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一八章
ラブコメ好きなんて意外だったわ
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夕暮れ時の紅く染まった空の下を、パーティ帰りの車は鴻志の家に向かって走っていた。
真梨子はハンドルを握りながら隣の席をちらりと横目でのぞき見た。そこでは鴻志がいかにも『疲れ果てた』という様子で半分溶けたスライムみたいにだらっーとシートに身を沈め、目をつぶって屋根などを仰いでいる。これでもこもこした服を着て、無精髭を延ばして野性の匂いをぷんぷんさせていれば、冬山で遭難したところをようやく助けられて安堵している登山者といったところ。
ここまで疲労した姿を見せられて真梨子はさすがに気になった。まったく、鴻志はよくやってくれた。完璧に、それ以上に見事に恋人役を演じてくれた。鴻志の歌と踊りとは百万の言葉を費やすよりもはるかに強烈に、ふたりが恋人同士であることを印象づけた。美里でさえそれと認めざるをえず、歯ぎしりをして途中で帰ってしまったほど。そのときの美里の表情ときたらまったく見物だった。
――ざまあみろ! 日ごろ、人をばかにしてる報いよ!
真梨子は心のなかで快哉を叫ばずにいられなかった。
三〇年を越える人生のなかで、これほどの爽快感を味合わせてもらったのははじめて。いくら感謝してもしきれない。しかも、その代償として鴻志をこれほど疲れさせてしまった。無理に彼氏役などを頼んだ……と言うか、いきなりやらせた身としては気遣いのひとつも見せたいところ。真梨子はここ数年感じたことがないほどやさしい気持ちになった。
「お疲れさま……」
心からの感謝と気遣いとを込めて言った。
「……鴻志」
言ってからはたと気づいて口を押さえる。あわてて詫びる。
「あっ、ご、ごめんなさい、呼びすてになんかして。つい……」
「いまさら何を。パーティーのときから呼び捨てだったぞ」
「ほ、本当?」
仰天して叫んだ。そんなにもあつかましかったなんて。恥ずかしさに頬が真っ赤になった。
「……まあ、いいさ。呼びすてにされて困るわけでもない」
その言葉に真梨子は何とか自分を取り戻し、微笑んだ。改めて礼を述べた。
「……でも、ありがとう。本当に助かったわ。あんなに社交的になれるなんて驚いちゃった」
「おれは作家だぞ。その場に応じて必要なキャラを演じるぐらい、できなくてどうする」
無理な芝居をしたせいで疲れはてた、と言うわけだ。
「……何でそんなに無理してまで協力してくれたの? あたし、赤の他人なのに」
「連中を見返したかったんだろう?」
「……ええ」
「気持ちはわかる」
鴻志の答えは短かったが、簡単には汲み取れない重みがつまっていた。真梨子は何とかその言葉の意味を汲み取ろうとした。
鴻志は物心ついてからずっと、屈辱まみれの鬱屈した人生を送ってきた。その屈辱を晴らし、自分を侮辱した相手を見返したい、という気持ちは人一倍のはず。だからこそ、協力してくれた。他人の傷が自分のことのように感じられるから……かしら?
真梨子は心のなかで首をかしげた。いまの鴻志だけしか知らなければ素直にそう結論しただろう。しかし、真梨子はもうひとりの鴻志も知っている。事務所で見た、『自分の受けた傷を一〇〇倍にして返してやらなければ気がすまない』と憤怒に燃えている鴻志の姿を。
あのときの鴻志には他人のことを思いやる心などひとかけらも感じられなかった。自分のことだけを考え、ひたすら復讐を望むだけの人間、いや、鬼だった。その鴻志といまの鴻志がどう結びつくのか。真梨子には理解できなかった。
それからしばらく沈黙が流れた。真梨子は『ふたりの鴻志』を心に見ながらぎゅっと唇をかみ締め、運転していた。鴻志は目を閉じて静かにシートに身を沈めている。
真梨子はふいに明るい表情と声になった。
「でも、びっくりしたわ! あんなに歌やダンスがうまいなんて。どこで習ったの?」
「『ベスト・フレンズ・ウェディング』を見てさ」
との鴻志の答えは、真梨子にとってかなり意外なものだった。
「知らないか? ジュリア・ロバーツ演じるヒロインに彼氏役を頼まれたゲイの男が、人前で歌いはじめるシーン。すぐにその場にいた全員が同じ歌を唄いだして、合唱に包まれるんだ。そのシーーンが妙に気に入っていてな。あのシーンだけを何十回見たことか」
「へえ」
ラブロマンスを見ているなんてちょっと意外。妙に手慣れている印象だったけど、それも『勉強』の成果だったわけね。
鴻志はつづけた。
「けど、あの映画ではジュリア・ロバーツよりキャメロン・ディアスの方がかわいくてよかったな。やはり、ジュリア・ロバーツは『プリティ・ウーマン』にとどめをさすな」
「恋愛映画、好きなの?」
「純愛物は受け付けないけどな。コメディ色の強いものはわりと好きだったりする。とくに、昔のミュージカル映画は妙に趣味に合うんだよな。『雨に唄えば』とか」
「……もしかして、雨に向かって唄ったりした?」
「……一回、やった。しかし、現実で映画の真似なんかするものじゃないな。他人に見られたときの気まずさと言ったら」
鴻志はそう言って溜め息をついた。
傘を片手に雨を降らせる空を見上げて唄って踊る鴻志と、それに気付いて唖然とする人の姿。見られていることに気がついて我に返る鴻志……その姿を想像して、思わず吹き出す真梨子だった。
「実際、あの頃の映画は登場人物に品があっていい。いまみたいにCGでごまかすことができないから演技もしっかりしているしな。何で、ミュージカル映画というやつは廃れたのかね。本当に面白い新作ミュージカル映画を見てみたいもんだ。ああ、でも、昔ながらの無声映画というやつもいいよな。チャップリンの演技はやはり、見事なものだった」
鴻志は滔々と語り続ける。それこそ、友人同士で趣味について語り合うように。半ば以上、独り言のようなものだったけど、自分に対して気を許してくれたようで真梨子は嬉しかった。
「……とにかく、ありがとう」
真梨子は改めて言った。
「何度言ってもたりないわ。本当にどうしていいかわからないところだったから。どうお礼をすればいいか……」
「いいさ」
鴻志は真梨子の言葉をさえぎった。
「この件の報酬はもう受け取った」
「えっ?」
真梨子は意味が分からず思わず鴻志を見た。
鴻志は目を開けた。顔を下に向けた。右手を広げた。その手のひらをじっと見た。後藤樹の握手を受けた手を。
「……おれが他人に握手を求められるとはね」
そう言って、呟いた。
「……ここまできたんだなあ」
真梨子はハンドルを握りながら隣の席をちらりと横目でのぞき見た。そこでは鴻志がいかにも『疲れ果てた』という様子で半分溶けたスライムみたいにだらっーとシートに身を沈め、目をつぶって屋根などを仰いでいる。これでもこもこした服を着て、無精髭を延ばして野性の匂いをぷんぷんさせていれば、冬山で遭難したところをようやく助けられて安堵している登山者といったところ。
ここまで疲労した姿を見せられて真梨子はさすがに気になった。まったく、鴻志はよくやってくれた。完璧に、それ以上に見事に恋人役を演じてくれた。鴻志の歌と踊りとは百万の言葉を費やすよりもはるかに強烈に、ふたりが恋人同士であることを印象づけた。美里でさえそれと認めざるをえず、歯ぎしりをして途中で帰ってしまったほど。そのときの美里の表情ときたらまったく見物だった。
――ざまあみろ! 日ごろ、人をばかにしてる報いよ!
真梨子は心のなかで快哉を叫ばずにいられなかった。
三〇年を越える人生のなかで、これほどの爽快感を味合わせてもらったのははじめて。いくら感謝してもしきれない。しかも、その代償として鴻志をこれほど疲れさせてしまった。無理に彼氏役などを頼んだ……と言うか、いきなりやらせた身としては気遣いのひとつも見せたいところ。真梨子はここ数年感じたことがないほどやさしい気持ちになった。
「お疲れさま……」
心からの感謝と気遣いとを込めて言った。
「……鴻志」
言ってからはたと気づいて口を押さえる。あわてて詫びる。
「あっ、ご、ごめんなさい、呼びすてになんかして。つい……」
「いまさら何を。パーティーのときから呼び捨てだったぞ」
「ほ、本当?」
仰天して叫んだ。そんなにもあつかましかったなんて。恥ずかしさに頬が真っ赤になった。
「……まあ、いいさ。呼びすてにされて困るわけでもない」
その言葉に真梨子は何とか自分を取り戻し、微笑んだ。改めて礼を述べた。
「……でも、ありがとう。本当に助かったわ。あんなに社交的になれるなんて驚いちゃった」
「おれは作家だぞ。その場に応じて必要なキャラを演じるぐらい、できなくてどうする」
無理な芝居をしたせいで疲れはてた、と言うわけだ。
「……何でそんなに無理してまで協力してくれたの? あたし、赤の他人なのに」
「連中を見返したかったんだろう?」
「……ええ」
「気持ちはわかる」
鴻志の答えは短かったが、簡単には汲み取れない重みがつまっていた。真梨子は何とかその言葉の意味を汲み取ろうとした。
鴻志は物心ついてからずっと、屈辱まみれの鬱屈した人生を送ってきた。その屈辱を晴らし、自分を侮辱した相手を見返したい、という気持ちは人一倍のはず。だからこそ、協力してくれた。他人の傷が自分のことのように感じられるから……かしら?
真梨子は心のなかで首をかしげた。いまの鴻志だけしか知らなければ素直にそう結論しただろう。しかし、真梨子はもうひとりの鴻志も知っている。事務所で見た、『自分の受けた傷を一〇〇倍にして返してやらなければ気がすまない』と憤怒に燃えている鴻志の姿を。
あのときの鴻志には他人のことを思いやる心などひとかけらも感じられなかった。自分のことだけを考え、ひたすら復讐を望むだけの人間、いや、鬼だった。その鴻志といまの鴻志がどう結びつくのか。真梨子には理解できなかった。
それからしばらく沈黙が流れた。真梨子は『ふたりの鴻志』を心に見ながらぎゅっと唇をかみ締め、運転していた。鴻志は目を閉じて静かにシートに身を沈めている。
真梨子はふいに明るい表情と声になった。
「でも、びっくりしたわ! あんなに歌やダンスがうまいなんて。どこで習ったの?」
「『ベスト・フレンズ・ウェディング』を見てさ」
との鴻志の答えは、真梨子にとってかなり意外なものだった。
「知らないか? ジュリア・ロバーツ演じるヒロインに彼氏役を頼まれたゲイの男が、人前で歌いはじめるシーン。すぐにその場にいた全員が同じ歌を唄いだして、合唱に包まれるんだ。そのシーーンが妙に気に入っていてな。あのシーンだけを何十回見たことか」
「へえ」
ラブロマンスを見ているなんてちょっと意外。妙に手慣れている印象だったけど、それも『勉強』の成果だったわけね。
鴻志はつづけた。
「けど、あの映画ではジュリア・ロバーツよりキャメロン・ディアスの方がかわいくてよかったな。やはり、ジュリア・ロバーツは『プリティ・ウーマン』にとどめをさすな」
「恋愛映画、好きなの?」
「純愛物は受け付けないけどな。コメディ色の強いものはわりと好きだったりする。とくに、昔のミュージカル映画は妙に趣味に合うんだよな。『雨に唄えば』とか」
「……もしかして、雨に向かって唄ったりした?」
「……一回、やった。しかし、現実で映画の真似なんかするものじゃないな。他人に見られたときの気まずさと言ったら」
鴻志はそう言って溜め息をついた。
傘を片手に雨を降らせる空を見上げて唄って踊る鴻志と、それに気付いて唖然とする人の姿。見られていることに気がついて我に返る鴻志……その姿を想像して、思わず吹き出す真梨子だった。
「実際、あの頃の映画は登場人物に品があっていい。いまみたいにCGでごまかすことができないから演技もしっかりしているしな。何で、ミュージカル映画というやつは廃れたのかね。本当に面白い新作ミュージカル映画を見てみたいもんだ。ああ、でも、昔ながらの無声映画というやつもいいよな。チャップリンの演技はやはり、見事なものだった」
鴻志は滔々と語り続ける。それこそ、友人同士で趣味について語り合うように。半ば以上、独り言のようなものだったけど、自分に対して気を許してくれたようで真梨子は嬉しかった。
「……とにかく、ありがとう」
真梨子は改めて言った。
「何度言ってもたりないわ。本当にどうしていいかわからないところだったから。どうお礼をすればいいか……」
「いいさ」
鴻志は真梨子の言葉をさえぎった。
「この件の報酬はもう受け取った」
「えっ?」
真梨子は意味が分からず思わず鴻志を見た。
鴻志は目を開けた。顔を下に向けた。右手を広げた。その手のひらをじっと見た。後藤樹の握手を受けた手を。
「……おれが他人に握手を求められるとはね」
そう言って、呟いた。
「……ここまできたんだなあ」
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