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第二部 絆ぐ伝説

第五話一七章 〝鬼〟が来たりて、死を招く

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 「〝鬼〟だ! あれは〝鬼〟の船だ!」
 ロウワンのその叫びに――。
 恐怖と恐慌が津波となって押しよせ、船という船を呑み込んだ。
 死への恐怖などどこ吹く風と受け流し、酒瓶片手におお海原うなばら闊歩かっぽする海賊たち。その海賊たちが一も二もなく青ざめ、身を震わせ、恐怖に凍える。そんな存在がいるとしたら、それこそがまさしく〝鬼〟だった。
 その〝鬼〟の襲来にさしもの怖い物知らずの海賊たちも怯えきった。帆に飛びつき、船を動かして逃げ出そうとした。その動きに拍車をかけたのがロウワンの叫びだった。
 「逃げろ! 〝鬼〟相手に戦っても無駄だ! 全員、逃げろ、逃げるんだ!」
 騎士マークスに憧れ、家を飛び出して以来、ロウワンがここまで恐怖に縛られ、おののいたことはない。ハルキスの島での修行も、海賊相手に戦った経験も、自由の国リバタリアの主催としての責任も、そのすべてを捨て、忘れ去り、無力な子どもに戻ったかのようにみっともないほどの怯えた形相でそう叫んだ。だが――。
 「まて!」
 そんなロウワンの目の前。そこに、分厚い肉の固まりが立ちはだかった。
 ガレノアだった。ガレノアはその巨体をロウワンの眼前にさらし、仁王立ちしていた。残された左目がこれ以上ないほどに厳しくロウワンを見下ろしている。
 「逃げても無駄だ。知っているだろう。やつは自分の頭をひっかいた野良ネコを見つけるためにひとつの町を壊滅させ、ついに見つけたネコの頭をひっかいて帰った男だ。逃げたところでどこまでも追ってくる。その間にどれだけの巻き添えが出るかわからねえ。〝鬼〟から逃れるためには戦うしかねえ。戦って、戦って、やつに認めさせる。それしかねえんだ」
 そう言われて――。
 ロウワンの表情がかわった。無力な子どもの表情が消え去り、自由の国リバタリアの主催としての顔が戻ってきた。
 「……そうか。そうだったな」
 息を吐きながらロウワンは言った。
 「そんなことはおれが一番、知っているはずのことだったのに。ありがとう、ガレノア。あなたのおかげで大切なことを思い出せた」
 「なあに、大将を支えるのは部下の役目ってもんよ」
 ガレノアはそう言って、残された左目でニヤリと笑って見せた。肩の鸚鵡おうむが『そのとおり!』と言わんばかりに翼をバタつかせて鳴いている。
 ロウワンは前に一歩、踏み出した。迫り来る〝鬼〟の船を睨みつけた。そこにはもう怯えた子どもなどいない。堂々たる一国の主催者の姿である。
 「全員、踏みとどまれ! 〝鬼〟と戦う! 戦って、戦って、自分たちの生命を勝ち取るんだ!」
 ガレノア、と、ロウワンは自らの守護者とも言うべき女海賊に声をかけた。
 「指揮を頼む」
 「おう、任せろ!」
 ガレノアはいつも通りの豪快で陽気な態度で請け負った。
 ガレノアは部下に指示した。全面攻撃を意味する旗を高々とかかげさせ、銅鑼どらの音を大きく鳴り響かせた。はためく旗を見、銅鑼どらの音を聞くことで、我先に逃げ出そうとしていた海賊たちもその場に踏みとどまった。海賊らしいふてぶてしさを取り戻し、ラム酒をあおって舌なめずりし、攻撃準備に取りかかった。
 それが出来たのはまったく、ガレノアの指揮力と信頼、そして、海という海に鳴り響いた悪名のたまものだった。そうでなければいくら旗をかかげようが、銅鑼どらの音を鳴らそうが、誰も相手にせずに逃げ出していたにちがいない。
 クジラも食い殺すシャチの誇りを取り戻した船団は迫る来る巨大な帆船はんせんに挑みかかった。大砲という大砲を向け、ありったけの砲弾を叩き込む。無数の砲弾が大気を裂いて空を飛び、海に落ちて波を揺らす。高波が伝わり、まるで海の上に地震が来たかのように船という船を大きく揺らす。
 その猛撃をしかし、〝鬼〟の船は何事もないかのように無視して迫り来る。砲弾が当たっていないわけではない。当たっている。確かに、撃ち出された砲弾の何割かは当たっているのだ。しかし、〝鬼〟の船はそんなことではビクともしない。痛手を受けるどころかわずかに揺らぐことさえなく、その巨体を接近させてくる。
 船首に固定された巨大な砲門がその口を開いた。
 猛々しい叫びと共に、砲門から途方もない力が放たれた。その力は自由の国リバタリアの船団を直撃した。いや、呑み込んだ。巨大な嵐が家々を呑み込むように、船団を呑み込んだのだ。
 「うわああああっ!」
 海賊とも思えない悲鳴が響いた。
 まさに、巨大な嵐に襲われたあばら屋だった。ローラシアから奪いとった一級艦、百門以上もの大砲を備えた大型艦が一撃で破壊され、バラバラの木っ端になって吹き飛ばされる。船員たちはあるいはその力の前に絶命し、あるいは悲鳴をあげて海に叩き落とされる。
 「なんてこと……!」
 そのありさまを見たメリッサが叫んだ。
 「あれは天命てんめいほうでさえない。あれは、海竜の叫びそのもの。あの船は海竜リヴァイアサンの天命をその身に宿している!」
 「リヴァイアサン……。伝説の海の怪物。神でさえ倒せないと言われる……そんな怪物の天命をいったい、どうやって」
 ロウワンの呟きにメリッサは首を横に振った。その美しい顔が蒼白になっている。
 「……わからない、わからないわ。でも、あの叫びは確かに海竜のもの。海竜リヴァイアサンのものにちがいないわ」
 「けっ、相手は〝鬼〟だぜ。なんでもありに決まってるだろ」
 ガレノアはラム酒交じりの唾を吐き捨て、そう叫んだ。その叫びほど説得力のある言葉がこの世にあったろうか。
 「なんでもいい! とにかく、ありったけの砲弾を叩き込め! あとのことは気にすんな! 何がなんでも生き延びる、その覚悟を見せなきゃひとり残らず殺されるぞ!」
 ガレノアが叫び、銅鑼どらの音が鳴らされる。そのすべてをかき消すかのような轟音が鳴り響き、無数の大砲が火を吹き、砲弾を叩き込む。
 しかし、すべては無駄。無意味。〝鬼〟の船はそのすべてを無視してやってくる。通常の大砲はおろか、『もうひとつの輝き』の手になる爆砕ばくさいしゃ、『輝きは消えず』号に備え付けられた天命てんめいほう、それらの攻撃さえ小雨のように受けとめて堂々と迫ってくる。
 この世に並ぶもののない海賊たちの練達の操船術。それすらも嘲笑あざわらうかのような勢いで迫ってくる。肉薄してくる。まわりに浮かぶ有象うぞう無象むぞうをその巨体で蹴立てる波だけで押し流し、翻弄ほんろうし、ただ一直線に『海の女』号を目指してやってくる。
 その勢いの前にはたとえ逃げ出そうとしても無駄だった。逃げようとしている間に追いつかれる。無駄と知りつつありったけの大砲を撃ち、抵抗の意思を示す他はなかった。
 〝鬼〟の船が『海の女』号に迫る、迫る。波を蹴立てて近づいてくる。その巨体が『海の女』号にぶつかった。岩にぶつかった小石のように『海の女』号は揺れ動いた。地上に生きるものには一生、経験することのない激しい揺れ。世界そのものがひっくり返るかのような衝撃。それでも、その場にいる誰ひとりとして悲鳴もあげず、転倒することもなかったのはさすがだった。しかし――。
 その揺れが収まったとき、『海の女』号の甲板かんぱんには『それ』がいた。
 巨大な体躯。
 獰猛どうもうな人食い熊を思わせる、それでいてどこか愛嬌あいきょうを秘めた不思議な笑み。
 生きとし生けるものすべてを絶望に追いやる『死』そのもののようなその姿。
 「……〝鬼〟」
 ロウワンが『それ』の名を呟いた。
 「よう、船長」
 ニイッ、と、分厚い唇をねじ曲げ、〝鬼〟は笑った。まるで、懐かしい旧友に出会ったときのような人好きのする笑顔。しかし、その奥に比類ない猛々たけだけしさを秘めた笑み。
 「久しぶりだな」
 「〝鬼〟。どうして、あなたがここに……」
 「なあに。ローラシアのじじいに頼まれてよ。お前たちをぶちのめしてくれってな」
 「けっ。ローラシアなんぞのイヌに成りさがるたあ、情けねえじゃねえか」
 「〝鬼〟と呼ばれたおとこのすることとも思えんな」
 ガレノアが鼻を鳴らし、ボウが言った。
 〝鬼〟はニヤリと笑って答えた。
 「へっ。おれはこれでも親切なんだぜ。人の頼みは断れねえのさ」
 〝鬼〟はそう言ってからロウワンを見た。その視線はなんとも人好きのする愛嬌あいきょうのあるものだったが、だからと言って、その裏に潜む危険さ、猛々たけだけしさが感じられないわけではない。
 「よう、船長。覚えてるか。おめえが、おれの船でおれとやり合ったときのことをよ」
 「ああ」
 「あんときゃあ、おめえはまだ、ただの小僧だった。だから、遠慮した。だが、もうそんな必要はねえ。いまのお前が相手なら本気で行くぜ」
 そう言って――。
 〝鬼〟はその身をノッソリと動かした。ロウワンめがけてその巨体を一歩、前に動かした。そのとき――。
 「キイイイイッ!」
 すさまじい叫びをあげて〝鬼〟に向かったものがいた。
 ビーブである。ビーブが尻尾に握りしめたカトラスを振りかざし、〝鬼〟に立ち向かったのだ。
 「ハッ!」
 〝鬼〟は叫んだ。
 いわおのようなその足が地を這うように回転し、ビーブの体を捉えた。その身に爪先がめり込んだ。一撃で蹴りとはされたビーブの体は無力な毛玉となって船縁ふなべりに叩きつけられた。
 「チイッ!」
 「男は殺す!」
 「ゴンドワナ代表として、助太刀させもらいます」
 プリンスが、〝ブレスト〟・ザイナブが、そして、ロスタムが、手にてに剣をもって〝鬼〟に挑む。
 「しゃらくせえっ!」
 一〇〇〇年の時を経たかしの巨木のような〝鬼〟の腕が振るわれ、一撃で三人を吹き飛ばした。
 「やれやれ。いきではないね」
 くう狩りの行者ぎょうじゃが胸元をはだけ、七曜のくうを放つ。
 メリッサが、手にした最新式の銃を発射する。
 目には見えないくうの力が、破壊の力を込めた銃弾が、宙を飛来し、〝鬼〟に襲いかかる。だが――。
 「ふん!」
 〝鬼〟はその一声と共に右腕を突き出した。飛来する銃弾をその手でつかみとった。そのまま投げ返した。投げ返された銃弾は、銃から発射されたとき以上の速度をもって襲いかかり、メリッサの肩に直撃した。
 「きゃあ!」
 メリッサは悲鳴をあげた。肩から血をしぶかせ、吹き飛ばされた。
 「メリッサ!」
 ロウワンが叫んだ。甲板かんぱんに叩きつけられたメリッサに駆けよった。メリッサは肩を押さえながら呻いた。
 「な、なんてこと……。発射された銃弾を手でつかみとり、投げ返すなんて。そんなことが……」
 出来るわけがない。
 そう言いたくても言えない。
 それが〝鬼〟。
 「……はは。まいったね。僕の放ったくうでさえ、気合いひとつで吹き飛ばされてしまったよ」
 行者ぎょうじゃでさえ『笑うしかない』という表情で、そう言うのが精一杯だった。
 〝鬼〟はノシノシと近づいてくる。
 ロウワン目指して歩いてくる。
 ビーブの野性の俊敏さも、自由の国リバタリアで最強を誇るプリンスと〝ブレスト〟・ザイナブの剣も、あの野伏のぶせにして『おれでも簡単には勝てん』と言わしめたロスタムの剣も、くう狩りの行者ぎょうじゃの超常の力も、メリッサたち『もうひとつの輝き』が作りあげた文明の利器も、そのすべてが〝鬼〟の前では無駄、無力、無意味。
 もとより、人の世のことわりが通用しない怪物。
 それが〝鬼〟。
 その〝鬼〟がいま、妙に人好きのする笑顔をたたえ、ロウワンに近づいてくる。
 ロウワンはその姿を認めた。背中の大刀たいとうに手をかけた。
 〝鬼〟を倒せるものは〝鬼〟しかいない。
 〝鬼〟の力の込められたこの大刀たいとう。この大刀たいとうを与えられた自分だけが〝鬼〟を倒すことが出来る。それは、わかっている。しかし――。
 ――おれに〝鬼〟を倒すことができるのか?
 そう思う。
 倒せる。
 そう信じることが出来ない。
 こうして、大刀たいとうの柄に手をかけていても、そこから流れ込んでくる力を感じない。
 そのとき――。
 ロウワンの目の前にもうひとつの巨大な肉の塊が立ちはだかった。
 ガレノアだった。
 「ここはおれさまに任せな。ロウワン。お前は他の連中を全員、引き連れてゴンドワナに向かえ」
 「ガレノア!」
 「わかってるだろ。いまのお前にゃあ、まだ迷いがある。それじゃあ、〝鬼〟は倒せねえ。ここはいったん退いて、〝鬼〟を倒せる覚悟を決めてもう一度、やつの前に立て」
 「ガレノア……」
 「早く行け! おめえにこんなところで死なれちゃあ、先の楽しみってやつがなくなっちまうからな」
 ニヤリ、と、太い唇に陽気な笑みを浮かべてガレノアはそう言った。
 「ガレノア……。ごめん、いや、ありがとう!」
 ロウワンはそう叫ぶと、他の全員を引き連れて他の船に飛び移った。
 「おう、それでいい」
 ガレノアはひとり、満足げにうなずいた。その横にただひとり、灰色の男が並んだ。
 ボウだった。
 「付き合おう、ガレノア」
 「へっ。お前も物好きだな」
 「なに。今日は死ぬのに良い日。それだけのことだ」
 やがて、ロウワンたちは全員、別の船に乗り移った。船団はありったけの速さでゴンドワナへと向かって進み出した。あとにはガレノアとボウ、そして、〝鬼〟だけが残された。ガレノアの肩にとまった鸚鵡おうむが翼をバタつかせ、甲高く鳴いた。
 「へっ。礼を言うぜ、〝鬼〟よ。お前なら、おれたちをぶち殺して他のやつらを皆殺しにするなんざ簡単なのによ。わざわざまってくれるなんてな」
 「言ったろ。おれは親切なんだ。命を懸けた願いとあっちゃあ、聞かねえわけにはいかねえ」
 それが、〝鬼〟の答えだった。
 「しかし、よ」
 ニヤリ、と、〝鬼〟は面白そうに笑った。
 「ガレノアにボウ。海の世界じゃ知らねえやつはいねえ傑物けつぶつじゃねえか。そんなやつがふたりもそろって生き延びさせようとするとはな。あの小僧がそこまでのやつになったってのかい、え?」
 「ロウワンひとりのためじゃねえさ」
 「ロウワンどのの指し示す未来のためだ」
 「未来、か。なるほど。良い台詞せりふだ。なら、よ」
 〝鬼〟は両足を大きく開いた。ひざを曲げ、腰を深く落とした。両手をひざの上に置いた。その姿勢のまま右脚を天に向かって高々とかかげた。ピン! と、伸びた爪先が天を刺すように向けられた。かかげられた右脚が勢いよく振りおろされた。地震のような音がして船が震えた。
 〝鬼〟の全身から滝のような汗が流れ落ちた。
 しゅうう~、と、音を立てて濛々もうもうたる蒸気が上がった。
 たった一回。
 たった一回の動作でそれほどまでに体温があがったのだ。
 それほどの、〝鬼〟の本気を示す動作。
 ニヤリ、と、〝鬼〟は笑った。
 滝のような汗の流れる顔のなかに、人食い熊のように獰猛どうもうな、しかし、不思議と愛嬌あいきょうのある笑みが浮かんだ。
 「存分に戦おうぜ」
 「おおっ!」
 ガレノアとボウ。
 ふたりの海のおとこは剣を手に〝鬼〟に挑みかかった。
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