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二四章

あたしが彼を滅ぼすの?

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 イタリア語で海を意味する『マーレ』という名前のそのレストランは、入る前にちょっと懐具合が心配になりそうなぐらい大きくて立派なレストランだった。
 真梨子はその建物を前にちょっと硬直した。冷や汗が流れた。大金持ちのくせに質素な生活をしている鴻志のことだからファミリーレストランだろうと思っていたのに。まるで、映画のなかで金持ちの主人公が女性をエスコートするときに使うレストランみたい。お金、足りるかしら?
 鴻志は車を降りるとさっさと歩き出した。真梨子はあわてて追いかけた。
 「ねえ、ちょっとまって! こんな立派なレストラン、ネクタイなしじゃ入れないんじゃない?」
 真梨子はスウェットシャツにロングスカート、鴻志はTシャツにカジュアルパンツ。気取った場所なら、丁寧だが断固たる態度で押し返されること疑いなしの格好である。
 「だいじょうぶだ。『ネクタイ姿で楽しい食事はできない』ってのがここのオーナーシェフの信条だからな」
 「知り合いなの?」
 「ヨーロッパの料理に関する取材源」
 言いながら鴻志はさっさと歩いていく。真梨子も仕方なく後につづいた。ネクタイが必要な場所ならもっと安そうなレストランへ移れると思ったのだが、そうはいかなかった。こうなったら腹をくくるしかない。誘ったのは自分なのだし。
 真梨子は破産覚悟で後についていった。
 店内に入ると店員がうやうやしく迎えてくれた。何も言わなくても他のテーブルからははなれた奥のテーブルに案内してくれた。オーナーの知り合いと知っていて配慮したのだろう。
 ――これなら、お値段も少しぐらいは『勉強』してくれるかも……。
 と、真梨子はちょっぴりだけ安心した。
 ところが、席に着くなり鴻志はメニューにあるエビ料理を片っ端から注文した。真梨子が口出しする暇もないすばやさだった。
 聞いたこともないような名前が鴻志の口から出てくるたび、真梨子の背中を冷や汗が流れた。
 「……ず、ずいぶん、思いきりよく注文するのね」
 「贅沢するときは、とことんする主義」
 ――甘く見てた……。
 真梨子は痛恨の念にかられた。普段、どんなに質素に生活していようと大金持ちは大金持ち。ディナーとなれば一般庶民とは感覚がちがう。
 真梨子の不安が伝わったのだろう。鴻志はサービスで置いてあるグリッシーニというクラッカーのようなイタリアパンをかじりながら言った。
 「心配するな。金はおれが払う」
 その言葉に真理子は心からホッとした。同時に情けなくもなった。
 「でも、お礼のために……」
 「気にするな。金なんてものはあるやつが払えばいいんだ」
 料理が運ばれてきた。真梨子がいままで見たこともないような大きなロブスターだった。殻を向き、ぷりぷりした身にかぶりつく。目を丸くした。
 「……おいしい」
 「そりゃそうだ。ここのシェフはイタリア料理界の明日を担う、とまで言われていた男だからな」
 と、こちらもバナナのような身を丸呑みにするようにしてかぶりついている鴻志が答えた。
 次々とエビ料理が運ばれてくる。真梨子はあまりのおいしさにおごるつもりだったのがおごってもらうことになった後ろめたさも忘れて食べまくった。食後のコーヒーが出てきたときにはもうお腹いっぱい。一杯のラーメンだって食べられそうにない気分だった。
 「もお、お腹いっぱい」
 幸せもいっぱい、の気分で呟く。
 「エビだけで満腹になったのなんて生まれてはじめて」
 「満足していただいて光栄です」
 突然、気さくな男の声が降ってきた。真梨子は声のしたほうを見上げた。そこにはヨーロッパ系の男性がにこやかに立っていた。鴻志と同い年くらいだろう。なかなかのハンサムで、いかにも『陽気なイタリアン』といった感じ。彼がここのオーナーシェフね、と真梨子は直観した。
 その陽気なイタリアンシェフは真梨子を一目見るなり芝居がかった大きなため息をつき、うっとりした様子で首を左右に振った。それから大きく両腕を広げ、叫んだ。
 「ベッラ ベッラ ベリッシマ セイ ミラビリオーザ!」
 「えっ、えっ、なに?」
 突然の叫びに真梨子が面食らうと、鴻志が面倒くさそうに通訳してくれた。
 「『美しい、美しい、最高に美しい。君は最高にすばらしい!』とさ」
 「まっ……」
 そんなこと、生まれてこの方、言われた試しのない真梨子である。はじめての賛美の言葉を、それもこんなにも熱烈に叫ばれて、耳まで赤く染め、片手を頬に当ててうつむいた。
 そんな真梨子を鴻志は皮肉な目で見た。
 「真に受けるなよ。イタリア人ってのは生物学的に女でありさえすれば誰にでもそう言うんだからな」
 「そんな言い方……」
 と、いい気分を台無しにされた真梨子が抗議するより早く、とうのイタリア男が早口にまくし立てた。
 「何を言うんだい、コウジ。君はぼくのことをそんな軽薄なやつだと思っているのかい? とんでもない! たしかにイタリアにはそういう男がいっぱいいるさ。彼らときたら本当に口から先に生まれてきたんじゃないかと思うぐらいおしゃべりで、おまけに女性と見れば誰彼なくお世辞の海だ。まったく、恥ずかしいよ。品がない。彼らはもっと日本男子の寡黙さを見習うべきだね。ええと、何と言ったかな? そうそう、質実剛健、それを身につけるべきたよ。本当にそう思うよ。
 でも、ぼくはちがうよ。そんな軽薄なやつじゃない。何しろぼくは生まれたころから『イタリア男らしくない』って言われてたんだ。無口で、おしゃべりが苦手で、まして女性にお世辞なんて一言も言えやしない。『愛の国、イタリアの人間らしくない』ってわけさ。不器用で恥ずかしがり屋なんだよ。
 だから、ぼくが女性をほめるのは本当に、心の底からそう思ったときだけだ。決して、断じて、神に誓ってお世辞なんかじゃない。本当のことさ。ああ、シニョーラ! 君は美しい! ぼくが見たどんな女性よりも美しい! 世界のどこにも君ほど美しい女性はいないにちがいない!」
 バラの花束を手に結婚を申し込むときのような情熱的な表情で一気にまくし立てる。
 その勢いに真梨子はぼおっとなった。一〇〇パーセントお世辞だとわかってはいるが、ここまで徹底的に言われてうれしくならない女がどこにいよう。『照れ』とか『恥じらい』などというものとはまったく無縁なイタリア男の愛の賛美に、真梨子はすっかりのぼせ上がった。頬を上気させてうっとりと聞き入っていた。
 鴻志はそんな真梨子を小ばかにするように鼻を鳴らした。それから、『無口で不器用な』イタリア男に向きなおった。
 「……オーナーシェフがこんなところにきていていいのか、ロレンツォ。客を放っといたら商売人失格だぞ」
 「何を言うんだい。コウジがはじめて女性をつれてやってきたというんだ。仕事なんかしてられないよ。何がなんでも拝見しなくちゃ。ハアイ、お美しいシニョーラ。ぼくはロレンツォ・ヴェニエ。あなたのお名前は?」
 さり気なく真梨子の手をとり、キスまでしてそう尋ねる。よもやこんなお姫さまみたいな扱いを受けるとは。そんなことが生涯で一度でもあるなどとは想像したこともない真梨子である。イタリア男の愛の作法にどぎまぎしながら答えた。
 「えっ……あ、その、小山内……真梨子」
 「マリコ! すばらしい! 日本女性の名前、とても、とても、アッファシナンテ! 見た目だけでなく、名前まで信じられないほど美しい!」
 聞きたくもない愛の賛美の洪水を聞かされて、さすがにうんざりした鴻志が口をはさんだ。
 「……いい加減にしろ、まったく。こっちが恥ずかしくていたたまれなくなる」
 鴻志が言うと、ロレンツォはにやりと笑って見せた。
 「はは~ん、コウジ。君は妬いているんだね?」
 「はっ?」
 「いやいや、隠すことはないよ。こんなにも魅力的なインナモラータがいれば他の男の目が気になって当然さ。でも、だいじょうぶ。心配はいらないよ。だって、ぼくは他のイタリア男とはちがうからね。照れ屋で、恥ずかしがり屋で、おかげで女性に満足に声をかけることもできないほどなんだ。まして、友だちの彼女に手を出したりしないよ。だから、何も心配いらない。ぼくはただマリコの魅力にまいってしまっただけさ。
 ああ、マリコ。美しいシニョーラ。君は本当に魅力的だ。最高にすばらしい。君みたいな彼女を持てるなんてコウジは世界一の幸せ者だよ。どうか、これからもコウジを幸せにしてやって。君が側にいればどんな男もそれだけで世界一の幸せ者になれるのだから」
 言いたいことを、言いたいように、言いたいだけ言いまくり、ロレンツォはようやくテーブルをはなれた。三歩いって立ちどまり、振り向き様に一言、
 「カーラ!」
 と、バラを投げる闘牛士のような投げキスとともに『いとしい人!』と呼びかけ、イタリアのカントリーミュージックなどを歌いながら陽気そのものの態度で去っていく。
 ようやく立ち去ったイタリア産台風に鴻志はため息をついた。まだぽおっとしたままの真梨子に声をかける。
 「……鼻の下、延びてるぞ」
 「えっ? あ……!」
 言われてようやく我に返り、顔の筋肉が緩みきっていることに気づいた。真梨子はあわてて顔を引きしめ、両手で頬を叩いた。
 「これでどう?」
 「まっ、よかろう」
 「……何だか、すごい人だったわね。うちの母と気が合いそう」
 「いくらイタリア男でもあそこまではそうはいないだろうな。天然記念物に推薦されるべきだ」
 「でも、いい人じゃない。あなたのことを心配してた」
 「大きなお世話だ」
 言い切って鴻志はコーヒーを一口、飲んだ。途端に顔をしかめた。
 「……なぜにイタリアはコーヒーなんだ? 美食の国なのにお茶のよさはわからなかったのかね?」
 「ロレンツォに言ったら?」
 「言ったんだけどな」
 「けど?」
 「聞きやしない。『コーヒーこそイタリアの飲み物だ』と、その一点張り。そこで、おれは言ったわけだ。『中国女やインド女もイタリア女ど同じように愛せると言うのなら、お茶だってコーヒーと同じように愛せるはずだ』とな。そしたらあいつ、『お茶の国の女はミニスカートをはかない』と抜かしやがった。何てやつだ」
 真梨子は笑いころげた。
 鴻志はつまらなそうにコーヒーをすすっている。
 真梨子はそんな鴻志を見つめている。笑っていた顔が徐々に引きしまり、真剣な顔つきになる。
 「……ねえ」
 「うん?」
 「何で……あんなこと言ったの?」
 「何が?」
 「事務所でのことよ! あなたはいい人じゃない。親切だし、やさしいし。それが何であんな……死刑にするだのなんだのって……」
 途端に鴻志の表情が険を含んだものとなった。コーヒーカップをテーブルに置いて答えた。
 「それが必要だからさ。おれたち、社会被害者の名誉と尊厳を取り戻すためにな」
 「どういうこと?」
 ふっ、と鴻志は息をついた。遠い目になった。ゆっくりと話しはじめた。
 「客観的に見て、おれは好ましい人間だ。充分に善良だし、モラルも、思いやりもある。知性にいたっては天下無敵の空前絶後。おれに並ぶものはない」
 最後の一言はまるで特撮ヒーローの登場時の口上のようだった。何はともあれ、自分で自分の言うことに茶々を入れなければ気のすまない鴻志であった。
 「そのおれがなぜ、あんな目に合わなきゃならない? 学校に行かない、いや、行けないからといって立てなくなるまで説教され、殴られ、線香の火を押しつけられ、物置に閉じ込められ、布団蒸しにされて……殺されると思って必死に暴れたよ。毎日が戦争だった」 「……そこまでされても不登校だったの?」
 子供時代の鴻志がどんな目に合わされてきたかは今までにも何度か読んでいる。もう、それだけでホラー映画を見る必要がなくなる。それぐらい、凄惨なものだった。それを読むたび、それでも学校を拒否する鴻志の態度を不可解に思った。そんな仕打ちに耐えるより、学校にいったほうがずっと楽だろうに……。
 しかし、鴻志は吐きすてた。
 「そこまでされたからこそ、だ。殴られて言うことを聞いていれば、親はそれでいいんだと自信をもつ。そうなれば一生、殴られる。おれはおれの未来を守るために『どんなに殴っても無駄だそ』と、親に思い知らせなければならなかった」
 「そんなこと考えてたの?」
 「ああ。他人から見てどう思おうが、あれはおれにとってはれっきとした戦いだった。自分の尊厳を守るためのな。
 だが、どんな目にあおうと悪者にされるのはいつもおれだった。説教され、責められるのは殴られていたおれ。殴る親じゃない。昔、親の体罰で殺された子供のニュースが流れたとき、キャスターがいったよ。
 『なおってほしいという親の必死の願いだった』
 おれはそれを忘れない。
 教師のよけいなおせっかいのおかげでクラス中のやつが手紙を送ってきたことがある。そのなかにこんなことを送ってきたやつがいたよ。
 『学校に行くのは自分のためなんだから行きたくないなんてわがままはいけないと思う』
 おれはそれを忘れない。
 なぜ、おれが、いや、おれたちがそこまで責められ、落としめられ、生命の尊厳まで否定されなければならない? ただ、人と同じことができないという、それだけの理由で。小学校卒業間近になったとき、教師が言ったよ。
 『同窓会を開くときは彼も忘れないように。彼もれっきとしたクラスの仲間なんだから』」
 真梨子はその教師のやさしい心使いに胸を打たれた。だが、鴻志は苦々しく吐き捨てた。
 「誰が頼んだ、そんなこと! おれはそんなこと望みやしない。おれはただ、ひとりでいたかっただけだ。なぜ、ただそれだけのことが犯罪のように扱われ、無理やり『治され』なきゃならない? そのために殺してまで……」
 鴻志の言葉は真梨子には激しい衝撃だった。鴻志の境遇に同情しているつもりだった。その気持ちを理解し、周囲の不理解を責めていたつもりだった。だが、そうではない。鴻志の気持ちなどまったく考えようとしない教師の言葉に共感する自分はしょせん、彼を包囲し、苦しめ、殺そうとする世間の一部でしかない。無自覚の加害者のひとりでしかなかった。そのことを思い知らされ、真梨子は心が痛んだ。
 「……善意からの言葉だったのはまちがいない。それだけにタチが悪い。善意でやってるやつに反省とか、後悔とかはないからな。とにかく。そんなことをくり返しているうちに自分の正当性を証明することがおれの目的となった」
 「正当性?」
 「そうだ。『こんな目に合うのはおれのせいじゃない。おれが悪いんじゃない。おれがまちがってるんじゃない。まちがってるのはあいつらのほうだ、抵抗できない子供を暴力でいいなりにしようとすることが正しいわけがない!』と、証明することをな。
 そのために作家を目指した。学校に行くのとはちがうルートで立派に自立できることを示せば学校にこだわる必要なんかなかったんだと証明できる。それに、作家になれば世の中に向かって言いたいことが言える。そのために……」
 「……そして、その通りになった」
 「そうだ」
 鴻志はうなずいた。だが、そのうなずきは力強いものではなかった。大切なものを失った子供のように、悲しげで、心細そうなうなずき方だった。
 「……だが、時間がかかりすぎたよ。三〇過ぎてようやく、じゃあな。これじゃ証明したとも言えない。それに何より……おれは人生を失いすぎた。別におれは人生をすてる気も、引きこもりになる気もなかった。とにかく、作家になることを最優先に、その他のことはその後から、と思っていただけだ。だが、結局、デビューできないままにずるずると時間だけが過ぎ、気がつけば引きこもりと言われるような暮らしに埋没してた」
 鴻志はふうっ、と息をついた。
 「……まっ、甘かったさ。子供の頃から空想が過ぎて、マンガやアニメを自分なりに作り替えて楽しんでいたから、作り方はわかっているつもりだった。何より、フルタイムを創作に当てられるんだ。他の人間よりは有利だと思ってた。四~五年もかければ何とかなると思っていたんだ。まさか、一〇年以上もかかるとは予想していなかったよ。
 だが、現実としてそれだけの時間がかかり、そして、その間、おれは何もできなかった。おれには青春の思い出なんてものはない。歳相応の経験などなにひとつ積んでこなかった。一〇代半ばまでは親との戦争、それ以降は引きこもり。空っぽの人生さ。まっ、仕方ないけどな。自分で選んだんだから」
 ふたたび、鴻志は息をついた。
 「……うちの親父ってのが典型的な働きバチでな。休みの日は掃除やら洗濯やらしてるんだよ。働く以外は何もしない。それを見て子供の頃に思った。『こんな人生だけはいやだ』ってな。仕事、仕事で自分のことをする時間なんてまったくない。そんな人生だけは送りたくないと。けど、気づいてみれば親父以上の仕事人間になってたらしい。他人がどう思おうと引きこもりの時期にしてきたことはおれにとってはたしかに仕事だったのだから」
 真梨子は何とも言えなかった。
 鴻志はつづけた。
 「その間にも世の中はどんどん進み、気がついてみれば障害をもった胎児を選別して中絶できるまでになっていた。おれは自閉症だ。判別する技術さえあればまちがいなく中絶される。他人事じゃない。選択的中絶とはおれたちに対する死刑宣告に他ならない。それなのに、日頃は『人を殺したら死刑』と言っている連中が選択的中絶は『親の権利』として認め、少年犯罪に対する処罰が甘いことに腹を立てるやつが平気な顔をして言う。『苦しんでいる女性たちを責め立て、さらに苦しめることは許されることではない』とな。
 おれたちは被害者にすらなれない。殺されて、いや、消されて当然のゴミクズでしかない。レイプされて妊娠した一〇歳の女の子が中絶すると言うなら同情するさ。だが、子供を育てる意志も、能力も充分にある夫婦が『こんな人間いらない』という理由で中絶する権利を守るために、なぜ、おれたちが『消されて当然』のゴミクズに甘んじなくてはならない? なぜ、そこまで辱められ、名誉と尊厳を奪われなくてはならない?
 おれたちが何をした?
 毒ガスをまき散らしたか?
 銃をぶっ放してまわったか?
 汚染された血液製材を売り払ったか?
 必要もないのに爆撃してまわったか?
 いいや。おれたちはそんなことは何ひとつしていない。それをするのは『普通の人間』だ。世のためと言うなら普通の人間こそ中絶すべきだ。それとも、この世のなかでは引っ込み思案のやさしい人間より、大胆で行動的な連続レイプ殺人犯のほうが価値が高いのか?」
 「そんなことない!」
 真梨子は反射的に叫んだ。
 「そう言ってるとしか思えんね」
 鴻志は氷さえヒビ割れそうなほど冷たい冷笑を浮かべた。
 「なぜおれが、おれたちがそこまでされなければならない? たしかにおれは多くの他人と付き合うことはできない。だが、ひとりで地道な作業を積み重ねることに関してはおれのほうがはるかに適している。世の中だってそういう人間がいなきゃ困るだろうが。仏陀だって、イエスだって、アインシュタインだって同じタイプだ。それとも、仏教も、キリスト教も、相対性理論もないほうがよかったわけか?」
 真梨子は首を横に振るしかなかった。たしかに、それらのない世界など想像もできない。
 「たしかに自立するまで時間はかかった。だが、それは、おれだけではなく、まわりの扱いも原因のひとつのはずだ。人と付き合えないと言ってもまるきりだめというわけじゃない。不特定多数の相手はできない、と言うだけだ。少数の顔見知りとなら普通に付き合える。いまのおれがそうしているようにな。おれに『治療』なんて必要なかった。まして、あんな『治療』はな。
 無力な子供だった頃、まわりがもう少し配慮してくれていれば、ほんの少し、手助けしてくれていれば、おれはもっと早く自立できていたはずだ。そうすれば……」
 鴻志は重ねた手に力を込めた。唇をかんだ。手元に落とした視線はかぎりなく重く、深かった。
 「……人生を失うこともなかった」
 真梨子は何も言えなかった。鴻志の言う通り、彼らを殺している人間が何の罰も受けず、社会的な地位すら失うことなく、のうのうとのさばっているのは事実なのだ。この事実を前にしては『あなたには充分、価値があるわ』などというお定まりの言葉はあまりにも空しい。
鴻志はさらにつづけた。
 「そして、あのときがきた」
 「あのとき?」
 「そう。いい加減、三〇も過ぎたある日のことさ。突然、頭のなかで『いずれ歳をとり、死ぬときがくるのだ』という思いがはじけた。脳のなかで音がするほどの衝撃だったよ。死の恐怖にパニックを起こし、咳き込んで、吐いた……」
 「ほんと、甘かったよな。現実を知らず、空想の世界で生きてきて、『何とかできる』と思っていた。それがいきなり、現実世界に引き戻された。一種の浦島太郎かな。夢の日々を過ごした後、玉手箱を開けてしまい、気がついたら思いきり年寄りになっていた……」 
 「年寄りだなんて……。まだ三五でしょ? まだまだいくらだって……」
 「普通の人生を歩んでいればそうなんだろうな。けど、おれは人が人生で経験するようなことをなにひとつ経験していない。精神的には一六のままなんだよ。一六歳にとって三〇代がどれほどの年寄りかはわかるだろう?」
 「それは……まあ」
 真梨子はうなずいた。彼女自身、一六のときには自分が三〇代になることがあるなんて想像もできなかった。
 「……中年の危機に見舞われるのは人生の問題を先送りにしてきた人間か、高望みしすぎる人間だというが……おれはその両方だからな。その分、危機も巨大になったわけだ。失ったものの大きさに愕然として……人生の意義それ自体を信じることもできなくなった。
 さすがに限界だったよ。それ以上、同じ暮らしをすることはできなくなった。もう神経がもたない。自分の負けを認めて普通の暮らしをするしかなくなった。体を使った仕事と話し相手が必要なことはわかっていたからな。けど、一〇代の頃にさえできなかったのに、いまさらできるとは思えなかった。もう完全に袋小路で出口が見えなくなっていた。どうしていいかわからなかった」
 「誰かに相談とかしなかったの?」
 「そんな相手、いるわけないだろ。おれはずっとひとりだったんだ」
 「ご両親には?」
 「だから。おれにとっては親が最大の敵なんだよ。相談するような対象じゃない。第一、こんなことを相談してどうなる? 『いつか死ぬときがくるのが怖い。助けてくれ』って言うのか? 歳をとるのも、死ぬのも、誰にもどうしようもないことだ。相談するだけ無意味だ」
 「それはそうだけど……」
 真梨子は納得できずに口ごもった。つらいときや、苦しいときは誰かに話すだけでもいいじゃない。それで少しでも楽になるかも知れないんだから。なにも自分ひとりで抱え込むことはないじゃない。
 弁護士という仕事柄、精神科医や心理学者との付き合いもある。彼らは口をそろえて言っていた。
 『本当に苦しんでいる人ほど、誰にも助けを求められずにひとりでもがいている』
 苦しみがあまりにも深いため、誰にもどうしようもないことなのだと思い込み、ひとりで抱えてしまう。あるいは、自分を理解してくれる相手なんていない、どうせ、話したって責められるだけだというあきらめから、助けを求めようとさえしない。そして、そんな人たちの何割かはその苦しさに押しつぶされ、自殺してしまう。
 『自殺するのは決まって「こういう人こそ生きていてほしい」と思うような人』
 彼らはそうも言っていた。
 真梨子が弁護士という仕事に失望したのもそのせいだった。真梨子が助けたい、力になりたいと思っていた人たちは決して助けを求めてきてくれない。助けを求めてくれれば何かしてあげられるのに……助けを求めることすらできずに死んでいってしまう。
 その現実を見せられるたび、真梨子は理想と現実のギャップに責めさいなまれた。無力感に押しつぶされた。鴻志もそうなのだろうか。でも、だとしても、鴻志はいま、こうしてあたしの目の前にいる。何かができるかも。子供の頃に夢見た理想像に近づけるかも。真梨子はかなりの後ろめたさを感じながらも、その予感に心をときめかさずにはいられなかった。
 鴻志はつづけた。
 「そんなときに何とか応募していた作品が出版社の目にとまってデビューにこぎ着け、そして、『時の相転移』を書いて……ある日起きたら、天才と呼ばれていた」
 鴻志は自嘲気味に微笑んだ。
 「大した出世ではあるよな。引きこもりの袋小路から一躍、SF界の寵児だ。いまやおれの名は世界中で知られ、大金をほしいままにしている。けど……」
 鴻志の浮かべた微笑は真梨子の心を深くつらぬいた。
 「……おれの失ったものは取り戻せない」
 鴻志は軽く息をついた。
 「……皮肉なもんだよな。ひとつの目的のために人生を捧げて、やっと、実現できるようになったとき、その目的を信じることができなくなっていたんだから。その意味ではたしかにおれはまちがっていたよ。人生をすてるべきじゃなかった。何があっても。人生と引き換えになる目的などあるわけもなかったのに……。けど、若いうちはわからないよな。人生のかけがえのなさなんて」
 「だったら……」
 真梨子は思いの丈をぶつけるように叫んだ。
 「だったらなおさら、そんなことしてる場合じゃないじゃない!」
 思いきって言った。鴻志が眉を動かした。真梨子はたじろいだ。こんなことを言えば、鴻志をいま以上に傷つけてしまうかも知れない。家族でも、恋人でも、友人でさえない自分にこんなことを言う資格があるかどうかもわからない。でも、この場にいるのはあたしだけだ。だったら、あたしが言わなきゃ。彼はいい人だわ。いい人がこんなに苦しむなんてあっちゃいけない!
 弁護士として八年間、身勝手で悪辣な人間ほど世の中に適応してうまくやっている現実を見つづけてきただけにその思いは強烈だった。あたしはこんな人の力になりたくて弁護士になったんだ。鴻志を前にして、一〇代の頃の、純粋に夢を追いかけていた頃の情熱がふたたび、胸のなかで激しく燃えあがった。
 だから、真梨子は言った。心から。幸せな人生を送ってほしくて。
 「そんなことをしたらあなたの人生はどうなるの? 何もかもなくしてしまうわ」
 「もうとっくに失ってる」
 「何言ってるの! まだ三五じゃない。まだまだ、人生を取り戻すことはできるわ。これからいくらだっていい思いができるのにそれを自分からすてるだなんてただのバカよ! そんなの、未来を怖がって避けてるだけじゃない!」
 「いい思い?」
 鴻志は皮肉を込めて聞き返した。
 「いまさらおれにどんないいことがあると言うんだ? 世間一般のまっとうなおとなたちみたいに女とつき合って、結婚して、子供をもてとでも言うのか?」
 「それもひとつの道だわ」
 「あいにく、おれにはそれをするための機能がない。それに、苦しんでいるのはいまのおれじゃない。いまのおれはいまの生活に充分、満足している。苦しんでいるのは家族とのふれあいをもてなかった子供時代のおれであり、青春を満喫できなかった一〇代の頃のおれだ。いまさら、親と遊ぶことはできない。一〇代の女の子とつき合うわけにはいかない。これから何をしたところで、苦しんでいる『昔のおれ』はかわらない」
 「それならなおさらよ! いまさら誰を死刑にしたって過去は取り戻せないのよ。そんなことのために未来を台無しにするなんて……」
 「名誉と尊厳は取り戻せる」
 鴻志はきっぱりと言った。
 真梨子はその答えに絶句した。
 「おれたちを殺すことはれっきとした殺人なのだと認めさせることでな。これまで世界中で殺され、無視されてきた無数の社会被害者たちの名誉と尊厳を取り戻せるんだ。おれはそれをやらなければならない。いずれ、世界中の社会被害者が叫ぶようになる。『死んで償え』と要求するようになる。おれがそうさせる。誰にも邪魔はさせない。そして、もし、その声に耳を傾けないときは……」
 鴻志は指で首をかききる仕種をした。
 「実力行使だ」
 「世界を滅ぼすつもり⁉」
 「どうせ、おれたちは滅ぼされる」
 迷いのない断言に真梨子は打ちのめされた。
 「何で滅ぼされるなんて決めつけるのよ! あなたたちの生命を大切に思っている人たちは大勢いるわ、ないがしろにするような人たちばかりじゃない」
 「では、お前はおれを産むのか?」
 鴻志の言葉は真梨子を絶句させた。
 「想像してみるがいい。医師がシャーレの上に受精卵を並べてこう言うんだ。
 『右のふたつはダウン症の疑いがある。三つ目は多分、自閉症。四つ目は遺伝性の病気をもっているから幼いうちに死ぬでしょう。残りはまあ、普通の人間として生まれてくるでしょう』
 そう言われて『普通』意外の受精卵を選ぶ人間がどこにいる? いるわけがない。誰だって、自分の子供には幸せな人生を送ってほしいと思っているんだからな。わざわざ、苦労するのが分かっている子供を産んだりするわけがない。おれたちを滅ぼすのは怒りや憎しみじゃない。親の愛、我が子に苦労をかけたくない、不幸にしたくないという『親の愛』なんだ。どうやったら太刀打ちできる? どうやったら、やめさせられる? できるわけがない。おれたちはまちがいなく滅ぼされる。他でもない。『親の愛』によってな」
 真梨子はその言葉に打ちのめされた。鴻志の言葉はあくまでも静かなのに、稲妻よりも激しい衝撃となって真梨子の耳と心とをつんざいた。
 ――たしかに。
 たしかに、自分だって、医師からそんな言い方をされたら『普通』以外の子供を選ぶことはできないだろう。もし、選ぶことが出来ないなら、どんな子供が産まれてくるか分からないままなら、どんな子供でも受け入れ、愛し、育むことができるかも知れない。でも、いまはちがう。選べてしまう、どんな子供が産まれるか『産む前に』分かってしまう。そういう時代なのだ。産む前に選べるなら、産む前に分かってしまうなら……どうして、『普通』以外を選べると言うのか?
 「それじゃ……どうしてもやる気?」
 「滅ぼされるのはもう仕方がない。親を幸せにできない存在であることはおれ自身、よく知っている。おれだっておれのような子供をもちたいとは思わない。だが、人間以下の『何か』として滅ぼされるわけにはいかない。殺人だと認めさせなければならない。そして、『人を殺したら死刑』と言うかぎり、『我々の罪を許してくれ。我々も他人の罪を許すようつとめるから』と言わないかぎり、死ぬ以外にはおれたちを人間と認めたことにはならない」
 おれは取り戻す。何としても取り戻す。おれたち社会被害者の名誉と尊厳を。そのためなら――世界が破滅しようとかまいはしない』
 鴻志は伝票を手に立ち上がった。
 「じゃあな。これから本業なんでな」
 「あっ、送るわ」
 真梨子も立ち上がりながら言った。このまま別れてしまえばもう二度と心を通わすことはできない。氷の壁に跳ね返されるだけ。そんな恐怖にかられてのことだった。だが、鴻志は氷さえも暖かく感じられる声で言った。
 「断る。必要ない」
 ……真梨子はうつむき加減に自分のアパートに戻ってきた。鍵を開け、真っ暗な部屋に入る。電気をつける。『ただいま』をいう相手もいない空っぽの空間が目にはいる。いつにもましてさびしく感じられた。
 バックをそのへんに放り出し、着替えもせずにベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。ため息をひとつ。
 他に誰もいない部屋にいることがいつにもましてつらく思えた。普段よりずっとさびしい。鴻志の家でのことを思い出した。おしゃべりをして、暖かい手料理を食べて、ビデオを見て……。あんな風に男性とふたりで楽しく過ごしたことなど何年ぶりだろう。
 「考えてみれば……」
 ため息をつきながら呟いた。
 「……あたしも彼と同じなのよね」
 弁護士になる。
 その目的のために脇目もふらずにやってきて、ふと気がついたら心が歳をとっていた。そう。鴻志にいった言葉はすべて彼女自身にもあてはまることだった。まだ三〇なのに、もう人生が終わった気でいた。まだまだこれからいくらでもいい思いができるはずなのに、自分からあきらめてしまっていた……。
 そのことに気がついたとき、真梨子の心のなかでなにかがはじけた。かっと目を見開いた。飛び起きた。電話をつかんだ。所長の島村に電話をかけた。相手が出ると有無をいわせぬ勢いで宣言した。
 「明日から一ヶ月、お休みをいただきます!」
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