三〇代、独身、子なし、非美女弁護士。転生し(たつもりになっ)て、人生再始動!

藍条森也

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一四章

なんだかこれってデ−トみたい?

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 のんびりと連れ立って歩いてやってきたのは最寄りの駅。高い階段のついた駅ビルだった。鴻志は階段を登りはじめた。すぐ横にエスカレーターがあってみんな、そちらを使っているのに、鴻志だけは目もくれずに階段を登っていく。真梨子も仕方なく後につづいた。 鴻志はやけに身軽だった。長い階段を前屈みの姿勢でひょいひょい登っていく。真梨子はまるでついていけない。あっという間に大きく引きはなされた。急いでもいそいでも足が痛くなるだけで差は縮まらず開いていくばかり。とうとう悲鳴を上げた。
 「ちょ、ちょっと待って! そんなに急がないでよ……!」
 鴻志は立ちどまった。階段の上から振り向いた。
 「そんな登り方をしているからだ」
 鴻志が言った。
 「背をまっすぐに延ばして登るからよけいな力がかかる。頭を前に出して、前屈みに、上に向かって重心を移動させて登るんだ。転ぶ前に足を出す感じでな。そうすれば勢いで一気に登れる」
 そういうものか。それも古武術の方法なのだろうか。とにかく、真梨子はその登り方を試してみた。頭を前に出し、上に向かって転ぶようにして足を出して……本当に転んだ。したたかに右膝を打ちつける。声がもれ、涙がにじんだ。頭の上からあからさまな鴻志のため息が聞こえてくる。
 「……おれは『転ぶ前に足を出す』と言ったんであって、本当に転べとは言っていないんだがな」
 「う、うるさい……!」
 涙のにじんたままの目で鴻志を見上げ、言い返す。もう一度、試してみる。また、転んだ。今度は左膝を打ちつけた。両膝を痛めて頭に電流が走った。
 またしても。鴻志のあからさまなため息が降りかかった。
 「……本当にとろいな、お前さん」
 「と、とろいんじゃないわよ! 弁護士目指して勉強づけの人生だったから……」
 とっさにそう言い返したものの、見栄に近い。実のところ、子供の頃から運動は苦手だったのだ。学校の成績では体育で三以上をとったことはない。それも一〇段階で……。
 ――こんな登り方、あたしには無理。いえ、することないわ。前屈みなんて格好悪いもの。おとなの女はいつだってしゃんと背筋を延ばして歩かなきゃ。
 そう心のなかで言い張って、自分を納得させて、いつも通りの歩き方に戻った。格好つけたいという心理が働いたせいで必要以上にそっくり返っている。
 鴻志はそんな真梨子を見て『……今度は後ろにひっくりかえらなきゃいいけどね』と、こっそりため息をついた。後ろに落ちたらただの打撲ではすまない。
 幸い、真梨子はひっくり返ることなく、登りおえた。
 階段を登ったそこはちょっとした駅前広場。木が植えられ、ベンチがしつらえられている。子供たちがハトの群れにパン屑をやったり、追いかけまわしたりしている。
 鴻志は手近のベンチにどっかと座り込んだ。肩にかかげていたスポーツ・バッグを横におろし、足を組み、背もたれによりかかる。真梨子もその横に座った。
 鴻志はそのまま何をするでもなく視線をさ迷わせている。なにをしているのだろう、と、真梨子はちらちらと横目で鴻志の様子をうかがった。
 やがて鴻志はバッグの中からペットボトルを取り出した。中身は紅茶らしい。鴻志はペットボトルを片手にちらりと真梨子を見た。そして、短く尋ねた。
 「飲む? コップ、ないけど」
 「いえ、あたしは……」
 一〇〇パーセント礼儀上のことで受けたら逆に迷惑がることがわかっていたし、男とまわし飲みする気にもなれないので、真梨子は首と両手を同時に振って辞退した。それでも、いちいち尋ねてくれる気配りはうれしかった。女も三〇を過ぎると丁寧に扱ってくれる男にはなかなか出会えない。
 「あっそ」
 鴻志は短く言うとペットボトルのキャップを外し、ラッパ飲みに一口、飲んだ。キャップを閉め、ペットボトルを片手にもったまま駅前広場を通りすぎる人の流れを見つめている。
 「あの……」
 「うん?」
 「何してるの?」
 「人間観察」
 「人間観察?」
 「ああ」
 鴻志はうなずいてから説明した。
 「何しろ、おれは人生経験が乏しいんでね。普通の人たちが何に興味をもっているのか、どんな会話をしているのか、服装はどんなか……ということを少しでも吸収しておかないとリアルな物語が書けない。それで、ここに座っていろいろと観察するわけ」
 「毎日?」
 「毎日ってわけでもないけどね」
 言いながら鴻志は眺めるとなしに目の前の人の群れを眺めている。足を組み、背もたれに背をつけ、右手にもった紅茶のペットボトルをときおり口に運びながらただじっとしている。まるで公園の風景の一角を成すオブジェのように。
 鴻志が何もせず、何もしゃべらないので、真梨子としても声をかけずらかった。仕方ないので自分も人間観察とやらをしてみることにした。前屈みの姿勢になって膝の上に肘を立て、あごを両手に乗せた格好でぼんやりと目の前の風景に目をやった。何も考えず、何も思わず、ただぼんやりと。
 青空を雲が流れ、大地を風が流れ、目の前を人の群れが流れる。ただ、流れていく。静かに時が流れていく。
 やがて少しずつ、人の群れが目に、そして耳に入ってきた。いままで注目してみたこともない、かわりばえしない一群だとしか思っていなかった人の群れのなかに色々な人がいた。本当に様々な人たちが。
 攻略中のゲームについて情報を交換している小学生。友人の噂で盛り上がる男子高校生。携帯で上司と相談しているらしいスーツ姿のサラリーマン。買い物袋を手に井戸端会議をしている買い物帰りの主婦。ふと気がついてみると広場の一角に地べたに直接座り込んで菓子の袋を開けている制服姿の女子高生の一団まで出現していた。
 歳により、立場により、会話の内容や服装に一定の傾向があることがわかってくる。遠くから見ていたのでは赤一色にしか見えなかった花畑に飛び込んでみると様々な花が咲き誇っていることに気がついた気分だった。
 真梨子は何だか不思議な思いがした。時間が過ぎるのも気にせず、ただぼんやりと人の群れを眺めている。その行為には何か新鮮なものがあった。普段の暮らし、昼間でも太陽のかわりに電気の光で照らされた灰色の事務所のなかで時間に追われ、人に気を使う生活のなかには決していないもの。楽しいとか、感動的とか言うのではない。ただ、ちがう。不快さや不安をともなわない違和感。
 突如として異世界に迷い込んだ気分、とでも言うべきか。竜巻に巻かれ、オズの国へと運ばれたばかりのドロシーかちょうどこんな気分だったのではないかと思った。自分とはちがう時間の流れのなかで生きている人がいる。ちがう世界で暮らしている人がいる。ファンタジーのなかではない。この現実のなかにたしかに別世界がある。そのことをはじめて知った不思議さだった。
 スポーツバッグのチャックをしめる音が真梨子を現実に引き戻した。気がつくと鴻志は飲みおえたペットボトルをバッグにしまい、立ち上がったところだった。
 「帰るの?」
 腰を浮かせながら尋ねた。
 いや、と鴻志は答えた。
 「その前に買い物」
 「買い物?」
 「夕食のネタを買っていかないと」
 「夕食って……」
 真梨子は時計を見た。驚いた。もう五時過ぎだった。二時間もここにこうして座り込んでいたことになる。ただぼんやりと人の群れを眺めるだけで二時間も過ごすなんていままでに一度でもあったろうか。二時間もの間、何もせず、それでいてちっとも退屈を感じることなくいつの間にか過ぎ去っていた。そのことが不思議であり、驚きでもあった。
 鴻志はと言えば、さっさと駅ビルに向かって歩いている。真梨子はあわてて後を追った。階段を降りて地下の食品コーナーに向かう。
 鴻志がカゴに放り込む品を見て、真梨子は目を丸くした。ニシンのカンロ煮、カニ風味カマボコなど、やけに庶民的なものばかり。
 「ずいぶん質素な食生活みたいね」
 真梨子はついつい口にしていた。
 「食事療法でもしてるの?」
 「別にそう言うわけではないが……」
 「じゃあ、何で? 一流レストランに通いつめることだってできるはずでしょ?」
 「柄じゃないね。ほんの数年前まで一九〇円のタマゴツナサンドを買うかわりに二八〇円のアメリカンクラブサンドを買うのが贅沢っていう生活してたんだ」
 卑下するでもなく、事実を事実として淡々と語るあたりが返ってデビュー前の生活のハードさを感じさせる。
 だけど、以前に金銭で苦労していた頃があればあるほど、金持ちになってからは贅沢三昧したくなりそうなものなのに鴻志はそうではないのだろうか。
 ――根が質素で素朴ってことかしらね。
 真梨子はそんな風に思った。鴻志の態度をケチとは思わなかった。むしろ、好感がもてた。日ごろ、二言目どころか一言目から『金、金、金!』と騒ぎ立てる上司と付き合っている分、欲のない態度に接すると砂漠でオアシスに出会った気分になる。
 ――こんな人が現実にいるのなら……この世もまだ捨てたものじゃないかもね。
 ふと、そんな気がするのである。
 買い物を終え、ビルを出た。外の階段を連れ立って降りて道路に出る。ふと、目の前に帽子が落ちてきた。鴻志は帽子をひろい上げ、階段の上を見上げた。おばあさんがひとり、頭を下げている。鴻志は軽くうなずくと帽子をもって階段をひょいひょい登っていく。おばあさんに帽子を渡す。頭を下げて礼をいうおばあさんに対し、堅苦しいほど生まじめな態度で会釈を返す。それから、階段を降りて戻ってきた。その降り方のあまりの早さに真梨子はまたしても目を丸くした。
 前屈みの姿勢になって、転げ落ちるような勢いで、たああっと降りてくる。その早さは一緒に降りたときの三倍以上。あっという間に下りおえ、真梨子の横に並んだ。
 「あ、あの……」
 真梨子は思わず声を上げた。
 『うん?』と、鴻志は視線を向けた。
 「あ、いえ、何でもないわ……」
 真梨子は両手を振ってごまかした。
 鴻志は歩きはじめた。真梨子も後につづいた。後につづきながら心に思った。
 ――あの早い降り方がいつもの降り方なの? ということはあたしと一緒に降りたときは、あたしに合わせてくれたってわけ?
 鴻志の階段の登り方を真似ようとして転んでいたとろい自分に気を使って、ゆっくり降りてくれたのか。さり気ないその気遣いが、なんだかやけに胸に染みた。
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