三〇代、独身、子なし、非美女弁護士。転生し(たつもりになっ)て、人生再始動!

藍条森也

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三章

……ああ、人生間違えた

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 真梨子はバーのカウンターでひとり、ブランデーのグラスを傾けていた。一口飲むたびに喉が焼けるように熱くなる。必死に飲み込んでは大きな息を吐く。
 酒が好きなわけではない。かなり弱いほうだ。大学時代は友人たちに飲まされるたびにひっくり返って笑われたものだ。できれば飲みたくなんかない。でも、飲まなければいられないとはまさにこのこと。酒の力でも借りなければとてもではないが日々の憂さを晴らせない。いっそ、べろべろのアル中になって病院の厚い壁のなかにとじこもりたい気分。
 ――わけがわからなくなるまで酔っぱらって車に跳ねとばされるならそれもいいかもね……。
 酒に濁った眼で店内を見渡した。腹の立つことにカップルの姿がやけに目につく。しかも、みんな、自分より若く見える。これってどういうこと? 神さまって三〇を過ぎた女は恋愛候補から外しちゃうわけ? どいつもこいつも差し向かいで座ってグラスを傾けながら相手の顔なんか見つめちゃって。チョコレート・ソースより甘い匂いが漂ってきてそれだけで胸焼けしそう……。
 やたらとにぎやかな声がして若い女の集団が入ってきた。大学生だろうか。やたらとはなやかな服装で笑い声も頭が痛くなるくらい楽しそう。最近ようやく、数年つづいた自粛ムードも和らいできて、制限なしに楽しめるようになった反動だろう。脳天から突き抜けるような『楽しもうオーラ』が満開だ。
 ――はあ、これからはまた、こんな極楽とんぼたちを目の当たりにさせられるのね。
 自粛、自粛の頃はよかった。誰も彼も家のなかにおとなしく閉じこもり、行く先々でリア充ぶりを見せつけられる心配はなかった。休みの日に女ひとり、家に籠もって小説など読んでいても『残念な女』扱いされることはなかった。でも、このまま自粛ムードが緩んでいけば、またあの日々が戻ってくる。幸せいっぱいのカップル姿を見せつけられ、母親からは『家にばかり籠もってないで、早く旦那さまを見つけなさい』と言われる日々が。そんなことになるぐらいならずっと、自粛ムードがつづいてくれていたらよかったのに……。
 ――いけない、いけない。
 そこまで思って真梨子は思い直した。かぶりを振った。
 ――自粛ムードのせいで大変な思いをした人がたくさんいるんだもの。そんなこと思っちゃいけないわよね。
 そう思い直し、騒がしい女たちの様う子をこっそりうかがった。
 女たちは真梨子の横のカウンターを占拠すると盛大に注文をはじめた。辺りをはばからない大声で笑い、お喋りしている。こっそり聞き耳を立てるまでもなく聞こえてきたところによると、そのうちのひとりが明日、結婚するらしい。独身お別れパーティーで盛り上がっているというわけだ。
 真梨子はちらちらと横目で盗み見た。真ん中でみんなから声をかけられているのがとうの花嫁らしい。柔らかそうな髪が肩にかかった女の子。友だちから祝福されて浮かべる笑顔はまさに『幸せそのもの』といった感じ。
 たしかにかわいい。でも、どう見たってまだまだ子供。もしかして二〇にもなってないんじゃない? あんなお子ちゃまが結婚するっていうのにあたしときたら……。
 こうしてバーでひとり、酒を飲んでいても誰も声をかけてくれない。もっとも、かけられたって気の聞いた会話ひとつできないけれど。
 ――そもそも、ナンパするような男ってどうなのよ。
 その手の男にはどうにも嫌悪感がある。偏見かも知れないし、女友達からは『そんなこと気にしてるからいつまでたってもひとりなのよ。声をかけてくる男はどんどん利用しなくっちゃ』なんて言われるけど、それでもやっぱり、ナンパ男には抵抗がある。とは言え――。
 ――前にデートしたのっていつだっけ?
 もう昔過ぎて覚えていない。一度もなかったような気さえする。贅沢を言っているつもりはない。誠実で、思いやりがあって、嘘をつかない。そんな人なら誰でもいいのに。もしかしてこれって、その辺の川でニホンカワウソを探すようなもの?
 すぐとなりでは独身お別れパーティーのはなやかな声がつづいている。とても、自分と同じ地球産の女とは思えない。この幸せいっぱい攻撃には耐えられない。真梨子は立ち上がると背中を向けたまま店を出た。『負け犬』となじる自分自身の声を聞きながら。
 店は出たもののとてもそのまま帰る気にはなれなかった。落ち込んだままバーをはしごした。三件目でようやく男に声をかけられた。ブラウンのスーツに身を包んだ三二、三の男。慣れた態度で横に座り、カウンターに方肘をかけて話しかけてきた。決していい男ではないけれど、遊びなれている様子。もう一方の手がなれなれしく背中などをさわってくる。
 「何だかずいぶん荒れてるみたいだね? 何かあった?」
 自分では魅力的と信じているらしい下心丸出しの笑顔で男が聞いてきた。
 「仕事でちょっとね」
 「わかるよ。僕も仕事ではさんざんいやな目にあってるからね。でも、そんなことでめげてたら人生つとまらないさ。明るく、あかるく。それでなんの仕事?」
 「弁護士」
 そう答えた瞬間、男の表情がかわった。なれなれしさが消え、引きつったようになった。それから困ったような表情になり、あわててスーツの内ポケットを探りはじめた。携帯を取り出し、わざとらしくひとり喋りをはじめる。
 「あっー、なんだよ、急に? えっ? あれ今日だっけ。悪い、わるい、忘れてた。あっ、君、悪いけど急な仕事でね。これで失礼するよ。また会えるといいね。それじゃ」
 などと洪水のような勢いで言うと、そそくさと店を出ていった。真梨子はその後ろ姿を見送りながら呟いた。
 「……ほら、これだ」
 男はみんな同じ。弁護士と聞くとすぐに逃げ出す。とりたてて美人でも、巨乳でもなく、学歴だけが取り柄の三〇女なんて男は相手にしない。
 『男は弁護士となんかヤリたくないの。スチュワーデスがいいのよ』とは、まさに至言だ。
 自分もスチュワーデスになっていれば少しはちがった人生があったのだろうか。でも、弁護士は自分で選んだ道だ。
 『やめときなさい。男は頭のいい女なんて大きらいなの。弁護士なんかなったら結婚できないわよ』
 と、母親にはさんざん反対されたけど、それも押し切った。結婚なんかできなくてもいい。その頃はそう思っていた。恋愛なんかより大切なことがあると思っていたから。でも、その思いはどこにいってしまったんだろう?
 真梨子は立ち上がった。店を出た。ひとり暮らしのアパートに帰る時刻を、酒を飲んで遅らせている自分がさすがにみじめになった。
 電車を乗り継ぎ、アパートに帰った。鍵を開け、静まり返った真っ暗な部屋のなかに入った。最近はこの瞬間に泣きたくなる。いっそ、電気をつけたまま出勤しようか。そう思ってそれがあまりにみじめな発想であることに気づいて落ち込んだ。
 ――ネコでも飼ってみようか。
 最近ではそんなことも思っている。たとえ一人暮らしでも、かわいいネコが帰りを向かえてくれて足もとに身をすりすりしてくれればかなり気もまぎれそうな気がする。でも、ネコを飼ったら最後、『一人暮らしのアパートでネコに見取られて死ぬ』という将来が決定してしまいそうで決心がつかずにいる。ほんとにどうしたらいいんだろ?
 電気をつけ、部屋に上がった。習慣的に留守番電話を再生した。飛び込んできたのはこれだけは聞きたくないと思っていた声だった。彼女の人生最大の恩人、つまりは母親の声である。
 何時でもいいから帰ったらすぐ電話するよう、かなきり声で告げている。真梨子はうんざりした。電話すれば何を言われるかはわかりすぎるくらいわかっている。またも交友関係を根掘り葉掘り聞かれ、『どこで育て方をまちがったのかしら』と、ため息交じりの愚痴を聞かされるのだ。
 そんな思いをするために電話などしたくない。電話とはもっと有意義な目的のために発明されたもののはずだ。とはいえ、子供としての義理がある。返事をしないわけにはいかない。第一、電話をかけずにいれば一日に何度でもかけてくる。一度、電話をかければ三日は開放される……。
 いやなことはとっととすませよう。真梨子は受話器をとると、ボタンを押した。思った通り、母親はすぐに出た。いつも思うのだけど、電話の前にテーブルでもおいてお茶を飲みながら待ちうけているのだろうか、彼女は? 受話器の向こうから延々と分かりきった言葉が流れてくる。
 「はいはい、おっしゃる通りですわよ、お母さま。はい、ごもっとも。ええ、酔っていますとも。それがなに? あたしは立派なおとなで社会人よ。自分で稼いだお給料で飲み歩いてなにが悪いの? この瞬間のために心をすててガマガエルなセクハラおやじの弁護までしてるのよ。楽しまなくっちゃ。孫? 何言ってるの、母さん。あたしはまだ三〇代よ。今時三〇代なんてまだまだ青春真っ最中。結婚も子供も早すぎるわよ。母さんだってまだ五〇そこそこでしょ。赤ん坊が欲しいなら自分で産んだら? はい、それじゃそういうことでまた三日後」
 真梨子は強引に会話を打ち切った。受話器を置いた途端、どおんと音を立てて自己嫌悪の波が押しよせてきた。
 何もあんな投げやりでつっけんどんな態度をとることはない。相手は仮にも自分を産んでくれた母親ではないか。いくら苛立っていると言ってもあんな風にあたってしまうなんて……。
 自分の情けなさに涙がにじむ。子泣きじじいを背負った、というより、自分自身が子泣きじじいになった気分。どんどん体が重くなる。石になったような体を無理やり引きずり、寝室に向かう。
 着替える気力もないままベッドの上に倒れ込んだ。寝返りを打ってうつ伏せになると、枕を抱きしめ、頬を押しつけた。
 「……なんで、こんな人生になっちゃったんだろ?」
 そう呟かずにいられない。情けないことに涙がにじんでくる。
 弁護士は子供の頃からの夢だった。苦しめられている人たちをひとりでもいいから救いたくて。救うというのが傲慢なら力になりたい。そう思って、ずっと弁護士を目指してきた。とくに頭がいいわけではないから弁護士になるためには人の二倍も、三倍も勉強しなくてはならなかった。ファッションを気にしたり、デートしたりする時間なんてまるでなかった。クラスの女の子たちが誰とどうしたという話を聞きながら勉強に励んだ。あきれられたがそれでいいと思っていた。『虐げられている人たちを救うんだ』という理想と情熱に燃えていたから。
 その甲斐あって司法試験もなんとか合格。一年に五万人もの弁護士が誕生しているアメリカとちがい、日本で弁護士資格を得るのは大変なこと。おそらく日本で一番難しい資格だろう。真梨子の同期にも何浪もした挙句、とうとう弁護士になることをあきらめた人が何人もいる。そんな難関を突破したのだから誇りに思ってもいいだろう。そのときには『自分はまちがっていなかった!』という喜びに胸がふるえたものだ。前途への希望でいっぱいだった。
 でも、弁護士になって八年もたてば理想と現実のちがいも思い知らされる。弁護士事務所にやってくるのは真梨子が救いたいと望んだような人たちではなかった。自分の都合のために法律を利用しようとするしたたかな小悪党ばかりだった。
 真梨子が救いたいと望んだような人たちはそもそも裁判など起こさない。いや、起こせない。裁判で戦うには資金と勇気が必要だ。本当に苦しんでいる人たちはそもそも戦うための資金などないし、戦う勇気すら奪われているのだ、ということに気がついたのは弁護士として働きはじめて数年たってからのことだった。
 ――そんなことにも気づかなかったなんて、なんてバカだったんだろう。
 つくづくとそう思う真梨子だった。
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