ただいま

越知 学

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1章

1話

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「ただいま」
「お帰り」
 ドアを開け、誰かに向けて言ったわけでもない僕の言葉を、母親が当たり前のように返してくれた。しかし、その声に明るさや穏やかさはない。
「今日も機嫌が悪い日か」
 僕はそう悟ると、何も言わずに自分の部屋に荷物を置きに行った。これは母親に限ったことではなく、機嫌が悪い人に無理に元気づけようとするのは野暮だと心得ているからだ。
 ……いや、僕がその術を持ち合わせていないだけか。
 僕は人の心を浄化できるような言葉を贈ることはできない。そんなことができるのは、人々を引き付けられる偉人や一握りの才能を持ち合わせた人間にのみにできる所業だと思っている。
 だから僕は、代わりに場の空気を瞬時に感じ取り、今相手がどんな気分なのかを察することに力を注いできた。相手が話を聞いて欲しそうなときは、思う存分話してもらう。一人にして欲しそうなときは、何も言わずその場を離れる。そうしてきたおかげで、今まで人に嫌いだと言われたことは一度もない。ただしどんな人にも「良い人」止まりだが……。
 今回の母の場合、きっと今はそっとしてほしいという雰囲気が出ていた。だから僕は、帰ってきたらいつもしている学校の話はせず、自室の机でその日の宿題を始めた。
 気にならないと言えば噓である。母は今どんなことで悩んでいるのか。僕は何か力になれないのか。そして、僕が助けることができないことに思い知り、無力感に陥る。それが僕の一連の思考の流れ。僕にもっと力があれば……。
 そんな風に自分自身を卑下していると、キッチンの方から子どもであれば誰でも認知できるであろういい香りが漂ってきた。
「今日はカレーか」
 今日のはトロトロだろうか。それともスープ状のものだろうか。
 甘口がいいなと思う僕は、まだまだ幼かった。
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