前、その言葉よく覚えておけよ」
 カノンの言う意味がわからなかったが、とりあえず部屋に入る。朝子が黒板を向いている隙に、一番廊下側の席に座る。
 ふとこちらを見やる朝子と目があった。

「早速見つかったな」
 モネを見て微笑んだので、会釈して見せた。凛とした目元が印象的だった。
 見とがめることなく、朝子は説明を続ける。

「目下高次元の世界から、この世界へ伝達可能なものは重力だと言われています。この世界の有機物ゆうきぶつとは違う組成そせいでできているだろう高次元の物質。それが通り抜けてくることはなくても、移動の痕跡として重力……何らかの力は伝わることができる」
 モネには何のことやらさっぱりわからない。本当に朝子の話が自分たちに関係するのか。
「まあ、彼らからすると俺らはそういう中にいる存在ってことになる」
「そうなの?」
 相対的に見ると言うのは、案外難しいものだ。

 モネは難解な講義をひととおり聞いた。学生に説く朝子の姿は、生き生きとしてまぶしく映った。
「宇宙は常に増大し、私たちの想像の及ばないところに広がっています。そこには、この世界とは全く違う理念で動く世界があるとも言えます」

 午後は在室なのを確認して、朝子の研究室を訪れた。新校舎の一番南側、小さな個室が彼女の仕事場だった。
「あら、さっきの……」
 朝子は部屋に招き入れる。日頃授業に出ていない学生の一人と思ったようだ。
 大きな事務机が一つ、壁にそそり立つ本棚が二つ。宇宙関係の本がびっしりと並んでいるが、どのタイトルを見てもモネにはわからない。窓際に設置されたパソコンでは、プログラム作動中で画面が更新し続けている。 

「すみません、お邪魔して。お仕事は大丈夫ですか?」
「いいのよ、午後はしばらくデータ作成だから。あなたは講義はないの?」
「はい。実は氷川先生とお会いしたくて」
 意味がわからず、朝子は首をかしげた。
「お茶れるわね、それともコーヒーがいい?」
「いえ、どっちでも」
 この世界の液体を飲み下すことはできないから、と言うべきか。少しして、目の前に湯気の立つ茶色の液体が運ばれた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

皇太后(おかあ)様におまかせ!〜皇帝陛下の純愛探し〜

菰野るり
キャラ文芸
皇帝陛下はお年頃。 まわりは縁談を持ってくるが、どんな美人にもなびかない。 なんでも、3年前に一度だけ出逢った忘れられない女性がいるのだとか。手がかりはなし。そんな中、皇太后は自ら街に出て息子の嫁探しをすることに! この物語の皇太后の名は雲泪(ユンレイ)、皇帝の名は堯舜(ヤオシュン)です。つまり【後宮物語〜身代わり宮女は皇帝陛下に溺愛されます⁉︎〜】の続編です。しかし、こちらから読んでも楽しめます‼︎どちらから読んでも違う感覚で楽しめる⁉︎こちらはポジティブなラブコメです。

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜

二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。 そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。 その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。 どうも美華には不思議な力があるようで…?

中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています

浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】 ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!? 激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。 目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。 もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。 セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。 戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。 けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。 「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの? これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、 ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。 ※小説家になろうにも掲載中です。

男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜

春日あざみ
キャラ文芸
<第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました!> 宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。 しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——? 「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!

死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜

のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、 偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。 水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは―― 古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。 村を立て直し、仲間と絆を築きながら、 やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。 辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、 静かに進む策略と復讐の物語。

幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない

しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...