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その七八
野性崩壊症候群
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今年もどうにかポポーの実がついた。
一花だけ。
それも、一個。
雌しべはふたつついていたのだが、ひとつはとれてしまった。残ったもう一本の雌しべだけがどうにかふくらみつつある。
去年も実がついたのは一花だけだったが、このときは三本の雌しべがそろって実ってくれた。つまり、今年は去年の三分の一の収量。
大激減である。
それも、今年は花の咲いた数そのものは去年よりもだいぶ多かったからなおさら悲しい。
だいたい、ポポーって受粉が理不尽にむずかしいんだよ。雄しべが成熟して花粉を出すようになる頃には、雌しべはすでに年取って受粉能力なくしてるわけでさあ。開花時期の異なる花が咲いていないといけない。すべての花が同時に咲こうものなら、たとえ花が何千個、咲こうとも実はひとつもつかないことになる。
しかも、堅い花びらが覆っているからなかなか雌しべの位置まで届かないしさあ。かと言って、乱暴に扱って花がとれることになってしまったら元も子もないし。
本当、こんな受粉しにくいことで、よくいままで野性の世界で生き残ってこられたものだと思う。
いや、もちろん、条件がちがうことは承知している。
野性状態では木が実をつけるのはあくまでも自分の子孫を残すため。自分が生きていられるならとくに子孫を残す必要もない。何十年、何百年という寿命をもつ木にしてみれば、その寿命の間に何本かの子どもが育ってくれればそれでいいわけで、人間が望むような大量の果実は最初からつける必要がない。となれば、受粉がむずかしくても別に問題にはならないのだろう。
そして、なにより――。
受粉昆虫の生息密度がちがう。
かつての、人類以前の世界には木から木へと飛びまわって受粉してまわる昆虫がそれこそ、無数に存在していたにちがいない。いまや、その影もなく、残されているものはかつての野性の残骸だけ。
蜂群崩壊症候群。
以前、そんな言葉が話題になったことがあった。
ある日突然、気がついてみると、ハチの巣箱が空っぽになっている。ハチの群れはどこへともなく忽然と姿を消してしまっている。
養蜂界を襲った突然のミステリー。
2006年には北半球で四分の一のミツバチが消えたという。
その原因は天敵のダニだとも、新しい農薬だとも言われていたが、姿を消していたのは人間の飼育下にあるミツバチだけではない。
野生の昆虫たちもまた、その姿を消していた。
しかも、だ。
『その辺の虫けら』になど誰も――昆虫学者でさえ――興味をもっていなかったので、どんな虫が、どれぐらい消えてしまったのか、誰にもわからない。
しかし、その『虫けら』たちこそが野性の要だ。
虫たちがいなくなれば、その虫を食べて生きている小型動物たちも生きていけなくなる。その小型動物を食べている中型動物、中型動物を食べている大型動物も順次、食糧を失い姿を消していくことになる。
植物食の動物たちも同様。受粉昆虫がいなくなれば多くの植物は実をつけることができなくなる。実をつけることができなくなれば植物はいずれ、滅びる。そして、その植物を食べて生きていた動物たちもまた……。
野性崩壊症候群。
そう呼ばれるべき事態が迫っている。
いや、場所によってはすでに起きている。
中国四川省では広大な梨園で何千人という労働者が受粉棒をもち、梨の花に受粉してまわっている。いなくなってしまった虫たちのかわりを人間がしているのだ。
ハワイの島々では、スズメガが消えてしまったためにブリグハミアと言う植物が受粉できなくなり、絶滅に瀕している。人間の植物学者が一花ひとはな受粉してまわり、どうにか命脈を保っている。
ヒマラヤ山脈のリンゴ園は失われた。せっかくリンゴ園を作ったのに、リンゴはまったく実をつけなかった。森をリンゴ園にしたとき、あたりから昆虫が消えたそうだ。
メキシコではバニラ農園の農民がやはり、自らの手で一花ひとはな受粉してまわっている。バニラの花には花粉を保護している蓋があるのだが、その蓋の開け方を知っている唯一の昆虫がいなくなってしまったので、もう誰も受粉してやることができない。人間がいちいち受粉してまわる以外、実をつけさせる方法はない。
すでに、野性は崩壊している。
いまは、かろうじてかつての野性の残骸が残っているに過ぎない。
やがては世界規模でその残骸すら失われることだろう。
そのとき、人類は思い知ることになる。
『その辺の虫けら』をないがしろにしてきたことの代償を。
そのとき、いったい、世界は、人類はどうなるのか。
とりあえず、来年はポポーの受粉方法をかえることにする。
参考文献
『ハチはなぜ大量死したのか』(ローワン・ジェイコブセン著 中里京子訳 福岡伸一解説 文藝春秋)
一花だけ。
それも、一個。
雌しべはふたつついていたのだが、ひとつはとれてしまった。残ったもう一本の雌しべだけがどうにかふくらみつつある。
去年も実がついたのは一花だけだったが、このときは三本の雌しべがそろって実ってくれた。つまり、今年は去年の三分の一の収量。
大激減である。
それも、今年は花の咲いた数そのものは去年よりもだいぶ多かったからなおさら悲しい。
だいたい、ポポーって受粉が理不尽にむずかしいんだよ。雄しべが成熟して花粉を出すようになる頃には、雌しべはすでに年取って受粉能力なくしてるわけでさあ。開花時期の異なる花が咲いていないといけない。すべての花が同時に咲こうものなら、たとえ花が何千個、咲こうとも実はひとつもつかないことになる。
しかも、堅い花びらが覆っているからなかなか雌しべの位置まで届かないしさあ。かと言って、乱暴に扱って花がとれることになってしまったら元も子もないし。
本当、こんな受粉しにくいことで、よくいままで野性の世界で生き残ってこられたものだと思う。
いや、もちろん、条件がちがうことは承知している。
野性状態では木が実をつけるのはあくまでも自分の子孫を残すため。自分が生きていられるならとくに子孫を残す必要もない。何十年、何百年という寿命をもつ木にしてみれば、その寿命の間に何本かの子どもが育ってくれればそれでいいわけで、人間が望むような大量の果実は最初からつける必要がない。となれば、受粉がむずかしくても別に問題にはならないのだろう。
そして、なにより――。
受粉昆虫の生息密度がちがう。
かつての、人類以前の世界には木から木へと飛びまわって受粉してまわる昆虫がそれこそ、無数に存在していたにちがいない。いまや、その影もなく、残されているものはかつての野性の残骸だけ。
蜂群崩壊症候群。
以前、そんな言葉が話題になったことがあった。
ある日突然、気がついてみると、ハチの巣箱が空っぽになっている。ハチの群れはどこへともなく忽然と姿を消してしまっている。
養蜂界を襲った突然のミステリー。
2006年には北半球で四分の一のミツバチが消えたという。
その原因は天敵のダニだとも、新しい農薬だとも言われていたが、姿を消していたのは人間の飼育下にあるミツバチだけではない。
野生の昆虫たちもまた、その姿を消していた。
しかも、だ。
『その辺の虫けら』になど誰も――昆虫学者でさえ――興味をもっていなかったので、どんな虫が、どれぐらい消えてしまったのか、誰にもわからない。
しかし、その『虫けら』たちこそが野性の要だ。
虫たちがいなくなれば、その虫を食べて生きている小型動物たちも生きていけなくなる。その小型動物を食べている中型動物、中型動物を食べている大型動物も順次、食糧を失い姿を消していくことになる。
植物食の動物たちも同様。受粉昆虫がいなくなれば多くの植物は実をつけることができなくなる。実をつけることができなくなれば植物はいずれ、滅びる。そして、その植物を食べて生きていた動物たちもまた……。
野性崩壊症候群。
そう呼ばれるべき事態が迫っている。
いや、場所によってはすでに起きている。
中国四川省では広大な梨園で何千人という労働者が受粉棒をもち、梨の花に受粉してまわっている。いなくなってしまった虫たちのかわりを人間がしているのだ。
ハワイの島々では、スズメガが消えてしまったためにブリグハミアと言う植物が受粉できなくなり、絶滅に瀕している。人間の植物学者が一花ひとはな受粉してまわり、どうにか命脈を保っている。
ヒマラヤ山脈のリンゴ園は失われた。せっかくリンゴ園を作ったのに、リンゴはまったく実をつけなかった。森をリンゴ園にしたとき、あたりから昆虫が消えたそうだ。
メキシコではバニラ農園の農民がやはり、自らの手で一花ひとはな受粉してまわっている。バニラの花には花粉を保護している蓋があるのだが、その蓋の開け方を知っている唯一の昆虫がいなくなってしまったので、もう誰も受粉してやることができない。人間がいちいち受粉してまわる以外、実をつけさせる方法はない。
すでに、野性は崩壊している。
いまは、かろうじてかつての野性の残骸が残っているに過ぎない。
やがては世界規模でその残骸すら失われることだろう。
そのとき、人類は思い知ることになる。
『その辺の虫けら』をないがしろにしてきたことの代償を。
そのとき、いったい、世界は、人類はどうなるのか。
とりあえず、来年はポポーの受粉方法をかえることにする。
参考文献
『ハチはなぜ大量死したのか』(ローワン・ジェイコブセン著 中里京子訳 福岡伸一解説 文藝春秋)
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