三〇代、独身、子なし、非美女弁護士。転生し(たつもりになっ)て、人生再始動!

藍条森也

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二〇章

シンデレラよりシンデレラな夜

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 鴻志はダイニング・キッチンに入ると野菜を水洗いし、まな板のまわりに種類ごとに並べた。鍋と包丁を用意し、各種調味料を準備した。その手際のよさはいかにも手慣れているという様子。真梨子は関心した。とは言え、女のはしくれとしては男に料理を任せっぱなしというのも気が引ける。女であることを忘れてしまいそうな暮らしをつづけているが、その程度の意地はある。そこで口をはさんだ。
 「あたしもなにか手伝うけど……」
 鴻志はまじまじと真梨子を見た。
 「できるのか?」
 「失礼ね! あたしだって女よ。料理ぐらいできるわよ」
 反射的にそう言ったが、自信というより見栄に近い。前に料理らしい料理をしたのはいつのことだろう。手料理をふるまうような相手もずっといなかったし、自分ひとりのために仕事から帰って疲れているのに包丁を握る気にはなれなかった。結局、外食ですますか、レトルト食品を買ってきて電子レンジで暖めて食べるか、だった。事実上、料理の方法など忘れてしまった。卵焼きに混ぜるのは砂糖だっけ、塩だっけ。むずかしいことを頼まれたらどうしよう……。
 真梨子は内心、不安になった。だが、一度胸を張ってしまった以上、もう後には引けない。きっと、なんとかなるだろう。外見ばかりは自信たっぷりに胸をそらし、鴻志の言葉をまった。
 「それじゃこれ」
 鴻志はミニタマネギの葉っぱをつかみ、束にして渡した。
 「葉と根を落として皮をむいてくれ」
 「それだけ?」
 真梨子は目をしぱたたかせた。
 「刻むとか、なんとかしなくていいの?」
 「いいんだ。まるごと使うから」
 「豪快なのね」
 「男の料理なんてそんなもんだ。じゃ、よろしく」
 鴻志は包丁とまな板を渡した。真梨子はミニタマネギの束とまな板、包丁をもってキッチンのテーブルについた。テーブルの上にまな板を置き、ミニタマネギを切りはじめた。一口サイズのタマネギはころころしてかわいらしい。一番外側の茶色い皮をむくとなかから白い姿が現れる。透き通るようでとてもきれい。だけど、なんともすごい刺激。葉を切り落とし、皮を向くだけで辛い刺激が目を直撃し、涙がどんどんこぼれてくる。いくらタマネギたってここまで涙がこぼれたことはない。なんだかものすごく辛そう。こんなの食べてだいじょうぶなわけ?
 「……できたわよ」
 目を真っ赤にしながら皮をむいたミニタマネギをもっていく。
 「どうも」
 鴻志は真梨子をじっと見た。
 「……料理慣れはしてないな」
 「なんでそんなことがわかるのよ!」
 「慣れていないからそこまで涙が出る。慣れていれば少しは刺激にも強くなっているさ」
 真梨子は言葉を飲み込んだ。見事に見抜かれてしまった。なんとも気まずい思いがして押し黙った。
 鴻志のほうはなんの興味も感心もないようにミニタマネギを受けとると、他の野菜と一緒に鍋に放り込んだ。ひたひたになるまで水を入れ、しばらく煮込む。野菜が柔らかく煮えたところでスープのもと、塩・胡椒を加え、さらにトマトをつぶし入れる。鍋の中身が真っ赤に染まり、おいしそうな匂いが漂いはじめた。
 「う~ん、おいしそう」
 真梨子は思わず鼻いっぱいに香りを吸い込み、呟いた。胃袋のあたりにぽっかり穴が開いたような気さえした。心地好い芳香に刺激され、どんなに空腹だったか気がついたのだ。今にもお腹の虫が鳴ってしまいそう。そんなはしたないことにならずにすむようお腹に頼み込む羽目になった。
 「これ、ミネストローネ?」
 真梨子は尋ねた。具だくさんでトマト風味のイタリア風の野菜スープをミネストローネということぐらい、いくら真梨子でも知っている。
 「そう。と言っても、我流だけどね」
 さらにしばらく煮込んでネストローネが出来上がった。シチュー皿に盛って居間のテーブルに運んだ。鴻志はさらに厚切りのハムにベリー類をたっぷり乗せたサラダ、それに、チョコレート色のパンを用意した。
 ――食事時にチョコレートパンなんてへんな趣味。
 と、思ったが、口には出さなかった。せっかく、ごちそうしてくれるというのにメニューにけちをつけたりしたら申し訳ない。
 「さっ、どうぞ」
 鴻志は座りながらいった。真梨子は鴻志の向かい側に座った。
 「じゃ、いただきます」
 真梨子は礼儀は守るべきだと思っているので丁寧に頭を下げた。
 まずは湯気を立てるシチューにとりかかった。ころころしたかわいい姿をさらしているミニタマネギをスプーンですくった。自分で切った分、他の野菜より愛着がある。ミニタマネギを口に運んだ。かみ締めた瞬間、思いもかけない甘みが口いっぱいに広がった。これには驚いた。いままでタマネギを食べてこんな甘みを感じたことはない。
 「すごい。甘い。これって何か特別なタマネギ?」
 「いいや。その辺で売っている種から作った普通のタマネギだ」
 「だって、こんな味、食べたことない」
 「これが本来の味なんだ」
 鴻志は誇らしく宣言した。
 「タマネギは甘いものなんだ。古代エジプト人は甘味を求めてマネギをかじったって言うぐらいだからな。それがでたらめな作り方と長距離輸送のせいで台無しになっている。ちゃんと作ればこれだけの味になるんだ」
 その言い方が怒ってるぐらいに熱っぽいので真梨子は思わずまじまじと見つめてしまった。
 「なんだ?」
 「あなた、ひょっとして山岡って名字じゃない?」
 「父親が海原雄山ではないのはたしかだ」
 「……でも、父親との折り合いは悪い」
 ついついぽつりと呟いてしまって真梨子はあわてて口を押さえた。鴻志はぎろりと真梨子をにらんだ。けわしいほどの視線から口にした言葉は、
 「いいタイミングの突っ込みだ。関西出身か?」
 「東京生まれ」
 「江戸っ子にしては華がないな」
 「悪かったわね。どうせブスよ」
 真梨子は舌を突き出して毒ついて見せた。本人にそんな自覚はなかったが、端から見れば普通に恋人同士のやりとりに思える仕種だった。
 「髪型が悪いと言ってるんだよ」
 鴻志の答えは真梨子にとってかなり意外なものだった。スプーンをとめたまま思わず聞き入った。
 「中途半端な長さで、しかも、内側に向いている。そのせいで顔がすっぽり隠れて、表情が暗くなるんだ。もっと思いきり短くして外側に流れをつければずっと明るくなるし、見違える」
 「でも、あたし、丸顔で……」
 「顔でも、体型でもそうだが、丸いのを隠そうとすると返ってふくれてもっさりするんだよ。丸いほど線を出してすっきりさせないと見苦しくなる。あとは笑ってな。女はニコニコしてれば何とかなる」
 「何でそんなにくわしいわけ?」
 「調べたからな」
 「調べた?」
 「ああ。おしゃれな女を書こうとしてもダサい服装しかさせられないんじゃ読者にバカにされる。ファッション関係の本や雑誌には目を通すことにしている」
 「へええ」
 野草のことといい、熱心なことだ。もっとも、弁護士だって仕事のために政治や経済の勉強ぐらいはする。作家ならそれぐらい当然なのかも知れない。
 鴻志は黙々とシチューを食べはじめた。話しかけられればよく喋るが、自分から話を振る気はないらしい。こちらから話しかけなければ一生だって口をつぐんでいそうな雰囲気がある。
 とくに持ち出す話題もなかったので真梨子も食事を再開した。うん。やっぱり、おいしい。素直にそう思う。タマネギだけではない。ジャガイモも、ニンジンも、マメも、調味料がわりのトマトも、どれも味が濃くてしっかりしている。こんなにおいしい野菜は食べたことがない。これに比べたらスーパーで売っているパック入りの野菜なんて何なんだろうと思う。やっぱり、収穫したての新鮮野菜はちがう。
 真梨子はパンに手を伸ばした。一口かじった。途端に目を見開き、手で口を押さえた。チョコレート色をしているからてっきりチョコレートパンだと思っていたら大ちがい。ほのかな酸味とコクのある穀物の味がした。
 「なに、このパン?」
 驚いて尋ねる。
 鴻志はうるさがることなく答えてくれた。やはり、不愛想に見えても話しかければきちんと答えてくれる。
 「雑穀パン。ドイツにフォルコンブロートっていうライ麦に小麦や大麦、丸麦、ヒエやアワと、多くの穀類を使って作るパンがあってな。それを真似て作ってみた」
 「これ、あなたが焼いたの?」
 「ああ」
 これには真梨子も本当に驚いた。まさか、自分でパンを焼いているなんて。若くして成功した大金持ちのくせになんて庶民的な性格。
 鴻志は言った。
 「ファンタジーって伝統的に中世ヨーロッパ的世界を舞台にすることが多いからな。となると、パンについて知らなきゃまともな食生活は書けない。で、調べた。そうしたら一口にパンと言ってもいろいろあってな。調べているうちにハマってさ。写真なんか見るとこれがうまそうだし。けど、その辺のパン屋じゃそんないろいろなものは売ってない。で、自分で作ることにした」
 「へええ。作家ってそこまでこだわるんだ」
 「おれはな。他の作家は知らない」
 真梨子は一口ひとくちゆっくりと味わいながらパンを食べた。かみ締めるごとに重くコクのある味が広がる。いままで食べたパンとはまったくちがう味わいだった。
 「うん、おいしい。雑穀ってまずいものなのかと思ってたけどけっこう、いけるのね」
 「『米や小麦を食えない貧乏人が我慢して食べるもの』っていうイメージがあるからな。けど、実際にはそれぞれに味わいもあるし、栄養価も高い。立派な穀物さ」
 「へええ。でも、今時ヒエやアワなんてよく手に入るわね」
 「自然食がブームだからな。最近じゃスーパーでも売ってるよ」
 「それも物語を書くため?」
 そうだ、と鴻志はうなずいた。
 「米や小麦だけを食う時代より、雑穀をあれこれ食べていた時代のほうがずっと長いんだ。そんな時代を描くのにそれらの味を知らずにどうする」
 鴻志は迷いなく断言した。彼にとってはその程度はあまりにも当たり前のことであるらしい。なんとも立派な職業意識だ。真梨子は掛け値なしに感心し、尊敬さえした。ここまで自分の仕事に打ち込めるなんてうらやましくもあった。同時にかつての情熱を失い、惰性だけで弁護士をしている自分が恥ずかしくもなった。
 「それじゃ、この酸味が雑穀の味なわけね」
 真梨子は何気なく言ったが、鴻志は首を横に振った。
 「いや。この酸味はサワー種のせいだ。穀物の味じゃない」
 「サワー種?」
 「乳酸菌を混ぜたパン種だよ。ライ麦は小麦に比べてグルテンが少ないんでな。そのままじゃパンにしにくい。そこで、サワー種を使って生地を酸性にすることでパンにしやすくする。穀物利用にかける人々の知恵だな」
 「へええ。いままで気にもかけずに食べてたけど……パンひとつとってもいろいろあるのね」
 「そりゃあな。人類がパンを食べるようになって数千年。それだけの時間があればバリエーションだって増えるさ」
 「なるほど」
 真梨子は何ともアカデミックな気分になって重々しくうなずいた。言われてみればたしかにその通り。日頃、何気なく食べているパンにも『歴史あり』だ。そこには数千年に及ぶ無数の人々の、無数の知恵と営みが詰まっている。
 ――当たり前のようにパンを食べられるのも、その歴史があってこそ。
 そう思うと、たかだか一枚のパンにも拝み焚くようなありがたみを感じる。
 「……歴史っていろいろあるのね」
 「そりゃあるさ」
 黒パンを見つめているうちに真梨子はふと、あることを思い出した。
 「……そう言えば、『ハイジ』に黒パンっていうのが出てきたっけ。どんなパンなのかずっと不思議に思ってたんだけど……あれってライ麦パンだったのかな?」
 「さて。たしかにドイツではライ麦パンは多いんだが。むしろ、ふすまの混じった粉で作ったパンじゃないかな。昔のヨーロッパの庶民はそういうパンをまとめて焼いて食ってたそうだし」
 「『ハイジ』、知ってるの?」
 「当たり前だろう。おれだって火であぶったチーズを見て涎をたれ流したクチだ」
 「……ああ、あのチーズ」
 テレビの特番で見て、身をよじって欲しがったチーズの映像が、真梨子の頭のなかにくっきりと浮かび上がった。
 串にさされて火にかけられたチーズの固まりがとろりととろける。パンに乗せられたとろけたチーズのつややかな黄金色……。
 いまだかつてあれほどおいしそうなものを見たことはない。思い出しただけで口のなかいっぱいに唾が広がり、お腹の虫が鳴きそうになる。
 「……おいしそうだったあ」
 真梨子は身もだえせんばかりの実感を込めて呟いた。
 鴻志は眉を潜め、いぶかしげに呟いた。
 「……けど、あれってヤギのチーズだよな? ヤギのチーズってかなり臭みが強いそうだが……」
 「そうなの?」
 「噂ではな。とくにアメリカ人はこの匂いに弱いらしくて、世界を救うために戦っている聖騎士がヤギのチーズに辟易したり、ヤギのチーズのピザはイヌも食べない、なんて描写があったりして……どうも、実際には食べないほうがよさそうだ」
 その気持ちは真梨子にもよくわかった。もし、万が一にも、ハイジの食べていたチーズが実はまずいなどということになったらどうすればいい? 人生に絶望するしかないではないか。夢は夢のままで残しておこう。
 ともあれ、真梨子はその場では温かくておいしい料理を思いきり堪能できた。
 鴻志が食後のお茶の用意をしにダイニング・キッチンに向かった。顔を出して尋ねる。
 「何がいい? ウバ? キーマン? ダージリン? アッサム? セイロン・ブレンド? 緑茶やハーブ・ティーがいいならそれもいろいろあるけど……」
 いきなり名前を連呼されて真梨子はパニックに陥った。お茶と言ったら緑茶と紅茶の区別しかつかない真梨子にとって、銘柄などはそれこそ異星人の名前である。勢いよく並べられても何がなんだかわからない。
 ただそのなかでひとつ、ダージリンだけは聞き覚えがあった。映画や小説で主人公がよく飲むお茶といったら決まってダージリン。貴婦人の飲み物。紅茶の最高峰。そのイメージがあったので真梨子は深く考えることなく反射的に答えていた。
 「じゃあ、ダージリン……」
 「了解」
 鴻志は短く答えて手際良くダージリンをいれた。鴻志が運んできてくれたダージリンを見て真梨子はちょっと意外な気がした。紅茶と言うには妙に色が薄い。紅というより緑がかったオレンジ色。いや、むしろ、黄色に近い。
 ――これ、本当に紅茶?
 そんなことを思いながら一口、飲んでみる。顔をしかめた。イメージと実際の味のちがいにびっくりした。なんだかやけにうす味で渋みばかりが強い。紅茶っぽくない。むしろ、緑茶に近いような気が……。
 ――でも、ダージリンって最高級の紅茶なのよね?
 真梨子は内心で呟いた。
 ――って言うことは、これが本当の紅茶の味ってこと? あんまりおいしく感じられないのはあたしの舌が貧弱なせい?
 そう思った。というより『ダージリンは最高級品』という思い込みによって自分を納得させようとした。すると、鴻志がおかしそうに微笑んだ。
 いたずらっぽいその笑顔を見て真梨子はだまされたのだと思った。鴻志はきっとわざと別のお茶を入れてからかったのにちがいない。きっと、この後から本物のダージリンが出てくるのだろう。そう思った。だが、そうではなかった。鴻志は微笑みながら言った。
 「紅茶と言うとダージリンばかり出てくるが……大してうまいものでもないだろ?」
 「……これ、本物の?」
 「ダージリンだよ。感想は?」
 「……そう、ね」
 真梨子は少し口ごもった。天下のダージリンを『おいしくない』と言うのはまだ気が引けたが、鴻志の言葉に勇気づけられて正直に口にした。
 「あんまり紅茶らしくないわよね。なんだか緑茶みたい……」
 鴻志はうなずいた。
 「そりゃそうだ。ダージリンはもともと緑茶にするはずの茶葉を無理やり紅茶にしたものだからな」
 「無理やりって……お茶の樹ってみんな同じものだって聞いたけど……」
 「同じは同じだ。けど、イヌにだってセント・バーナードからチワワまで、いろいろいるだろう。それと同じで、茶樹にもいろいろな品種がある。そのなかには緑茶向きのものもあれば紅茶向きのものもある。ダージリンってのは、中国から持ち込んだ緑茶をヒマラヤで栽培し、イギリス人の好みで紅茶にしたものだ。だから、緑茶に近い」
 「へええ」
 「映画やなんかによく出てくるせいで紅茶の代表みたいに思われてるけどな。実際には、一番、紅茶らしくない紅茶さ。たしかに、高級品ともなればマスカット・キャンディーみたいなほのかな甘味があってうまい。けど、一般品はこんなものさ。緑茶のないイギリスで珍重されるのはまあ、わかるとして、昔から緑茶を飲んできた日本人がありがたがるものじゃない。映画であれ、小説であれ、意味なくダージリンが出てきたらその作者は紅茶のことを何も知らないと思ってまずまちがいないさ。日本人に合う紅茶っていったらセイロン茶だろうな。最初に入ってきた紅茶だけになじみ深い」
 そういって鴻志は別にセイロン茶を入れてくれた。なるほど、こちらは色合いも深いルビー色で味も濃い。これこそ真梨子の知っている紅茶だ。
 「それにしても、何にでもくわしいわねえ」
 ファッションから歴史、パンや紅茶にいたるまで、まったく同じレベルで語ってしまう。この男の探究心に節操と言うものはないのだろうか? 感心すると言うよりむしろあきれて、真梨子は口にした。
 鴻志はほめられたかのように肩をすくめた答えた。
 「調べたからな」
 「それも小説のため?」
 「そういうわけじゃないんだが……たまたま本を見ていたらなかなか奥が深いんでハマってな。それからは目につくかぎり飲み比べ。お茶でよかったよ。酒だったら今頃べろんべろんのアル中になってるとこだ」
 そう言って肩をすくませる。鴻志自身にも節操のない探究心を制御することはできないようだ。そんな鴻志を真梨子は微笑ましく思った。
 「さしずめ、知識中毒?」
 「そんなところだ。おれは『情報コレクター』を自認しているけどな。ああ、そうそう、紅茶だけじゃなくて緑茶やハーブ・ティーにもいろいろあってな。とくに、ハーブ・ティーにはヨーロッパでお茶と演じた戦争ってのがあって、これがまた……」
 「あっ、それはいい」
 放っておけばまたもべらべらと蘊蓄を語りだすにちがいない。真梨子は両手を前に差し出しさえぎった。すると途端に鴻志はムスっとした表情になった黙って紅茶を飲んだ。
 ――あ~あ、すねちゃった。
 真梨子はそんな鴻志がかわいく思えて内心で微笑んだ。
 何だかおかしな気分だった。まるで子供の頃からの親友の家に遊びにきているような、そんなくつろいだ気分になっていた。意識していなくても自然と心がなごみ、笑顔がこぼれる。こんな気持ちになったのはどれだけぶりだろう。もしかしたら、産まれてはじめてかも知れない。
 何気なく居間を見渡す。テレビの下の台にビデオが並んでいる。『プリティ・ウーマン』、『プリティ・ブライド』、『ベスト・フレンズ・ウェディング』、『スリーメン&ベビー』、『トッツィー』等々……。
 どこまでいっても恋愛やホーム・コメディばかり。SF・ファンタジー作家という職業から連想できる『スター・ウォーズ』、『スタートレック』、『ロード・オブ・ザ・リング』、『ハリーポッター』などはひとつもない。
 ――ほんとに意外な趣味ね。
 そう思ったが、ふと気づいた。鴻志が恋愛物やホーム・コメディを好むのは、その世界に憧れているからではないか。平気そうな顔はしているがやはり、ひとりきりの生活にたまらないさびしさを感じているせいではないだろうか。そう思ったとき、真梨子は胸を締めつけられるような痛みを感じた。
 真梨子自身がそうだった。仕事を終え、誰がまっているわけでもない暗いアパートに帰っていく。することといえば冷凍食品をレンジで暖めて借りてきたビデオを見ることぐらい。そのとき借りるのは決まってにぎやかなホーム・コメディ。
 恋人もなく、迷惑を顧みずに電話をかけられる友だちもいない。かといって、ひとりで街に繰り出して男をひっかけるような真似ができる性格でもない。ひとりきりの時間をつぶし、さびしさをまぎらわせ、みじめな思いを忘れるためには、フィクションではあっても家庭のにぎやかさが必要だった。
 自分でさえそうなのだ。鴻志の孤独感はそれよりずっと強いもののはず。ひとりで暮らすのにこんな広い家を建てたのも、無意識のうちににぎやかな大家族を欲したせいではないか。やたらと蘊蓄を語るのもめったに他人と話す機会がないせいではないか。他人と話をしたい。でも、会話の経験が乏しいせいでどんな話をしていいかわからない。だから、ひとりで際限なくしゃべりつづける……。そういうことではないだろうか。だとしたら……だとしたら、なんとさびしく、つらいことだろう。
 もちろん、すべては真梨子の勝手な想像に過ぎない。鴻志がそう思っているなどという根拠はなにひとつない。この家がやたらと広いのも本人が言っていた通り、屋上の畑の広さを確保するためかも知れない。知識を探求し、世界を描き出す生活に心から満足しているのかも知れない。だとすれば、ひとりであることは望むところであるにちがいない。他人にわずらわされることなく、やりたいことに没頭できる。
 いったい、どちらなのだろう? それとも、そのどちらでもなく、もっとちがう気持ちでいるのだろうか? 真梨子はそれを知りたいと思った。そしてもし、さびしさを感じているのなら少しでも助けてあげたいと思った。もともと、それをこそ志して弁護士になったのだから……。
 けれど、肝心の鴻志の本心を知る術がない。直接、聞くことはできない。そんな度胸はない。『さびしいもの』と決めつけておせっかいをやくこともできない。鴻志がひとりの生活に満足していた場合、そんなことをしたら、プライドを傷つけてしまうことになりかねない。これ以上、迷惑はかけたくない。でも、さびしく感じているなら放っておけないし……。どうすれば……?
 真梨子は途方に暮れた。ふと、視線が一本のビデオ・ラベルにとまった。真梨子は声を上げた。
 「あっ、『三四丁目の奇跡』があるじゃない」
 一九四七年にアメリカで公開され、たちまちサンタクロース映画の定番中の定番となった名作。真梨子のもっともお気にいりの映画でもある。
 「ねえ、見ていい?」
 「ああ」
 いそいそとテレビに近づき、円盤をセットする。リモコンをもってテーブルに戻る。再生ボタンを押す。主人公のクリス・クリングル老人がパレードでにぎわう町中を歩くシーンから映画ははじまる。クリスマスの夜、恋人とふたり、そっとよりそってこの映画を見る。それが真梨子の誰にもいったことのないささやかな夢のひとつだった。今はクリスマスではないし、鴻志は恋人ではない。よりそって、というわけにもいかない。それでも、真梨子は他の誰かとこの映画を見れることがうれしかった。
 自分を正真正銘、本物のサンタだと言い張るクリス・クリングル老人と、事務所をやめてまで彼を本物のサンタだと法廷に認めさせようとする青年弁護士、フレッド・ゲイリー。前代未聞のサンタ裁判に突入したところで真梨子は呟いた。
 「……あたし、このゲイリーさんみたいな弁護士になりたかったのよね」
 それがいまでは……。
 真梨子はため息をついた。
 「世間のはみ出し者を救う、か?」
 鴻志がおかしそうにいう。
 「善意のはみ出し者を救う、ね」
 真梨子は微妙だが重大な修正をした。
 「じゃあ、今年のクリスマスにはサンタがきてくれるようにお願いするんだな」
 鴻志はからかうように言った。
 「そこまで子どもじゃないわよ」
 真梨子は憎まれ口を返す。
 言い返したところで、ふと気づいた。突然、真梨子の人生に現れ、生涯最大のピンチを救ってくれた男、森山鴻志。彼こそ真梨子にとってのクリス・クリングル、すなわち、サンタクロースではないだろうか? 『三四丁目の奇跡』の登場人物たちがクリス・クリングル老人との出会いによって新しい人生を手にしたように、もしかしたら、鴻志との出会いによって新しい人生を切り開けるかも知れない。そんなほのかな予感がした。
 やがて映画は『クリス・クリングルは本物のサンタだったのではないか』という余韻を残して大団円を迎えた。真梨子は満足のため息をついた。何度見ても『三四丁目の奇跡』は満足させてくれる。自分もせめて一度ぐらい、あんな大団円を迎えてみたい。真梨子はそう切に願い、息をついた。
 そのとき、時計が鳴った。鴻志は壁にかけてある時計を見上げた。意外な面持ちになった。
 「もうこんな時間か。悪いが、小山内さん、帰ってくれ。そろそろ本職の時間なんだ」
 「えっ、でも……」
 真梨子はとまどいの声を上げた。『好きもの』というには程遠い真梨子だが、いい歳したおとなの男女が食事をして、おしゃべりして、映画まで一緒に見たとなれば、その後にくることも当然、予想する。それなのに『仕事だから帰ってくれ』とは。拍子抜けもしたし、それ以上に不満だった。
 それはまあ、魅力的な女でないことは自覚している。自覚はしているけれど、こうもあからさまに女扱いしてもらえないとなるとやはり、忸怩たる思いがする。
 そんな真梨子を鴻志は不思議そうに見つめた。
 「どうかしたか?」
 きょとんとして尋ねる。
 「えっ? あっ、いえ、なんでもないわ!」
 真梨子はあわてていった。
 「そう、仕事ね。ごめんなさい、遅くまでお邪魔して……」
 「いや、おれが誘ったんだし……」
 男の側から家に誘われて、手ひとつ出してもらえない。さすがにみじめになる。
 ――仕方ないわよね、あたしじゃ。若くもなければ、美人でもないんだし……。
 どっぷりとたそがれて、心でため息をつく真梨子だった。
 鴻志は律儀にも玄関まで見送ってくれた。
 「それじゃ気をつけて」
 という言葉にもおざなりの礼儀というよりは真心がこもっているように感じられた。
 真梨子は曖昧に微笑んだ。
 「……ええ、ありがとう。おやすみなさい」
 「いい夢を」
 鴻志は軽く右手をあげて答えた。
 真梨子は車に乗り込んだ。今夜はひときわ強いさびしさを感じることがわかっているひとり暮らしのアパートに帰るために。
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