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一九章
まさか、お家ディナーに誘われるなんて……
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車が鴻志の家についた。真梨子は門の前に車をとめた。こんなにも早くついてしまったことに自分でも驚くぐらいがっかりした。もっと側にいたかった。もっと話をして、もっとよく知りたかった。それなのに。
ちらりと横目で鴻志を見た。鴻志はシートベルトを外し、車を降りようとしているところだった。鴻志はこのまま家に入っていく。そして多分、二度と会うことはないのだろう。そう思うとまるで生まれた頃からずっと一緒にいる親友と別れるかのようなさびしさを感じた。
ドアの閉まる音がした。挨拶すらない。真梨子はため息をついた。仕方がない。鴻志とはもともと友人でもなんでもないのだ。恋人の芝居などしていたので親しくなったように勘違いしていただけ。さあ、早く帰ろう。明日からまた金の亡者との付き合いがはじまる……。
真梨子はもう一度、憂鬱な気分でため息をついた。いっそ、このままどこかに消えてしまいたくもなったが、自分にそんな思いきりなどないことはよく承知している。それがなおさら憂鬱な気分にされた。
――とにかく、家に帰ろう。
なんとか気を取りなおして自分にそう言い聞かせた。お腹もぺこぺこ。パーティでは次からつぎへと話しかけられたのでほとんどなにも食べることができなかった。家に帰って、買い置きのレトルト食品を電子レンジで暖めて、ヤケ食いして寝てしまおう。目が覚めたときには少しは気も晴れているだろう……。
エンジンをかけようとした。窓を叩く音がした。振り向くと鴻志が車のドアをのぞき込みながら窓をノックしていた。真梨子はびっくりして体を延ばし、窓ガラスを下げた。
「どうしたの?」
尋ねた。
鴻志は思いがけないことを言ってきた。
「ちょっとよっていかないか?」
「えっ?」
真梨子は思わず身をひいてしまった。顔が熱く火照るのを感じた。男に誘われて照れるような歳でもない。それなのに、まるで初恋相手に誘われた一〇代の女の子のようにどぎまぎしてしまった。まだそんな純情さが残っていたなんて、ちょっとかわいらしく思えてうれしくもなったけれど。
鴻志は真梨子の内心など気にしない様子でつづけた。
「パーティではろくに食えなかったろ? 夕食食っていけよ。ごちそうするよ」
「でも……」
真梨子は口ごもった。
今日はどんな下着をつけていたっけ? パーティだから勝負下着というわけではないけどそれなりにおしゃれなものを身に着けてきた。新品ではないけれど洗濯したての清潔なものだ。見られたって別に恥ずかしくはない……はずだわ。ああ、でも、最後にエッチしたのっていつだったっけ? マナーなんてもう忘れちゃってるんじゃないかしら。そんなことが知られたら恥ずかしいなんてものじゃすまないわ。ああ、どうしよう……。
そんなことで頭がいっぱいになった。
鴻志のほうはと言えば、そんな展開など微塵も望んでいないような落ちついた口調でつづけた。
「別にこれから約束があるわけでもないんだろ? おれに彼氏役を頼むぐらいだ」
「それはまあ……」
「だったら、よっていけよ。損はさせない。味は保証する」
鴻志は言いながら手振りで出てくるよう示した。それを見て真梨子も決心した。このまま別れるのは残念だったし、ここまで誘われたら断わるの失礼だし……。
真梨子は自分に言い聞かせながら車を庭にとめ、鴻志の後につづいて家のなかに入った。
鴻志は居間に入っていった。そこは庭に面した大きな窓がある畳敷きの部屋だった。中央に背の低いテーブルがおかれ、一方の壁にはテレビやビデオのセットが置かれている。
鴻志はまっているように告げると寝室があるという二階に上がって行った。スーツ姿からTシャツにカジュアル・パンツという不断着に着替えて戻ってきた。
真梨子はその変貌振りに目をぱちくりさせた。
同一人物だとわかっていてもとまどう。コンピュータにうめつくされた部屋のなかで『ふっ』とか言いながらメガネをいじっていそうな『きらわれ者の教授』がたちまち、森のなかで小鳥の声を聞きながら絵筆を走らせるのが似合う『穏やかなアーティスト』になってしまうというのは。
「まっててくれ。材料をとってくる」
大きなザルを右手にもちながらそう告げる。
「とってくるって……?」
「屋上が畑なんだ」
「屋上が?」
驚く真梨子に鴻志は静かにうなずいて見せた。
「わあっ」
屋上に出た途端、真梨子は目を大きく見開き、声を上げた。そこはたしかに畑だった。
格子状の通路にはさまれて、鴻志の胸ほどあるブロックが並び、そのなかにさまざまな野菜が育っていた。さまざま、と言っても自分で育てたことのない真梨子には種類まではわからない。わかったのはトマトとキュウリぐらい。ただ、丈の高いもの、低いもの、葉が茂っているもの、花が咲いているもの、実がついているものなどいろいろな姿形があるので多種多様の野菜が植えられているのはわかる。
西側にはキイチゴやブルーベリーをはじめとする果樹が並び、小さな池まである。
「すごいわね」
真梨子は思わず言った。
「趣味でね。これがやりたくて家を建てたんだ」
「でも、なにも屋上にしなくても、庭で作れば簡単じゃない」
「土質もわからないのに野菜なんて危なくて作れるか。ここの土は専用の培養土を運んだものだ。それに、庭より屋上のほうが広いし、日当たりもいいからな」
なるほど。
真梨子はうなずいた。と、その足もとをちょろちょろと走りまわるものがいた。
「わあっ!」
声を上げて飛びすさった。そこにいたのは三羽のニワトリだった。ニワトリたちは追いつ追われつしながら元気に走りまわっている。
「二、ニワトリまでいるの?」
まだどきどきしている胸を押さえながら尋ねた。
「まあね」
「野菜だけじゃなく卵も自給できるってわけね。毎朝、産みたての卵を食べられるなんて幸せね」
「毎朝とはいかないよ。数が少ないし、ブロイラーとはちがうからな。そこまでは産まない」
言いつつ鴻志は菜っ葉類とおぼしき野菜をあれこれ収穫しはじめた。
その間、真梨子はあちこち見てまわった。
「へえ。キュウリってこんな葉っぱしてるんだ」
スーパーで売られているパック入りのキュウリしか見たことがないので葉っぱの姿なんて全然知らなかった。手のひらよりも大きい葉の間からキュウリの実が鈴生りになっていなければわからなかったところだ。
所々、粉を吹いたように白くなっている葉っぱをのぞき込む。表面に小さな虫がいっぱいついていた。
「ねえ。キュウリにいっぱい虫がついてるわよ。薬とかかけなくていいの?」
「いいんだよ」
と、鴻志は答えた。
「小さくて、黄色くて、背中に黒い斑点をしょってるやつだろ?」
「うん。そう」
「キイロテントウの幼虫だ。キュウリに付き物のうどん粉病の菌を食ってくれる」
「テントウ? これってテントウムシの幼虫なの?」
真梨子は目をしぱたたかせた。彼女の知ってる丸っこくてつやつやしたテントウムシとはあまりにもちがう。幼虫と言われても納得できない。
「捜してみな。ちゃんと馴染みの成虫もいるはずだ」
言われて捜してみる。視線を巡らし、葉っぱをめくってみる。たしかにいた。丸くて、黄色くて、つやつやして、背中にふたつの黒い紋を背負ったテントウムシが何匹も。
「こんなテントウムシもいるんだ」
真梨子は感心して呟いた。テントウムシといえば赤いものばかりだと思っていた。
そう言えば、テントウムシはアブラムシを食べてくれるから生きた農薬として使われていると聞いたことがある。このテントウムシも農薬代わりってわけね。あれ? でも、鴻志はいま、何を食べるって言った?
「ねえ、このテントウムシ、何を食べるって言ったの?」
「うどん粉病の菌」
今度はニンジンを引き抜きながら鴻志は答えた。
「キイロテントウは菌食性なんだ」
「へえ。菌を食べるムシなんているんだ」
「おれも知らなかった。いつの間にかくっついてたんだが、アブラムシもいないし、かと言って葉が食い荒らされてる様子もない。それなのに数はどんどんふえる。何を食ってるのかと思って図書館で調べたら……菌食性と出てた。野菜は病気になるが、ちゃんとその病原菌を食う生き物がいて、どこからともなく飛んでくる。ほんと、自然ってのはよくできてるよ」
「へええ」
真梨子は呟いた。すっかり興味をもって子供に返って観察する。葉を一枚一枚裏返したり、ちょろちょろ動くのを目で追ったり。幼虫のなかにも細くて小さいのから、大きくて太いのまでいる。成長していく姿がはっきりわかる。葉の裏には丸々太った幼虫がじっとしていたり、透明なサナギの抜け殻もあった。
サナギのなかにぴょこぴょこと動いているのがあるのを見つけた。真梨子は興奮して叫んだ。
「ねえ! 何かぴょこぴょこ動いてるサナギがあるわよ! これってもうじき孵えるんじゃない?」
そうだとすればぜひともその瞬間を見たいものだ。
鴻志は首を横に振った。
「残念ながらそうとも限らない。おれもはじめてサナギが動いているのを見つけたときはそう思ってな。しばらく眺めてたんだが結局、孵らずじまい。何で動くのかは知らないが、とにかく動いたからって孵化の合図とは限らないようだ」
「なんだ、そうなの」
真梨子はがっかりした。
鴻志は唇をちょっと突き出し、不満そうにこぼした。
「……何日かして思い出して見てみたらすでに孵った後でな。愛想ないよな。せっかく、住みかを提供してやってるんだ。夢枕に出てきて『おかげで無事に孵化できます。お礼にぜひともその瞬間に立ち合ってください』なんて、教えてくれてもいいと思うんだが……」
その言い方がふざけているとかではなく、本気で不満に思っているらしいので真梨子は吹き出してしまった。変な人ね。半分、おとぎ話の世界にいるのかしらね。
そう思ったがいやな気分ではなかった。むしろ、そんな童話じみた不満を本気でもてる心をもっていることがうらやましいほどだ。
そんな鴻志に影響されてか、真梨子も子供に返ったようにはしゃいだ気分で菜園を見てまわった。子供の頃から野菜作りなどとはまるで縁がなかった。植物の栽培と言えば小学校の授業でアサガオを育てたことがあるくらい。野菜たちとその上に生きる虫たちの営みはなんとも新鮮で魅力的だったのだ。
菜園のなかには所々、野菜の間をぬうようにしてコギクのような花が咲いていた。カモミールというハーブの一種で近くの植物を元気づけることから『お医者さんのハーブ』とも言われている。また、虫よけにすぐれた効果があるとして無農薬栽培ではよく使われている。鴻志もその効果に期待して生やしているのだが、真梨子にはもちろん、そんなことはわからない。ただ、いっぱいに咲き誇る花の愛らしさと強い香りにひかれただけだ。
リンゴのような甘い香りがするその花の茎にはびっしりとアブラムシがついていた。その側を鳥のフンのような姿をした虫が這いまわっている。後半身で茎にしがみつきながら、前半身を動かしてあちこちつついている。
――これもテントウムシの幼虫かしら?
この鳥のフンのような姿をした生き物が何という虫なのかは、もちろん真梨子にはわからない。でも、何かを一所懸命に捜しているのはわかる。おそらくはアブラムシを捜しているのだろうという事も。
必死であちこちつついて捜しているのだが、目で見ることも、匂いを嗅ぎとることもできないらしく、まさに『手当り次第』と言った感じ。すぐ後ろにアブラムシがびっしりとまっているところがあるというのにぜんぜん見当違いの方向へと進んで行く。
――ああもう、じれったい!
やきもきしながら心で叫ぶ。ひょいとつまみあげてアブラムシの団体の上においてやりたくなってくる。
――小さな子供をもつ母親の気分ってこんなものかしらね。
そんなことまで思った。
それでもようやく、その虫はお目当てのアブラムシを捕まえた。しっかりと口でくわえ、しゃっぶっている。捕まったアブラムシは髪の毛よりも細い脚をじたばたさせてもがいている。その姿はさすがにかわいそうに思えた。もちろん、虫はそんなことでアブラムシを放しはしない。ひたすらしゃぶっている。全然、飲み込もうとしないところを見ると肉を食べるのではなく、体液を吸っているのだろう。さんざんしゃぶった後、口を左右に振って勢いをつけて吐き捨てる。『ぺっ!』という音さえ聞こえるような勢いのいい吐き捨て方が、食いちぎった葉巻を吐き捨てる西部劇のガンマンのようでちょっとカッコいい。
レタスの上では丸々と太った緑色のイモムシが豪勢に葉を食べている。かと思うとそのすぐ側を小さなイモムシをくわえたアリが行進している。ニンジンの葉の上ではアブラムシの集団のなかをナナホシテントウが王者のように進軍し、トマトの上では小さなカマキリが自分をのぞき込む無礼な人間に挑みかかるように鎌を振り上げ、威嚇している。マメの葉の影には小さなクモの巣。ごくごく小さな羽虫の死骸や糸に巻かれた虫がかかっている。いましも、新しい獲物が飛んできてかかったところ。もがく獲物めがけて小さなクモが最強の暗殺者のごとく近づいて行く。
どれもいままで見たことのない興味深い光景ばかりだった。
やがて、池の側に移動した。
赤や黄色や黒のキイチゴが、青黒いブルーベリーなどが鈴なりに生っている。見ているだけで唾がわいてくるほどおいしそう。池のなかには何匹ものザリガニがいた。澄んだ水のなか、細かな砂利の上をゆっくりと動いている。
「このザリガニはどうするの?」
尋ねた。
いつの間にか側によってきていた鴻志が答えた。
「食うんだよ」
「食べるの? ザリガニを?」
真梨子は目を丸くして尋ねた。
その答えに鴻志のほうこそ驚いたらしい。意外な面持ちで聞き返した。
「何だ。弁護士なんて仕事してるくせにザリガニ料理も食べたことないのか? うまいんだぞ。エビ代わりとして何にでも使える」
いいつつ右手いっぱいにつかんた葉っぱ類を池の側にまき散らす。
「それは?」
「虫の入った葉っぱ。ニワトリの餌」
言うが早いか、ニワトリたちが文字通り飛んできて葉っぱをついばみはじめた。
「虫食いの葉っぱで育ててるわけね。餌代もかからなくて一石二鳥ってわけね」
「まあな。虫や虫食いの葉っぱを食ってもらうために飼いはじめたようなもんだし。虫だって、ただ殺されるぐらいなら、他の生き物の糧になったほうがまだしもだろう」
キイチゴなどをつまみながらそう答える。
「……やさしいのね」
この場合、『やさしい』という表現が適当がどうかはわからない。本当にやさしければ虫たちも生かしておくのでは、という気もする。でも、他に言葉が思いつかないのでそう言った。とにかく、虫たちのことを『この虫けらめ』みたいに思っていないことだけはたしか。虫であれ、何であれ、『生命の尊厳』というものは認めている。虫どころか同じ人間間でさえ虫けら扱いする連中と関わることが多い職業に従事している身としては、このような態度に接すると救われたような気になる。『人間ってのも悪くないじゃない』と、ホッとする気分になれるのだ。
「さて、と」
鴻志が歩き出しながらいった。
「こっちはすんだけど。まだ見てるのか?」
「あっ、ごめん。いまいくわ」
真梨子は駆けよった。
ちらりと横目で鴻志を見た。鴻志はシートベルトを外し、車を降りようとしているところだった。鴻志はこのまま家に入っていく。そして多分、二度と会うことはないのだろう。そう思うとまるで生まれた頃からずっと一緒にいる親友と別れるかのようなさびしさを感じた。
ドアの閉まる音がした。挨拶すらない。真梨子はため息をついた。仕方がない。鴻志とはもともと友人でもなんでもないのだ。恋人の芝居などしていたので親しくなったように勘違いしていただけ。さあ、早く帰ろう。明日からまた金の亡者との付き合いがはじまる……。
真梨子はもう一度、憂鬱な気分でため息をついた。いっそ、このままどこかに消えてしまいたくもなったが、自分にそんな思いきりなどないことはよく承知している。それがなおさら憂鬱な気分にされた。
――とにかく、家に帰ろう。
なんとか気を取りなおして自分にそう言い聞かせた。お腹もぺこぺこ。パーティでは次からつぎへと話しかけられたのでほとんどなにも食べることができなかった。家に帰って、買い置きのレトルト食品を電子レンジで暖めて、ヤケ食いして寝てしまおう。目が覚めたときには少しは気も晴れているだろう……。
エンジンをかけようとした。窓を叩く音がした。振り向くと鴻志が車のドアをのぞき込みながら窓をノックしていた。真梨子はびっくりして体を延ばし、窓ガラスを下げた。
「どうしたの?」
尋ねた。
鴻志は思いがけないことを言ってきた。
「ちょっとよっていかないか?」
「えっ?」
真梨子は思わず身をひいてしまった。顔が熱く火照るのを感じた。男に誘われて照れるような歳でもない。それなのに、まるで初恋相手に誘われた一〇代の女の子のようにどぎまぎしてしまった。まだそんな純情さが残っていたなんて、ちょっとかわいらしく思えてうれしくもなったけれど。
鴻志は真梨子の内心など気にしない様子でつづけた。
「パーティではろくに食えなかったろ? 夕食食っていけよ。ごちそうするよ」
「でも……」
真梨子は口ごもった。
今日はどんな下着をつけていたっけ? パーティだから勝負下着というわけではないけどそれなりにおしゃれなものを身に着けてきた。新品ではないけれど洗濯したての清潔なものだ。見られたって別に恥ずかしくはない……はずだわ。ああ、でも、最後にエッチしたのっていつだったっけ? マナーなんてもう忘れちゃってるんじゃないかしら。そんなことが知られたら恥ずかしいなんてものじゃすまないわ。ああ、どうしよう……。
そんなことで頭がいっぱいになった。
鴻志のほうはと言えば、そんな展開など微塵も望んでいないような落ちついた口調でつづけた。
「別にこれから約束があるわけでもないんだろ? おれに彼氏役を頼むぐらいだ」
「それはまあ……」
「だったら、よっていけよ。損はさせない。味は保証する」
鴻志は言いながら手振りで出てくるよう示した。それを見て真梨子も決心した。このまま別れるのは残念だったし、ここまで誘われたら断わるの失礼だし……。
真梨子は自分に言い聞かせながら車を庭にとめ、鴻志の後につづいて家のなかに入った。
鴻志は居間に入っていった。そこは庭に面した大きな窓がある畳敷きの部屋だった。中央に背の低いテーブルがおかれ、一方の壁にはテレビやビデオのセットが置かれている。
鴻志はまっているように告げると寝室があるという二階に上がって行った。スーツ姿からTシャツにカジュアル・パンツという不断着に着替えて戻ってきた。
真梨子はその変貌振りに目をぱちくりさせた。
同一人物だとわかっていてもとまどう。コンピュータにうめつくされた部屋のなかで『ふっ』とか言いながらメガネをいじっていそうな『きらわれ者の教授』がたちまち、森のなかで小鳥の声を聞きながら絵筆を走らせるのが似合う『穏やかなアーティスト』になってしまうというのは。
「まっててくれ。材料をとってくる」
大きなザルを右手にもちながらそう告げる。
「とってくるって……?」
「屋上が畑なんだ」
「屋上が?」
驚く真梨子に鴻志は静かにうなずいて見せた。
「わあっ」
屋上に出た途端、真梨子は目を大きく見開き、声を上げた。そこはたしかに畑だった。
格子状の通路にはさまれて、鴻志の胸ほどあるブロックが並び、そのなかにさまざまな野菜が育っていた。さまざま、と言っても自分で育てたことのない真梨子には種類まではわからない。わかったのはトマトとキュウリぐらい。ただ、丈の高いもの、低いもの、葉が茂っているもの、花が咲いているもの、実がついているものなどいろいろな姿形があるので多種多様の野菜が植えられているのはわかる。
西側にはキイチゴやブルーベリーをはじめとする果樹が並び、小さな池まである。
「すごいわね」
真梨子は思わず言った。
「趣味でね。これがやりたくて家を建てたんだ」
「でも、なにも屋上にしなくても、庭で作れば簡単じゃない」
「土質もわからないのに野菜なんて危なくて作れるか。ここの土は専用の培養土を運んだものだ。それに、庭より屋上のほうが広いし、日当たりもいいからな」
なるほど。
真梨子はうなずいた。と、その足もとをちょろちょろと走りまわるものがいた。
「わあっ!」
声を上げて飛びすさった。そこにいたのは三羽のニワトリだった。ニワトリたちは追いつ追われつしながら元気に走りまわっている。
「二、ニワトリまでいるの?」
まだどきどきしている胸を押さえながら尋ねた。
「まあね」
「野菜だけじゃなく卵も自給できるってわけね。毎朝、産みたての卵を食べられるなんて幸せね」
「毎朝とはいかないよ。数が少ないし、ブロイラーとはちがうからな。そこまでは産まない」
言いつつ鴻志は菜っ葉類とおぼしき野菜をあれこれ収穫しはじめた。
その間、真梨子はあちこち見てまわった。
「へえ。キュウリってこんな葉っぱしてるんだ」
スーパーで売られているパック入りのキュウリしか見たことがないので葉っぱの姿なんて全然知らなかった。手のひらよりも大きい葉の間からキュウリの実が鈴生りになっていなければわからなかったところだ。
所々、粉を吹いたように白くなっている葉っぱをのぞき込む。表面に小さな虫がいっぱいついていた。
「ねえ。キュウリにいっぱい虫がついてるわよ。薬とかかけなくていいの?」
「いいんだよ」
と、鴻志は答えた。
「小さくて、黄色くて、背中に黒い斑点をしょってるやつだろ?」
「うん。そう」
「キイロテントウの幼虫だ。キュウリに付き物のうどん粉病の菌を食ってくれる」
「テントウ? これってテントウムシの幼虫なの?」
真梨子は目をしぱたたかせた。彼女の知ってる丸っこくてつやつやしたテントウムシとはあまりにもちがう。幼虫と言われても納得できない。
「捜してみな。ちゃんと馴染みの成虫もいるはずだ」
言われて捜してみる。視線を巡らし、葉っぱをめくってみる。たしかにいた。丸くて、黄色くて、つやつやして、背中にふたつの黒い紋を背負ったテントウムシが何匹も。
「こんなテントウムシもいるんだ」
真梨子は感心して呟いた。テントウムシといえば赤いものばかりだと思っていた。
そう言えば、テントウムシはアブラムシを食べてくれるから生きた農薬として使われていると聞いたことがある。このテントウムシも農薬代わりってわけね。あれ? でも、鴻志はいま、何を食べるって言った?
「ねえ、このテントウムシ、何を食べるって言ったの?」
「うどん粉病の菌」
今度はニンジンを引き抜きながら鴻志は答えた。
「キイロテントウは菌食性なんだ」
「へえ。菌を食べるムシなんているんだ」
「おれも知らなかった。いつの間にかくっついてたんだが、アブラムシもいないし、かと言って葉が食い荒らされてる様子もない。それなのに数はどんどんふえる。何を食ってるのかと思って図書館で調べたら……菌食性と出てた。野菜は病気になるが、ちゃんとその病原菌を食う生き物がいて、どこからともなく飛んでくる。ほんと、自然ってのはよくできてるよ」
「へええ」
真梨子は呟いた。すっかり興味をもって子供に返って観察する。葉を一枚一枚裏返したり、ちょろちょろ動くのを目で追ったり。幼虫のなかにも細くて小さいのから、大きくて太いのまでいる。成長していく姿がはっきりわかる。葉の裏には丸々太った幼虫がじっとしていたり、透明なサナギの抜け殻もあった。
サナギのなかにぴょこぴょこと動いているのがあるのを見つけた。真梨子は興奮して叫んだ。
「ねえ! 何かぴょこぴょこ動いてるサナギがあるわよ! これってもうじき孵えるんじゃない?」
そうだとすればぜひともその瞬間を見たいものだ。
鴻志は首を横に振った。
「残念ながらそうとも限らない。おれもはじめてサナギが動いているのを見つけたときはそう思ってな。しばらく眺めてたんだが結局、孵らずじまい。何で動くのかは知らないが、とにかく動いたからって孵化の合図とは限らないようだ」
「なんだ、そうなの」
真梨子はがっかりした。
鴻志は唇をちょっと突き出し、不満そうにこぼした。
「……何日かして思い出して見てみたらすでに孵った後でな。愛想ないよな。せっかく、住みかを提供してやってるんだ。夢枕に出てきて『おかげで無事に孵化できます。お礼にぜひともその瞬間に立ち合ってください』なんて、教えてくれてもいいと思うんだが……」
その言い方がふざけているとかではなく、本気で不満に思っているらしいので真梨子は吹き出してしまった。変な人ね。半分、おとぎ話の世界にいるのかしらね。
そう思ったがいやな気分ではなかった。むしろ、そんな童話じみた不満を本気でもてる心をもっていることがうらやましいほどだ。
そんな鴻志に影響されてか、真梨子も子供に返ったようにはしゃいだ気分で菜園を見てまわった。子供の頃から野菜作りなどとはまるで縁がなかった。植物の栽培と言えば小学校の授業でアサガオを育てたことがあるくらい。野菜たちとその上に生きる虫たちの営みはなんとも新鮮で魅力的だったのだ。
菜園のなかには所々、野菜の間をぬうようにしてコギクのような花が咲いていた。カモミールというハーブの一種で近くの植物を元気づけることから『お医者さんのハーブ』とも言われている。また、虫よけにすぐれた効果があるとして無農薬栽培ではよく使われている。鴻志もその効果に期待して生やしているのだが、真梨子にはもちろん、そんなことはわからない。ただ、いっぱいに咲き誇る花の愛らしさと強い香りにひかれただけだ。
リンゴのような甘い香りがするその花の茎にはびっしりとアブラムシがついていた。その側を鳥のフンのような姿をした虫が這いまわっている。後半身で茎にしがみつきながら、前半身を動かしてあちこちつついている。
――これもテントウムシの幼虫かしら?
この鳥のフンのような姿をした生き物が何という虫なのかは、もちろん真梨子にはわからない。でも、何かを一所懸命に捜しているのはわかる。おそらくはアブラムシを捜しているのだろうという事も。
必死であちこちつついて捜しているのだが、目で見ることも、匂いを嗅ぎとることもできないらしく、まさに『手当り次第』と言った感じ。すぐ後ろにアブラムシがびっしりとまっているところがあるというのにぜんぜん見当違いの方向へと進んで行く。
――ああもう、じれったい!
やきもきしながら心で叫ぶ。ひょいとつまみあげてアブラムシの団体の上においてやりたくなってくる。
――小さな子供をもつ母親の気分ってこんなものかしらね。
そんなことまで思った。
それでもようやく、その虫はお目当てのアブラムシを捕まえた。しっかりと口でくわえ、しゃっぶっている。捕まったアブラムシは髪の毛よりも細い脚をじたばたさせてもがいている。その姿はさすがにかわいそうに思えた。もちろん、虫はそんなことでアブラムシを放しはしない。ひたすらしゃぶっている。全然、飲み込もうとしないところを見ると肉を食べるのではなく、体液を吸っているのだろう。さんざんしゃぶった後、口を左右に振って勢いをつけて吐き捨てる。『ぺっ!』という音さえ聞こえるような勢いのいい吐き捨て方が、食いちぎった葉巻を吐き捨てる西部劇のガンマンのようでちょっとカッコいい。
レタスの上では丸々と太った緑色のイモムシが豪勢に葉を食べている。かと思うとそのすぐ側を小さなイモムシをくわえたアリが行進している。ニンジンの葉の上ではアブラムシの集団のなかをナナホシテントウが王者のように進軍し、トマトの上では小さなカマキリが自分をのぞき込む無礼な人間に挑みかかるように鎌を振り上げ、威嚇している。マメの葉の影には小さなクモの巣。ごくごく小さな羽虫の死骸や糸に巻かれた虫がかかっている。いましも、新しい獲物が飛んできてかかったところ。もがく獲物めがけて小さなクモが最強の暗殺者のごとく近づいて行く。
どれもいままで見たことのない興味深い光景ばかりだった。
やがて、池の側に移動した。
赤や黄色や黒のキイチゴが、青黒いブルーベリーなどが鈴なりに生っている。見ているだけで唾がわいてくるほどおいしそう。池のなかには何匹ものザリガニがいた。澄んだ水のなか、細かな砂利の上をゆっくりと動いている。
「このザリガニはどうするの?」
尋ねた。
いつの間にか側によってきていた鴻志が答えた。
「食うんだよ」
「食べるの? ザリガニを?」
真梨子は目を丸くして尋ねた。
その答えに鴻志のほうこそ驚いたらしい。意外な面持ちで聞き返した。
「何だ。弁護士なんて仕事してるくせにザリガニ料理も食べたことないのか? うまいんだぞ。エビ代わりとして何にでも使える」
いいつつ右手いっぱいにつかんた葉っぱ類を池の側にまき散らす。
「それは?」
「虫の入った葉っぱ。ニワトリの餌」
言うが早いか、ニワトリたちが文字通り飛んできて葉っぱをついばみはじめた。
「虫食いの葉っぱで育ててるわけね。餌代もかからなくて一石二鳥ってわけね」
「まあな。虫や虫食いの葉っぱを食ってもらうために飼いはじめたようなもんだし。虫だって、ただ殺されるぐらいなら、他の生き物の糧になったほうがまだしもだろう」
キイチゴなどをつまみながらそう答える。
「……やさしいのね」
この場合、『やさしい』という表現が適当がどうかはわからない。本当にやさしければ虫たちも生かしておくのでは、という気もする。でも、他に言葉が思いつかないのでそう言った。とにかく、虫たちのことを『この虫けらめ』みたいに思っていないことだけはたしか。虫であれ、何であれ、『生命の尊厳』というものは認めている。虫どころか同じ人間間でさえ虫けら扱いする連中と関わることが多い職業に従事している身としては、このような態度に接すると救われたような気になる。『人間ってのも悪くないじゃない』と、ホッとする気分になれるのだ。
「さて、と」
鴻志が歩き出しながらいった。
「こっちはすんだけど。まだ見てるのか?」
「あっ、ごめん。いまいくわ」
真梨子は駆けよった。
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