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二章
本当に引き裂きたいのはあいつ(っていうか、自分⁉)!
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「いやあ、ほんとにめでたい。あんたは腕のいい弁護士だよ」
真梨子を現実に引き戻したのは脂ぎったガマガエルの脳天気な声だった。あいかわらず真梨子の手を上下に激しく揺さぶりながら片手で肩を強く叩きはじめた。真梨子はこらえ切れずに顔をしかめた。
重々しい体型通り、力はある。しかも、遠慮するということがない。かなり痛い。祝福されているというより殴られているよう。肩にかけられる手の重さが首にはめられた頸木の重さのような気がして、真梨子は腹の底からムカムカしてきた。
「これであの小娘も身の程を知ったろう。いやあ、いい気分だ。それにしてもあんたは気に入ったよ。また何かあったら頼むよ。報酬ははずむからね」
真梨子の気も知らず依頼人はあくまでも上機嫌。『少しは相手の表情から気持ちを汲み取れないのかしら』と、真梨子は思ったが、すぐに思いなおした。そもそも、女に意志があるなどと思ったこともないような男だ。そんな繊細さを求めるのは真夏に雪が降って涼しくしてくれることを望むのと同じくらい無理なぜいたくだ。
「……どうも。何かあれば力になります」
真梨子はひきつった笑顔を浮かべながら半ば無意識にそう言っていた。この八年間の弁護士家業で身についた心なしの営業態度。こんなときにも出てしまう自分に気がついて真梨子は本気で自分がきらいになった。
依頼人は上機嫌のまま島村にあいさつして帰っていった。島村はぺこぺこというより、へこへこしながら見送った。その態度たるやまるで水飲み鳥。依頼人の靴の跡にまでキスしかねないぐらいだった。もっとも、島村武雄のこと。そう言われれば胸を張って答えるにちがいない。
『それで金になるなら、いくらだってキスしてやるさ』
真梨子はさすがに腹を立てた。このときばかりは雇い主と雇われ人という関係を忘れ、眉を吊り上げてつめよった。
「所長! 何だってあんな男にそこまで下手に出るんです⁉ 相手の弱みに付け込んでセクハラしまくってる野蛮人なんですよ!」
「その野蛮人の弁護をしたのは君だろ?」
「誰の命令ですか⁉ プライドとか倫理とかいうものはないのかと聞いているんです!」
意外なことに島村は傷ついたように顔をしかめて見せた。
「心外だな。おれのことをそんな風に見ていたなんて。八年間も一緒に仕事していたのに悲しいぞ。おれはまちがったってあんなやつに頭を下げたりはしない」
「下げまくりじゃないですか!」
「おれはあの男に頭を下げているんじゃない。金に頭を下げているんだ」
胸を反らしてそう言い放ったのはいっそあっぱれだった。
真梨子は一瞬、絶句した。言い返そうとした言葉がとまって口がOの字に開いたまま停止した。何とか気を取りなおして叫んだ。
「金のことしか頭にないんですか!」
「いつも金、金と言ってるからそう思えるだろうな。でも、あの男は今後とも大きな金ヅルになってくれるんだ。逃がせるか」
――あたしがバカだった……。
真梨子はワインの瓶底にたまった澱のような疲労感とともにそう思った。島村が人間性のかけらもない金の亡者であることぐらい、入社して三日で思い知らされたはずではなかったか。それなのにいまさら人間相手にするように怒ってみせるなんて……ああ、あたしってほんとバカ!
「まあ、それはそうと、今回は本当によくやってくれたよ。おかげで報酬もたんまりだ」
金の亡者な島村はそれにふさわしいほくほく顔で言った。真梨子の気持ちなんてまるでおかまいなし。この世にはもう他人の気持ちを思いやる人間なんてひとりもいないの? 深刻にそう悩む真梨子であった。
「向こうも君が気に入ってくれたよ。今度も君に頼むってさ。これからは君が彼の選任弁護士だ。金ヅルを逃がさないようよろしく頼むよ」
真梨子は今度という今度は心臓がとまったかと思った。口と両目で三つの丸を作った。頭のなかは真っ白になり、まわりは時がとまったかのよう。
――冗談じゃないわ!
思いきり叫んだつもりがショックのあまり、声が喉から先に出ていかない。
――何であたしがこれ以上、セクハラ男の味方をしなくちゃいけないのよ! そんなの理不尽すぎるわ、今回だけでももう耐えがたいっていうのに二度も三度もできるわけないじゃない!
「いやです! もうあんな人の弁護なんか二度としません」
「またまた。心配しなくても感謝の気持ちはちゃんと形にして現すって」
「誰がそんなこと言いました⁉ あたしはこんな仕事をするために弁護士になったんじゃないんです」
「じゃあ、どんな仕事がしたかったわけ?」
「そりゃあ……世の中の苦しんでいる人たちの少しでも助けになれればって……」
言っているうちに頬が赤くなっていくのを感じる。昔は目をきらきらさせて堂々と言えたはずなのに。『人助けをしたい』と口にすることが気恥しいことになったのはいつからだろう?
島村はおどけた調子で肩をすくめながら答えた。
「苦しんでいるのは金がないから。金がなければおれたちに生活費も払ってくれない。大切なのは日々の米代を払ってくれるお客さま。もういいおとななんだからそれぐらいわきまえな。現実第一、前向きに」
言いたいことを言いたいように言うと島村は真梨子の前から去っていった。後に残された真梨子はもう限界。頭のなかでは脳細胞が沸騰し、溶岩のように泡立っている。
オリンピックに出場するスプリンターのような勢いで駆け出すと、トイレに飛び込み、トイレットペーパーをむちゃくちゃに引き裂き、思いきり床にぶちまけた。
真梨子を現実に引き戻したのは脂ぎったガマガエルの脳天気な声だった。あいかわらず真梨子の手を上下に激しく揺さぶりながら片手で肩を強く叩きはじめた。真梨子はこらえ切れずに顔をしかめた。
重々しい体型通り、力はある。しかも、遠慮するということがない。かなり痛い。祝福されているというより殴られているよう。肩にかけられる手の重さが首にはめられた頸木の重さのような気がして、真梨子は腹の底からムカムカしてきた。
「これであの小娘も身の程を知ったろう。いやあ、いい気分だ。それにしてもあんたは気に入ったよ。また何かあったら頼むよ。報酬ははずむからね」
真梨子の気も知らず依頼人はあくまでも上機嫌。『少しは相手の表情から気持ちを汲み取れないのかしら』と、真梨子は思ったが、すぐに思いなおした。そもそも、女に意志があるなどと思ったこともないような男だ。そんな繊細さを求めるのは真夏に雪が降って涼しくしてくれることを望むのと同じくらい無理なぜいたくだ。
「……どうも。何かあれば力になります」
真梨子はひきつった笑顔を浮かべながら半ば無意識にそう言っていた。この八年間の弁護士家業で身についた心なしの営業態度。こんなときにも出てしまう自分に気がついて真梨子は本気で自分がきらいになった。
依頼人は上機嫌のまま島村にあいさつして帰っていった。島村はぺこぺこというより、へこへこしながら見送った。その態度たるやまるで水飲み鳥。依頼人の靴の跡にまでキスしかねないぐらいだった。もっとも、島村武雄のこと。そう言われれば胸を張って答えるにちがいない。
『それで金になるなら、いくらだってキスしてやるさ』
真梨子はさすがに腹を立てた。このときばかりは雇い主と雇われ人という関係を忘れ、眉を吊り上げてつめよった。
「所長! 何だってあんな男にそこまで下手に出るんです⁉ 相手の弱みに付け込んでセクハラしまくってる野蛮人なんですよ!」
「その野蛮人の弁護をしたのは君だろ?」
「誰の命令ですか⁉ プライドとか倫理とかいうものはないのかと聞いているんです!」
意外なことに島村は傷ついたように顔をしかめて見せた。
「心外だな。おれのことをそんな風に見ていたなんて。八年間も一緒に仕事していたのに悲しいぞ。おれはまちがったってあんなやつに頭を下げたりはしない」
「下げまくりじゃないですか!」
「おれはあの男に頭を下げているんじゃない。金に頭を下げているんだ」
胸を反らしてそう言い放ったのはいっそあっぱれだった。
真梨子は一瞬、絶句した。言い返そうとした言葉がとまって口がOの字に開いたまま停止した。何とか気を取りなおして叫んだ。
「金のことしか頭にないんですか!」
「いつも金、金と言ってるからそう思えるだろうな。でも、あの男は今後とも大きな金ヅルになってくれるんだ。逃がせるか」
――あたしがバカだった……。
真梨子はワインの瓶底にたまった澱のような疲労感とともにそう思った。島村が人間性のかけらもない金の亡者であることぐらい、入社して三日で思い知らされたはずではなかったか。それなのにいまさら人間相手にするように怒ってみせるなんて……ああ、あたしってほんとバカ!
「まあ、それはそうと、今回は本当によくやってくれたよ。おかげで報酬もたんまりだ」
金の亡者な島村はそれにふさわしいほくほく顔で言った。真梨子の気持ちなんてまるでおかまいなし。この世にはもう他人の気持ちを思いやる人間なんてひとりもいないの? 深刻にそう悩む真梨子であった。
「向こうも君が気に入ってくれたよ。今度も君に頼むってさ。これからは君が彼の選任弁護士だ。金ヅルを逃がさないようよろしく頼むよ」
真梨子は今度という今度は心臓がとまったかと思った。口と両目で三つの丸を作った。頭のなかは真っ白になり、まわりは時がとまったかのよう。
――冗談じゃないわ!
思いきり叫んだつもりがショックのあまり、声が喉から先に出ていかない。
――何であたしがこれ以上、セクハラ男の味方をしなくちゃいけないのよ! そんなの理不尽すぎるわ、今回だけでももう耐えがたいっていうのに二度も三度もできるわけないじゃない!
「いやです! もうあんな人の弁護なんか二度としません」
「またまた。心配しなくても感謝の気持ちはちゃんと形にして現すって」
「誰がそんなこと言いました⁉ あたしはこんな仕事をするために弁護士になったんじゃないんです」
「じゃあ、どんな仕事がしたかったわけ?」
「そりゃあ……世の中の苦しんでいる人たちの少しでも助けになれればって……」
言っているうちに頬が赤くなっていくのを感じる。昔は目をきらきらさせて堂々と言えたはずなのに。『人助けをしたい』と口にすることが気恥しいことになったのはいつからだろう?
島村はおどけた調子で肩をすくめながら答えた。
「苦しんでいるのは金がないから。金がなければおれたちに生活費も払ってくれない。大切なのは日々の米代を払ってくれるお客さま。もういいおとななんだからそれぐらいわきまえな。現実第一、前向きに」
言いたいことを言いたいように言うと島村は真梨子の前から去っていった。後に残された真梨子はもう限界。頭のなかでは脳細胞が沸騰し、溶岩のように泡立っている。
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