三〇代、独身、子なし、非美女弁護士。転生し(たつもりになっ)て、人生再始動!

藍条森也

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一三章

ずるいでしょ⁉ なによ、その変貌ぶりは 

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 「え~と、この辺のはずなんだけど……」
 真梨子は車から降りるとおふくろさんからもらった住所の写しを手に、辺りを見まわした。
 ありふれた住宅地の一画。大通りの両側に同じような作りの庭付き一戸建てが並んでいる。今時の経済事情を考えれば庭付き一戸建てに住めるのは充分に恵まれていると言えるが、だからと言って特に贅沢な住宅地でもない。子供をひとり、ふたりもつマンション暮らしのサラリーマン家庭が理想の新居としてイメージするような、こじんまりとした住宅が並んでいる。
 正直、これはちょっと意外だった。『現代の神話』と言われるほどに奇跡的な成功を収めた男のこと。てっきり、『億ション』にでも住んでいるか、郊外に豪邸を構えるかしているのでは、と漠然と思っていたのだが。
 手近の家のポストで住所を確認し、家の人に尋ねて車に戻った。鴻志の住所はもう少し、先らしい。
 それにしても意外だったのは、世界的なSF作家がすぐ側に住んでいることを知らなかったこと。そんな有名人が近くにいれば『町の誇り』として知られていそうなものなのに。いや、それ以前に本人が自分の存在を主張して、周囲から一目置かれたがるものではないだろうか。それとも、鴻志という男、自分の存在をアピールするような人間ではないのだろうか。
 「……それにしてはあの日はやたらと偉そうで、傲慢で、攻撃的だったけど……」
 あの日の鴻志の態度を思い出すといまだに腹が立つ。その相手に『恋人の振りをして』なんて屈辱的なことを頼まなくてはならない。それを思うとへその穴から『ひとつの指輪』をも溶かす炎が噴き出しそう。
 ――でも、いまは押さえなくては。
 真梨子は必死に自分に言い聞かせた。それしかこの窮地から抜け出す方法はないのだから。
 やがて『森山鴻志』の表札がかかった家にたどり着いた。さすがに大きい家だった。他の家のたっぷり二倍以上はある。他の家をふたつ、横につなげたように見える。と言っても、『世界的作家』という立場からすればまだまだ『こじんまりした』というレベルではあるだろうけど。
 庭はそれほど広くはないが、さまざまな針葉樹や花が植えられていて、おしゃれなイングリッシュ・ガーデンを思わせる。玄関の左右にひとつずつ、大きな窓ガラスの入った大きな部屋がある。東側は畳敷きで中央に大きなテーブル、障子戸もある。こちらは多分、居間だろう。西側の部屋は居間と同じくらい大きかったが、家具ひとつないがらんどうでなんとも殺風景。まるで、使われていないビルの空き部屋のよう。いわゆる屋根というものはなく、平らな屋上となっている。高いフェンスがしつらえてあるところを見ると、屋上も何かに使っているのだろう。
 道路に面した黒塗りの門は固く閉ざされている。真梨子は門に近づいた。首を延ばしてなかの様子をうかがった。いた。男がひとり。しかし、その男は……。
 真梨子はいぶかしみながら門の外からその男をじっと見つめた。その男は森山鴻志には見えなかった。顔は似ている。と言うか、同じだ。しかし、雰囲気が全然ちがう。濃い紺色のTシャツにベージュのカジュアル・パンツというラフな服装。事務所にきたときの冷淡なスーツ姿とはまるでちがってナチュラルで暖かみのある服装。まあ、自宅にいるときにスーツ姿ではないのは当たり前として、全体から受ける印象がまるでちがう。
 長めの髪は荒っぽく後ろになでつけているだけでセットもしていないらしく、風が吹くたび乱れている。ひげもきっちりとはそっていない。ずぼらに見えるほどではないが若干のそり残しがある。メガネもかけていない。しかも、そのふたつの目は事務所のときのような無機的で機械的な印象とは大ちがい。穏やかな人間味をもっていた。
 事務所で出会った森山鴻志がクールでメカニカル、ひどく人工的な感じをする『作られしもの』ならいま、目の前にいる男はあくまでもナチュラルで暖かみのある『普通の人間』だった。それに、三五という鴻志の年齢よりも若く見える。
 たしかに顔立ちは同じなのだが、全体から受ける印象のちがいが目の前の男が森山鴻志であると思うことを真梨子に拒否させた。
 では、誰なのだろう? 鴻志には兄はいても弟はいないはず。友人だろうか? それにしては顔立ちが似すぎている。それでは、親戚?
 真梨子はとまどったまま男の様子をうかがっていた。
 男は丸木造りのテーブルの上で何やら箱らしいものを組み立てている。耳をすますと軽快な歌声が聞こえてきた。

 さあ はじめよう
 はるかな意識の旅を
 まぶたを閉じて一秒
 人々の群れ集うナイルのほとりが広がる
 文明生まれるシーン目撃
 想像力に限界はない!
 脳のなかの宇宙船
 足を踏み出し一歩
 宇宙の果てを越えてる。
 光も着けない先へ
 想像力に終点はない!

 体を小刻みに揺らしながら楽しそうにくり返している。カントリー・ミュージック風、というより、男の子向けアニメ番組の主題歌っぽい軽快でテンポのいい曲。歌詞にも勢いがあって聞いているうちに心が沸き立ってくるものがある。一度も聞いた覚えのない歌だが彼が作ったものだろうか? だとすれば、ますます鴻志らしくない。事務所で会ったあの無機的で機械的な人間がこんな陽気で元気な歌を作るなんて想像もできない。もっとも、鴻志は作品中にもよくオリジナルの歌を登場させてはいるのだが……。
 真梨子は声もかけることもできないまま、しばらく黙って見つめていた。やがて、男のほうが気づいた。真梨子を見つけた瞬間、穏やかでナチュラルな表情が消え去った。仮面でもかぶったように警戒心を含む無表情な顔つきとなった。相手の様子をうかがおうとするかのように険しくなった目付きに、ようやく事務所で見た鴻志のイメージがわずかながら重なった。
 「どなたです?」
 男が声をかけてきた。人を安心させるような穏やかな声。これも鴻志の冷淡な口調とはちがう。何より、あたしが誰かわからない。やっぱり、別人?
 「あ、あの……小山内……真梨子です。弁護士の……」
 真梨子がいうと、男は思い出したように眉を上げた。
 「ああ。この間の弁護士さんか。失礼。人の顔を覚えるのはどうも苦手でね」
 そういうところを見るとやはり、森山鴻志であるらしい。
 「それで? 何かご用ですか? 私の依頼は断ったはずですが?」
 「え、ええと……」
 真梨子は口ごもりながら門を開け、なかに入った。
 「あ、あの……森山……鴻志さん?」
 「ええ」
 真梨子が疑っていたのを承知しているかのように、鴻志はうなずいた。
 真梨子は庭に足を踏み入れた。庭は雑草が生い茂り、手入れされた美しさには欠ける分、野性的な生命力に満ちていた。
 真梨子は見るからに手作りとわかる丸木のテーブルの上に小箱に目をやった。
 「あの、それは?」
 「びっくり箱」
 「びっくり箱?」
 「近くに手作りおもちゃの店があってね。そこに作品を売ってる」
 「へえ」
 真梨子は感心して呟いた。同時にますます困惑した。クールなスーツに身を包み、残酷極まりない殺戮計画をぶち上げたあのテロリストが、まさか子供向けのおもちゃを作っているなんて。いったい、どういう人間なんだろう? どちらが本物の顔なんだろう? もしかして、事務所での姿は演技だったとか? それとも、やっぱり別人なのか……。
 真梨子が迷っていると鴻志はふと真梨子の顔を見た。男に真正面から顔を見据えられたことなど久しくなかったことなので真梨子は思わずどきりとし、後ずさってしまった。
 そんな真梨子に鴻志はいった。
 「ちょうどいい。モニター役としてこのびっくり箱を試してみてもらえませんか?」
 「えっ?」
 「やはり、他人に実際に使ってもらって表情を見たり、感想を聞いたりするのが一番参考になりますからね。迷惑でなければお願いします」
 「迷惑ではないけど……」
 真梨子は呟いた。丁寧で腰の低い、高飛車なところのまるでない紳士的な態度は素直に好感がもてる。事務所で会った森山鴻志の慇懃冷徹さとはまるでちがう、本物の礼儀正しさだ。それぐらいの頼みなら聞いてもいいという気分にさせられる。
 「でも、あたしはおとなよ。子供向けのびっくり箱で驚いたりしないと思うけど」
 「まあいいから。とにかく試してください」
 「それじゃ…」
 真梨子はテーブルの上に小箱に手を添えた。鴻志に悟られないようこっそり息を吐いて気をおちつける。実はこの手のおもちゃは苦手だったりする。子供の頃は母や妹によく引っかけられ、悲鳴を上げては笑いを提供するはめになった。だけど、それも昔の話。どんな仕掛けかわからないけれどいい歳をしてびっくり箱などで驚いたりしては恥ずかしすぎる。何としても平然を装わなくては。密かに深呼吸して覚悟を決め、蓋を開ける。
 「あれっ?」
 真梨子は拍子抜けして呟いた。箱の中身は空っぽ。なかには何もない。お化けも飛び出してこないし、電気ショックの類もない。どう見てもただの箱だ。
 ――どういうこと?
 不審に思って真梨子は箱のなかをのぞき込んだ。すると……、
 「わあっ!」
 真梨子は悲鳴を上げて飛びすさった。いきなりだった。いきなり、蓋の内側が破裂して一匹の鬼が現れたのだ。箱の中身のほうに気をとられて気がつかなかったのだが、蓋の内側はさまざまな動物形のピースを組み合わせたパズルになっており、そのさらに内側に鬼形に切り抜かれた板が仕込んであったのだ。その鬼形の板が表面のピースをはじき飛ばし、現れたのである。
 まったく予想していなかった展開に真梨子は子供の頃もかくやというほど驚いた。あっけにとられて後ずさった姿勢のまま両目を真ん丸に見開いて箱を見つめている。
 「あははははっ」
 どきどきする胸を手で押さえる真梨子の側で鴻志の楽しそうな笑い声が響いた。
 真梨子は鴻志を見た。笑われているというのに全然不快ではない。鴻志の笑いがそれだけ爽快で邪気のないものだったからだ。『まんまと引っかけてやった』といういたずら小僧の満足感。ただそれだけの笑いだったので、真梨子のほうもなんだか『やられた!』という笑いがこみ上げてくる。
 「驚いたろ? 人はどうしても箱の中身のほうに注目するからな。箱は空っぽにして蓋のほうに細工してみたんだ。予想していない展開ほど驚きやすいからな」
 「……まんまと引っかかったってわけね」
 「そういうこと」
 鴻志は片目を閉じて笑って見せた。わざとそうしているわけではなく、自然な癖らしい。その笑顔を見て真梨子は別の意味で胸がどきりとした。
 ――こっちこそ予想外だわ。
 このときの鴻志の笑顔ときたらしゃくにさわるぐらい楽しげで、邪気がなくて、まるで元気いっぱいの少年のよう。事務所で狂気の大演説をぶったときの姿からはこんな笑顔を浮かべることがあるなんて絶対、想像できない。それなのに。こんな笑顔を見せられたらついつい好きになってしまいそう。男として、ということではなく、人間として、という意味だけど。
 ――どっちにしろ、卑怯だわ。
 いまいましさを込めて呟く。
 ――冷酷で残忍な鼻持ちならない傲慢ヤローだと思っていたからきたのに。こんな姿を見せられたら彼氏役なんて頼みづらいじゃない。
 『裏切られた!』と言いたくなるぐらいのちがいだ。理不尽とは承知の上で腹を立てた。何しろ、真梨子にとっては鴻志こそが窮地を切り抜けるための最後の頼みの綱。何とか説き伏せて彼氏役を引き受けてもらう以外、皆の笑いものにならずにすませる方法はないのだ。それがこんな『いい人』なところを見せられたら……。頼みそびれて笑いものになったらどうしてくれる!
 真梨子の心の叫びなどもちろん鴻志には届かない。鴻志はパンツのポケットから腕時計を取り出すと時間を見ながら動物形のパズルを組み立てていった。手際よく、蓋の内側にピースがひとつ、またひとつとはめこまれていく。かなり複雑な形をしているのに迷いなくはめていくあたり、さすがは製作者。あとひとつ、となったところで手がとまった。じっと時計を見ている。どうしたんだろう? 真梨子も思わず注意を引かれた。
 すべての動きがとまってから十数秒。木琴のような音を立てて鬼がふたたびパズルをはじき飛ばしてその凶悪な姿を現した。
 またしても予想外の展開に真梨子はふたたび驚かされた。
 「予定通り」
 鴻志が小さく呟いた。
 「どうなってるの?」
 真梨子は尋ねた。
 「一分以内にパズルを組み立てないと鬼がまた出てくる仕掛けなんだ」
 「へえ」
 ナイフを突き出すと樽から飛び出す海賊のおもちゃみたいなもんね、と真梨子は感心した。制限時間内に組み立てなければならないパズルとなればたしかにスリルがあって楽しいだろう。
 「でも、こんなおもちゃ、誰に教わったの?」
 真梨子は尋ねた。鴻志の告白している半生が正しいなら誰かに師事したようなことは一度もなかったはずだ。
 「教わったわけじゃない。日本には江戸時代からいろいろなからくりおもちゃの伝統があってね。それらの作り方を解説した本を見て覚えた」
 「そんな本、どこにあるの?」
 「図書館にはちゃんと、その手の本もあるんだよ」
 一〇年以上も図書館に通いつめつづけたという鴻志らしい答えだった。
 「じゃあ、何でそんなおもちゃを作ろうと思ったの?」
 「それはまあ……」
 鴻志はちょっと口ごもった。眉をひそめ、話しずらそうにした。
 「……引きこもりやってる頃、とにかく、稼ぐ方法を身につけなきゃならなかったからな。元手なしでできることは何でもやったんだよ」
 その言葉に真梨子は胸をつかれる思いがした。本のイラストも自分で描いているし、作中にはよく自作の歌が出てくる。ずいぶんと多才な人だとは思ってはいた。それが長い冬ごもりから脱するために必死に身に付けたものだったなんて。世界的SF作家という名声の下にいったい、どれだけの思いが沈殿しているのだろう。真梨子はそれを思って慄然とさえした。
 鴻志はなかば一人言のようにつづけた。
 「……まあ、いまはもうそんな必要もないわけだけど、せっかく身に付けた技術を放っておくのももったいないしな。それにもともと、何かを作るのは好きなわけで。作ったものをただ置いていても仕方ないから気の向くままに作っては引き取ってもらってるわけさ」
 言いながら鴻志は何度もパズルの組み立てをしてはきちんと作動するかどうかたしかめている。
 見ているうちに真梨子もやってみたくてうずうずしてきた。この手のパズルとか積み木とかいうものはいくつになっても心を惹かれるものだ。
 「ねえ、あたしもやってみていい?」
 「どうぞ」
 鴻志は簡単に言ってピースを手渡した。
 真梨子はピースを受けとり、パズルに挑戦しはじめた。木製のピースはどれも徹底的に磨かれ、手触りはなめらかそのもの。そのままほっぺたにすりすりしたくなるぐらい気持ちいい。とくに角張ったところがまったくないのは使う子供の安全を考えてのことだろう。製作者の人柄がわかる丁寧な仕上がりだった。
 真梨子は舌なめずりなどして組み立てはじめた。
 一回目。
 半分もできずに時間切れ。
 二回目。
 最初よりは進んだがやはり、だめ。
 三回目。
 なぜか一回目よりもできないままタイム・オーバー。
 はじき飛ばされた動物形のかわいいピースにまみれたまま茫然と立ちつくす真梨子の側で鴻志がため息とともに呟いた。
 「……とろいね、お前さん」
 「う、うるさい!」
 真梨子は思わず頬を真っ赤に染めて、まるで友だち相手のように叫んでいた。子供向けのおもちゃだと言うのに、いい歳したおとなが全然できないなんて……。
 恥ずかしいったらありゃしない!
 「悪いが……」
 鴻志は真梨子から箱とピースを取り上げながら言った。
 「いつまでもお試し期間というわけにもいかないからな。これ以上は店に出たのを買ってからにしてくれ」
 言いながらてきぱきとパズルを組み立て、蓋を閉める。
 「……けど、一分てのは短いのかな。もっと長くした方がいいかもな。それに、これだけじゃ長く遊べるってわけにはいかないし。箱のほうにも何か一工夫すべきか」
 びっくり箱を庭の物置にしまいながらぶつぶつと呟いている。その言葉といい、表情の真剣さといい、どう見ても自分の仕事に誠心誠意を込めて打ちこむ真摯で誠実な職人そのもの。やはり、事務所で見たテロリストとしての鴻志とはどうしても結びつかない。
 真梨子は耐えきれなくなって尋ねた。
 「ねえ。その……ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
 「双子の兄弟ならいないぞ。事務所で会ったのはまぎれもなく、このおれだ」
 「何で、聞きたいことがわかったの?」
 「よく言われるんでね。『仕事着を着ると別人にしか見えない』ってな」
 「仕事着……?」
 「あのスーツは仕事のとき限定なんだ」
 「仕事……」
 「そう」
 鴻志はじっと真梨子を見た。その視線の深さは事務所のときの鴻志が戻ってきたような気がした。
 「あれはおれの仕事だ。何がなんでもやり遂げなくてはならない……」
 しばしの間を置いてから付け加えた。
 「……おれたち、社会被害者の名誉と尊厳を取り戻すために」
 名誉と尊厳。
 そう言ったときの鴻志の表情はあまりにも深く、そして、暗く、単なる怒りや悲しみでは表現しえない、複雑な思いがあるように思えた。
 ――もしかしたら……。
 真梨子は思った。
 ――彼の行動には事務所で語った以上のものかあるのかも。
 そう思えて仕方がなかった。もし、そうならばその隠された理由を知りたかった。もともとの目的を越えて真梨子は森山鴻志という人間をもっともっと知りたいという思いにかられた。
 「さて、と……」
 鴻志が両手をはたきながら言った。その口調は軽く、表情も先ほどまでのものに戻っている。この切り替えの早さもとまどわされるところだ。上辺だけの思いだから簡単に切り替えられるのだという気もするし、逆に深すぎる思いだからこそきちんと切り替えないとやっていけないのかも知れないとも思う。
 いったい、どっちなんだろう?
 真梨子は謎の仕掛けられた絵を見るような目で鴻志を見た。
 「おれはこれから出かける予定なんだけど……」
 「あっ、どうぞ、どうぞ。あたしのことは気にしないで」
 真梨子は手振りを交えながら答えた。用件を聞かれても話すだけの踏ん切りがついていない。事務所にきたときの鴻志とあまりに印象がちがうのですっかりペースが狂ってしまった。とりあえず、時間がかかったほうがありがたい。
 鴻志はしばらくじっと真梨子を見つめていた。冷淡、と言うほどではないが、好意的と言うわけでもない。扱いに困っている、と言うのが一番ぴったりくる表情だった。
 やがて頭をかきながら家のなかに入った。シャツジャケットをまとい、肩にスポーツバッグをかかげて出てきた。そのまま歩き出す。『ついてきていい』と言われたわけではもちろんないが、『くるな』とも言われていない。なので、真梨子は後についていった。
 歩き出してすぐ、真梨子は鴻志の歩き方の奇妙なことに気がついた。普通は反対側の手と足を出すものなのに同じ側の手と足を同時に出している。まるで、マンガのような歩き方。
 「……変な歩き方するのね」
 「古武術の歩方だよ」
 「古武術?」
 「ああ。同じ側の手と足を同時に動かしたほうが腰への負担が軽いそうだ」
 「そうなの?」
 「さあね。だから、試してる。まあ、実際、同じ側の手と足を同時に動かしたほうが体がねじれないわけで、そのほうが負担が軽いと言うのは理に適っている。それに、ウマだって同じ側の前足と後ろ足を同時に動かしたほうが疲れも少なく、姿勢も安定すると言うからな。人間が同じでも不思議はない」
 「へええ」
 真梨子は感心して呟いた。興味を持って自分でも試してみた。同じ側の手と足を同時に動かす。それから、普通の歩き方に戻る。また、古武術の歩き方とやらを試してみる。
 ――へえ。ほんとにちがう。
 真梨子は驚いた。たしかに、同じ側の手と足を同時に動かすと腰がねじれる感覚がない。ちがいをはっきり感じるので、このほうが腰に負担が少ないと言うのはわからなくもない。
 真梨子は古武術の歩法を試したまま尋ねた。
 「でも、古武術をやってるなんてちょっと意外ね」
 「たしなみ程度さ。人間、頭ばかり使って体を使わずにいるとろくなことにならないからな」
 そう語る鴻志の言葉はやけに実感に満ちていた。
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