三〇代、独身、子なし、非美女弁護士。転生し(たつもりになっ)て、人生再始動!

藍条森也

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二一章

『彼』という言葉を使うときが来るなんて

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 「いったい、あいつはどうなってるんだっ!」
 島村武雄の怒声が鳴り響く、土曜日の昼下がりの弁護士事務所。真梨子は自分の部屋まで押しかけてきて怒鳴りつける雇い主を前に、完全ないやがらせのために両耳に指をつっ込んだ仏頂面でその怒声を聞き流した。
 ようやく怒声が鳴りやんだと見て指を放す。ツンケンした声で尋ね返す。
 「あいつって誰のことです?」
 「あいつだよ、あいつ! あの金持ち、金ヅル、金の卵を産むガチョウ……」
 「セクハラ・マニアのヒヒおやじですか?」
 「そう……じゃない! ヒヒおやじもたしかに貴重な金ヅルだが、それ以上のほら、あのSF屋だよ! あいつはどうなったんだ、あれ以来、音沙汰なしじゃないか!」
 「知りませんよ。何であたしに聞くんです?」
 「応対したのはお前だろっ! それに、おふくろさんに聞いたぞ! この前、わざわざ住所を聞いて会いにいったそうじゃないか」
 「あたしの私用です。仕事のこととは関係ありません」
 「どんな私用だ?」
 「話す必要はありません。とにかく、所長にも仕事のこととも関係ないことです」
 「関係ないですむか! お前、この頃なまいきだぞ、おれが雇ってるんだってこと忘れるなよ、だいたい……」
 島村はいよいよヒートアップし、こめかみに血管が浮き上がった。そこへ、秘書の荒井啓子、通称・おふくろさんが恰幅のいい体躯を揺らして現れ、来客を告げた。
 島村の表情の変わり方はまったく見物だった。怒り狂っていた顔から完全無欠の営業用スマイルへ。変身に要した時間は推定〇.〇五一秒。ハリウッドの特撮映画でも不可能だろうと思わせるほどの速やかかつ徹底した変貌振り。弁護士事務所なんか開いてるより芸人になったほうが大好きなお金が稼げるんじゃない? と、真梨子は意地悪く考えた。
 島村は営業用スマイル全開で飛び出して行った。真梨子は大きく息を吐き出した。おふくろさんはそんな真梨子にしみじみと声をかけた。
 「何があったか知らないけど……挑発するのもほどほどにしておきなよ。あいつ、底が浅そうに見えて、実際にはもっと浅いけど、人使いにはシビアなやつだからね。やりすぎたら即、クビにされるよ」
 「わかってる」
 真梨子はデスクの角に両手をつき、思いきり両腕をつっぱった。ため息をつきながらつづける。
 「……いっそ、その方がいいかもね。そうしたらふんぎりもつくだろうし」
 呟く真梨子をおふくろさんは不思議そうに見つめていた。
 「なに……?」
 「あんた……何かかわったね」
 「そう?」
 「まっ、いいさ。あんたもいいおとななんだから、自分のことは自分で決められるだろうし」
 肩をすくめながら言うおふくろさんに真梨子は思わず苦笑した。
 「何だか、本当のおかあさんみたいな言葉ね」
 「あたしはそのつもりだよ」
 おふくろさんは真顔で呟いた。
 「何しろあたしは、この事務所全員の『おふくろさん』なんだからね」
 そう言い残しておふくろさんは部屋を出ていった。
 真梨子はおふくろさんの温かい心にふれた喜びに胸を躍らせた。カレンダーを見る。小さくため息をついた。明日は日曜日。鴻志と過ごした日から丸一週間になる。その間、秋子や美里からは一本の電話もない。真梨子に超レアものの彼氏がいる――うそだけど――と知って、いままでのようにダシには使えないと警戒しているのだろう。いい気味だ。ふたりが苛立っているのを想像すると実に爽快な気分になる。
 鴻志からもやはり、何の連絡もない。まあ、当然なんだけど。真梨子としては鴻志に会いたい。日曜日とはいえ、どうせすることはない。洗濯して、掃除して、近くの公園をぶらりとして、それからビデオを借りてひとりっきりの部屋で見るぐらい。
 いままではそれがいやさに秋子や美里と付き合ってきた。でももうそんなことはしたくない。
 鴻志に会いたい。またあんな楽しい一時を過ごせたらと思う。でも、会いに行く口実がない。理由もなく遊びに行けるほど親しい関係とは言えないし……。
 そんなことを思っていると妹の喜美子から電話がかかってきた。
 『ああ、姉さん。今度の水曜日、だいじょうぶでしょうね?』
 「何かあったっけ?」
 デスクの上のボールペンなどいじりながら答える。
 受話器の向こうから妹のあきれた声が聞こえてくる。
 『何言っててんの。博喜の誕生日じゃない』
 「ああ、そうだっけ」
 すっかり忘れていた。博喜は喜美子の二番目の子供で長男。今年、三歳になる。
 『パーティー開くんだから、ちゃんときてよね。姉さんの甥っ子の誕生日なんだから』
 喜美子はふいに口をつぐんだ。言いづらそうにしているのが受話器越しにもはっきりと伝わってくる。
 真梨子はその理由をそれとなく察した。それで、少しばかり優越感を感じた。『妹思いのやさしい姉』と言った様子で声をかけた。
 「どうしたの?」
 『……そのう、ほら、秋子さん家のパーティーにきてた姉さんの彼……』
 「彼がどうかした?」
 かりそめとはいえ『彼』という単語を会話のなかで使えることに気恥しい喜びを感じる。真梨子ははずむような声で答えた。
 『そのう……言いづらいんだけど、彼は連れてこないでほしいの』
 喜美子の声はいかにも『後ろめたいことを口にしている』という様子のひそひそ声になった。身をかがめながら口許を押さえ、あたりの様子をうかがっているのが目に見えるような声だった。
 『何しろ、うちの旦那が何て言うか、彼のこと気に入らないみたいで……ちょっとでも話題にすると怒り出すのよ。だから、ね? 姉さんだけきてくれる?』
 「わかったわ」
 近年、ちょっと感じたことのない勝利感をかみしめながら真梨子は答えた。
 「ひとりで行くわ。どうせ、彼は人込みきらいだしね」
 『よかったあ。じゃあ、水曜日にね』
 喜美子は心から安堵した様子で電話を切った。真梨子は何とも言えない、いい気分だった。だが、受話器を置いた途端、あることに気がついて怖くなった。もし、『ぜひとも彼を連れてきて』なんて言われていたら……。
 まさか、二度もあんなお芝居に付き合ってくれるはずもなし。どうなっていたことか。それを思うと背筋が寒くなる。博信が鴻志をきらってくれていて本当によかった。真梨子は心からそう思った。
 「……さて、プレゼントはどうしよう」
 そう呟いたとき、ひとつの光景が頭に浮かんだ。ゆっくりとうなずいた。
 「口実にはなるわね」
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