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第一部 はじまりの伝説
七章 天詠みの島へ
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マークスはいまもただひとり、船の舵を取って海を渡っていた。
あの頃となにもかわらないまま天命の曲を奏でつづける天命の巫女さまただひとりを供に。
マークスが天命の巫女さまを連れて王国を出奔したあの日。あの日からもう何十年という時がたっている。マークスもさすがに老いていた。鍛え抜かれた体はなおたくましかったけれど、髪はすでに白くなり、顔には老いを示す深い皺が幾つも刻まれている。老いてなおたくましいその体も、若い頃に比べればさすがに衰えている。その横では天命の巫女さまだけがかわることのない若く、美しい姿を見せている。
この数十年、マークスは世界中を旅した。天命の巫女さまを人間に戻す方法を求めて。
その方法を知っているかも知れないと言われた天詠みの島を求めて。
その間には無数の冒険があり、無数の出会いと別れがあった。その一つひとつが伝説として後の世に語り継がれるものだった。
僕がおばあちゃんから聞かせてもらったマークスの伝説のほとんどは、この頃のことが元になっていた。その伝説を聞いたおとなの人たちは、
『あんなものはただの伝説さ。物好きな連中がおもしろおかしくでっちあげただけで、実際にはそんなことはなにひとつなかったのさ』
なんて笑っていたけれど……でも、ちがった。僕の聞いてきた伝説なんてマークスの経験した冒険のなかのほんの一切れに過ぎなかった。
マークスは誰にも知られず、伝説にもならない歴史の裏で、数えることも出来ないほどの冒険を、生命の危険をくぐり抜けてきていた。
天命の巫女さまを人間に戻す。
そのたったひとつの目的のために。
そして、いつの頃からかマークスは『海賊王』の名で呼ばれるようになっていた。それでも――。
マークスは天命の巫女さまを人間に戻すことは出来なかった。
そのための方法を見つけ出すことすら出来なかった。
そして、その方法を知ると言われる天詠みの島を見つけることも。
マークスはすでに海賊として世界中の至る所を旅していた。いまや、行っていない場所はただひとつ。
マークスはいま、最後に残されたその場所に向かい、舵をとっていた。
天命の理によって、『船』という存在そのものに干渉され、人間に操られなくても自分で動けるようになった天命船。たったひとりでも舵を握りさえすればどこにでも行けるその天命船を操るマークスの表情は、最後の場所に向かう覚悟に満ちていた。
「……そうだ。なにも、世界中を旅する必要などなかった。神代の英知を残す天詠みの島。そう呼ばれるにふさわしい場所は最初からひとつしかなかったのだ」
マークスはそう呟いた。
そうだ。最初からわかっていんだ、そんなことは。
それなのに、『あの場所』にだけは近づこうとしなかった。無意識のうちに、いや、自分をごまかしていただけで実は意識的に避けていたのかも知れない。
その怯懦のせいで多くの時間を無駄にした。しかし、まだ手遅れではない。自分は老いたとはいえ、まだ生きて、動いている。まだ戦うことは出来る。天命の巫女さまを人間に戻すという思いもあの頃とかわることなくこの胸の内にある。そして、なによりも――。
天命の巫女さまはいまもあの頃とかわらない姿のまま、天命の曲を奏でつづけているのだから。
「今度こそ……今度こそ、あなたを人間に戻してみせる」
マークスはその決意を言葉にし、最後の場所へと向かう。
亡道の司を倒した場所。
亡道の島へと。
亡道の島。
もちろん、そんな名前が正式につけられているわけじゃない。ただ、ただ、亡道の司が根城にしていたことからそんなあだ名がつけられただけだ。正規の地図に載るような名前は他にあったはずだけど、いまさらそんなことはもう誰も気にしない。
亡道の島。
それがいまでは正しい名前。島にとっては迷惑だっただろうけど。
マークスは船を埠頭につけた。
もう何十年前になるのか。亡道の司との戦いのために必死に作りあげた埠頭。さすがに波に削られ、風雨に打たれ、ボロボロになっていたけれど、それでもまだなんとか形をとどめてはいた。船をつけ、島に乗り込むための役にはたった。
マークスは天命の曲を奏でつづける天命の巫女さまひとりを残し、島に降り立った。
そこは、あの頃となにもかわっていなかった。
異界の侵食を受け、世界のすべてが侵され、ねじ曲がり、おぞましい生ける死体がうごめく場所。空気すらも島の外とはちがい、異界の腐臭が漂っている。まるで、その空気を嗅いでいるだけで異界の住人に成り果ててしまうかのような。
「……かわらないな。ここだけは」
マークスはそう呟いた。
この何十年もの間、人類は異界に汚染された地域の浄化作業に必死に取り組んできた。
マークスの去ったあともマークスの残した組織は立派に機能していたし、マークスの育てあげた後進たちはそれぞれに自分の責任をきちんと果たしていた。
その意味でマークスは決して『人類への責任』を投げ出したわけじゃない。『人類への責任』を果たした上で、天命の巫女さまに対する責任を果たそうとしたんだ。
必死の努力の甲斐あって、世界のほとんどはすでに浄化されていた。異界の瘴気に侵されたすべのものは焼き払われ、動く死体には改めて死が与えられた。なにもない荒野となった場所に新しく草や木、鳥や獣たちが運び込まれ、再生された。その努力の甲斐あって、いまでは汚染された地域のほとんどが元に戻っていた。ただし――。
この亡道の島だけは例外だった。
この島だけはなぜか、誰も浄化しようとはしなかった。
単純に、他の陸地から遠すぎて手がまわらなかったのかも知れない。
何百万という人間が生命を落とした場所に近寄りたくなかったのかも知れない。
あるいは――。
それ以外のなにか別の、近づくことを禁忌と感じさせる理由があったのかも知れない。
ともかく、この亡道の島だけはこの世界で唯一、異界の瘴気をそのまま残していた。
マークスは異界の匂いのこびりついた空気を吸いながら、腐った体を引きずってうごめく、生ける死体のなかをひとり、城に向かう。
亡道の司と戦ったあの城へと。
マークスは城の前で立ちどまった。その城を見上げた。白亜の壁をもつ美しい城を。
「……そうだ。どうして、あのときに気がつかなかった。この城は異界のものではない。この世界のものだ。亡道の司によって占拠されながらなお、異界の瘴気に侵されることなく、この美しい姿をとどめていた城。
この城がただの城であるわけがなかった。そのことに気がついていれば、天詠みの島のことを聞いたときにすぐにこの城のことを思い出すことができただろうに」
自分のうかつさを噛みしめながらマークスは城のなかに入った。
真っ先に大広間に向かったのは自然なことだったろう。何十年もの昔、マークスはこの大広間で一千万の兵士たちを指揮して亡道の司と戦い抜いたのだから。
「……やはり、誰もいない、か」
静まり返った無人の大広間。
あの頃となにかわらないまま、ただ人の気配だけが失われた大広間。
その大広間を見渡しながらマークスは呟いた。
心のどこかで期待していたんだ。
あの戦いで散っていった兵士たちが亡霊となって現れて、自分に対する恨み言を述べてくれることを。
あの犠牲は仕方のないことだった。
死者のひとりも出さずに亡道の司を倒すなど振り得ないことだった。
みんな、世界の未来のために死を覚悟して戦った。それを悔やむなど、その人たちの覚悟に対する冒涜。
まして、亡霊となってさ迷っていることを期待するなんて、あってはならないこと。
それはわかっている。
わかっているからマークスはかの人たちに対して一度だって謝ったりしたことはない。それでも――。
――多くの兵士を死なせながら自分は生き残ってしまった。
その罪悪感はあれから何十年もたったいまでもマークスの心を縛っていた。
だからこそ――。
もしかしたら、ここに来たら死んでいった兵士たちの霊に会えるかも知れない。そんな期待を無意識のうちにしていた。でも――。
「……あるはずがない。死んだ生命は戻らない。だからこそ、生命は尊いのだし、生命を奪うことは許されざる罪なのだ」
その現実を受けとめ、マークスは大広間を去ろうとした。そのとき――。
大広間の一番奥、そこでなにかが動いた。
なにか、モヤモヤとした黒っぽいものが漂っていた。
火事のときに出る黒い煙を半分、透明にして薄めたような、そんなもの。
そのモヤモヤが徐々に姿をはっきりさせた。その姿を見たとき――。
マークスは目を見開いた。
「馬鹿な……。なぜ、きさまがそこにいる」
そこにいたもの、それは――。
人類の天敵。
かつて、人類がその総力をあげて戦い、膨大な犠牲と引き替えに打ち倒した怨敵。
亡道の司。
あの頃となにもかわらないまま天命の曲を奏でつづける天命の巫女さまただひとりを供に。
マークスが天命の巫女さまを連れて王国を出奔したあの日。あの日からもう何十年という時がたっている。マークスもさすがに老いていた。鍛え抜かれた体はなおたくましかったけれど、髪はすでに白くなり、顔には老いを示す深い皺が幾つも刻まれている。老いてなおたくましいその体も、若い頃に比べればさすがに衰えている。その横では天命の巫女さまだけがかわることのない若く、美しい姿を見せている。
この数十年、マークスは世界中を旅した。天命の巫女さまを人間に戻す方法を求めて。
その方法を知っているかも知れないと言われた天詠みの島を求めて。
その間には無数の冒険があり、無数の出会いと別れがあった。その一つひとつが伝説として後の世に語り継がれるものだった。
僕がおばあちゃんから聞かせてもらったマークスの伝説のほとんどは、この頃のことが元になっていた。その伝説を聞いたおとなの人たちは、
『あんなものはただの伝説さ。物好きな連中がおもしろおかしくでっちあげただけで、実際にはそんなことはなにひとつなかったのさ』
なんて笑っていたけれど……でも、ちがった。僕の聞いてきた伝説なんてマークスの経験した冒険のなかのほんの一切れに過ぎなかった。
マークスは誰にも知られず、伝説にもならない歴史の裏で、数えることも出来ないほどの冒険を、生命の危険をくぐり抜けてきていた。
天命の巫女さまを人間に戻す。
そのたったひとつの目的のために。
そして、いつの頃からかマークスは『海賊王』の名で呼ばれるようになっていた。それでも――。
マークスは天命の巫女さまを人間に戻すことは出来なかった。
そのための方法を見つけ出すことすら出来なかった。
そして、その方法を知ると言われる天詠みの島を見つけることも。
マークスはすでに海賊として世界中の至る所を旅していた。いまや、行っていない場所はただひとつ。
マークスはいま、最後に残されたその場所に向かい、舵をとっていた。
天命の理によって、『船』という存在そのものに干渉され、人間に操られなくても自分で動けるようになった天命船。たったひとりでも舵を握りさえすればどこにでも行けるその天命船を操るマークスの表情は、最後の場所に向かう覚悟に満ちていた。
「……そうだ。なにも、世界中を旅する必要などなかった。神代の英知を残す天詠みの島。そう呼ばれるにふさわしい場所は最初からひとつしかなかったのだ」
マークスはそう呟いた。
そうだ。最初からわかっていんだ、そんなことは。
それなのに、『あの場所』にだけは近づこうとしなかった。無意識のうちに、いや、自分をごまかしていただけで実は意識的に避けていたのかも知れない。
その怯懦のせいで多くの時間を無駄にした。しかし、まだ手遅れではない。自分は老いたとはいえ、まだ生きて、動いている。まだ戦うことは出来る。天命の巫女さまを人間に戻すという思いもあの頃とかわることなくこの胸の内にある。そして、なによりも――。
天命の巫女さまはいまもあの頃とかわらない姿のまま、天命の曲を奏でつづけているのだから。
「今度こそ……今度こそ、あなたを人間に戻してみせる」
マークスはその決意を言葉にし、最後の場所へと向かう。
亡道の司を倒した場所。
亡道の島へと。
亡道の島。
もちろん、そんな名前が正式につけられているわけじゃない。ただ、ただ、亡道の司が根城にしていたことからそんなあだ名がつけられただけだ。正規の地図に載るような名前は他にあったはずだけど、いまさらそんなことはもう誰も気にしない。
亡道の島。
それがいまでは正しい名前。島にとっては迷惑だっただろうけど。
マークスは船を埠頭につけた。
もう何十年前になるのか。亡道の司との戦いのために必死に作りあげた埠頭。さすがに波に削られ、風雨に打たれ、ボロボロになっていたけれど、それでもまだなんとか形をとどめてはいた。船をつけ、島に乗り込むための役にはたった。
マークスは天命の曲を奏でつづける天命の巫女さまひとりを残し、島に降り立った。
そこは、あの頃となにもかわっていなかった。
異界の侵食を受け、世界のすべてが侵され、ねじ曲がり、おぞましい生ける死体がうごめく場所。空気すらも島の外とはちがい、異界の腐臭が漂っている。まるで、その空気を嗅いでいるだけで異界の住人に成り果ててしまうかのような。
「……かわらないな。ここだけは」
マークスはそう呟いた。
この何十年もの間、人類は異界に汚染された地域の浄化作業に必死に取り組んできた。
マークスの去ったあともマークスの残した組織は立派に機能していたし、マークスの育てあげた後進たちはそれぞれに自分の責任をきちんと果たしていた。
その意味でマークスは決して『人類への責任』を投げ出したわけじゃない。『人類への責任』を果たした上で、天命の巫女さまに対する責任を果たそうとしたんだ。
必死の努力の甲斐あって、世界のほとんどはすでに浄化されていた。異界の瘴気に侵されたすべのものは焼き払われ、動く死体には改めて死が与えられた。なにもない荒野となった場所に新しく草や木、鳥や獣たちが運び込まれ、再生された。その努力の甲斐あって、いまでは汚染された地域のほとんどが元に戻っていた。ただし――。
この亡道の島だけは例外だった。
この島だけはなぜか、誰も浄化しようとはしなかった。
単純に、他の陸地から遠すぎて手がまわらなかったのかも知れない。
何百万という人間が生命を落とした場所に近寄りたくなかったのかも知れない。
あるいは――。
それ以外のなにか別の、近づくことを禁忌と感じさせる理由があったのかも知れない。
ともかく、この亡道の島だけはこの世界で唯一、異界の瘴気をそのまま残していた。
マークスは異界の匂いのこびりついた空気を吸いながら、腐った体を引きずってうごめく、生ける死体のなかをひとり、城に向かう。
亡道の司と戦ったあの城へと。
マークスは城の前で立ちどまった。その城を見上げた。白亜の壁をもつ美しい城を。
「……そうだ。どうして、あのときに気がつかなかった。この城は異界のものではない。この世界のものだ。亡道の司によって占拠されながらなお、異界の瘴気に侵されることなく、この美しい姿をとどめていた城。
この城がただの城であるわけがなかった。そのことに気がついていれば、天詠みの島のことを聞いたときにすぐにこの城のことを思い出すことができただろうに」
自分のうかつさを噛みしめながらマークスは城のなかに入った。
真っ先に大広間に向かったのは自然なことだったろう。何十年もの昔、マークスはこの大広間で一千万の兵士たちを指揮して亡道の司と戦い抜いたのだから。
「……やはり、誰もいない、か」
静まり返った無人の大広間。
あの頃となにかわらないまま、ただ人の気配だけが失われた大広間。
その大広間を見渡しながらマークスは呟いた。
心のどこかで期待していたんだ。
あの戦いで散っていった兵士たちが亡霊となって現れて、自分に対する恨み言を述べてくれることを。
あの犠牲は仕方のないことだった。
死者のひとりも出さずに亡道の司を倒すなど振り得ないことだった。
みんな、世界の未来のために死を覚悟して戦った。それを悔やむなど、その人たちの覚悟に対する冒涜。
まして、亡霊となってさ迷っていることを期待するなんて、あってはならないこと。
それはわかっている。
わかっているからマークスはかの人たちに対して一度だって謝ったりしたことはない。それでも――。
――多くの兵士を死なせながら自分は生き残ってしまった。
その罪悪感はあれから何十年もたったいまでもマークスの心を縛っていた。
だからこそ――。
もしかしたら、ここに来たら死んでいった兵士たちの霊に会えるかも知れない。そんな期待を無意識のうちにしていた。でも――。
「……あるはずがない。死んだ生命は戻らない。だからこそ、生命は尊いのだし、生命を奪うことは許されざる罪なのだ」
その現実を受けとめ、マークスは大広間を去ろうとした。そのとき――。
大広間の一番奥、そこでなにかが動いた。
なにか、モヤモヤとした黒っぽいものが漂っていた。
火事のときに出る黒い煙を半分、透明にして薄めたような、そんなもの。
そのモヤモヤが徐々に姿をはっきりさせた。その姿を見たとき――。
マークスは目を見開いた。
「馬鹿な……。なぜ、きさまがそこにいる」
そこにいたもの、それは――。
人類の天敵。
かつて、人類がその総力をあげて戦い、膨大な犠牲と引き替えに打ち倒した怨敵。
亡道の司。
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