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第一部 旅立ち篇

七の扉 生命を賭した抵抗

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 ラベルナは新しい地下牢に移されていた。
 そこは恐ろしく天井が高く、狭苦しい牢だった。
 地面には水が溜まっている。
 人間にとってじっと立ち尽くしていることは歩きつづけるよりも辛い。その辛さを味合わせるために寝そべることはおろか、座ることも出来ないように水を張った狭い牢。
 囚人を苦しめるためによく使われる手だ。
 ラベルナはその牢のなかでひとり、足元を水に濡らしながら立ち尽くしていた。
 足が冷たい。
 水が靴に染み込んで足を濡らす。
 そこから体温が奪われる。体がこごえ、ガタガタと震える。
 四方を囲む見上げるばかりに高い壁がいまにも押しつぶさんばかりの圧迫感あっぱくかんをもって迫ってくる。
 そのなかで何ひとつやることもなく、ひたすらにじっと立ち尽くしていなければならない。
 辛い。
 恐ろしく辛い。
 せめて、壁によりかかって休もうにも壁もジメジメと湿っている。よりかかったりすればたちまちのうちにその水分が服にしみこみ、体を濡らす。体温を奪われ、凍えることになる。足元が水に濡れているだけでももう充分に寒いのだ。これ以上、体温を奪われれば死んでしまう。
 運動して体を温めようと思っても、そんなことをすればよけい体力を消耗しょうもうする。そもそも、この狭苦しい牢のなかでは満足に歩くことも出来はしない。
 地下牢と言うよりも、底にちょっぴり水が溜まっているだけの古井戸。
 そのなかに閉じ込められている。
 そう言った方がふさわしい状況だった。
 ――我がフィールナル王国にこんな場所があったなんて。
 ここはまぎれもなく拷問ごうもん専用せんようの地下牢。
 人としての尊厳そんげんを奪い、人間性を根こそぎ破壊し、動物にとす。そのための場所。そんな野蛮やばんな設備が自分の生まれ育った国にあったなんて。
 ラベルナにしてみればそれだけで充分に腹正しく、恥ずかしい。
 何しろ、この地下牢には便所すらついていないのだ。
 おまるすら用意されていない。
 排泄物はすべて牢に溜まる水のなかに垂れ流さなくてはならない。
 「お前は動物だ。ケダモノなんだ。ケダモノはケダモノらしくその場に垂れ流せ!」
 牢の設計者のそんなあざけりが聞こえてくる。
 ここはまさに、人間をケダモノにかえることを目的とした場所なのだ。
 「自白する気になったらいつでも獄吏ごくりに言うが良い。自白さえすればいつでも出してやる。ふかふかのベッドで眠れるようにしてやるぞ」
 ラベルナをこの地下牢に放り込んだとき、国王アルフレッドはニタニタと笑いながらそう言ったものである。カーディナル家の一員として常に誇りをもって生きてきたラベルナにとってはまさに目もくらむほどの屈辱。
 だからと言って屈するわけにはいかない。
 してもいない罪を認め、罪人になるなどカーディナル家当主としての誇りが許さない。
 ――負けるものか。
 ラベルナは必死に歯がみしながら思う。
 ――わたしはカーディナル家の矜持を守ってみせる。こんな仕打ちに屈したりするものか。
 その思いだけでラベルナは耐える。
 環境に劣らず『やることがない』と言うのも辛いことだった。
 話し相手などもちろんいないし、本一冊、読むことも出来ない。
 日がな一日ただただ水のなかに立ち尽くし、やることもなく過ごしていなければならないのだ。普通の人間であればそれだけで充分、気が狂うほどの責め苦。そこから解放されたいあまり無実の罪でもなんでも自白してしまうだろう。
 しかし、ラベルナはちがった。
 ラベルナの頭のなかには代々の薬師として培ってきた膨大ぼうだいな知識がある。
 新たな薬品を作るために考案してきた様々な薬草の組み合わせがある。
 頭のなかでそれらの記憶を読み返し、考案していた実験を繰り返し、その出来を予想する。それは薬師としての探求であり、『必ずここを出て立場を取り戻す』という決意表明でもある。代々の蓄積がある限り、ラベルナにとって『やることがない』と言うことはあり得なかった。
 囚人に恐怖感を与えるためだろう。筋骨隆々の体をこれ見よがしにさらした獄吏が食事を運んできた。
 カビの生えたパンとわざわざ腐らせた乳で作ったようなチーズ。そして、コップ一杯の水。
 それだけでも充分、屈辱的だが『動物に堕とす』ことを目的としたこの地下牢において、それだけですむはずがない。筋骨きんこつ隆々りゅうりゅうの獄吏はニヤニヤしたいやらしい笑みを浮かべたまま水の入ったコップを手にとった。そして――。
 その中身を自分で飲み干した。
 そのあと、あろうことか、そのコップに自分の小便を満たした。
 そのコップをラベルナに差し出したのだ。
 ラベルナの眉間に雷が走った。
 「何ですか、それは! そんなものを人間に飲ませようと言うのですか⁉」
 ラベルナの怒りに獄吏は手慣れた様子で答えた。
 「お前はもう人間じゃねえ。地下牢に幽閉されただの囚人だ。そのことを忘れるな」
 そう。これは儀式。喉の渇きに苦しみ、他人の小便を飲む動物に堕とすための儀式なのだ。
 その儀式をしかし、ラベルナはきっぱりと拒絶した。
 「そんなものを飲食することは断固として拒否します。人間にふさわしいきちんとした食事をもってきなさい」
 「あいにくだが囚人に食わせるものはこれしかねえ。こいつを食わなきゃ死ぬことになるぜ」
 「ならば、死にましょう」
 ラベルナは迷いなく言った。
 「わたしはカーディナル家当主。獣になって生きるより、人間として死ぬことを選びましょう」
 その言葉に――。
 獄吏は鼻を鳴らした。
 馬鹿にしきった様子で言った。
 「最初はみんなそう言うのさ。だが、そんなことを言っていられるのもはじめのうちだけ。すぐに『小便でもなんでもいいから飲ませてくれ!』と泣き叫び、おれさまのチンポから直接、小便を飲むことになるのさ」
 「あなたは! そんなことを繰り返してきたのですか⁉」
 獄吏はその言葉に対し、答えはしなかった。しかし――。
 ニタニタと浮かぶ薄笑いはラベルナの言葉を肯定していた。
 ――なんとおぞましい。
 ラベルナは拳を握りしめながら思う。
 ――わたしの知らないところで、そんなことが行われていたなんて。
 まさか、自分の祖国、自分が愛し、生まれ育った国がそんな腐り果てた部分をもっていたなんて。
 それだけで、ラベルナは例えようもない屈辱を感じた。
 ――負けない。こんな腐った国に負けるものか。
 ラベルナは改めてそう決意した。
 そして、ラベルナの戦いはつづいた。
 人間たるの尊厳を奪う『餌』をラベルは一口たりと口にしなかった。
 胃袋はきゅうきゅうと鳴り続け、喉は渇きにヒリヒリと焼け付くよう。それでも、ラベルナは差し入れられる『餌』を断固として拒否しつづけた。
 最初のうちは獄吏の側にもその姿を見て楽しむ余裕があった。
 ――さてさて、いつまで意地を張れるかな。
 そう思い、ニタニタと眺めていた。
 飢えと渇きに苦しむラベルナの前であえて浴びるように水を飲み、食欲を刺激する匂いを漂わせる焼肉を食った。
 ラベルナの前にあるのは獄吏の小便の入ったコップだけ。
 喉の渇きを癒やそうと思えばコップの中身を飲むか、あるいは、地下牢の床にたまったよどんだ水を飲むか。
 そのどちらかしかない。
 どちらであってもそれは、人間としての尊厳を捨て去り。自ら獣へと堕ちる行為。
 ラベルナは断じてそんなことはしなかった。
 どんなに飢えと渇きに苦しもうと、どんなにやつれようと、断じて口はしなかった。
 そうなると獄吏の方にも変化が現れた。
 予想を超える抵抗に戸惑いを見せはじめたのだ。
 「……おい。いつまで意地を張るつもりだ。本当に死んじまうぞ?」
 「言ったでしょう。わたしはカーディナル家当主。獣となって生きるより、人間として死ぬと」
 その日から差し入れられる食事の内容がかわった。
 カビの生えたパンと腐らせた乳から作られたチーズ。そして、小便の入ったコップ。それにかわり、まともなパンとスープ、それに、清潔な水が入った食事が差し入れられるようになった。
 パンはふすまだらけの黒パン。スープは野菜の切れ端が浮かんだだけの『塩味の湯』と言った方がいいような代物。貴族であれば口にするのも屈辱と思うような貧民の食事。しかし、少なくとも、人間の食べ物。まともな水もある。
 獄吏の側がついに根をあげたのだ。
 何と言っても獄吏の役目はラベルナに罪の自白を承知させ、すべての罪を着せること。このまま死なせてしまっては自分が責め苦を負うことになる。自分がさんざん他人を苦しめてきただけに、自分がされる側になったときの恐ろしさも容易に想像出来る。
 ――そんなのはゴメンだ!
 その恐怖に身を震わせ、あわてて上と交渉したのだろう。
 「ほら。これなら食えるだろう。食え」
 そう言いながら差し入れたものである。
 ――勝った。
 ラベルナはそう思い、その食事を口に運んだ。

 それを境にラベルナの扱いがかわった。
 それまでは一日中、地下牢に閉じ込めっぱなしだったのに一日に一度、外に連れ出すようになった。
 体力維持のために運動させる……などと言う殊勝な理由ではもちろんない。
 これもまた囚人を苦しめるたの拷問のひとつ。
 井戸から水を汲んで大きな桶に入れる。
 桶がいっぱいになると今度はその桶から水をくみ出し、井戸に戻す。
 そしてまた、井戸から水を汲み……。
 その繰り返し。
 まったく意味のない、繰り返しの作業。
 人間は無意味な作業には耐えられない。この作業をさせられると例外なく気が狂う。しかし――。
 これもまたラベルナは耐え抜いた。
 なぜなら、ラベルナにとってそれは決して無意味な行為などではなかったからだ。
 ――これはわたしの誇りを、カーディナル家の矜持を守るための行為。
 そう。
 傍目から見ればまったくの無意味な行為も、ラベルナにとっては立派に意味のある行為。意味のある行為である以上、精神的な苦痛など感じない。外に出て体を動かすことが出来る分、地下牢に幽閉されているよりよほど良い待遇だった。
 またしても当てのはずれた獄吏は次の手に出た。
 ラベルナの体を拘束し、逃れられないようにしておいて耳元でガラスを釘で引っ掻き、その音を聞かせつづける。
 決して眠れないよう、身の切れるような冷たい地下水をぶっかける。
 体のなかに水があふれ、おぼれる寸前まで無理やり口のなかに水を流し込む……。
 どれひとつとっても、並の人間ならば数日ともたずに耐えきれなくなり、言いなりになる。そんな拷問の数々。しかし、そのすべてにラベルナは耐えた。耐え抜いた。
 劣悪な環境と粗末すぎる食事、度重なる拷問。
 そのなかでつややかだった髪は荒れ果て、女性として理想的と呼ばれた体型はガリガリに痩せ細った。それでも――。
 ラベルナはひたすらに耐え抜いた。
 ――屈するものか。
 屈するわけにはいかない。
 わたしには生命を賭して守らなければならないものがある。
 カーディナル家の矜持。
 それだけは守る。
 守ってみせる。
 必ずだ。
 「父上、母上、そして、あまたの生命を救うためにその生涯を捧げた我がカーディナル家の祖先たちよ。ラベルナに力をお与えください」
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