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5・氷川朝子(ひかわ・あさこ)
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朝子は大学に戻らずまっすぐ帰宅する。
モネはさすがに遠慮したが、自宅に見て欲しいものがあると言う。話もまだ途中なので、二人で夜道を歩いた。
ぼんやりとアスファルトを照らす街灯。
二つの影が少し重なって移動する。
「未知なる自然を解明することと、悲しむ人たちの原因を除くこと。二股してるうちに、マクロよりミクロの方が大事になってきちゃったのかな。学者としては失格だよね。研究だって片手間にやってうまく行くような、甘いものじゃないのに」
意外にも、クールなはずの朝子の声は湿って聞こえた。うっすら涙ぐんでいる。
「やだな。何で泣いてるんだろう私」
ぎゅっと頬を手で拭いた。
本当は内面で熱い思いを燃やしている。
この人はやっぱり。
モネの鼓動が早まる。
「すみません。私が色々聞いてるせいで、気分悪くされたのでは?」
「ううん。薄々思ってたけど、やっぱり私ばかなのかも。そんなの研究者としては邪道だよね。情に流されて本質がずれてしまうなんてどうかしてる。どうしてそんな道に突っ込んじゃったんだろう」
「人を助けたいと思うのは、良いことですよ」
「全然時間が足りない。科学の研究は自然事象との戦いなの。たかだか人間の寿命では少ししか進めない」
何年も多くの手をかけ何回も検証を繰り返して。ほんの小さな真実を証明するのに下手すれば数十年かかる。その成果が結びついて世に広がるまで、どれくらい先になるだろう。
「いつも目の前の人たちを救うには間に合わない。特に医学方面ではそれが顕著だわ。数年前に救えなかった病気が、新薬開発や新しい治療法で延命できる。タイムラグによって失われた人々を、悼まずにはいられない」
電車、医療技術、携帯電話、法律、政治。
今人類が当然のように使っているものは、過去からの遺産。先人たちは享受できなかったもの。そこには多かれ少なかれ、それに苦しんだ人たちがいる。
そして時は有限だ。それを探求する者ですら、寿命に負けて命を終えていく。
朝子の命題はむしろ、宇宙工学よりも切ないものに思えた。いつ見つかるかも、見つからずに終わるかもしれないあてのない冒険。
科学を志すとはそういうことだ。
「それを目指すことは、精神的にきついことではないんですか?」
「だからまずったと思ったの。こんな大きな話、私ごときに手に負えない。でも少しずつその思いは芽吹いて大きくなって。とうとうごまかせなくなってしまった。私のこの限られた命、何に使ったら一番満足できるんだろう。たくさん迷ってたくさんの人の話を聞いた。でも外を探し回っても答えなんてどこにもない」
答は一体どこにある?
科学における真実、氷川朝子と言う自分における真実。
文献を調べ、インターネットを検索し、娯楽や生活の中にも手がかりを見つけようとし。あげくは誰彼構わずに議論をふっかけて。
「それでも、泣いてみて今一つわかったことがある。答えは自分の中に埋もれているのね。自分の気持ちなのに一人じゃ解決できない」
クイズの答えを見つけた子供のように、声を踊らせて言った。
「人に会って会って話して問いながら、自分の中から引きずり出すもの。見つかるまで諦めきれない。そうして壁にぶつかりまくってやっとわかった。どんなにばかげてると言われても、私はあの人たちを助けたい」
それがようやく探り当てた、彼女の中の真実。
「朝子さんのそういうところ、すてきだと思います。人の痛みもわかる科学者じゃないと、人を幸せにはできない」
「そうかな?おせじでも嬉しい」
講義をしていた時のクールな印象は、まるで見られなかった。人のはかない命をかわいいと言う、朝子自体がかわいらしく見えた。
「小さい頃からずっと月や星が好きで、いつか宇宙に行くんだって思ってた。だけど私はそれよりも、目の前の人をどうにかしてあげたい。医者なら治療で病気の人を治せる、政治に関わるなら法律で人を救える。でも私にできる手段はこれしかないから」
ぎゅっと拳を握りしめた。
「泣きながら素手で土を掘り続けて、見つかったものが変に見えても、人に呆れられても。しっかり抱きしめればいいのよね。方向は変わってしまったけど、これが私の道だから」
朝子は単なる学者ではなく、探求者なのかもしれない。いや、そうなってしまったと言うべきか。
交差点の向こうにマンションが見えた。
大学の研究室と別に、自宅にも分析用の機材があるのだと言った。エントランスを入り、エレベーターで三階へ。導かれるまま中へ入ると、朝子が左手の部屋を開けた。
「ここなの。日光焼けが嫌だから暗幕張って、理科室みたいだけど」
モネは息を呑んだ。
「これは……」
モネがいつも作業している部屋と、そっくり同じだった。
暗がりの中にぼんやりと光る照明器具も、いつも突っ伏して寝るソファの色さえも。レイアウトが全く同じ。うず高く積まれたファイルたちの置き場所には、代わりに巨大な書棚がそびえ立っていたけれど。
モネの部屋にはないパソコン機器は、研究室同様に開発中のスプラインを描くためのものだろう。そしてモネは、代わりにタブレットを持っている。
朝子と同じ、運命曲線を描く機能を持った端末を。
「……わかった。認めるよカノン」
氷川朝子は、自分のかつての姿なのだと。
モネはさすがに遠慮したが、自宅に見て欲しいものがあると言う。話もまだ途中なので、二人で夜道を歩いた。
ぼんやりとアスファルトを照らす街灯。
二つの影が少し重なって移動する。
「未知なる自然を解明することと、悲しむ人たちの原因を除くこと。二股してるうちに、マクロよりミクロの方が大事になってきちゃったのかな。学者としては失格だよね。研究だって片手間にやってうまく行くような、甘いものじゃないのに」
意外にも、クールなはずの朝子の声は湿って聞こえた。うっすら涙ぐんでいる。
「やだな。何で泣いてるんだろう私」
ぎゅっと頬を手で拭いた。
本当は内面で熱い思いを燃やしている。
この人はやっぱり。
モネの鼓動が早まる。
「すみません。私が色々聞いてるせいで、気分悪くされたのでは?」
「ううん。薄々思ってたけど、やっぱり私ばかなのかも。そんなの研究者としては邪道だよね。情に流されて本質がずれてしまうなんてどうかしてる。どうしてそんな道に突っ込んじゃったんだろう」
「人を助けたいと思うのは、良いことですよ」
「全然時間が足りない。科学の研究は自然事象との戦いなの。たかだか人間の寿命では少ししか進めない」
何年も多くの手をかけ何回も検証を繰り返して。ほんの小さな真実を証明するのに下手すれば数十年かかる。その成果が結びついて世に広がるまで、どれくらい先になるだろう。
「いつも目の前の人たちを救うには間に合わない。特に医学方面ではそれが顕著だわ。数年前に救えなかった病気が、新薬開発や新しい治療法で延命できる。タイムラグによって失われた人々を、悼まずにはいられない」
電車、医療技術、携帯電話、法律、政治。
今人類が当然のように使っているものは、過去からの遺産。先人たちは享受できなかったもの。そこには多かれ少なかれ、それに苦しんだ人たちがいる。
そして時は有限だ。それを探求する者ですら、寿命に負けて命を終えていく。
朝子の命題はむしろ、宇宙工学よりも切ないものに思えた。いつ見つかるかも、見つからずに終わるかもしれないあてのない冒険。
科学を志すとはそういうことだ。
「それを目指すことは、精神的にきついことではないんですか?」
「だからまずったと思ったの。こんな大きな話、私ごときに手に負えない。でも少しずつその思いは芽吹いて大きくなって。とうとうごまかせなくなってしまった。私のこの限られた命、何に使ったら一番満足できるんだろう。たくさん迷ってたくさんの人の話を聞いた。でも外を探し回っても答えなんてどこにもない」
答は一体どこにある?
科学における真実、氷川朝子と言う自分における真実。
文献を調べ、インターネットを検索し、娯楽や生活の中にも手がかりを見つけようとし。あげくは誰彼構わずに議論をふっかけて。
「それでも、泣いてみて今一つわかったことがある。答えは自分の中に埋もれているのね。自分の気持ちなのに一人じゃ解決できない」
クイズの答えを見つけた子供のように、声を踊らせて言った。
「人に会って会って話して問いながら、自分の中から引きずり出すもの。見つかるまで諦めきれない。そうして壁にぶつかりまくってやっとわかった。どんなにばかげてると言われても、私はあの人たちを助けたい」
それがようやく探り当てた、彼女の中の真実。
「朝子さんのそういうところ、すてきだと思います。人の痛みもわかる科学者じゃないと、人を幸せにはできない」
「そうかな?おせじでも嬉しい」
講義をしていた時のクールな印象は、まるで見られなかった。人のはかない命をかわいいと言う、朝子自体がかわいらしく見えた。
「小さい頃からずっと月や星が好きで、いつか宇宙に行くんだって思ってた。だけど私はそれよりも、目の前の人をどうにかしてあげたい。医者なら治療で病気の人を治せる、政治に関わるなら法律で人を救える。でも私にできる手段はこれしかないから」
ぎゅっと拳を握りしめた。
「泣きながら素手で土を掘り続けて、見つかったものが変に見えても、人に呆れられても。しっかり抱きしめればいいのよね。方向は変わってしまったけど、これが私の道だから」
朝子は単なる学者ではなく、探求者なのかもしれない。いや、そうなってしまったと言うべきか。
交差点の向こうにマンションが見えた。
大学の研究室と別に、自宅にも分析用の機材があるのだと言った。エントランスを入り、エレベーターで三階へ。導かれるまま中へ入ると、朝子が左手の部屋を開けた。
「ここなの。日光焼けが嫌だから暗幕張って、理科室みたいだけど」
モネは息を呑んだ。
「これは……」
モネがいつも作業している部屋と、そっくり同じだった。
暗がりの中にぼんやりと光る照明器具も、いつも突っ伏して寝るソファの色さえも。レイアウトが全く同じ。うず高く積まれたファイルたちの置き場所には、代わりに巨大な書棚がそびえ立っていたけれど。
モネの部屋にはないパソコン機器は、研究室同様に開発中のスプラインを描くためのものだろう。そしてモネは、代わりにタブレットを持っている。
朝子と同じ、運命曲線を描く機能を持った端末を。
「……わかった。認めるよカノン」
氷川朝子は、自分のかつての姿なのだと。
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