三〇代、独身、子なし、非美女弁護士。転生し(たつもりになっ)て、人生再始動!

藍条森也

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一七章

これが、ざまぁか……カイ……カン

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 そして、パーティーがはじまった。
 ふたりはたちまち注目の的となった。秋子や美里のあからさまに疑っている質問を鴻志はきちんとかわしてくれた。真貴絵に付き合いの深さはどうの、結婚の意志はどうのと聞かれたときにはさすがに辟易したようだが、それでも、ボロを出すことなく言葉巧みにまるめこんだあたりはさすがに言葉の専門家という貫禄だった。
 真梨子はその間ずっと、鴻志の腕にしがみついていた。こんな風に男性の腕に抱きつくなんて何年振りだろう。あまりに久しぶりで忘れてしまった。弁護士になってからは多分、はじめて。こうして男性の体温を身に感じていると、芝居であることを忘れて本当に彼氏のいる気分になってくる。肩に頭などよりかけて酔いしれてしまいそう……。
 気がつくと秋子の夫である大学教授の和之かずゆきと、喜美子の夫で外科医の博信ひろのぶが前に立っていた。ふたりは品定めるする様子で鴻志に話しかけていた。
 「樹くんに聞いたが……」
 和之がもったいぶった態度で言った。
 「君は何でも定時制高校中退らしいね」
 「ええ」
 「それでは何かと苦労も多かったろう。よくがんばったね」
 その言い方に真梨子は腹を立てた。ほめるようなことを言っているがその実、相手に学歴がないことをバカにして自分の学歴の高さを誇っているのが見えみえ。何て失礼なやつ。彼はたしかに学歴はないけど、でも、人を感動させるすばらしい物語を書けるんだから、と、まるで本当の彼氏を侮辱にされたように心のなかで叫んだ。
 鴻志は気にする風でもなく答えた。
 「そうでもないですよ。幸い、世間からはずれた変人はいくらでもいる世界ですからね」
 「それにしても、SFとはね」
 と、今度は博信が、やはり軽蔑まじりの口調で言った。
 「なぜ、そんな絵空事を書くのかね? 作家たる者、世界の真実を書くべきだと思わないのかね?」
 「私は小説や文学には何の興味もありませんからね。興味があるのは物語だけです。魅力ある物語を描いて多くの人に楽しんでもらえればそれでいいんです」
 「ふん、なるほど」
 博信はいかにも小バカにしたように鼻を鳴らした。
 「樹くんが言うには君はたいそう売れているそうだね。失礼だが、どれぐらい稼いでいるのかね?」
 真梨子はまたもムっとした。いかにも高収入を自慢している博信らしい質問だ。この博信も島村武雄におとらず金の亡者で収入によって人間の価値を決めるタイプ。いやしくも医者のはしくれであるならどれだけの人を救ったかを自慢するべきだろうに、ただただ収入のことだけを問題にするのだ。
 真梨子はそんな博信がきらいだった。こんな男と結婚するなんて喜美子ったら、わが妹ながら恥ずかしい。いままでもそう思ってきたけど今日はとくに強くそう思った。
 「年によってちがいますがね」
 そう前置きしてから告げられた鴻志の答えは鋭い鞭の一撃となって博信の自尊心を引き裂いた。
 「新作の映画化権が一六〇万で売れたところです」
 「一六〇万円? それでは生活も苦しいのではないかね?」
 「そうでもないですよ。ドルですから」
 そうと聞かされたときの博信と和之の表情の変化はまったく見物だった。ふたりともまず唖然として、次いで信じられないと言った表情になった。とくに博信などは一瞬息がとまり、顔全体が引きつったほど。顔の皮膚がひび割れ、はがれ落ちるのではないかと思うぐらい、その表情は強張った。
 『収入=人間の価値』という哲学をもつ博信だ。自分よりも高収入の人間を前にして圧力を感じたにちがいない。しかも、その相手が自分よりも若い男ということで途方もない屈辱を味わったのだろう。いい気味だわ、と真梨子は心から思った。
 「……ふ、ふん。まあ、低俗で大衆的なものほど売れるものだからね」
 和之は震える声で言いながら酒の入ったグラスを傾けた。大学教授でテレビにもよく出演しては不特定多数に向けて説教をくり返している和之は、収入だけではなく知性の面でも優越感をもっている。『売れるもの=低俗的なもの』、つまり、知性に欠ける作品と決めつけることで自分の自尊心を守ろうとしているのだ。
 その傲慢さに真梨子はまたも腹を立てた。何とかやりこめてやりたいと思った。それは鴻志がやってくれた。鴻志はこちらはオレンジジュースの入ったグラスをかかげて和之に尋ねた。
 「あなたは大学教授だそうですね。ぜひ、学者の方の意見を聞きたいと思っていたんですが、人類進化の歴史の定説はちょっとおかしいと思いませんか? 類人猿が樹から降りてヒトになったといいますが、最古のヒト属であるホモ・ハビリスは先行する猿人たちより腕が長い。腕が長いということは樹上生活への適応を示唆しているわけで、この事実は……」
 突然、進化論論争を挑まれた和之は目をしぱたたかせながらさえぎった。
 「……すまないが、そういう話は専門外でね」
 「では、ご専門は?」
 「英文学だ」
 和之は胸をそらして言い放った。『お前なんぞに英文学は語れまい』という態度だ。しかし、鴻志はその傲慢な態度をあっさりとねじ伏せた。
 「英文学ですか。私もイギリスの物語は好きですよ。とくにウェールズなどの民話などはね。あの国には民話世界の豊饒なる伝統がある。そんな世界に子供の頃からふれているわけです。イギリス人にすぐれたファンタジーの書き手が多いのも納得できます。あの豊饒さにふれるつど『これはかなわん』と思いますよ。ところで、その国の気候風土と物語文化の関係についてはどう思われます?」
 「なんだって?」
 「たとえば日本では世界的に類を見ないほどマンガか発展しましたね。一般的には『日本には手塚治虫がいたからだ』と説明されますが、これはどうでしょう。手塚治虫が比類なく偉大なマンガ家であるというのは当たり前ですが、だからと言ってマンガという表現型式そのものを生み出したわけではない。手塚治虫にしても子供の頃から先人のマンガを読んで育ったわけですからね。やはり、日本にはもともとマンガが発展しやすい下地があったと思うんです。
 そこで思い出したのが多くの絵物語の存在です。絵物語そのものはどの文明にもありますが、それらはたいがい神話の範囲で終わっている。日本のように完全な物語にまで発展した例は他にないと思うんです。
 なぜ、日本では絵物語が発展したかと言うと、識字率の問題だと思うんです。識字率が低ければいかなる物語も口承で伝えるしかない。しかし、ご存じの通り、日本は昔から世界でも例外的に識字率の高い国です。識字率が高ければ文章として配布できる。日本で絵物語が発展したのは字を読める庶民が多かったため、文章が庶民の娯楽として通用したからではないでしょうか。
 娯楽なら派手な絵を入れたほうが人目を引きやすいのはもちろんですしね。そう考えればマンガが発展しながら、その一方で軽蔑されてきた理由も説明できます。もともと、絵物語が庶民のものだったからこそ、低く見られたのではないでしょうか。
 では、なぜ日本では識字率が高かったのか。その点で日本の気候風土が影響しているのではと考えるわけです。
 日本は山に囲まれた水量豊かな土地柄。風土それ自体が水田耕作に向いているわけです。そして、水田耕作は大規模な組織化を必要とする複雑な農法です。住民が効率よく協力するために文字による管理が必要となり、そのために識字率も高くなったのではないでしょうか。こう考えてくると日本でマンガか発展したのはその土地の気候風土のゆえだ、ということになるわけです。
 もちろん、この仮説を証明するためには同じ稲作文化圏である南中国から東南アジア、インドにかけての物語文化の比較が必要ですけどね。
 そこで、英文学の専門家にお聞きしますが、イギリスの気候風土はその物語文化にどのような影響を与えたのでしょう?」
 途切れることなく出てくる学問的な言葉の洪水に目を白黒させていた和之は、鴻志の質問にようやく我に返ったらしい。わざとらしく咳払いなどする。
 「し、失礼。妻をまたせているのでね……」
 などと言い訳しながらあたふたと逃げていく。博信も一緒に退散した。ふたりとも、これ以上鴻志と関わっていたら自分の自尊心が保たれ得ないことに気がついて逃げ出したのだ。
 真梨子は胸がすうっとするのを感じた。
 『やったあ!』と大声で叫びたい気分だった。普段、他人を小バカにしては優越感を振りまいているふたりが今回ばかりは、いつも自分が踏みにじっている側に立たされたのだ。こんなに気分のいいことはない。
 収入自慢と知性自慢をひとりで木端微塵に粉砕したSF作家は小さくガッツポーズなど作りながら、呟いた。
 「おれの勝ちだ」
 やけにしみじみとした実感のこもった口調が真梨子には意外でもあり、印象的でもあった。大学教授に何か恨みでもあるのかしら、と思った。そこで思い出した。鴻志は定時制高校中退。学歴などはないに等しい。その鴻志にして見れば高学歴者に対する意地というか、対抗意識のようなものがあるのかも知れない。『学歴はなくても頭脳はおれのほうが上だ』というプライドがいわしめた一言だったろうか。
 真梨子はそんな鴻志に尊敬の念を抱きはじめた。実のところ、鴻志が何を言っていたのか真梨子にもわからないのだが、とにかく、立派そうで、賢そうなことを言っていた。あれだけのことをぺらぺらと喋れるようになるにはやはり相当に勉強したのだろう。鴻志はそれをたったひとりで、図書館に通いつめることでやり遂げたのだ。そして、現役の大学教授が太刀打ちできずに逃げ出さずにはいられないほどの知性を身につけた。周囲の扱いに負けることなく、いじけることもなく、ここまで自分を磨くなんて。
 それをやり遂げるのにどれだけのエネルギーが必要だろう。鴻志はそれをやった。何てすごい人だろう。真梨子は素直に敬意を感じた。好意を通り越して憧れに近い視線で鴻志を見た。鴻志はそんな視線で見られていることにも気がつかないようで、パーティ会場を見渡していたけれど。
 パーティの間中、真梨子は注目の的だった。正確には連れである鴻志が注目されていた。世界的なSF作家である鴻志の名声と収入とはこの華やかなパーティの出席者たちの間でもひときわ抜きん出たものであり、人々の注目と羨望と、さらには嫉妬までも集めずにはいなかった。素直な称賛から妬みそねみ、信じられないという思い、胡散くささなど、さまざまな思いを込めた視線がスポットライトのように集中し、その横にいる真梨子もまた脚光を浴びる結果となっていた。
 『成功した男とくっついている女ならきっと、それだけの魅力をもっているのだろう』という先入観のおかげで、人々の目に実際よりも魅力的に映るのだ。たとえ、さしてきれいでもない三〇女だとしても。
 実のところ、そのような脚光の浴び方は真梨子本来の生き方とは外れている。少しでも世の中の役に立ちたいと、自立した人間であろうとつとめてきた。自分自身の輝きではなく、他人の七光でよく見られるというのはむしろ、屈辱的なことである。
 とはいえ、実際に人々の注目を浴び、主役級の扱いを受けるのは気持ちよかった。いままでブランド物を買いあさる女をバカにしていたがその気持ちがわかった気がした。
 たとえ、自分自身ではなく、身につけたアクセサリーのせいだとしても、周囲の注目を浴びれば自分が偉くなったように思える。自分に自信がもてる。その快感はまるで空を飛ぶようで、足もとがふわふわと浮いているような高揚感をもたらしてくれる。この快感はたしかにすてがたい。
 これからはもう、ブランド中毒の女性をバカにするのはやめよう。深く理解し、共感してあげよう。
 そう誓った。
 もちろん、この自信も、快感も、幻に過ぎないことはわかっている。鴻志と別れればそれっきり。光を奪われ、再びその他大勢という暗闇のなかに置き去りにされるだけ。
 この脚光を本当に自分のものにするためには自分自身がかわらなければならない。自分という人間自体に価値をつけなければならない。それは充分すぎるほどわきまえている。その上でいまは、この快感を感じていたかった。心行くまで味わいたかった。だって、今までずっと脚光を浴びる他人の姿を舞台の下から見上げるだけの負け犬人生を送ってきたんだもの。一生に一度くらい、いい気になったっていいでしょ?
 パーティの中心に君臨し、女の喜びを満喫している真梨子の目に秋子と和之の姿が飛び込んできた。いつもパーティの中心にいて注目を浴びていたはずのふたりはこの日ばかりは中心から外れたところで何やら揉めている様子だった。和之が秋子に当たりちらし、秋子はそれに辟易しながら必死になだめている様子。真梨子はちょっとばかり後ろめたさを感じながらも、優越感に鼻を鳴らした。
 和之の気持ちは手にとるようにわかった。和之はいままで常にもっとも知的な男として君臨し、本人もそのことをひどく誇りにしていた。それが和之のアイデンティティーだった。それが今回、自分よりもずっと若い男にその地位を奪われた。それがくやしくてならないのだ。自尊心を引き裂かれ、アイデンティティを失いかねないほどのショックを受けたにちがいない。
 と言って、すでに逃げ出してしまった以上、鴻志と対決することはできない。忿懣やるかたない思いは自然と、その男を招くという、よけいな真似をした妻に向けられた。そして、秋子に当たり散らしているというわけだ。
 『よくも恥をかかせやがって』という心の声がはっきりと聞こえてるようだった。
 秋子のほうはと言えば夫の怒りが理解できない様子でおろおろしながらなだめているのがはっきりとわかった。少しはかわいそうにも思ったが、それ以上にいい気味だと思った。普段、女王ぶってる報いよ。たまには思い知るといいわ。
 別の一角では美里と樹のカップルも不穏な空気に包まれていた。こちらは美里のほうが樹に向かって冷たい視線を投げつけながら、ときおり、何か口ばしっている。声は聞こえないが表情から察するにさぞかしけわしい言葉なのだろう。美里の口が開くたびに樹が表情をゆがませるのが痛々しい。
 美里の気持ちははっきりとわかった。いつでも主役でいたい美里としては若いクリエイターをアクセサリーがわりに確保することで自分に箔をつけたつもりだった。ところが、そのお披露目パーティにすでに多大な名声を得ている本物のクリエイターが現れた。
 鴻志の前では樹はしょせん、ものになるかどうかもわからない若造でしかない。それでは樹は美里の自慢にはならない。おそらく、『何であなたの絵は高く売れないのよ』とか何とか難癖をつけ、樹を傷つけるようなことを言っているのだろう。美里がカクテルをあおりながら何か言うつど、樹は拳を握りしめ、若々しい唇をかみ締めている。
 真梨子はその様子を見ているうちに腹が立ってきた。美里が屈辱感を味わっているのはいい気分だけど、樹に当たるなんてひどい。樹はまだ二一歳。感じやすい年頃なのに。自分の箔付けのために若い芸術家を捕まえておきながら都合が悪くなるといじめるなんて最低だわ。もっとも、そう思う一方では何を言われてもじっと耐えるだけの樹が歯がゆくもあったけれど。
 ――ああ、もう! 男ならがつんとやってやればいいのに……!
 そう思って樹にも腹を立てた。
 でも、ふたりの様子を見ているうちに気がついた。樹がときおり、ちらちらと視線をこちらに送ってくる。熱のこもったその視線は鴻志に向けられていた。その瞬間、真梨子は気がついた。樹は鴻志と話したがっている。
 その思いは天啓のように真梨子の脳裏にひらめいた。そうだ。何でもっと早く気がついてあげられなかったんだろう。樹のような夢を追い求めてがんばっている若いクリエイターにとって、引きこもりから希代の成功者へと転身した鴻志はまさに『生ける神話』。成功の象徴であり、未来への希望そのものであるにちがいない。
 話したいと思って当然だ。でも、まじめで純情な樹には自分から話しかけるだけの踏ん切りがつかないのだろう。第一、美里がそんなことを許すはずもない……。
 ――となれば、年長者のあたしが段取りをつけてあげなくちゃね。
 と、真梨子はまるで樹の姉になったような気分で鴻志の腕をひっぱった。
 「ねっ、鴻志、ほら。彼、後藤樹くん」
 真梨子は指さしながら言った。鴻志のことを思わす名前で、しかも呼び捨てにしたことには気づかなかった。恋人同士の振りをして、まわりからそう扱われているうちに本当にそんな気がしてついつい気安くなってしまったのだ。
 鴻志はそのことに気がついた。釈然としないものを感じたが、結局は受け流した。とにかく、彼氏役は引き受けたのだし、となれば、呼び方を訂正するのは不自然すぎる。おとなしく真梨子に合わせることにした。
 真梨子はつづけた。
 「彼、あなたと話したがってるわ。あたしが美里を引きはなすからその間に話しかけてあげてよ」
 「おれと話したがってる? 何で?」
 「何言ってるの。彼、画家志望だって言ったでしょ。同じクリエイターとしてすでに成功しているあなたと話したがるのは当然でしょ。じゃ、お願いね」
 「あ、おい……」
 真梨子は言うだけいうと組んでいた腕をほどき、さっさと歩き出した。鴻志はその背に声をかけたが、無視された。真梨子は美里と樹のもとに行くと二言三言話し、美里を連れてどこかに行った。後には樹がぽつんと残された。
 樹は社交的な性格ではないらしい。パーティ会場にひとりで取り残され、どうしていいかわからない様子で困ったように立ちつくしていた。そんな樹の様子を見ながら、彼以上に非社交的な人間である鴻志はさらに困っていた。
 見ず知らずの人間と話すのは苦手なのだ。自分から話しかけるのはもっと苦手だ。ついつい不必要にかまえてしまう。頼まれたからといっても話しかける踏ん切りはなかなかつかない。
 ――と言っても、頼まれたことを無視するわけにもいかないからなあ。
 心のなかでため息をついた。そんなことをすれば真梨子はやはり気を悪くするだろう。事情も説明せずにパーティ会場に連れてきて、彼氏役の芝居をさせてくれた相手になど義理を感じる必要はない、とも思ったがやはり、人の気を悪くするようなことはしたくない。そんなことは性に合わない。それに……。
 鴻志は息をついた。
 ――仕方ない。行くか。
 意を決して樹に向かって歩き出した。樹は美里を捜すように視線を巡らしている。鴻志が近づいてくることに気づいていない。鴻志は意識しておちついた声を出した。
 「後藤さん」
 樹は名字を呼ばれて振り向いた。そこに鴻志の姿を見出して仰天した。鴻志に話しかけられることがあるなんて思ってもいなかったのだろう。大きく口を開け、今にも心臓発作を起こしかねないほどの驚きようだった。
 「も、森山さん……」
 やっと、それだけを言った。
 鴻志は思わず微笑をもらした。自分の存在をこんな風に捉えてくれる相手がいる。それはこそばゆいけれど、やはり、うれしいことだった。
 「あなたは画家だそうですね」
 「え、ええ……」
 鴻志の言葉に樹は恥ずかしそうに答えた。
 「……でも、全然売れなくて。しょせん、僕には才能なんてないのかも」
 自嘲気味にそう語る樹の姿に鴻志は胸をつかれた。樹の気持ちはよくわかった。鴻志自身、同じ思いにかられたことは何度もある。渾身の力をこめて作り上げた作品が認められないことのくやしさ。自分の能力に対する失望。世間に認められ、成功していく見ず知らずの他人への妬み。将来への不安。誰にも求められない作品を作りつづけるさびしさ。それでもあきらめ切れずにしがみついていることのみじめさ。それらの思いが混じり合い、疲れ果て、何もかも放りすてたくなったことは一度や二度ではない。
 ――以前のおれか。
 自分の身が恥ずかしくてまともに目も合わせられない若者の姿を見ながらそう思った。胸のしめつけられる思いだった。たまたま編集者の目にとまりデビューできたから道が開けたものの、そうでなければいまだに引きこもりのまま、他人の目を恐れる生活をつづけていたはずだ。あるいは、自殺していたか。それを思うと樹の姿は我がことのように感じられ、痛々しくて見ていられないほどだった。他人にあれこれ言うのは偉ぶっているようで趣味ではないが、この場ばかりは励ましてやりたくなった。
 「私がデビューにこぎ着けたのは三〇を過ぎてからですよ」
 鴻志は静かに言った。
 「しかも、その間ずっと、親の金で暮らしていた。あなたは家を出てバイトしながら絵を描きつづけてきたんでしょう? あなたは私などよりずっと立派だ。自分を恥じる必要はない」
 「……森山さん」
 「月並みな言葉ですが。あきらめないことです。どんなに可能性が低く見えても挑戦しなければ。あきらめてしまえば可能性はゼロなんですからね。あなたはまだ二一だ。自分を疑うには早すぎる」
 「……あ、ありがとうございます」
 樹の表情がぱあっと明るくなった。
 「天才と呼ばれる人からそんなことを言ってもらえるなんて。何だか勇気がわいてきました。わかりました。これからも絵を描きつづけます」
 純情な若者らしく無邪気に喜んでいる。鴻志は言葉をかけるかわりに軽く微笑んで見せた。
 樹は思いきったように尋ねてきた。
 「あ、あの……握手していただけますか?」
 「はっ?」
 他人に握手を求められることがあるなどと思ったこともない鴻志である。思わず間の抜けた答え方をしてしまった。とたんに樹の表情が不安に曇った。『調子に乗ってきらわれた』と思ったのだろう。鴻志はそれと察してあわてていった。
 「あ、ああ、喜んで」
 右手を差し出した。樹はすぐにうれしそうな笑顔になって鴻志の手を両手で握りしめた。感触を確かめるようにしっかりと握りしめる。若々しい顔が感激に輝いていた。鴻志のほうがとまどう熱烈さだった。
 「あら。ずいぶん、仲がよさそうね」
 美里の怒っている声がした。眉をつりあげ、いかにも挑戦的な目付きの美里と、時間稼ぎに失敗して申し訳なさそうな真梨子が側に立っていた。
 美里は樹をにらみつけた。樹はその表情にすくみあがり、完璧に調教されたペットの従順さで美里の側によった。鴻志の視線を避けるように顔を背け、美里の後ろにまわった。自分のいまの姿を恥ずかしいものと思い、あこがれの存在である鴻志に見られたくない、と思ったからだろう。
 美里はペットをたしなめる飼い主の視線で樹を一瞥した。樹は頬を赤く染め、ますます縮こまった。樹の頬が赤くなったのが恥ずかしさのためか、それとも、怒りのためかはわからない。もし、自分に対する怒りであるなら、ペットの立場に甘んじることもそう長くはないだろう、と鴻志は思った。
 ペットに捨てられる恐れがあるなどとはまったく考えることもできないらしい美里は、鴻志に視線を移し、じろじろと見つめた。明らかな値踏みする視線。高級ブランドに身を固めたかなりのいい男。背も高くて均整もとれている。おまけに世界的な大作家。金持ち。そんな男が真梨子なんかと恋人のはずがない。もし、それが事実だとしたら自分は真梨子に負けることになる。このあたしが。真梨子ごときに。そんなことはまちがっている。決して、あってはならない!
 そう思っているのが見えみえの視線。そんなこと絶対にあるわけがない。窮地に追い込まれて恋人役を無理やり頼み込んだだけに決まっている。化けの皮をはがしてやる。そう決意しているのが手に取るようにわかった。
 「森山さん」
 美里は嫉妬と怒りと疑惑とで嵐のように荒れ狂う内心を見事なほどに押しかくし、表面的にはあくまでもエレガントさを失うことのない声で言った。
 「驚きましたわ。あなたみたいな人が真梨子の恋人だなんて。だって、真梨子ったら学生時代から男性とはてんで縁のない方でしたから」
 「……ちょっと、美里!」
 と、こちらも美里の意図を悟った真梨子があわてて口をはさんだ。もし、鴻志との関係がばれたら、それこそ人生の終わり。よってたかって自殺するしかないところまでいじめまくられる。
 必死にとめに入ったものの、真梨子の手に負える美里ではない。美里は真梨子の手を払いのけ、さらに鴻志につめよった。
 「正直、『ほんとかしら』なんて気もしますの。いったい、真梨子のどこがお好きなのかしら?」
 軽く小首をかしげ、にこやかに笑って言ってのける。真梨子ははらはらして見守っていた。美里は尻尾をつかむまで追及の手を緩めはしないだろう。鴻志はどこまでボロを出さずにすむことか……。
 だが、真梨子の心配は無用のものだった。鴻志は下手に言葉を返してボロを出すような危険はおかさなかった。かわりに人差し指を顔の前で優雅に振って見せた。
 「ちっちっちっ」
 それからメガネをとってスーツの胸ポケットにしまい、かっちりとセットした髪を手で荒っぽく後ろになでつけた。そして、真梨子の手を取った。
 真梨子が驚いたことに、急に手を引かれた。力強く、強引に。真梨子の人生のなかでこんな風に男性に扱われたことは一度もなかった。胸元に引きよせられ、振りまわされ、また引きよせられる。最初はわけがわからなかったが、やっとそれがダンスの動きであることに思いあたった。
 鴻志は踊りながら真梨子の耳元に顔をよせ、ささやくように歌い出した。

 朝 目覚めの紅茶を飲みながら
 僕は喜びを感じる
 また君と出会える一日がはじまることに

 感情のこもった、それでいてテンポのいい歌い方。突然、はじまった歌と踊りに全員の視線がふたりに集中する。美里にいたってはあっけにとられ、いままで何とか取り繕っていたエレガントさも忘れ、目と口を大きく開けてぽかんと見つめていた。

 ネクタイをしめながら
 僕は祈りを捧げる
 君といるだけで幸せになるこの心が永遠につづくことを
 君も同じ幸せを感じてくれることを
 ふたりでいついつまでも幸せでいられるように
 君を失えば僕の人生は退屈なものになる

 鴻志は歌う。ときにささやくようにしっとりと。ときに皆に聞かせるように力強く。そして、ときに語りかけるようにやさしく。真梨子は鴻志が本当に自分の恋人で、最高の愛の告白をされているような気分になった。
 彼女は本当に驚いていた。ほんの数年前まで誰とも関わることなく、ひとりで生きてきたはずの人間にどうして、こんなことができるのか。その疑問はしかし、すぐに消え去った。そんなことを考えている余裕もないほど、鴻志のリードは強引で、そして……素敵だった。
 鴻志は真梨子の手をとって踊りながら、ときおり、頬と頬をよせ合うようにして歌いつづける。歌が進むほどにふたりを見るパーティー客たちの視線も熱くなり、頬が紅潮し、興奮していく。人々の目が輝き、自然とあちこちでパートナー同士が手を組み、抱き合いはじめる。それをリードするかのように鴻志の歌声はつづく。

 電車のなかで押されながら
 僕は喜びを感じる
 君と出会えるときが近づくことに
 書類を渡す手と手かふれたとき
 僕は祈りを捧げる
 君といるだけで幸せになるこの心が永遠につづくことを
 君も同じ幸せを感じてくれることを
 ふたりでいついつまでも幸せでいられるように
 君を失えば僕の人生は退屈なものになる。
 さあ 愛しい人
 いつ いつまでもふたりで幸せになろう
 僕の祈りに応えて
 いつ いつまでもふたりで幸せになろう

 鴻志は真梨子の手を放した。両手を頭の上で叩き、パーティー客たちをあおりたてる。はじめから歌いなおす。意図はすぐに人々に伝わった。簡単なその歌詞は覚えるのもたやすい。すぐに全員による合唱になった。手拍子が鳴り響き、無数の歌声がひとつになり、あちこちで抱き合い、キスを交わす姿が生まれた。その場がただのパーティー会場ではなく、愛を交わす神殿と化したかのようだった。
 無数の歌声に包まれながら──。
 真梨子は人生初の感動に震えていた。
 ──これが……これが、ざまぁなのね。
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隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

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