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第一章

二人きりの夜⑥

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「殿、足元にお気を付けて」

 急な斜面に足を掛けた家康に向かって、上から忠勝が手を差し伸べる。
 朝露に濡れた野草は、思いのほかよく滑る。家康は転がり落ちぬように慎重に歩を進めていた。

「すまないの、忠勝」

 忠勝の大きくて分厚い無骨な手が、家康の白い手を掴む。そのままぐいっと引き上げると、まるで雲の上を歩くような軽い足取りで、家康は斜面を登りきることが出来た。

「ははっ、昨夜儂がすっ転んだのは、この辺りかのう」

 家康が、苔生した岩の上に立って辺りを見回す。
 柔らかな朝陽を浴びた家康の顔は、昨夜よりもさっぱりとして見えた。
 白い小袖の上から無理やり羽織らせた忠勝の黒い羽織も、なんだか妙にしっくりくる気がして、忠勝はひとりそわそわとした落ち着かない気持ちになっていた。

「しかし、知らぬ間に随分と奥まで来ていたのだな。やはり、夜の森は危険じゃのう」

 昨夜言っていた通り、家康は、家康として戻る覚悟が出来たのだろう。
 昨夜までの不気味な森とは様相を呈した、新しい朝を迎えた森を歩く家康の姿はどこか清々しい。
 家康の決断に、忠勝とて異論はない。忠勝はどこまでも、主君である家康に従うのみだ。
 だが、城で待っている件の男娼は一体どうするつもりなのか。
 子種を孕む為に呼ばれたその男は、いまだ城で殿の帰りを待っているのだろうか。
 そう思うと、忠勝はこのまま足を止めたいような、永遠に二人で森の中を彷徨っていたいような、全く持って奇妙な感覚を覚えるのだった。

「殿、その……子は……」
「子?」

 家康が、ぱちぱちと瞬きをする。
 忠勝は胸元がむずむずするような、掻きむしりたいような、どうにも落ち着かない気持ちになって、ズバリ問いただした。

「種付けはどうなさるおつもりか」
「種……ぶはっっ」

 噴き出した家康が、ごほごほと咳をする。あまりの言い草に、気管にでも入ってしまったらしい。
 忠勝が、家康の背を優しくさすってやる。

「た、種付け、って」
「昨夜はその予定だったのだろう……俺は聞いてはいなかったが」

 後半は、ぼそぼそといじけたような口調になってしまったが、忠勝はどうしても聞いておかねばならぬと思った。殿の返答次第によっては、このまま城に返すわけに──。

「とりあえず、今回はナシじゃ」

 あっけらかんと家康が答えた。

「とはいえ、跡取りについては、いずれ考えなければならぬことだからな。その時までに、よくよく考えておく」
「じゃ、じゃあ、城で待っているどこぞの馬の骨とは」
「あっはっは、馬の骨とは酷いな」

 家康が言うには、雇われた男娼は、石川数正辺りが金子を渡して既に店に帰らせているだろうとのことだった。「その時」が来たらどうなるのか今は考えないことにして、とりあえずは家康に触れる不埒な輩がいなくなったということが分かり、忠勝は肩で息を吐いた。
 数正の行動について、忠勝に異論はない。むしろ店ではなく、国外追放にでもしてやりたいくらいだった。

「ありがとな、忠勝」

 突然、家康が隣を歩く忠勝を見て微笑んだ。

「探しに来てくれて、嬉しかった」

 忠勝の手がふらりと宙をさまよい、ぎゅっと握り締められた。
 その手が何を掴もうとしたのか、誰を掻き抱こうとしたのかは、忠勝自身もう目の逸らせないところまで自覚してしまっていた。
 忠勝は、己の脳がぐらぐらと揺れるような奇妙な感覚に襲われた。
 もし、殿が城に帰り、今度こそ男と子供を作るつもりだと答えたのなら、自分は一体どうしただろう。ちゃんと殿を、城まで送り届けることが出来ただろうか。それとも──。

「殿、俺は」
「おーい!」

 森の入り口で、背の高い男が大きく手を振っている。榊原康政だった。
 隣には、眉間に皺を寄せた酒井忠次が馬の手綱を握っていた。
 二人とも、顔に疲労が浮かんでいた。きっと夜通し、主君の捜索にあたっていたのであろう。
 苦笑する家康。

「こってり絞られる覚悟をしておいた方が良さそうだな」

 ようやく忠勝が笑った。

「主君が寝所を飛び出して行方知れずとは、今頃、数正殿などは血を吐いて倒れておるやもしれませぬぞ」
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