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四章
ひとり ひとり! ひとり‼
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真梨子の指先が枕脇においてあった本にふれた。真梨子は本を手にとった。仰むけになった。本を両手で掲げ、まじまじと見つめた。
森山鴻志『ヒト物語』。
作者の森山鴻志は数年前にデビューしたばかり。デビュー二作目『時の相転移』は、その壮大かつ斬新な宇宙観が世界中のSFファンを仰天させ、たちまちのうちにベストセラー作家となった。
何よりも人々を驚かせたのは森山鴻志がほとんど学校にもいかなかった引きこもりの青年だったこと。方々で語られている森山鴻志の生涯はなかなかにすさまじい。
何しろ、生まれついての完全な社会不適応者。幼稚園の頃からまったくなじめず、小学校、中学校とほとんど通わず、定時制の高校に進んだはいいが、それも中退。その後の長い引きこもり生活のなかで本を読み、図書館に通いつめ、知識を増やし、物語を書きつづけては新人賞に応募し、落選しつづけ、そして、三〇代になってようやく作家として成功……。
鴻志の語る子供時代は悲惨の一語に尽きる。幼稚園の頃は毎日のように泣き叫んでいやがるのを無理やり腕を引かれ、連れていかれ、教室ではがちがちに緊張してろくにしゃべることもできず、小便をもらしてはズボンを濡らしていた。
大便をもらすこともしょっちゅうで、ズボンからはみ出した便をハンカチでふきとってニワトリに食べさせていたとか、パンツとズボンを洗うためにトイレに連れていかれ、下半身丸出しで個室にこもっているところを他の生徒たちがのぞきに訪れ、開けようとするのを泣きべそをかきながら必死にドアを押さえていたとか、そんなエピソードを読んだときには気分が悪くなって、吐きそうになったものだ。
両親は鴻志を何とか学校に行かせようと半狂乱になった。抵抗できない小さな子供を殴りつけ、立てなくなるまで説教し、物置にとじこめ、布団蒸しにした。
『子供の頃は毎日がホラー映画の主人公気分だった。ただでホラー映画の気分を実際に味わえたのだから得をしたとも言える。おかげでいまだにホラー映画が見られないのは困ったものだが』
と、鴻志は書いている。
何とか行かせようと親がタクシーを呼んだこともある。無理やりタクシーに押しこめようとした親に対し、鴻志は全身で泣きわめき、抵抗した。結局、その暴れ方にタクシーに乗せることをあきらめ、そのまま帰すことになった。
『……あのタクシーの運転手には本当に悪いことをしたと思う。朝っぱらからいやなものを見せてしまった。そのせいで事故など起こしていなければいいのだが。できることならひとこと謝りたいものである』
本当に怖い思いをするのはむしろ、このような乾いたユーモアにふれたときだ。何か、異次元めいた感触がある。子供時代のつらい体験が人間性をねじ曲げてしまったのではないかと思うのだ。
そんな子供時代の果ての一〇数年の引きこもり生活。そんな人間が突如として、世界中の誰も思いつけなかった革命的な宇宙論をひっさげて登場したのだからその衝撃は大変なものだった。
『時の相転移』以降も作品は爆発的に売れつづけ、映画化もされた。一文無しの引きこもり青年が一夜にして希代の成功者となった。かくして森山鴻志は『ハリー・ポッター』シリーズのJ・K・ローリングと並ぶ現代の神話となった。
『ヒト物語』シリーズはその森山鴻志の代表作。彼独自の解釈で描かれるヒト科生物の進化の歴史をつづる冒険SFファンタジー。
物語はアフリカの片隅で二足歩行の生物が産声をあげたところからはじまる。世界への拡散、文明の創造へといたり、最終的には宇宙に飛び出して行くところで終わる、と噂されている。
『人は闘争ではなく、協調と愛他心に支えられて進化してきた』とする視点で描かれる人類の姿は決して力強くも美しくもないけれど、けなげで、誠実で、読んでいると生きる勇気がわいてくる。人間が好きになれるような気がする。そこに描かれる世界、人々の姿こそ、真梨子が『こんな世界を作る手助けをしたい!』と心から願う世界そのものだった。
たまたま立ちよった本屋で偶然見つけ、何気なく立ち読みし、その姿にふれた途端、雷に打たれたような衝撃を受けた。すぐさまレジに走り、本を買い、家に飛んで帰ってむさぼるように読んだ。そのとき、真梨子にとっての生涯最大の愛読書が誕生した。いまでは『ヒト物語』を読むことで何とか消え入りそうな情熱をかき立てている。
真梨子は表紙に見上げながらため息をついた。
「……結局、こんな世界はファンタジーでしかないのかなあ?」
真梨子はある歌を小さく口ずさみはじめた。
森のなか湯気を立てるシチュー鍋をみんなで囲めば
ほおら 幸せのときがはじまる
物語語り 歌を唄い 笑いかわして
相手の存在喜び 自分の存在喜ばれて
ゆったりと過ごそう
すべてはそのひとときを得るために
狩りをしたいから狩りをするわけじゃない
そお この場に戦う勇気なんていらない
幸せ感じる心だけがあればいい
森のなか湯気を立てるシチューをみんなで食べて
日ざしを浴びながら横になろう
物語語り 歌を唄い 笑いかわして
相手の存在喜び 自分の存在喜ばれて
ゆったりと過ごそう
すべてはそのひとときを得るために
狩りをしたいから狩りをするわけじゃない
それは『ヒト物語』において先史時代の狩人たちが焚き火を囲んで歌う歌。日が沈み、一日が終わった後、森のなかで集まり、今日を生き延びた喜びを、また仲間に出会えた喜びを共に歌い、共に味わうための歌。人間にとっての『幸せの原形』がたっぷりとつまった歌。
口ずさんでいるうちに胸のなかにさびしい思いがふくれ上がった。涙がこぼれ落ちた。枕に突っ伏した。
「……あたしには一緒にシチュー鍋を囲む相手なんかいない。自分の存在を喜んでくれる人も、相手の存在を喜べる人もいない……」
自分は人生の選択をまちがったのだ。
その思いが胸のなかいっぱいに広がり、真梨子は泣きつづけた。
森山鴻志『ヒト物語』。
作者の森山鴻志は数年前にデビューしたばかり。デビュー二作目『時の相転移』は、その壮大かつ斬新な宇宙観が世界中のSFファンを仰天させ、たちまちのうちにベストセラー作家となった。
何よりも人々を驚かせたのは森山鴻志がほとんど学校にもいかなかった引きこもりの青年だったこと。方々で語られている森山鴻志の生涯はなかなかにすさまじい。
何しろ、生まれついての完全な社会不適応者。幼稚園の頃からまったくなじめず、小学校、中学校とほとんど通わず、定時制の高校に進んだはいいが、それも中退。その後の長い引きこもり生活のなかで本を読み、図書館に通いつめ、知識を増やし、物語を書きつづけては新人賞に応募し、落選しつづけ、そして、三〇代になってようやく作家として成功……。
鴻志の語る子供時代は悲惨の一語に尽きる。幼稚園の頃は毎日のように泣き叫んでいやがるのを無理やり腕を引かれ、連れていかれ、教室ではがちがちに緊張してろくにしゃべることもできず、小便をもらしてはズボンを濡らしていた。
大便をもらすこともしょっちゅうで、ズボンからはみ出した便をハンカチでふきとってニワトリに食べさせていたとか、パンツとズボンを洗うためにトイレに連れていかれ、下半身丸出しで個室にこもっているところを他の生徒たちがのぞきに訪れ、開けようとするのを泣きべそをかきながら必死にドアを押さえていたとか、そんなエピソードを読んだときには気分が悪くなって、吐きそうになったものだ。
両親は鴻志を何とか学校に行かせようと半狂乱になった。抵抗できない小さな子供を殴りつけ、立てなくなるまで説教し、物置にとじこめ、布団蒸しにした。
『子供の頃は毎日がホラー映画の主人公気分だった。ただでホラー映画の気分を実際に味わえたのだから得をしたとも言える。おかげでいまだにホラー映画が見られないのは困ったものだが』
と、鴻志は書いている。
何とか行かせようと親がタクシーを呼んだこともある。無理やりタクシーに押しこめようとした親に対し、鴻志は全身で泣きわめき、抵抗した。結局、その暴れ方にタクシーに乗せることをあきらめ、そのまま帰すことになった。
『……あのタクシーの運転手には本当に悪いことをしたと思う。朝っぱらからいやなものを見せてしまった。そのせいで事故など起こしていなければいいのだが。できることならひとこと謝りたいものである』
本当に怖い思いをするのはむしろ、このような乾いたユーモアにふれたときだ。何か、異次元めいた感触がある。子供時代のつらい体験が人間性をねじ曲げてしまったのではないかと思うのだ。
そんな子供時代の果ての一〇数年の引きこもり生活。そんな人間が突如として、世界中の誰も思いつけなかった革命的な宇宙論をひっさげて登場したのだからその衝撃は大変なものだった。
『時の相転移』以降も作品は爆発的に売れつづけ、映画化もされた。一文無しの引きこもり青年が一夜にして希代の成功者となった。かくして森山鴻志は『ハリー・ポッター』シリーズのJ・K・ローリングと並ぶ現代の神話となった。
『ヒト物語』シリーズはその森山鴻志の代表作。彼独自の解釈で描かれるヒト科生物の進化の歴史をつづる冒険SFファンタジー。
物語はアフリカの片隅で二足歩行の生物が産声をあげたところからはじまる。世界への拡散、文明の創造へといたり、最終的には宇宙に飛び出して行くところで終わる、と噂されている。
『人は闘争ではなく、協調と愛他心に支えられて進化してきた』とする視点で描かれる人類の姿は決して力強くも美しくもないけれど、けなげで、誠実で、読んでいると生きる勇気がわいてくる。人間が好きになれるような気がする。そこに描かれる世界、人々の姿こそ、真梨子が『こんな世界を作る手助けをしたい!』と心から願う世界そのものだった。
たまたま立ちよった本屋で偶然見つけ、何気なく立ち読みし、その姿にふれた途端、雷に打たれたような衝撃を受けた。すぐさまレジに走り、本を買い、家に飛んで帰ってむさぼるように読んだ。そのとき、真梨子にとっての生涯最大の愛読書が誕生した。いまでは『ヒト物語』を読むことで何とか消え入りそうな情熱をかき立てている。
真梨子は表紙に見上げながらため息をついた。
「……結局、こんな世界はファンタジーでしかないのかなあ?」
真梨子はある歌を小さく口ずさみはじめた。
森のなか湯気を立てるシチュー鍋をみんなで囲めば
ほおら 幸せのときがはじまる
物語語り 歌を唄い 笑いかわして
相手の存在喜び 自分の存在喜ばれて
ゆったりと過ごそう
すべてはそのひとときを得るために
狩りをしたいから狩りをするわけじゃない
そお この場に戦う勇気なんていらない
幸せ感じる心だけがあればいい
森のなか湯気を立てるシチューをみんなで食べて
日ざしを浴びながら横になろう
物語語り 歌を唄い 笑いかわして
相手の存在喜び 自分の存在喜ばれて
ゆったりと過ごそう
すべてはそのひとときを得るために
狩りをしたいから狩りをするわけじゃない
それは『ヒト物語』において先史時代の狩人たちが焚き火を囲んで歌う歌。日が沈み、一日が終わった後、森のなかで集まり、今日を生き延びた喜びを、また仲間に出会えた喜びを共に歌い、共に味わうための歌。人間にとっての『幸せの原形』がたっぷりとつまった歌。
口ずさんでいるうちに胸のなかにさびしい思いがふくれ上がった。涙がこぼれ落ちた。枕に突っ伏した。
「……あたしには一緒にシチュー鍋を囲む相手なんかいない。自分の存在を喜んでくれる人も、相手の存在を喜べる人もいない……」
自分は人生の選択をまちがったのだ。
その思いが胸のなかいっぱいに広がり、真梨子は泣きつづけた。
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