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第二部 絆ぐ伝説
第一〇話一一章 行者の悔恨
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そこには亡道の世界があった。
中空にポツンと浮かぶ一点の染み。
なにものにも支えられることなく宙に浮く不思議な渦。
その渦が回転し、脈打ち、形をかえる。
まるで、水のなかでうごめくアメーバのように。
そんな呑気に観察していられたのもつかの間。宙に浮かぶ染みのような亡道の世界は、はじけたように膨張して一気に数百倍もの大きさに成長した。
そのまま際限なく拡大をつづけてこの世界、天命の世界を呑み込むかと思われた。その瞬間――。
亡道の世界の膨張に呼応するかのように機械音が響いた。
小さく低いモーター音。
電気で動く機械仕掛けのからくり。
モーター音が鳴り響き、機械仕掛けのからくりから目に見えないなにかの力が放射される。
その力が亡道の世界を捕えた。
膨張しようとする動きを押さえ込んだ。
しばしの間、ふたつの力は拮抗していた。
どこまでも広がろうとする亡道の世界の力と。
それを押さえ込もうとする機械の力。
やがて、亡道の世界がピクピクと脈打った。陸地にあげられ、渇きに苦しみ、断末魔の踊りを舞うアメーバのように。そして――。
すうっ、と、耳よりも目に届くような音を立てて亡道の世界は姿を消した。
その瞬間――。
「やったあっ!」
研究室のなかに、うら若き乙女の声が響いた。
元気と言うよりもやんちゃ。明るいと言うよりも脳天気。両腕を振りあげて跳びはね、床を踏みならす音を立てながらの歓喜の叫び。
「やった! 成功! 見事、亡道の世界を中和してやった! 見たか、科学大好き少女、セアラちゃんの実力!」
叫んだのは『もうひとつの輝き』の長メリッサの妹であり、不在の姉にかわって長代理を務めるセアラだった。
ハルキス島に作られた『もうひとつの輝き』の研究室でのことだった。
かつて、『もうひとつの輝き』の一員であったハルキスが弾圧を逃れてたどり着き、五〇〇年にわたって過ごした島。そして、いまだ『ただの少年』であった頃のロウワンが流れ着き、一年に及ぶ修行を重ね、きょうだい分たるビーブと出会った島。
その島はいま、現代の『もうひとつの輝き』によって研究室として使われている。
その研究室でいま、世界の運命を左右するであろう重大な実験が行われていた。天命の理によってではなく、科学の力によって亡道の世界を制御しようとの実験が。
「ふむ。大したものだね」
感心しているのか、からかっているのか、よくわからない声でそう言ったのは、溌剌として元気いっぱい、年頃の少女というよりはやんちゃな男の子のように見えるセアラとは対照的に、なんともなまめかしい色香を感じさせる妖しの少年、空狩りの行者だった。
その行者はいま、指先に小さな瓶をつまんでいる。それは千年前、騎士マークスが亡道の世界から持ち帰った、亡道の世界の一部を収めた瓶だった。
行者はその瓶を指先でクルクルまわしながら――もし、その瓶が床に落ちて割れでもしたらたちまち、なかから亡道の世界があふれ、この世界を呑み尽くすというのに――セアラに語りかけた。
「まさか、本当に科学の力で亡道の世界を中和できるなんて思わなかったよ。さすが、あのメリッサが『ある意味では自分以上』と認めただけのことはある逸材だね」
行者はそう言いながら妖しく片目など閉じてみせる。
そんな仕種がまたなんともなまめかしい。セアラのようなタイプには一生、学んでもとうてい出すことのできない耽美的な色香である。
そんな行者の色香もまだまだお子ちゃまなセアラには通じないらしい。褒められたことを無邪気に喜び、自慢そうに控えめな胸を反らした。
「ふふん」
とばかりに、鼻息荒く片目を閉じて――もちろんそこには、行者のような妖しい魅力は欠片もない――得意になって見せた。
「そりゃあね。姉さんがいない間、ボクが留守を任されたんだから。成果はきっちり出さないとね」
そう言って、ますます鼻息を荒くする。
どうやら、行者に褒められた点ではなく『メリッサが認めた』という点に喜んでいるらしい。姉大好きのセアラらしい反応だった。
そんなセアラであるが、ふいに真顔に戻った。
やんちゃな表情さえなければやはり、年頃の少女。それも、相当に美しい部類の少女だ。その大きな瞳にキラキラした好奇心を照らして行者に尋ねた。
「だけど、七曜の空だっけ? 行者の力も便利だよねえ。その瓶のなかには、亡道の世界がすっぽり入ってるんでしょう?」
「まあね」
行者は瓶をクルクルまわしながら答えた。
「見た目はこんな小さな瓶だけど、なかには無限の世界が広がっている。というより、この瓶そのものが亡道の世界につながる入り口となっている。そう言うべきなのかな。とにかく、この瓶のなかには亡道の世界がすっぽり入っている。扱いをまちがえれば、たちまち亡道の世界があふれ出して、この世界を呑み込んでしまう」
「そっかあ……」
と、セアラはかわいい唇に手を当てて呟いた。
口調は軽いが表情は真剣そのもの。姉メリッサと並んで当代屈指の天命の博士として、その事態の深刻さは理解できるし、姉に留守を任された身として、そんな事態は決して招けないとの責任感もある。
「だけど、ボクたちが亡道の世界に関して研究するためには、その瓶を使うしかない。亡道の世界を小出しにして、実験を繰り返すしかね。
本当、行者がいてくれてよかったよ。ボクたちだけじゃそんな制御はとてもできなかった。行者が七曜の空を使って、亡道の世界を制御してくれるから存分に実験ができる。ほんと、ありがとうね」
「どういたしまして」
行者はセアラから礼を言われて片目をつぶりながら答えてみせた。
その顔に浮かぶ笑顔は大抵の女性と、ある種の趣味の男たちをまとめて堕とすのに充分なものだった。
「見目麗しい乙女のためとあれば、いくらでも協力するよ」
「へへっー、ありがとね」
と、『見目麗しい乙女』と言われて恥じらうどころか、得意になるセアラであった。
「だけど、七曜の空も不思議だよねえ。どうしたらそんな力がもてるの? どういう原理?」
セアラは行者にグイグイと迫る、迫る。
身動きひとつできなくなった得物を狙う肉食獣というか、長年探し求めた研究対象をついに解剖する機会を得た学者のようにと言うか、とにかく尋常でない食いつきよう。好奇心丸出しの目で行者の全身をジロジロと見つめる。
こんな目付きで見られたらさすがに不気味になり、怖くもなろうといもの。
しかし、それはあくまでも普通の人間の場合。こんな目付きで見られても何事もないかのように笑みを浮かべて軽く受け流すふてぶてしさこそが、空狩りの行者という少年の売りである。
例によって例のごとく、片目を軽く閉じながら答えた。
「見目麗しき乙女の願いとあれば、いつ何時でもこの身を捧げる覚悟はあるよ」
「ほんと⁉ それじゃさっそく……」
と、いつの間にか両手にメスをもって行者に迫るセアラ。無邪気な表情で目をキラキラさせているのがなかなかに怖い。
そんなセアラの頭を、爽快なほどの音を立てて引っぱたいたものがいた。
「いい加減にしなさい、セアラ」
そう言ってセアラをにらみつけたのは、セアラよりも少しだけ背の高い女性。そろそろ中年と言ってもいい年頃だが顔立ちは充分に美しい。しかも、メリッサやセアラによく似ていた。実際にはメリッサとセアラがこの女性に似ているのだが。
その女性、マートルは両手を腰につけると『めっ!』とばかりにセアラをにらみつけた。それから、説教口調で言った。
「いまは、そんなことをしている場合ではないでしょう。そんなことは後回しにして、亡道の世界への対応策に集中なさい」
――『やめなさい』とは言わないんだね。
行者が内心でそう苦笑したのは『似たもの親子だ』と思ったからだった。
マートルこそはメリッサとセアラ、『もうひとつの輝き』を支える美人姉妹の生みの親だった。
「はあい」
と、セアラは叩かれた頭に手を当てながら答えた。その返事の仕方がまた、イタズラを叱られたやんちゃな男の子といった感じ。
セアラは大胆不敵に短いスカートの裾をヒラヒラさせながら研究のために自分の実験室に戻っていった。大抵の男はそのガードの緩すぎる裾の動きに目を奪われたことだろう。
あいにく、『僕はこの世の誰よりも美しい』と、本気かどうかはともかく公言してはばからない行者には通用しなかったようだけど。
はああ、と、そんな娘の様子を見ながらマートルはため息をついた。
「まったく。あの子もそろそろ年頃なのに、いつまでもあの調子で」
いつになったら女性らしくなるのか……。
と、ため息をつく様子はまぎれもなく、娘の将来を心配する母親の姿だった。
そんなマートルに対して行者は笑いかけた。例によって片目をつぶった妖しい笑顔。端から見れば口説いているようにしか見えない態度。マートルに夫がいたら少々――少々ではなく?――面倒なことになっていただろう。
「かの人は充分に魅力的ですよ。ああいう自分の魅力に自覚のない女子というのも良いものです。それに……」
と、行者はかの人にしては真面目そうな表情になって言った。
「才能は本物ですからね。まさか、本当に科学の力で亡道の世界を中和する技術を開発するとは思わなかった」
「確かに」
と、マートルもうなずいた。
平静を装ってはいても口元がひくついているあたりやはり、娘を褒められてニヤけてしまいそうになる親バカ振りは隠しきれていない。
「天命の博士としてはともかく、科学技術に関しては、わたしやメリッサでもかなわない勘をもっているから。あの子のおかげで、亡道の世界を中和する技術に目処がついた。この技術を使った道具を量産できれば、亡道の司との戦いに大きな力となることはまちがいないわ。ただ……」
マートルはそこまで言ってからため息をついた。
その視線の先には部屋ひとつを丸々、占拠する複雑怪奇な機械の塊と、それよりさらに何倍も大きい蒸気機関があった。
「あんなちっぽけな亡道を中和するために、こんな大きな機械が必要。しかも、その機械を動かすための電気を得るためには、家一件分よりも大きな蒸気機関が必要と言うんじゃあね。とても、実用的とは言えないわ。人ひとりがもてるぐらいにまで小型化し、蒸気機関よりもはるかに効率的な発電機関を開発して……正直、今回の戦いに間に合うとは思えないわ」
「大丈夫」
行者は片目を閉じて請け負った。
「今回の戦いに勝利すれば、人類とこの世界は千年の猶予を得られます。その間に実用化すればいいんですよ」
事実、このときにセアラの開発した技術は、のちに洗練され、実用化され、亡道の司と戦う兵士たちの使う機械の槍として結実することになる。しかし、それはなお千年先の話である。
「僕たちは今回の戦いに必ず勝ちます」
行者はそう宣言した。
ロウワンや野伏が見れば『行者でもこんなに真剣な表情をするのか』と驚くぐらい、かの人らしくもない真摯な表情だった。
「いまの人類には多くの勇者たちがいる。そして、なによりも僕がいる。僕が必ず人類を勝たせてみせます」
その言葉に――。
マートルは不思議なものを見る表情になった。
「あなた……なにかかわった? 以前はそんな真面目な顔をしたり、言ったりしなかったはずだけど」
「人には謎がつきものですよ」
行者はそうはぐらかすと身を翻した。髪にさした自慢のかんざし飾りをシャラシャラ言わせながら歩きだした。
「さて。僕は少し夜風に当たってきます。ごきげんよう」
「ええ……」
と、マートルはやはり、歩き去る行者に向けて不思議そうな視線を投げかけていた。
島はすでに夜の闇に包まれていた。
ビーブの仲間たちが過ごす森の外。かつて、ロウワンが流れ着いた浜辺に立ち、行者は満天の星空を眺めていた。
「……無数の星々。かつて、高神によって世界が混沌と秩序にわけられたとき、秩序の世界から追いやられた混沌の神々。果たして、僕の故郷はあのなかのどこかにあるのか……」
行者は星空を見上げながらそう呟いた。
いったい、あのときからどれほどの時が立ったのか。
覚えきれないほどに永い時間。
そしてきっと、これからももっと永い時間がかかる。
それほどの永い時間がたっても忘れることのできない、忘れることを許されない罪。
その罪を犯したあのとき。
栄光と賞賛に包まれ、何不自由なく過ごしていたのだ。
その日までは。
一族きっての天才。
史上最高の七曜の空の使い手。
そんな、華やかな肩書きに彩られ、一族の未来を照らす輝かしい星として期待を一身に集めていた。
事実、それにふさわしいだけの才能を有していた。
誰よりも早く、誰よりも精緻に、七曜の空を操ることができた。まだほんの少年の時期に、長老たちの伝える最奥の秘術さえも身につけてのけたのだ。しかし――。
それゆえに才に溺れた。
己の力を過信し、できないことなどないとうぬぼれた。
その結果、禁断の領域に手を伸ばした。そして――。
かつてない巨大な空を呼び出してしまった。
行者の故郷は、その空に呑み込まれてこの世から消え去った。
行者はひとり、その光景を見つめていた。
見せつけられていた。
故郷と共に、そこに住む仲間たちとともに、巨大な空に吸い込まれることすらできずに。
忘れることのできない、忘れることを許されないその光景。
「子どもだった……」
どんなコーヒーよりも苦い思いを噛みしめながら行者は呟いた。
そう。本当にただの子どもだったのだ。
身の程知らず、怖い物知らずの無邪気な子ども。まわりから褒められ、チヤホヤされて、すっかり調子に乗った馬鹿な子ども。
だからこそ、取り返しのつかないことをしてしまった。
二度と晴れることのない罪を帯びてしまった。
その日からずっとずっと旅をつづけている。故郷を呑み込んだ空を見つけ出し、故郷をこの世界に取り戻す。そのために。
償い……などではない。
償いようのない罪だということはわかっている。しかし、だからこそ、やらなくてはならない。自分自身の過去に決着をつけるために。これから先、またどれほどの時がかかろうと。
「……本当に、ただの馬鹿な子どもだった。でも、驚いたね。僕と同じ馬鹿が他にもいたなんて。御しえないものを御せると信じ、うかつに手を出した。そして、解きはなってはいけないものを解きはなってしまった。パンゲアの教皇は僕と同じ過ちを犯した。放っておくわけにはいかない。同じ過ちを犯したものとして、僕がその過ちを正さなくてはならない」
中空にポツンと浮かぶ一点の染み。
なにものにも支えられることなく宙に浮く不思議な渦。
その渦が回転し、脈打ち、形をかえる。
まるで、水のなかでうごめくアメーバのように。
そんな呑気に観察していられたのもつかの間。宙に浮かぶ染みのような亡道の世界は、はじけたように膨張して一気に数百倍もの大きさに成長した。
そのまま際限なく拡大をつづけてこの世界、天命の世界を呑み込むかと思われた。その瞬間――。
亡道の世界の膨張に呼応するかのように機械音が響いた。
小さく低いモーター音。
電気で動く機械仕掛けのからくり。
モーター音が鳴り響き、機械仕掛けのからくりから目に見えないなにかの力が放射される。
その力が亡道の世界を捕えた。
膨張しようとする動きを押さえ込んだ。
しばしの間、ふたつの力は拮抗していた。
どこまでも広がろうとする亡道の世界の力と。
それを押さえ込もうとする機械の力。
やがて、亡道の世界がピクピクと脈打った。陸地にあげられ、渇きに苦しみ、断末魔の踊りを舞うアメーバのように。そして――。
すうっ、と、耳よりも目に届くような音を立てて亡道の世界は姿を消した。
その瞬間――。
「やったあっ!」
研究室のなかに、うら若き乙女の声が響いた。
元気と言うよりもやんちゃ。明るいと言うよりも脳天気。両腕を振りあげて跳びはね、床を踏みならす音を立てながらの歓喜の叫び。
「やった! 成功! 見事、亡道の世界を中和してやった! 見たか、科学大好き少女、セアラちゃんの実力!」
叫んだのは『もうひとつの輝き』の長メリッサの妹であり、不在の姉にかわって長代理を務めるセアラだった。
ハルキス島に作られた『もうひとつの輝き』の研究室でのことだった。
かつて、『もうひとつの輝き』の一員であったハルキスが弾圧を逃れてたどり着き、五〇〇年にわたって過ごした島。そして、いまだ『ただの少年』であった頃のロウワンが流れ着き、一年に及ぶ修行を重ね、きょうだい分たるビーブと出会った島。
その島はいま、現代の『もうひとつの輝き』によって研究室として使われている。
その研究室でいま、世界の運命を左右するであろう重大な実験が行われていた。天命の理によってではなく、科学の力によって亡道の世界を制御しようとの実験が。
「ふむ。大したものだね」
感心しているのか、からかっているのか、よくわからない声でそう言ったのは、溌剌として元気いっぱい、年頃の少女というよりはやんちゃな男の子のように見えるセアラとは対照的に、なんともなまめかしい色香を感じさせる妖しの少年、空狩りの行者だった。
その行者はいま、指先に小さな瓶をつまんでいる。それは千年前、騎士マークスが亡道の世界から持ち帰った、亡道の世界の一部を収めた瓶だった。
行者はその瓶を指先でクルクルまわしながら――もし、その瓶が床に落ちて割れでもしたらたちまち、なかから亡道の世界があふれ、この世界を呑み尽くすというのに――セアラに語りかけた。
「まさか、本当に科学の力で亡道の世界を中和できるなんて思わなかったよ。さすが、あのメリッサが『ある意味では自分以上』と認めただけのことはある逸材だね」
行者はそう言いながら妖しく片目など閉じてみせる。
そんな仕種がまたなんともなまめかしい。セアラのようなタイプには一生、学んでもとうてい出すことのできない耽美的な色香である。
そんな行者の色香もまだまだお子ちゃまなセアラには通じないらしい。褒められたことを無邪気に喜び、自慢そうに控えめな胸を反らした。
「ふふん」
とばかりに、鼻息荒く片目を閉じて――もちろんそこには、行者のような妖しい魅力は欠片もない――得意になって見せた。
「そりゃあね。姉さんがいない間、ボクが留守を任されたんだから。成果はきっちり出さないとね」
そう言って、ますます鼻息を荒くする。
どうやら、行者に褒められた点ではなく『メリッサが認めた』という点に喜んでいるらしい。姉大好きのセアラらしい反応だった。
そんなセアラであるが、ふいに真顔に戻った。
やんちゃな表情さえなければやはり、年頃の少女。それも、相当に美しい部類の少女だ。その大きな瞳にキラキラした好奇心を照らして行者に尋ねた。
「だけど、七曜の空だっけ? 行者の力も便利だよねえ。その瓶のなかには、亡道の世界がすっぽり入ってるんでしょう?」
「まあね」
行者は瓶をクルクルまわしながら答えた。
「見た目はこんな小さな瓶だけど、なかには無限の世界が広がっている。というより、この瓶そのものが亡道の世界につながる入り口となっている。そう言うべきなのかな。とにかく、この瓶のなかには亡道の世界がすっぽり入っている。扱いをまちがえれば、たちまち亡道の世界があふれ出して、この世界を呑み込んでしまう」
「そっかあ……」
と、セアラはかわいい唇に手を当てて呟いた。
口調は軽いが表情は真剣そのもの。姉メリッサと並んで当代屈指の天命の博士として、その事態の深刻さは理解できるし、姉に留守を任された身として、そんな事態は決して招けないとの責任感もある。
「だけど、ボクたちが亡道の世界に関して研究するためには、その瓶を使うしかない。亡道の世界を小出しにして、実験を繰り返すしかね。
本当、行者がいてくれてよかったよ。ボクたちだけじゃそんな制御はとてもできなかった。行者が七曜の空を使って、亡道の世界を制御してくれるから存分に実験ができる。ほんと、ありがとうね」
「どういたしまして」
行者はセアラから礼を言われて片目をつぶりながら答えてみせた。
その顔に浮かぶ笑顔は大抵の女性と、ある種の趣味の男たちをまとめて堕とすのに充分なものだった。
「見目麗しい乙女のためとあれば、いくらでも協力するよ」
「へへっー、ありがとね」
と、『見目麗しい乙女』と言われて恥じらうどころか、得意になるセアラであった。
「だけど、七曜の空も不思議だよねえ。どうしたらそんな力がもてるの? どういう原理?」
セアラは行者にグイグイと迫る、迫る。
身動きひとつできなくなった得物を狙う肉食獣というか、長年探し求めた研究対象をついに解剖する機会を得た学者のようにと言うか、とにかく尋常でない食いつきよう。好奇心丸出しの目で行者の全身をジロジロと見つめる。
こんな目付きで見られたらさすがに不気味になり、怖くもなろうといもの。
しかし、それはあくまでも普通の人間の場合。こんな目付きで見られても何事もないかのように笑みを浮かべて軽く受け流すふてぶてしさこそが、空狩りの行者という少年の売りである。
例によって例のごとく、片目を軽く閉じながら答えた。
「見目麗しき乙女の願いとあれば、いつ何時でもこの身を捧げる覚悟はあるよ」
「ほんと⁉ それじゃさっそく……」
と、いつの間にか両手にメスをもって行者に迫るセアラ。無邪気な表情で目をキラキラさせているのがなかなかに怖い。
そんなセアラの頭を、爽快なほどの音を立てて引っぱたいたものがいた。
「いい加減にしなさい、セアラ」
そう言ってセアラをにらみつけたのは、セアラよりも少しだけ背の高い女性。そろそろ中年と言ってもいい年頃だが顔立ちは充分に美しい。しかも、メリッサやセアラによく似ていた。実際にはメリッサとセアラがこの女性に似ているのだが。
その女性、マートルは両手を腰につけると『めっ!』とばかりにセアラをにらみつけた。それから、説教口調で言った。
「いまは、そんなことをしている場合ではないでしょう。そんなことは後回しにして、亡道の世界への対応策に集中なさい」
――『やめなさい』とは言わないんだね。
行者が内心でそう苦笑したのは『似たもの親子だ』と思ったからだった。
マートルこそはメリッサとセアラ、『もうひとつの輝き』を支える美人姉妹の生みの親だった。
「はあい」
と、セアラは叩かれた頭に手を当てながら答えた。その返事の仕方がまた、イタズラを叱られたやんちゃな男の子といった感じ。
セアラは大胆不敵に短いスカートの裾をヒラヒラさせながら研究のために自分の実験室に戻っていった。大抵の男はそのガードの緩すぎる裾の動きに目を奪われたことだろう。
あいにく、『僕はこの世の誰よりも美しい』と、本気かどうかはともかく公言してはばからない行者には通用しなかったようだけど。
はああ、と、そんな娘の様子を見ながらマートルはため息をついた。
「まったく。あの子もそろそろ年頃なのに、いつまでもあの調子で」
いつになったら女性らしくなるのか……。
と、ため息をつく様子はまぎれもなく、娘の将来を心配する母親の姿だった。
そんなマートルに対して行者は笑いかけた。例によって片目をつぶった妖しい笑顔。端から見れば口説いているようにしか見えない態度。マートルに夫がいたら少々――少々ではなく?――面倒なことになっていただろう。
「かの人は充分に魅力的ですよ。ああいう自分の魅力に自覚のない女子というのも良いものです。それに……」
と、行者はかの人にしては真面目そうな表情になって言った。
「才能は本物ですからね。まさか、本当に科学の力で亡道の世界を中和する技術を開発するとは思わなかった」
「確かに」
と、マートルもうなずいた。
平静を装ってはいても口元がひくついているあたりやはり、娘を褒められてニヤけてしまいそうになる親バカ振りは隠しきれていない。
「天命の博士としてはともかく、科学技術に関しては、わたしやメリッサでもかなわない勘をもっているから。あの子のおかげで、亡道の世界を中和する技術に目処がついた。この技術を使った道具を量産できれば、亡道の司との戦いに大きな力となることはまちがいないわ。ただ……」
マートルはそこまで言ってからため息をついた。
その視線の先には部屋ひとつを丸々、占拠する複雑怪奇な機械の塊と、それよりさらに何倍も大きい蒸気機関があった。
「あんなちっぽけな亡道を中和するために、こんな大きな機械が必要。しかも、その機械を動かすための電気を得るためには、家一件分よりも大きな蒸気機関が必要と言うんじゃあね。とても、実用的とは言えないわ。人ひとりがもてるぐらいにまで小型化し、蒸気機関よりもはるかに効率的な発電機関を開発して……正直、今回の戦いに間に合うとは思えないわ」
「大丈夫」
行者は片目を閉じて請け負った。
「今回の戦いに勝利すれば、人類とこの世界は千年の猶予を得られます。その間に実用化すればいいんですよ」
事実、このときにセアラの開発した技術は、のちに洗練され、実用化され、亡道の司と戦う兵士たちの使う機械の槍として結実することになる。しかし、それはなお千年先の話である。
「僕たちは今回の戦いに必ず勝ちます」
行者はそう宣言した。
ロウワンや野伏が見れば『行者でもこんなに真剣な表情をするのか』と驚くぐらい、かの人らしくもない真摯な表情だった。
「いまの人類には多くの勇者たちがいる。そして、なによりも僕がいる。僕が必ず人類を勝たせてみせます」
その言葉に――。
マートルは不思議なものを見る表情になった。
「あなた……なにかかわった? 以前はそんな真面目な顔をしたり、言ったりしなかったはずだけど」
「人には謎がつきものですよ」
行者はそうはぐらかすと身を翻した。髪にさした自慢のかんざし飾りをシャラシャラ言わせながら歩きだした。
「さて。僕は少し夜風に当たってきます。ごきげんよう」
「ええ……」
と、マートルはやはり、歩き去る行者に向けて不思議そうな視線を投げかけていた。
島はすでに夜の闇に包まれていた。
ビーブの仲間たちが過ごす森の外。かつて、ロウワンが流れ着いた浜辺に立ち、行者は満天の星空を眺めていた。
「……無数の星々。かつて、高神によって世界が混沌と秩序にわけられたとき、秩序の世界から追いやられた混沌の神々。果たして、僕の故郷はあのなかのどこかにあるのか……」
行者は星空を見上げながらそう呟いた。
いったい、あのときからどれほどの時が立ったのか。
覚えきれないほどに永い時間。
そしてきっと、これからももっと永い時間がかかる。
それほどの永い時間がたっても忘れることのできない、忘れることを許されない罪。
その罪を犯したあのとき。
栄光と賞賛に包まれ、何不自由なく過ごしていたのだ。
その日までは。
一族きっての天才。
史上最高の七曜の空の使い手。
そんな、華やかな肩書きに彩られ、一族の未来を照らす輝かしい星として期待を一身に集めていた。
事実、それにふさわしいだけの才能を有していた。
誰よりも早く、誰よりも精緻に、七曜の空を操ることができた。まだほんの少年の時期に、長老たちの伝える最奥の秘術さえも身につけてのけたのだ。しかし――。
それゆえに才に溺れた。
己の力を過信し、できないことなどないとうぬぼれた。
その結果、禁断の領域に手を伸ばした。そして――。
かつてない巨大な空を呼び出してしまった。
行者の故郷は、その空に呑み込まれてこの世から消え去った。
行者はひとり、その光景を見つめていた。
見せつけられていた。
故郷と共に、そこに住む仲間たちとともに、巨大な空に吸い込まれることすらできずに。
忘れることのできない、忘れることを許されないその光景。
「子どもだった……」
どんなコーヒーよりも苦い思いを噛みしめながら行者は呟いた。
そう。本当にただの子どもだったのだ。
身の程知らず、怖い物知らずの無邪気な子ども。まわりから褒められ、チヤホヤされて、すっかり調子に乗った馬鹿な子ども。
だからこそ、取り返しのつかないことをしてしまった。
二度と晴れることのない罪を帯びてしまった。
その日からずっとずっと旅をつづけている。故郷を呑み込んだ空を見つけ出し、故郷をこの世界に取り戻す。そのために。
償い……などではない。
償いようのない罪だということはわかっている。しかし、だからこそ、やらなくてはならない。自分自身の過去に決着をつけるために。これから先、またどれほどの時がかかろうと。
「……本当に、ただの馬鹿な子どもだった。でも、驚いたね。僕と同じ馬鹿が他にもいたなんて。御しえないものを御せると信じ、うかつに手を出した。そして、解きはなってはいけないものを解きはなってしまった。パンゲアの教皇は僕と同じ過ちを犯した。放っておくわけにはいかない。同じ過ちを犯したものとして、僕がその過ちを正さなくてはならない」
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貧乏大学生の探索者はダンジョンに潜り、全てを覆す。
~あらすじ~
世界に突如出現した異次元空間「ダンジョン」。
そこから産出される魔石は人類に無限のエネルギーをもたらし、アーティファクトは魔法の力を授けた。
しかし、その恩恵は平等ではなかった。
富と力はダンジョン利権を牛耳る企業と、「属性適性」という特別な才能を持つ「選ばれし者」たちに独占され、世界は新たな格差社会へと変貌していた。
そんな歪んだ現代日本で、及川翔は「無属性」という最底辺の烙印を押された青年だった。
彼には魔法の才能も、富も、未来への希望もない。
あるのは、両親を失った二年前のダンジョン氾濫で、原因不明の昏睡状態に陥った最愛の妹、美咲を救うという、ただ一つの願いだけだった。
妹を治すため、彼は最先端の「魔力生体学」を学ぶが、学費と治療費という冷酷な現実が彼の行く手を阻む。
希望と絶望の狭間で、翔に残された道はただ一つ――危険なダンジョンに潜り、泥臭く魔石を稼ぐこと。
英雄とも呼べるようなSランク探索者が脚光を浴びる華やかな世界とは裏腹に、翔は今日も一人、薄暗いダンジョンの奥へと足を踏み入れる。
これは、神に選ばれなかった「持たざる者」が、絶望的な現実にもがきながら、たった一つの希望を掴むために抗い、やがて世界の真実と向き合う、戦いの物語。
彼の「無属性」の力が、世界を揺るがす光となることを、彼はまだ知らない。
テンプレのダンジョン物を書いてみたくなり、手を出しました。
SF味が増してくるのは結構先の予定です。
スローペースですが、しっかりと世界観を楽しんでもらえる作品になってると思います。
良かったら読んでください!
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
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*この作品は「カクヨム」様にも投稿しています。
**週1(土曜日午後9時)の投稿を予定しています。**
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