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一六章
うそ……。引き受けてくれるだなんて
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うららかな日曜日。ぽかぽかした日ざしを浴びて、真梨子と鴻志を乗せた車はパーティ会場である秋子の家目指して走っていた。まるで三〇年も乗りつづけているポンコツ車のようなのろのろ運転で。
運転席の真梨子は過剰なほどの安全運転にもかかわらず必死の形相だった。前屈みにハンドルにとりつき、眉ひとつ動かすことなく前方を凝視している。あまりに前方のみに集中しているせいで助手席に座った鴻志が冷や汗などを流しながら疑いの目で見つづけていることにも気がつかない。
真梨子のこめかみに浮いた汗が頬を伝って流れて落ちた。こちらも冷や汗がとまらない。とうとうここまできてしまった。結局、鴻志には事情を話せないまま。迎えにいく前には鴻志の家についた時点できちんと事情を説明し、お願いするつもりだった。言いそびれたまま車に乗り込むことになった。
――まあいいわ。
その時点では自分にそう言い聞かせた。
――秋子の家につくまでにちゃんと説明すればいいんだから。彼っていい人だから丁寧にお願いすればきっと引き受けてくれるわよ。大体、仕事の話だと思ったのは彼のほうであたしがそう言ったわけじゃないものね。だいじょうぶ、だいじょうぶ、だましたことにはならないわ。そうよ。ちゃんと説明すれば……。
もうすぐ秋子の家だと言うのに一言も説明できていない。何と言って説明すればいいんだろう? 頭のなかでいろいろな言葉がごちゃごちゃと入り組んでいてどう言っていいのかわからない。
『お願い! 今日一日、あたしの彼のふりして』
唐突すぎる。目をまわしてしまうだろう。
『大したお願いじゃないのよ。ちょっと、付き合ってるふりしてほしいだけ』
これは軽すぎ。これじゃどんなに窮地に追い込まれているか伝わらない。
『一生のお願い! お金持ちで有名な彼氏がいるって言っちゃったの! それにあてはまる知り合いってあなたしかいないのよ。どうか彼氏のふりして! でないとあたし、まわりからよってたかっていじめられちゃう。そんなことになったら首つっちゃうかも……』
まるっきり脅迫。
『それで、秋子って言うのは大学時代からの友だちなんだけど、ものすごい高ピーな女王サマで優越感にひたるのが生きがいっていう子なの。おまけに美里もそれにおとらずのいじわるで、ついでに母親と妹の貴美子も……』
いちいち説明してたら一日かかる。
――あ~、どうしよう、どうしよう。どう切り出せばいいんだろう。大体こんなこと、昨日今日会ったばかりの他人に頼むのがまちがいなのよ。こんなこと思いつくなんてあたしってばどうかしてたにちがいないわ。ああ、でも、やっぱり、他に条件にあう知り合いなんていないわけだから彼に頼るしかないんだし……だから、どう説明すればいいってのよ。誰か教えてよ。ああ、もうすぐ秋子の家だわ。もう!
時間稼ぎのためにのろのろ運転してきたのに何の役にもたたないじゃない。このままじゃ彼、秋子の家で突然事情を知らされて、パニくって、全部ばらしちゃうわ。そうなったら大恥かいちゃう。残る一生、家族にも友だちにも物笑いの種だわ。いえ、それより彼に迷惑かけちゃう。せめて、他人に迷惑かけないようにしようと思ってたのに、それもここまで。ああ、これじゃもう本当にあたし、おしまいだわ!
いっそ、アクセルを思いきり踏み込んでどこかの壁にでも正面激突し、何もかも終わりにしてやろうか。思わず本気でそうしそうになって、隣の席に他人が乗っていることを思い出してあわてて足を浮かせる。そんな自分に本当にぞっとして顔中冷や汗だらけとなった。
そんな真梨子を、鴻志はいかがわしいものを見張る表情で見ていた。
「……なあ」
「な、なに⁉」
鴻志の短い一言に真梨子は敵に襲われたハリネズミのように体中の毛を逆立てた。
鴻志は仕事の話だと思っているのでそのための服装、つまり、事務所を訪れたとき同じスーツ姿。髪もひげも一分の隙もなくきっかりと整え、メガネもかけている。外見こそまったく同じだが、雰囲気はまるでちがう。真梨子の見るからに不安いっぱいの運転に付き合わされていては、さしもの森山鴻志も無機的で機械的な印象を保ってはいられない。何とか保とうとはするのだが、ついつい『不安』という名の人間味があふれ出す。
鴻志は胸のなかに沸き起こる不安を押さえながら尋ねた。
「聞くのも怖い気がするんだが……もしかして、ペーパードライバーか?」
「ち、ちがうわよ! 何で?」
「何でって……。そんなにがちがちに緊張してたら誰だって不安に思うぞ。本当にだいじょうぶか?」
「だ、だいじょうぶよ。運転歴は一〇年越えてるんだから」
「……なるほど」
鴻志は納得顔で言った。
「やはり、隠し事をしてるのか」
さり気ないその一言に真梨子は自分の体のなかで爆弾が破裂した思いだった。
「な……な、な、何で隠しごと、ごとなんて……!」
「見えみえだろうが。第一、仕事に行こうって服装でもないしな」
と、鴻志はオーキッドグレーのワンピースにハイヒールという服装の真梨子を横目で見ながらいった。
「こ、これは……弁護士には見栄えも必要なの! 別に隠し事なんて……」
――ああ、あたしってバカ!
後ろめたさから反射的に否定してしまい、真梨子は心のなかで自分自身をののしった。
――せっかく、事情を話すチャンスだったんじゃない。それなのに……! ああ、これでなおさら言い出しにくくなっちゃった……。
「大体、どこに行くんだ? 事務所に行くのかと思ってたが道、ちがうよな?」
「ええと、それは……」
「何だ? はっきり言ってくれ」
「だから、つまり……」
たたみかけられても事実を話す踏ん切りがつかない。口ごもることしかできなかった。不審そうな鴻志の視線が痛い。頬に突き刺さる針のようだ。ありったけの勇気を奮い起こして事情を話そうとした。口を開くより早く秋子の家が目に入った。真梨子は観念して視線で指し示した。
「……あそこ」
「うん?」
鴻志は視線を前に向けた。
「あのでかい家か?」
「……そう」
真梨子は車を門をくぐらせた。すでに何台もの車がとまっている庭の一角に、並べて停車させる。今度こそ事情を説明して芝居を頼もうと大きく息を吸い込み、鴻志のほうを向いた。ところが鴻志はすでにシートベルトをはずし、車を降りようとしていた。
真梨子もあわてて車を降りた。針葉樹の並ぶ庭をきょろきょろと見渡している鴻志の横に並んだ。
「コニファーガーデンか。高さ、樹形、色彩をきちんと計算して配置されている。剪定も行き届いている。しかし、花は少ない。ということは、家人がガーデニング好きというわけではなさそうだな。プロを雇って定期的に手入れしているわけか。ちょっと計算しすぎだが金はかかっているな。家もでかくて洋風の作り。英国趣味の日本人の家かな。誰の家だ?」
「ええと、その……実は、その、話しておかなきゃいけないことがあって……」
真梨子は意を決して話そうとした。ところが、それより早く真梨子たちの車が入ってきたのを見つけて秋子が、美里が、真貴絵か、貴美子が、それこそゾウの死体に群がるハゲタカのようにわあっとよってきた。
「あら、真梨子。こちらが例のお金持ちで有名な彼氏ね?」と、秋子。
「真梨子とはいつからのお付き合いなの? お仕事は?」と、美里。
「真梨子の母ですわ。いつも娘をかわいがっていただいて。ところで、今後のことはどのへんまで考えてらっしゃるのかしら?」と、真貴絵。
「姉さんと付き合おうなんて度胸あるわね。お名前は?」と、貴美子。
最悪カルテットの集中放火に真梨子は首をすくめた。とうとう説明する前にみんなからばらされてしまった。鴻志はわけがわからないままに否定して、みんなに真相を教えてしまうだろう。そうなったら自分は終わりだ……。
真梨子はこわごわと鴻志の様子をうかがった。鴻志は無表情のまま、秋子たちの視線を受けていた。何を言われているのかまったくわからず、無表情のままパニックに陥ったらしい。
――これは天の助けだわ。
真梨子は心のなかで神に感謝した。
――これならまだ何とかなるかも。みんなをごまかして連れ出して説明さえできれば……。
どうやってみんなから鴻志を引きはなそう?
好奇心というより疑いの目を鴻志に向けている秋子たちを前に真梨子は考えを巡らせた。すると突然、興奮した若い声が叫んだ。
「僕、知ってます!」
叫んだのは樹だった。綱を引かれる小イヌのように美里の後ろに付き従っている画家志望の青年は、若々しい頬を紅潮させ、尊敬のまなざしで鴻志を見つめていた。
「森山鴻志さんでしょう? SF作家の。あなたのことはよく知ってます。うわあっ、直接、会えるなんて夢みたいだっ」
「SF作家?」
興奮している樹に美里は胡散くさそうな視線を向けた。
「ええ。まったくの無名から突然、現れて、瞬く間に世界的ベストセラー作家になった人ですよ」
「ふうん」
美里はじろじろと鴻志を品定めした。
「まあ、SF作家」
真貴絵がまるで一〇代の女の子のように無邪気な声で言った。
「じゃあ、いろいろと気違いみたいなことを書いてらっしゃるのね? それって楽しい?」
無邪気な暴言に樹が鴻志の説明をはじめた。その隙に真梨子は、無表情にパニックを起こしたまま硬直している鴻志の体を押してみんなから引きはなしはじめた。
「ごめんなさい、みんな。彼、乗り物に弱くって気分が悪くなっちゃったの。ちょっと、向こうで休ませてくるわね」
ほほほ、などと笑いながら鴻志の体を押して針葉樹の影に連れ込んだ。
ようやくみんなの視線が届かない場所までやってきて真梨子はほっと胸をなで下ろした。安心できたのもつかの間。秋子の視線さえ暖かく感じられるような冷たい殺気を感じとり、あわてて見上げた。凍りついた。鴻志がにらみつけていた。左目の下がぴくぴくと脈打ち、口もとが引きつっている。
――ひ、ひええ。本気で怒ってる……。
真梨子はそれと悟った。下水道のゾウリムシさえ悟らずにはいられなかったろう。ドライアイスのような冷たすぎて熱く感じる怒りを浮かべた鴻志の目を前にしては。
「……どういうことだ?」
左目の下をぴくぴくと脈打たせたまま、鴻志は押し殺した声でいった。その声の恐ろしいことといったら一〇〇万匹のトラが獲物を囲んで唸り声を上げているかのよう。真梨子を魂の底までびびらせるに充分な殺気だった。
――ど、どうしよう、こんなに怒るなんて……。まあ、当然なんだけど……。
こうなったらとにかく謝るしかない。誠心誠意、謝って、何とか協力してもらうのだ。お礼なら何でもする。お金……はまあ、通用しないだろうけど。真梨子の出せる範囲の金額など、世界的ベストセラー作家にとっては何の魅力もないだろう。でも、体で、という方法もある。大して美人でもない三〇女に興味をもってくれれば、の話だけど。
とにかく、事情を説明して、誠意を込めてお願いすればきっとわかってくれるだろう。彼はいい人なのだし。それに、車を運転できないから真梨子に付き合わないかぎり、帰れないわけだし……。
などと、少々ずるいことも考えながら、真梨子は両手を合わせて頭を下げた。彼女の生涯でここまで必死に頭を下げたのは司法試験の合格祈願で神社巡りをしたとき以来だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい! ほんっと~にごめんなさい! 先に説明しておくべきだったんだけど、言いそびれちゃって。実は……」
しどろもどろになりながら、とにかく説明だけはした。
「……と言うわけで、つい『お金持ちで有名な彼氏がいる』って言っちゃったの。条件に合う知り合いなんてあなたしかいないし……知り合いって言うほどの仲じゃないのはわかってるけど、とにかく、他にいないの。お願い! 今日だけでいいから彼氏のふりして! お礼なら何でもするから」
バネのはじけたおしゃべり人形の勢いでそう言って、片目を開けてそうっと鴻志の様子をうかがった。鴻志は無表情に真梨子を見下ろしている。
――ああ……。やっぱり、だめか。
真梨子は絶望に沈み込んだ。
そう。だめに決まっている。しょせん、赤の他人なのだ。こんな芝居、してくれるはずがない。まして、前もって説明もされずにいきなり現場に連れてこられて『お芝居して』なんて言われて承知するはずがない。もうだめだ。全部、バレてしまう。秋子たちはこれから先一生、今日の件を覚えていて、ことあるごとに持ち出しては笑いものにするだろう。母親にも妹にももう顔を合わせられない。誰も訪ねてこないひとり暮らしのアパートで人知れず死んで腐乱死体で発見されることになるんだ。これって仕事一筋に生きてきた報い? やっぱり、母さんの言う通り、もっと男の人と付き合って、捕まえ方を学んでおくべきだった。くやしいけど母さんが正しかった。あたしがまちがってたんだ。ああ、時計の針を一〇年戻せたら!
絶望感にうちひしがれている真梨子を、鴻志はじっと見下ろしていた。やがて、口を開いた。
「つまり……」
鴻志は意外なぐらい穏やかな声で言った。
「おれが恋人なら、あんたのステイタスが上がるわけか?」
「えっ?」
「おれが恋人なら、あんたのステイタスが上がるんだな?」
「えっ、ええ、そうだけど……」
「……そうか」
鴻志はふと遠い目をした。
「おれが恋人ならステイタスが上がるのか」
真梨子は何か不思議な思いにかられてまじまじと鴻志を見た。
「……おれもそんな存在になったんだなあ」
鴻志はやけにしみじみした口調で言うと、軽く息を吐いた。それから真梨子に視線を戻した。穏やかな視線だった。
「わかった」
「えっ?」
思いがけない言葉に真梨子のほうが混乱した。
「その芝居、引き受けた」
「本当!」
「ああ」
「で、でも、なんで……?」
じっと、鴻志は真梨子を見つめた。真梨子は思わず赤面した。
「連中を見返したいんだろう?」
「えっ、ええ……」
「じゃあ、行こう」
短く言って歩き出した。真理子はあっけにとられて取り残された。鴻志はそんな真梨子に振り返った。
「何をしてる? 恋人のふりをするなら腕を組むくらいしろよ」
「あっ、そ、そうね……」
真梨子はあわてて駆けよって鴻志の右腕にしがみついた。勢いあまって胸を思いきり押しつけてしまった。赤くなって体をはなした。鴻志はといえばそっぽを向いてしまった。しかし、その寸前、頬が赤くなっているのが見えた。女には慣れていないらしい。ほんの数年前まで引きこもり生活をしていたとなれば当然か。真梨子は高校生を相手にしているような気になった。かわいいと思った。軽く吹き出した。鴻志が『何だよ?』と言う表情で見た。真梨子はお姉さん気分になって余裕が出てきた。鴻志の右腕を自分の体でそっと包み込んだ。
運転席の真梨子は過剰なほどの安全運転にもかかわらず必死の形相だった。前屈みにハンドルにとりつき、眉ひとつ動かすことなく前方を凝視している。あまりに前方のみに集中しているせいで助手席に座った鴻志が冷や汗などを流しながら疑いの目で見つづけていることにも気がつかない。
真梨子のこめかみに浮いた汗が頬を伝って流れて落ちた。こちらも冷や汗がとまらない。とうとうここまできてしまった。結局、鴻志には事情を話せないまま。迎えにいく前には鴻志の家についた時点できちんと事情を説明し、お願いするつもりだった。言いそびれたまま車に乗り込むことになった。
――まあいいわ。
その時点では自分にそう言い聞かせた。
――秋子の家につくまでにちゃんと説明すればいいんだから。彼っていい人だから丁寧にお願いすればきっと引き受けてくれるわよ。大体、仕事の話だと思ったのは彼のほうであたしがそう言ったわけじゃないものね。だいじょうぶ、だいじょうぶ、だましたことにはならないわ。そうよ。ちゃんと説明すれば……。
もうすぐ秋子の家だと言うのに一言も説明できていない。何と言って説明すればいいんだろう? 頭のなかでいろいろな言葉がごちゃごちゃと入り組んでいてどう言っていいのかわからない。
『お願い! 今日一日、あたしの彼のふりして』
唐突すぎる。目をまわしてしまうだろう。
『大したお願いじゃないのよ。ちょっと、付き合ってるふりしてほしいだけ』
これは軽すぎ。これじゃどんなに窮地に追い込まれているか伝わらない。
『一生のお願い! お金持ちで有名な彼氏がいるって言っちゃったの! それにあてはまる知り合いってあなたしかいないのよ。どうか彼氏のふりして! でないとあたし、まわりからよってたかっていじめられちゃう。そんなことになったら首つっちゃうかも……』
まるっきり脅迫。
『それで、秋子って言うのは大学時代からの友だちなんだけど、ものすごい高ピーな女王サマで優越感にひたるのが生きがいっていう子なの。おまけに美里もそれにおとらずのいじわるで、ついでに母親と妹の貴美子も……』
いちいち説明してたら一日かかる。
――あ~、どうしよう、どうしよう。どう切り出せばいいんだろう。大体こんなこと、昨日今日会ったばかりの他人に頼むのがまちがいなのよ。こんなこと思いつくなんてあたしってばどうかしてたにちがいないわ。ああ、でも、やっぱり、他に条件にあう知り合いなんていないわけだから彼に頼るしかないんだし……だから、どう説明すればいいってのよ。誰か教えてよ。ああ、もうすぐ秋子の家だわ。もう!
時間稼ぎのためにのろのろ運転してきたのに何の役にもたたないじゃない。このままじゃ彼、秋子の家で突然事情を知らされて、パニくって、全部ばらしちゃうわ。そうなったら大恥かいちゃう。残る一生、家族にも友だちにも物笑いの種だわ。いえ、それより彼に迷惑かけちゃう。せめて、他人に迷惑かけないようにしようと思ってたのに、それもここまで。ああ、これじゃもう本当にあたし、おしまいだわ!
いっそ、アクセルを思いきり踏み込んでどこかの壁にでも正面激突し、何もかも終わりにしてやろうか。思わず本気でそうしそうになって、隣の席に他人が乗っていることを思い出してあわてて足を浮かせる。そんな自分に本当にぞっとして顔中冷や汗だらけとなった。
そんな真梨子を、鴻志はいかがわしいものを見張る表情で見ていた。
「……なあ」
「な、なに⁉」
鴻志の短い一言に真梨子は敵に襲われたハリネズミのように体中の毛を逆立てた。
鴻志は仕事の話だと思っているのでそのための服装、つまり、事務所を訪れたとき同じスーツ姿。髪もひげも一分の隙もなくきっかりと整え、メガネもかけている。外見こそまったく同じだが、雰囲気はまるでちがう。真梨子の見るからに不安いっぱいの運転に付き合わされていては、さしもの森山鴻志も無機的で機械的な印象を保ってはいられない。何とか保とうとはするのだが、ついつい『不安』という名の人間味があふれ出す。
鴻志は胸のなかに沸き起こる不安を押さえながら尋ねた。
「聞くのも怖い気がするんだが……もしかして、ペーパードライバーか?」
「ち、ちがうわよ! 何で?」
「何でって……。そんなにがちがちに緊張してたら誰だって不安に思うぞ。本当にだいじょうぶか?」
「だ、だいじょうぶよ。運転歴は一〇年越えてるんだから」
「……なるほど」
鴻志は納得顔で言った。
「やはり、隠し事をしてるのか」
さり気ないその一言に真梨子は自分の体のなかで爆弾が破裂した思いだった。
「な……な、な、何で隠しごと、ごとなんて……!」
「見えみえだろうが。第一、仕事に行こうって服装でもないしな」
と、鴻志はオーキッドグレーのワンピースにハイヒールという服装の真梨子を横目で見ながらいった。
「こ、これは……弁護士には見栄えも必要なの! 別に隠し事なんて……」
――ああ、あたしってバカ!
後ろめたさから反射的に否定してしまい、真梨子は心のなかで自分自身をののしった。
――せっかく、事情を話すチャンスだったんじゃない。それなのに……! ああ、これでなおさら言い出しにくくなっちゃった……。
「大体、どこに行くんだ? 事務所に行くのかと思ってたが道、ちがうよな?」
「ええと、それは……」
「何だ? はっきり言ってくれ」
「だから、つまり……」
たたみかけられても事実を話す踏ん切りがつかない。口ごもることしかできなかった。不審そうな鴻志の視線が痛い。頬に突き刺さる針のようだ。ありったけの勇気を奮い起こして事情を話そうとした。口を開くより早く秋子の家が目に入った。真梨子は観念して視線で指し示した。
「……あそこ」
「うん?」
鴻志は視線を前に向けた。
「あのでかい家か?」
「……そう」
真梨子は車を門をくぐらせた。すでに何台もの車がとまっている庭の一角に、並べて停車させる。今度こそ事情を説明して芝居を頼もうと大きく息を吸い込み、鴻志のほうを向いた。ところが鴻志はすでにシートベルトをはずし、車を降りようとしていた。
真梨子もあわてて車を降りた。針葉樹の並ぶ庭をきょろきょろと見渡している鴻志の横に並んだ。
「コニファーガーデンか。高さ、樹形、色彩をきちんと計算して配置されている。剪定も行き届いている。しかし、花は少ない。ということは、家人がガーデニング好きというわけではなさそうだな。プロを雇って定期的に手入れしているわけか。ちょっと計算しすぎだが金はかかっているな。家もでかくて洋風の作り。英国趣味の日本人の家かな。誰の家だ?」
「ええと、その……実は、その、話しておかなきゃいけないことがあって……」
真梨子は意を決して話そうとした。ところが、それより早く真梨子たちの車が入ってきたのを見つけて秋子が、美里が、真貴絵か、貴美子が、それこそゾウの死体に群がるハゲタカのようにわあっとよってきた。
「あら、真梨子。こちらが例のお金持ちで有名な彼氏ね?」と、秋子。
「真梨子とはいつからのお付き合いなの? お仕事は?」と、美里。
「真梨子の母ですわ。いつも娘をかわいがっていただいて。ところで、今後のことはどのへんまで考えてらっしゃるのかしら?」と、真貴絵。
「姉さんと付き合おうなんて度胸あるわね。お名前は?」と、貴美子。
最悪カルテットの集中放火に真梨子は首をすくめた。とうとう説明する前にみんなからばらされてしまった。鴻志はわけがわからないままに否定して、みんなに真相を教えてしまうだろう。そうなったら自分は終わりだ……。
真梨子はこわごわと鴻志の様子をうかがった。鴻志は無表情のまま、秋子たちの視線を受けていた。何を言われているのかまったくわからず、無表情のままパニックに陥ったらしい。
――これは天の助けだわ。
真梨子は心のなかで神に感謝した。
――これならまだ何とかなるかも。みんなをごまかして連れ出して説明さえできれば……。
どうやってみんなから鴻志を引きはなそう?
好奇心というより疑いの目を鴻志に向けている秋子たちを前に真梨子は考えを巡らせた。すると突然、興奮した若い声が叫んだ。
「僕、知ってます!」
叫んだのは樹だった。綱を引かれる小イヌのように美里の後ろに付き従っている画家志望の青年は、若々しい頬を紅潮させ、尊敬のまなざしで鴻志を見つめていた。
「森山鴻志さんでしょう? SF作家の。あなたのことはよく知ってます。うわあっ、直接、会えるなんて夢みたいだっ」
「SF作家?」
興奮している樹に美里は胡散くさそうな視線を向けた。
「ええ。まったくの無名から突然、現れて、瞬く間に世界的ベストセラー作家になった人ですよ」
「ふうん」
美里はじろじろと鴻志を品定めした。
「まあ、SF作家」
真貴絵がまるで一〇代の女の子のように無邪気な声で言った。
「じゃあ、いろいろと気違いみたいなことを書いてらっしゃるのね? それって楽しい?」
無邪気な暴言に樹が鴻志の説明をはじめた。その隙に真梨子は、無表情にパニックを起こしたまま硬直している鴻志の体を押してみんなから引きはなしはじめた。
「ごめんなさい、みんな。彼、乗り物に弱くって気分が悪くなっちゃったの。ちょっと、向こうで休ませてくるわね」
ほほほ、などと笑いながら鴻志の体を押して針葉樹の影に連れ込んだ。
ようやくみんなの視線が届かない場所までやってきて真梨子はほっと胸をなで下ろした。安心できたのもつかの間。秋子の視線さえ暖かく感じられるような冷たい殺気を感じとり、あわてて見上げた。凍りついた。鴻志がにらみつけていた。左目の下がぴくぴくと脈打ち、口もとが引きつっている。
――ひ、ひええ。本気で怒ってる……。
真梨子はそれと悟った。下水道のゾウリムシさえ悟らずにはいられなかったろう。ドライアイスのような冷たすぎて熱く感じる怒りを浮かべた鴻志の目を前にしては。
「……どういうことだ?」
左目の下をぴくぴくと脈打たせたまま、鴻志は押し殺した声でいった。その声の恐ろしいことといったら一〇〇万匹のトラが獲物を囲んで唸り声を上げているかのよう。真梨子を魂の底までびびらせるに充分な殺気だった。
――ど、どうしよう、こんなに怒るなんて……。まあ、当然なんだけど……。
こうなったらとにかく謝るしかない。誠心誠意、謝って、何とか協力してもらうのだ。お礼なら何でもする。お金……はまあ、通用しないだろうけど。真梨子の出せる範囲の金額など、世界的ベストセラー作家にとっては何の魅力もないだろう。でも、体で、という方法もある。大して美人でもない三〇女に興味をもってくれれば、の話だけど。
とにかく、事情を説明して、誠意を込めてお願いすればきっとわかってくれるだろう。彼はいい人なのだし。それに、車を運転できないから真梨子に付き合わないかぎり、帰れないわけだし……。
などと、少々ずるいことも考えながら、真梨子は両手を合わせて頭を下げた。彼女の生涯でここまで必死に頭を下げたのは司法試験の合格祈願で神社巡りをしたとき以来だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい! ほんっと~にごめんなさい! 先に説明しておくべきだったんだけど、言いそびれちゃって。実は……」
しどろもどろになりながら、とにかく説明だけはした。
「……と言うわけで、つい『お金持ちで有名な彼氏がいる』って言っちゃったの。条件に合う知り合いなんてあなたしかいないし……知り合いって言うほどの仲じゃないのはわかってるけど、とにかく、他にいないの。お願い! 今日だけでいいから彼氏のふりして! お礼なら何でもするから」
バネのはじけたおしゃべり人形の勢いでそう言って、片目を開けてそうっと鴻志の様子をうかがった。鴻志は無表情に真梨子を見下ろしている。
――ああ……。やっぱり、だめか。
真梨子は絶望に沈み込んだ。
そう。だめに決まっている。しょせん、赤の他人なのだ。こんな芝居、してくれるはずがない。まして、前もって説明もされずにいきなり現場に連れてこられて『お芝居して』なんて言われて承知するはずがない。もうだめだ。全部、バレてしまう。秋子たちはこれから先一生、今日の件を覚えていて、ことあるごとに持ち出しては笑いものにするだろう。母親にも妹にももう顔を合わせられない。誰も訪ねてこないひとり暮らしのアパートで人知れず死んで腐乱死体で発見されることになるんだ。これって仕事一筋に生きてきた報い? やっぱり、母さんの言う通り、もっと男の人と付き合って、捕まえ方を学んでおくべきだった。くやしいけど母さんが正しかった。あたしがまちがってたんだ。ああ、時計の針を一〇年戻せたら!
絶望感にうちひしがれている真梨子を、鴻志はじっと見下ろしていた。やがて、口を開いた。
「つまり……」
鴻志は意外なぐらい穏やかな声で言った。
「おれが恋人なら、あんたのステイタスが上がるわけか?」
「えっ?」
「おれが恋人なら、あんたのステイタスが上がるんだな?」
「えっ、ええ、そうだけど……」
「……そうか」
鴻志はふと遠い目をした。
「おれが恋人ならステイタスが上がるのか」
真梨子は何か不思議な思いにかられてまじまじと鴻志を見た。
「……おれもそんな存在になったんだなあ」
鴻志はやけにしみじみした口調で言うと、軽く息を吐いた。それから真梨子に視線を戻した。穏やかな視線だった。
「わかった」
「えっ?」
思いがけない言葉に真梨子のほうが混乱した。
「その芝居、引き受けた」
「本当!」
「ああ」
「で、でも、なんで……?」
じっと、鴻志は真梨子を見つめた。真梨子は思わず赤面した。
「連中を見返したいんだろう?」
「えっ、ええ……」
「じゃあ、行こう」
短く言って歩き出した。真理子はあっけにとられて取り残された。鴻志はそんな真梨子に振り返った。
「何をしてる? 恋人のふりをするなら腕を組むくらいしろよ」
「あっ、そ、そうね……」
真梨子はあわてて駆けよって鴻志の右腕にしがみついた。勢いあまって胸を思いきり押しつけてしまった。赤くなって体をはなした。鴻志はといえばそっぽを向いてしまった。しかし、その寸前、頬が赤くなっているのが見えた。女には慣れていないらしい。ほんの数年前まで引きこもり生活をしていたとなれば当然か。真梨子は高校生を相手にしているような気になった。かわいいと思った。軽く吹き出した。鴻志が『何だよ?』と言う表情で見た。真梨子はお姉さん気分になって余裕が出てきた。鴻志の右腕を自分の体でそっと包み込んだ。
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