【完結】天使のスプライン

ひなこ

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5・氷川朝子(ひかわ・あさこ)

5-1

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「モネ、モネ。起きろ。仕事。ファイルこれ」
 ファイルの角が顔に当たって目が覚めた。
「痛いよ、起こさないでって言ったじゃない」
「モネ寝過ぎ。豚になる。働けよニート」
 ニート……それはまるで定義が違うが。

「何これ。ファイル?」寝ぼけまなこで表紙を見る。
 名前は氷川朝子。寂しげにぼんやりと光る赤ファイル。
「お前がいつまで経っても動かねえから、俺が選んだぜ。たまには人のリクエストにも乗ってみろよ」
「人じゃなくて鳥だよね」
「うっせえな。とにかくめげてないで再開しろよ」
 起きあがりファイルを開く。何枚かの顔写真と、運命係数パネルが数字を示し生涯略歴が表示された。

 氷川朝子。
 物理学者として、宇宙素粒子そりゅうしや量子力学に関して数々の研究論文を残す。幼少時から月や星に興味を深く持ち、高校では天体部に所属。日本科学大学の工学部物理学科を経て、時間論に興味を抱く。大学院修了後、ハーバードへ留学……。

「この人を助けるの?」
 生涯独身で通したようだが、特に悲壮ひそうな最期を遂げたとか、問題があるようには見えないが。
「赤ファイルなんだから、満足できなかった人生なのは今までの連中と一緒だ。今回はむしろお前が勉強しに行くべきだ。彼女が一番活躍していた時代に」
「勉強?」
「この学者は、俺らを理解しうるだろう。多次元や別の宇宙について、学び続けたようだから」
 追い立てるようにタブレットとショルダーバッグを投げ、カノンはせっついた。

「クライアントに選ばなくても、朝子さんには私たちが見えるのかな?」
「はいはいはい、四の五の言わずにレッツゴー」
 モネの頭に乗ると、空間を翼で切り裂き時空の穴へと飛び込んだ。

 降り立ったのはまだ冬の肌寒さ残る、大学のキャンパスだった。
 薄紅色の花びらが雪のように舞い上がり、意志を持って飛び回る光の群れに見えた。そのひとつが、微風にあおられ右へ左へ円を描いてモネの手のひらに着地する。

「きれいだね。風に弱いのがもったいないけど」
「さくら、って言うんだぞ。日本では春先に咲く花だ」
 花吹雪を抜けると、そこにレンガ造りの校舎があった。

 明治時代に創立した校舎を、文化的に保護するために改築せず補強工事を続けている。いかめしい建物の奥に、現在学生たちが通う鉄筋の新校舎があった。
 現在朝子は三十歳。留学から帰ってきて講師に復帰し、学生を教えながら研究に没頭している。 

 校舎の中に入り、開け放たれたドアをのぞきながら朝子の教室を探す。
 当然ながら、モネにセキュリティーチェックなどは機能しない。元々見えないのだから。ごく普通に通り抜けた。

 教師の説明をよそに、机に突っ伏して眠り込む男子学生、明らかに違う教科を開いて内職している女子学生。別の角度から見るといろんな細部が見えて面白い。

「モネ、あっちじゃね?女の声が聞こえる」
 朝子以外には、存在を察知される心配はない。気兼ねなくパタパタと走って移動する。
 ややソプラノの、耳障りのよい声が聞こえた。
 あれが、朝子の声?

「……本来私たちの住むこの三次元では、それ以上の次元を知り得ることはありません。直線の上しか知らない生物がいたとして、彼らは平面の概念を持つことはない。それと同じです。そこに次元という越えられない壁があります」
 後ろのドアからひょこっと顔を出す。
 教室には半分くらい学生が着席していて、思い思いにノートを取ったり、他の事をしていた。教壇に立ち闊達かったつとした語りで、授業を進行している細身の女性こそが氷川朝子だった。
 髪は斜め分けのボブカット、白衣姿でスクエアフレームのメガネをかけていた。

「うわ、すごい才女な感じだね。厳しそう?」
「お前、その言葉よく覚えておけよ」
 カノンの言う意味がわからなかったが、とりあえず部屋に入る。朝子が黒板を向いている隙に、一番廊下側の席に座る。
 ふとこちらを見やる朝子と目があった。

「早速見つかったな」
 モネを見て微笑んだので、会釈して見せた。凛とした目元が印象的だった。
 見とがめることなく、朝子は説明を続ける。

「目下高次元の世界から、この世界へ伝達可能なものは重力だと言われています。この世界の有機物ゆうきぶつとは違う組成そせいでできているだろう高次元の物質。それが通り抜けてくることはなくても、移動の痕跡として重力……何らかの力は伝わることができる」
 モネには何のことやらさっぱりわからない。本当に朝子の話が自分たちに関係するのか。
「まあ、彼らからすると俺らはそういう中にいる存在ってことになる」
「そうなの?」
 相対的に見ると言うのは、案外難しいものだ。

 モネは難解な講義をひととおり聞いた。学生に説く朝子の姿は、生き生きとしてまぶしく映った。
「宇宙は常に増大し、私たちの想像の及ばないところに広がっています。そこには、この世界とは全く違う理念で動く世界があるとも言えます」

 午後は在室なのを確認して、朝子の研究室を訪れた。新校舎の一番南側、小さな個室が彼女の仕事場だった。
「あら、さっきの……」
 朝子は部屋に招き入れる。日頃授業に出ていない学生の一人と思ったようだ。
 大きな事務机が一つ、壁にそそり立つ本棚が二つ。宇宙関係の本がびっしりと並んでいるが、どのタイトルを見てもモネにはわからない。窓際に設置されたパソコンでは、プログラム作動中で画面が更新し続けている。 

「すみません、お邪魔して。お仕事は大丈夫ですか?」
「いいのよ、午後はしばらくデータ作成だから。あなたは講義はないの?」
「はい。実は氷川先生とお会いしたくて」
 意味がわからず、朝子は首をかしげた。
「お茶れるわね、それともコーヒーがいい?」
「いえ、どっちでも」
 この世界の液体を飲み下すことはできないから、と言うべきか。少しして、目の前に湯気の立つ茶色の液体が運ばれた。

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