三〇代、独身、子なし、非美女弁護士。転生し(たつもりになっ)て、人生再始動!

藍条森也

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一五章

ああ、あたしってバカだ……

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 ふたりは肩を並べて一方を川、一方を畑に囲まれた遊歩道を歩いていた。ジョギングやイヌの散歩をしている人たちの姿がよく目についた。鴻志もよく散歩やスケッチにやってくるのだと言う。
 川と言ってもごくごく浅く、両側をコンクリートの高い壁に囲まれた、ドブ川に毛の生えたようなものだが、それでも、なぜがコイが住んでいて、昼間ならカモやハトの姿も見られるという。冬にはユリカモメも何十羽がやってくるそうだ。
 すでに西の空は真っ赤に染まり、日が沈もうとしている。赤い光に照らされて、夕焼け空を望みながら、のんびり歩いて家に帰る。日ごろ、車や電車でばかり移動している真梨子にとってはこんなことも新鮮な行為だった。
 さらさらと水の流れる音が耳に心地いい。畑に植えられた野菜の新鮮な緑が目に染みる。
 こんなところを、こんな風に、男性と肩を並べていると、何だか恋人同士のような気になってくる。
 ――そういえばあたし、彼に恋人役、頼みにきたのよねえ……。
 それを思い出し、ポリポリと頭をかく。いまだに肝心のそのことを言い出せずにいる。事務所で会ったときからは想像もできない鴻志の姿にふれ、今日一日でずいぶんと親しくなったような気がする。それだけにそんな演技を頼むことは気が引けた。
 鴻志が足をとめた。
 急なことだったので真梨子は背中にぶつかりそうになった。寸前で何とか立ちどまる。
 「どうかした?」
 尋ねる。
 鴻志は川をはさむ、コンクリートの壁の上の土手に向かって歩きながら答えた。
 「いいものがある」
 「いいもの?」
 こんな土手に何が?
 そう思いながら鴻志について行く。鴻志は土手のなかで軽く腰をかかげ、草を摘みはじめた。
 「なにそれ?」
 眉をひそめながら尋ねた。
 「ヒルガオだよ」
 言いながら鴻志は若芽やツル先を摘んでいく。
 「おっ、シロザにスベリヒユもあるじゃないか。豊作だな」
 うれしそうにどんどん摘んでいく。
 真梨子は不思議に思って尋ねた。
 「どうするの、そんなもの?」
 「食うんだよ」
 「食べる」
 「ああ」
 「食べられるの、そんなもの?」
 「けっこう、うまいんだぞ。おひたし、和えもの、炒めもの……いろいろ、使える。これは生でもいける。食ってみるか?」
 そう言って鴻志が差し出しのたは小さなハート形の葉が三枚ついた草だった。真梨子は反射的に受けとった。胡散くさそうにじろじろ眺める。
 「……本当にだいじょうぶなの?」
 「だいじょうぶだよ」
 「でも、除草剤とか、イヌのフンとか」
 「薬がまかれてたらこんなに茂ってないさ。第一、農薬付けの作物と抗生物質付けの畜肉を食ってる現代人が気にするようなことじゃない」
 それもそうか。
 真梨子は結局、好奇心に負けて食べてみることにした。それでも、一応、手で草の表面を払い、息を吹きかけて、それから小さなハート形の葉を一枚だけかじってみる。
 酸っぱい。
 まずくはないけれど何かエグミというか、そんなものも感じられる。
 「……生のホウレンソウみたいね」
 「カタバミだよ。ホウレンソウと同じで蓚酸が混じってるからな。あまり大量には食わない方がいい」
 「そんなの食べさせたわけ」
 「少しだけなら問題ない。食いなれてる野菜とはちがう味わいで、なかなかイケるだろう?」
 「それはまあ……」
 真梨子はしぶしぶうなずいた。味覚上のちょっとした刺激になったのはたしかだ。
 「それに、カタバミにはちょっとした伝説もあってな」
 「どんな伝説?」
 「こいつで鏡を拭くと未来の恋人の姿が映るって言うんだ」
 それと聞いた途端、鴻志の集めたカタバミの葉をすべて横取りしたくなった。
 「野草にくわしいのね。お母さんにでも教わったの?」
 子供の頃、親と一緒に野草採集でもした経験があるのだろうか? 鴻志の告白からはそんなほのぼのとした親子関係は想像できないのだけれど。
 鴻志は首を横に振った。
 「いや。自分で調べた」
 「自分で? 何で?」
 「ファンタジー小説を書くとなれば道端の雑草を食うシーンを書くこともある。そのとき、雑草の味をまるで知らないんじゃ話にならないからな。できるだけ、体験しておくことにしたのさ。で、バッグに野草図鑑を何冊もつめてひとつひとつ確かめた。危険な毒草をまちがって食って死んじまったら笑い話にもならないからな。それこそ、葉脈の一本一本にいたるまで図鑑の写真と突き合わせたよ」
 「へええ」
 真梨子はまたしても感心した。小説のためにそこまでするとは大した情熱だ。
 鴻志はふと草を摘む手をとめて、さも不思議そうに首をかしげた。
 「……けど、一度、草を摘んでいるところに小さな子供を連れた夫婦がやってきて『少ないけと受けとってください』なんて言って五千円札を押しつけていったことがあったな。あれはなんだったんだ?」
 聞いた途端、真梨子は腹を抱えて笑いころげた。
 やがて、必要なだけ摘んだ草をバッグにしまい、ふたたび家路についた。家に着いたときには夕日も完全に沈み、夕方から完全に夜となっていた。空にはすでに無数の星を従えた月が輝いている。
 門を潜ったところで鴻志が何かに気がついたように立ちどまった。振り返った。真梨子に尋ねた。
 「そう言えば結局、用件を聞かずじまいだったな。何の用なんだ?」
 「えっ? あっ……」
 いきなり聞かれて真梨子はとまどった。
 「あの、その、実は……」
 真梨子は言いよどんだ。鴻志は唇を疑問形に曲げて真梨子を見ている。
 「いえ、いいの。なんでもないから」
 無理に笑顔を作ってそう言った。やっぱり、言えない。『彼氏の振りして!』なんて頼めない。もし、鴻志が事務所で見たままの傲慢でいけすかないネアンデルタール野郎だったなら遠慮せずに言えたかも知れない。でも、子供のような無邪気な心や、さりげないやさしさにふれてしまったいまは……そんなずうずうしいことはとても頼めない。
 これで明日は地獄になる。いえ、それからも。でも、仕方がない。こんなことに彼を巻きこむわけにはいかない。何とかひとりで乗りきろう……。
 真梨子はそう決意してきびすを返した。その背に鴻志の声がかかった。
 「ああ、小山内さん」
 真梨子は振り向いた。視線の先にやけに真摯な鴻志の表情を見出してちょっとどぎまぎした。
 鴻志はまっすぐに真梨子を見ながら誠実な口調で言った。
 「この間は悪いことをしたな。あなたを責める筋合いじゃないのはわかってたんだが……言った通り、あれはやらなきゃならない仕事なんでね。仕方なかった。できたら気にしないでくれ」
 それは、真梨子がもう何年も聞いたことのないような、もう二度と聞くことなんてないんじゃないかと思っていたような、他人を思いやる心をもった言葉だった。その言葉を聞いたとき、真梨子の心のなかで何かが動いた。玄関にすがり付き、言っていた。
 「あの……実は明日、付き合ってほしいところがあるの!」
 そう叫んだ自分に自分自身が一番、驚いていた。思いがけずやさしい言葉をかけられて、甘えてみたくなったのかも知れない。
 鴻志は尋ねてきた。
 「例の件か?」
 「えっ、ええ」
 反射的にうなずいてしまってから青くなった。嘘をついてしまった。早く本当のことを言わなければ騙すことになってしまう。だが、真梨子が口を開くより先に鴻志が言っていた。
 「わかった。ただし、そっちで迎えにきてくれ。おれは車をもっていないからな。時間はそっちの都合でいい。おれは時間に縛られる生活はしてないからな。それじゃ」
 鴻志はそう言って家のなかに入っていった。玄関のしまる音が真梨子には自分をとじこめる氷の音に聞こえた。
 ――早く本当のことを言わなきゃ……!
 心が叫んだ。指がチャイムに延びた。ふれる寸前……指がとまった。真梨子は硬直した表情のまま、その場に停止した。やがて、指が折れた。腕が下がった。
 真梨子はその場に座り込み、激しい自己嫌悪にはまりこんだ。
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