【完結】天使のスプライン

ひなこ

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6・恩田繁之(おんだ・しげゆき)

6-1

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(注・話中、京都弁が出てきます。特殊な表現の箇所では標準語を追記しています)


 ファイルを一つ引っ張り出して開く。少し眺めてまた戻す。もうどれくらいそんな動作を繰り返しているだろう。
 脇でずっと見ていたカノンが、ついに怒り出した。
「おいおいおい、気の抜けたビールみたいな面してんじゃねえぞ」
「ビールに顔はありません」
 けっ、と舌を鳴らしてそっぽを向いた。
 モネはため息をついて、また次のファイルに手をかけた。

 どうしてだろう、朝子のところから帰って以来、クライアント選定せんていができない。
 赤いファイルの中から、勘で引っ張り出せばすぐに決められたのに。今はどれを見ても決心がつかない。誰を助けに行くべきか覚悟が決まらない。

「こんなんだったら朝子に会わせない方が良かったよな。よけい動きが鈍ってるし」
「ううん、会えて良かったよ。こうしてクライアントを助けに行ってる理由がわかったし、彼女の思いは私が引き継がなきゃって。でも……」

 今開いた赤ファイルに表示されている顔写真。
 太めの色白の女性。
 彼女のところへ行って、望みどおりに行き先を変えてやれるのか?過去へ行ける力を、適切な方向に向けられるのか?自信がなくなってしまった。人は心に秘めたものがあって、それ一つで全く違って見える。
 そんな手探りの人助けは、押しつけにしかならないのではないか。

「人が人を思いやるってのは限界があるもんだろーが。感情の振り幅、善悪の基準もちがうんだから。気にすんなってば」
 朝子は身近な人々の心を、広大な宇宙の深さと比較して言った。
 小さいけれど、かわいらしくて愛しいと。
「朝子さん、人の心もきっと深くて底知れない……。触れてはいけないやみがある」
「あああ。今度は哲学者になっちまったか。手えかかるなお前は」

 モネが急に立ち上がった。衝撃でカノンが床に転がり落ちる。
「あ?何?何が起きた?」
「哲学者。そう、そうよ」    
 モネはファイルの背表紙をずっと目で追い始める。

 カノンが尻をさすりながら机の上に戻る頃、その中の一つを引っ張り出した。頭の禿げた男の写真を見て目を輝かせる。
「何だよそれ」
「この人、哲学者なの。朝子さんが言ってた。迷った時はいろんな人に会って聞いてみたんだって。自分の中にある思いが、人と会わないと掘り起こせないって。私もそうしようと思う。いいでしょ?」
「いいも何も……いてて」
 カノンは呆れて声も出なかった。

 モネのやつ、禿げじじいが趣味なのか。こんな嬉しそうな顔見たことない。いやそんなことよりも、赤ファイルでも何でもない普通の人間のところに行くと言うのか。

「じゃ決まり!早速レッツゴー」
 カノンの思いもよそに、身支度みじたくもそこそこ指で空を切り始めた。
「おい、置いてくなよ!」
 ふさがる寸前でカノンも穴へと飛び込む。後を追って地上へと降りていった。

 その哲学者の家は、街の中心部から離れた場所にあった。
 千年の都と呼ばれている都市の風情ふぜいは、永く伝統を守った日本独自の建築様式に彩られている。木づくりの門をくぐると、小石でできた波を渡るかのような石畳いしだたみが並んでいた。
 見上げれば、赤く色づき始めた紅葉が美しい。

 多くの人間と接触する今回は、クライアント以外にも姿が見えるよう実体化した。
 カノンはどこまで見えるかわからないが。

 和服姿もたおやかない髪の女性が出て、モネを案内した。
「ほんまかわいらしいなあ。今も他の方が来てはって。今日はお人さん多いでっせ」
 この地方の言葉はゆったりとした口調に、やわらかな気品と心地よさを感じる。
 家屋かおくはまだ建ててそう、年月も経っていない。板張りの廊下を一歩踏むごとに、若木の匂いが立ち上った。
「ここ一体何年なんだよ?戦国時代?」
「二十世紀終わり頃よ。ここら辺はあえて昔と同じような建て方をしているの」
「へえ、懐古趣味かいこしゅみってやつか?」
「静かに、ちゃんと気配消してね?他にも人いるし、オウムは立ち入り禁止よ」
「だからオウムじゃねーっての!」

 恩田繁之は大学で哲学科の教授を務めた後に退しりぞき、今は家を一部学生たちにも開放している。彼の人柄を慕って卒業後も訪れる学生たちは多い。学問について、また日々の悩みについて答を求めてやってくるのだ。
 部屋の廊下で短髪の青年とすれ違う。
 彼はモネに気づくと、わずかに会釈えしゃくして通り過ぎた。
 普通の学生に見えただろうか。とりあえず奇異きいな目を向けられなかったことに安堵あんどする。 

 カノンは人に見えないのをいいことに、家の中を飛び回っていた。
「結局アカデミズム(学問思想)の中にしか、その問いに耐えうる人材はいねえって訳か」
 縁側に留まり、庭のすみにある石の灯籠とうろうに目をやった。

 彫刻にしては随分と形がシンプルだが、これが日本美と言うものか。
 これと似たものを見たことがある……いや、それはだるま落としというやつだ。似ているがきっとあの頭を落としたら、大変なことになるだろう。
 灯籠の頭の上に舞い降り、足元を突っついていたがしばらくして首をひねる。やはり理解するには厳しい。

 モネは奥の部屋に案内され、静寂せいじゃくの中にした哲学者と相対あいたいした。
 それまで穏やかに流れていた辺りの空気が、その瞬間張りつめた。強風が窓の外で竹林をらし、ざわざわと音を立てた。
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