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第一章

二人きりの夜⑤

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 忠勝は決して離さぬとでもいうかのように、家康を胸の中に抱き込んだ。
 白い小袖一枚を通して温かな血潮を感じ、命の脈動を感じる程、主君が近くにいる。こんなことは、勿論初めての経験だった。
 堪らなくなった忠勝の腕の力が、さらに強くなる。
 家康の体が、ビクリと跳ねた。
 それにも気づけないほど、忠勝は必死に家康を自分の腕の中に囲い込んでいた。抱きしめているのは忠勝なのに、まるで縋りついているかのようにも見える。
 何故、こんなにも心臓が張り裂けそうな気持になるのか。忠勝自身も、本当は分かっている筈の事実から目を逸らし続けた結果がこれだ。忠勝の鉄の意志に反するように、体が動いてしまったのだった。

「た、忠勝……?」

 家康がか細い声で、問いかける。
 家康には一体どういう事態になっているのか、皆目見当がついていない。原因もきっかけも分からないまま、幼い頃からよく知る家臣に真正面から抱きしめられているのだから。

「ど、どうしたのじゃ……こんな……」

 こんな……の後に、家康の言葉は続かない。困惑した様子の家康は、ははっと無理に笑い飛ばそうとしたが、笑うことが出来なかった。
 忠勝が家康の体温や心臓の音を感じているように、腕の中の家康もまた、忠勝の熱い体と力強い腕のぬくもりを感じていた。

 ドクン、ドクン、ドクン。
 
 すいと家康の白い手が、忠勝の死角に回る。家康の手は忠勝の背中を抱きしめようとして、躊躇し、逡巡しているかのように見えた。
 忠勝は、はああと大きく息を吐くと胸の中の家康を開放した。
 上目遣いで見上げてくる家康は、縁日で手を離された迷子の幼子のように頼りない目をして忠勝を見つめている。
 困ったようにハノ字になった眉、子猫のように愛くるしい大きな瞳、すっと通った鼻筋に、花が咲き誇る前の蕾を思わせる慎ましい唇。
 心は、とっくに分かっていたのだろう。今も昔も、すべてが忠勝の目に焼き付いて離れない、決して離したくはないと思わせるその感情の意味を──。
 
 がばり。

 忠勝が、いきなり地面に両手を着いて頭を垂れる。

「え」

 呆気にとられる家康。
 忠勝は地面に向かって頭を下げたまま、はっきりとした口調で告げる。

「腹を切る」
「待て待て待て」

 飛びあがる家康。
 土下座状態の忠勝に近寄ると、焦りながら忠勝の肩を揺すった。

「突然、何を申しておる」
「俺にはもう」
「落ち着け、忠勝」
「この場で腹を切ることしか出来ぬ」
「嬉しかったぞ!」
「……は?」

 忠勝が顔を上げる。
 最強のサムライが、飛び出しそうなほど目をまん丸くしている。

「そ、れは」

 ごくりと、忠勝が唾を飲む。
 家康がポンポンと忠勝の肩を、優しく叩いた。

「誰も知らない場所で生きたいと言ったら、ついてきてくれると言ってくれたであろう」
「……あ」
「お主の言葉で、また家康として生きていく覚悟がついた。礼を言わなければならないのは、こちらの方じゃ」
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