【完結】天使のスプライン

ひなこ

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5・氷川朝子(ひかわ・あさこ)

5-3

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「ここで何をするんですか?」
「市民の無料相談コーナーよ。先輩って言っても彼女は心理学科でね。カウンセラーとして週に一回、ボランティアで来ているの。他にもソーシャルワーカー、弁護士の先生や家庭相談員。さまざまな人が来ているわ」
 そういった場所もあるのか。大学とは少しちがう空気を感じる。

「私も大学時代にすすめられた手伝いがずっと続いて、こんな風になったの。私には資格はないから実際の業務はできないけれど、アシスタントみたいな感じかな」
 人々の話を聞き取り、心のケアをする仕事だ。カウンセラーと朝子とは結びつかない。きっちりと線引きをして、人の甘えを許すことなど微塵みじんもなさそうだが。

「先生は、人の心にも深く興味を持たれているんですか?」
「信じられない?だからマクロとミクロ。広大すぎる宇宙や粒子論をやってると、自分の中でバランスを取りたくなるの。自分が血の通った生き物であることを、忘れないように。どんな理論も人や生物に生かされて初めて意味を持つ。マッドサイエンティストになってもしょうがないもの」
 口調は理論を述べるように、あっさりとしていた。

 階段を上がってすぐの小部屋が相談室だった。
 待合室の長いすにはかなりの人数が座っている。小部屋には二つ入り口があり、相談者用とは逆のドアから朝子に続いて入室する。二人はプライバシー保護のため、仕切られたパーティションを開けて入る。中には朝子と同年代の、穏やかな眼差まなざしの女性が座っていた。

「狩野(かりの)先輩、この学生さんね……」
「遅かったじゃない。そろそろ始めるわよ。今日もクライアントいっぱい来てるから、覚悟してね」
 狩野はいつものようにそう言った。モネを指し示しても、その姿に気づかない。

「やべっ、俺ら朝子にしか見えねえんだった」
 だが朝子は騒ぎ立てることもなく、モネを内側に残した。
 モネは静かに見守ることにした。

 仕切りの中は二・五畳ほどの大きさ。中学生用の机を挟んで椅子が置かれ、狩野が相談者と向かい合う。朝子は狩野より奥の机で、会話をまとめてノートに記録してゆくのだ。
 狩野が時計を確認し、朝子とうなずき合う。

「では今日の相談を開始します。受付番号一番の方」
 マイクの呼び出しが辺りに響く。ドアが開き、子供たちの甲高い声とスリッパの音が不協和音を起こす。

「お兄ちゃん、機関車かえして!ぼくがあそぶの」
「やだよ。英太すぐひとりじめするじゃん」
 小さな子を連れた母親のようだ。やや下ぶくれの丸顔……どこかで見たような。
 モネは首をかしげた。 

「こら!翔太も英太も、静かにしてなさいって言ったでしょ!」
 聞き覚えのある名。モネは目を見張る。
 母が両脇に一人ずつ息子を抱えていた。弟の方はすでに半べそをかいている。

「中山です。すみません、子供がすぐケンカするものですから……」
 狩野は朝子に目配せをし、子供たちを別室へ案内させる。
「僕たち、お母さんは今ちょっと大事な話をするのよ。だからこっちの部屋へ行こうね」
 モネも朝子の隣でしゃがみ、共に兄弟の顔を覗き込む。
 この子たちは。

 子供時代も二人の容姿は基本的に変わらない。
 兄は面長でやせ型、弟は丸顔で太り気味。弟の体型は母親ゆずりのようだ。一緒にいればすぐケンカ。それが彼らの自然な姿なのだろう。だがなぜここにこうして相談しにきている?
 家庭裁判所で弟がはっきり発言したことで、運命は改良されたはずだ。

 タブレットで時間を確認する。
 彼らを送り込んだタイムポイントは……”ここ”より前か後か?

 二〇××年五月十二日がタイムポイント、ここは同年三月二十日。

 時系列がはっきりしてほっとする。この世界はまだ、モネが手入れするよりも前の時間なのだ。これから二ヶ月後夫婦仲はさらに悪化し、調停ちょうていに向かうことになる。そこまでは変わりなく進むのだろう。無邪気に遊ぶ子供たちの知らないところで。
 だが自分が選んだクライアントの幼少時に、ここで出くわすとは。

「カノン、どういうことなの?ただの偶然?」 
「お前が自分で考えるんだな」 

 母親は夫の浮気と、相手の女について話すうちに涙を浮かべた。狩野は弁護士を入れながら、法的手段が必要ならば別の日の相談に来るように勧める。朝子は側で事実だけを書き留めていた。
 中山兄弟は帰り際もケンカをして、泣きながら母に連れられて行った。

 相談者は持ち時間の十分を上限に、次々と入れ替わっていく。途中五分の休憩を挟んだ隙に、モネは朝子の記録ノートをめくり、過去のページを探した。

 二時間で相談時間は終了し、朝子はモネに尋ねた。
「楽しかった?」
「……驚きました。全くちがうことをこなすって、大変じゃないですか?」

「私も自分が分裂している気がするの。宇宙や自然の中での人間の寿命なんて、ほんの一瞬の小さなもの。だけどその小さい命たちが一緒に暮らし、もめたり仲良くしたりああでもないこうでもないって生きていく。それがどこかはかなくてかわいらしくて、愛らしいなあって」
 マクロとミクロ、そういう意味だったのか。

「本当は私、ここに足突っ込んでしまってまずったとも思っているの。前は宇宙のことしか考えなかったのよ。だから宇宙工学一本だと迷わなかった。でも今は時間論と量子力学に道を変えたの」

 モネの中に漠然ばくぜんとした正解がある。だが確証が持てない。
 朝子から聞き出さなければ、真実は見えない。

「ねえ?もう数十年前から想像の世界では語られながら、人工衛星や火星探索だってわずかしか解明されていない。道はけわしく私の寿命を費やしても全然足りない、ただの夢物語。そんなことわかってるのにね」
「朝子さん」
 冷静なはずの朝子に、激情げきじょうがよぎった気がして驚く。

「人の人生は一度きり、やり直しは効かないのにいろんなことが見過ごされていく。あの幼い兄弟たちは親の言い合いにどれだけ傷つくんだろう?小さいときの心の傷って、大きくなってから消すのは難しいと思うんだ」
 モネはうなずく。
 それは何度もクライアントで体感してきたことだ。 
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