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一二章
生まれついての刑事は歌姫を励ます
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クリス嬢はふたりいる。
その確信はジャックのなかで、もはや絶対のものとなっておりました。
ですから、次の日、クリス嬢が警察署を訪れ、こう言ったときにも驚きはしませんでした。
「あれはあたしではありません」
クリス嬢は開口一番、そう言い切ったのです。
「昨日のパレードで、あたしが主役の歌姫として唄い、踊った。誰もがその話で持ちきりです。でも、あれはあたしじゃない。絶対にあたしじゃないんです。あたしは昨日はやはり部屋でひとり、歌の練習をしていたんです。パレードになんて出ていません」
「しかし、昨日のパレードで見た歌姫はまちがいなく君の姿をしていた」と、ビリーがそう言いました。言われてクリス嬢はビクッと身をすくめました。
「……はい。あたしも昨日のパレードは動画で見ました。たしかに、あれはあたしです。あたし以外の何者でもありません。でも、ちがうんです。絶対に別人です。あの歌声がなによりの証拠です。残念ですけど、あたしにあんな奇跡みたいな歌が唄えるはずがありません。あんな声が出せるなんて……あれは絶対に別人なんです」
……こんなことを言っても信じてもらえないでしょうけど。
自信のなさ故でしょう。クリス嬢は蚊の鳴くような声でそう付け加えました。ですが、ジャックはそのガッシリした手で歌姫のきゃしゃな手をつかむと力強く宣言しました。
「いや、信じますよ、クリス嬢」
「本当に!」
クリス嬢の顔がたちまち喜びに輝きました。
「ええ、もちろん。おれも昨日の歌姫には会った。しかし、あれはあなたじゃない。絶対にちがう。だから、あなたの言葉を信じる」
「ああ、ありがとうございます……! 本当に信じてもらえるなんて……正直、思ってもみませんでした」
「ご心配なく。市民を守るのが警察の仕事ですから」
そう言ってジャックは笑みを浮かべました。決してハンサムとか、美形とか、そんな表現のできる笑みではない、それでも、見る人をとても安心させてくれる。そんな優しさと力強さに満ちた笑みでした。
クリス嬢のその笑みにほだされたのでしょう。そっと頬を赤らめ、うつむいたものでございます。
「しかし、そうすると昨日のクリス嬢はいったい誰だったのかな?」と、ビリーが尋ねました。もちろん、クリス嬢に答えられるわけもありません。
「その……実は最近、時々こういうことがあって……」
「最近?」
「はい。あたしは一年前、田舎に住んでいたところをテオドラ先生に見出されて……」
「まってくれ」と、ビリーが口を挟みました。
「いま、君は田舎と言ったな。どこの田舎だ?」
「田舎は田舎です。それ以外、言いようがありません」
クリス嬢は苛々した様子でビリーの質問に答えました。
「とにかく、あたしは一年前、田舎で過ごしていたところをテオドラ先生に見出されてオペラ座ノワールに在籍するようになったんです。もちろん、何の実績もない小娘に過ぎないあたしがオペラ座ノワールに在籍するなんてとんでもないことです。かなり揉めたらしいです。くわしいことは知りませんが。でも、テオドラ先生がかなり強引なやり方をして認めさせたらしいです」
「ふむ。なぜ、かの人はそこまでして君をオペラ座ノワールに入れたのかな?」
「大事な原石だから。先生はそう言い張るばかりで、あたしからは何とも。とにかく、あたしにとっては願ってもないチャンス。先生の元で必死に勉強に励みました。ところが……」
クリス嬢の表情が突然、曇りました。何か思い出したくもないとても悲しいことを思い出してしまった。そんな様子でした。
ジャックが助けるように口を挟みました。
「ところが……?」
「あ、いえ……」
「クリス嬢」
ジャックはじっとクリス嬢の顔をのぞき込みました。そして、これ以上ないほどの真摯な面持ちで言ったのです。
「ここは警察署であり、おれは刑事だ。そりゃあ、言いずらいことも多々あるだろう。しかし、ひとたび、警察に相談に来たからにはすべてを語ってくれ。何ひとつ、包み隠すことなく。そうでなければおれは何もできない。頼む。すべてを話してくれ。おれが君を助けることができるように」
そう言って真摯な面持ちのまま頭を下げるジャックの姿は、誰がどう見ても『刑事』と言う他はないものでした。そのあまりにも刑事な姿勢にクリス嬢も覚悟を決めたのでしょう。やはり、言いずらそうなまま、それでも、はっきりと語り出しました。
「その……ちょっと、言いずらいんですけど、ジャックさんと会ったころからなんです」
「おれと会ったころ?」
「はい。ジャックさんと夜の川辺で会ったあの頃からなんです。あたしがいるはずのない場所に、あたしがいたと言われるようになって……覚えてくれていますよね? はじめてあたしの楽屋を訪れてくれたときのこと。あたしが観客からブーイングを受けたあの日のことです」
「ええ。覚えてますよ、もちろん」
――実際にはその前にも楽屋に行ってはいますがね。ただし、会ったのは『もうひとりのあなた』でしたが。
ジャックはそう思いましたが、口に出して言うことはありませんでした。この際は言う必要のないことのはずでしたし、下手にそんなことを言おうものならクリス嬢をより一層不安にさせ、怯えさせ、さらに口を重くしてしまう結果になるだろう。そう思ったからでございます。
――とにかくいまは、クリス嬢にすべてを話してもらうことが先決だからな。
ジャックはそう思い、聞き役に徹したのでした。
クリス嬢はつづけました。
「多分、あのときがはじめてだと思うんです。まわりから、あたしが出ているはずのない舞台に、それも、主役として出演して、奇跡のような歌声を披露したと言われて……でも、そんなはずはない。絶対にそんなはずはないんです。その日はあたしはたしかに家でひとり、歌の練習をしていたんです。そのことにまちがいありません。まして、舞台で主役を務めたことなんてありません。それなのに、周りの人たちはあたしが主役を務めた、唄えるはずのない歌声を披露した、一体、何をやったんだと問い詰められて……」
そう告げるクリス嬢の愛らしい顔が曇りました。それはまわりからの扱いに対する悲しさと言うよりも、自分自身に対する不審故だったでしょう。
「あの……」と、クリス嬢はすがるような目付きでジャックを見つめました。愛らしい顔に不安をいっぱいに溜めて、大きなうるんだ瞳で上目遣いに見つめるその仕種。まさに、天性の小悪魔。殿方であれば例えそれがどんな堅物であろうとも――いえ、女性に免疫のない堅物であればこそ――一目で心奪われてしまう。そんな仕種でありました。ですが――。
このときのジャックは例外でした。『不安に震える市民』を前に完全無欠の刑事モードに入っているジャックにはいかなる色仕掛けも通用しません。例えそれが、無自覚小悪魔の天然仕種であったとしても。
人間である前にまず、刑事。
もし、この世にそんな生き物がいるとすれば、それはまさにジャック・ロウのことであったのですから。
ジャックはクリス嬢の小悪魔な仕種にも心を乱されることはなく、クリス嬢の言葉を待ちました。クリス嬢はやがて、尋ねました。
「……もしかしたら、ジャックさんもご存じだったんですか? あたしがオペラ座ノワールの舞台に主役として立ったことを」
「……ええ」
ちょうどその日、劇場にいましたから。
ジャックがそう付け加えると、クリス嬢は身を震わせました。
「そう……ですか」
そう言ったきり、押し黙りました。しかし――。
何秒後のことでしょうか。クリス嬢はいきなり、堰が切れたかのように内心を吐露しはじめたのです。
「ジャックさん! あたしはどうしてしまったんでしょう? あたしはそんなこと覚えていない。本当に覚えていないんです。例え、他のことを忘れることがあったとしてもオペラ座ノワールの舞台で主役を勤めたことを忘れるなんて、それだけはありえません! でも、周りの人は皆『たしかにいた』と言います。もし、周りの人たちの言っていることが正しくて、あたしが間違っているんだとしたら……あたしは……あたしは……」
それまで必死に保ってきた神経の糸が切れてしまったのでしょう。クリス嬢はワッと泣き出しました。それこそ、子供のように泣きじゃくったのです。いえ、実際にクリス嬢はまだ子供なのでした。何しろ、まだ一七歳でしかないのですから。
――そうだよな。まだ一七歳なんだよな。
その一七歳の少女がこんな不安を抱え、怯えている。
――助けてやらなきゃ。何としても。
掲示としての使命感と人間としての情。
その双方でジャックはそう決意しました。
そして、ビリーとふたり、不器用すぎるほど不器用にクリス嬢を慰め、かの人が落ち着くのを待ちました。
やがて、さすがに泣き疲れてしまったのでしょう。クリス嬢もようやく落ち着きを取り戻しました。もう少し幼い子供でもあればそのまま眠ってしまっていたことでしょう。さすがに一七歳と言う年齢ではそこまで無邪気ではいられません。まして、オペラ座ノワールの歌姫として活動している身。『単なる一七歳』ではいられない立場なのですから。
「す、すみません、取り乱してしまって……」
泣き腫れた目をハンカチで隠しながら、クリス嬢はそう謝ります。ジャックは見る人を安心させる野太い笑みを浮かべて慰めました。
「何の。泣きたいときは思い切り泣けばいい。遠慮はいりません。市民の救いとなるのが警察なんですから。なあ、ビリー」
「うむ。その通りだ。我々はそのためにあなたたちに雇われている。遠慮は無用です、クリス嬢」と、ビリーもメガネの奥の大きな目に笑みを湛えながら言ったものです。
ふたりの態度にクリス嬢も安心したのでしょう。そっと微笑みました。
――いい笑顔だ。これがかの人の素か。舞台に立っているときよりよっぽど魅力的だな。
さしもの『刑事ジャック』もこのときばかりは男に戻り、そんな感想を抱いたのでした。
「さて、クリス嬢」
徒、ジャックは『刑事モード』に戻って『守りべき市民』に向かって語りかけました。
「お話は分かりました。あなたの不安もね。ですが、安心してください。あの日、舞台に立っていたのはあなたじゃない。絶対にあなたじゃない。それはこのおれ、ジャック・ロウが保証しますよ」
「そ、そうですか……」
ジャックにそう言われてクリス嬢は安心したような笑みを浮かべました。
考えてみれば奇妙な話ではあります。ジャックの話が正しければ自分の知らない、自分にそっくりな人間がいて、自分の知らないところで自分として行動している、と言うことになります。安心して笑みをこぼすことができるような状況にはほど遠い、極めて不気味な状況のはず。ですが、そんな状況でも自分自身が自分の知らないところで行動している、と思うよりはマシと言うことなのでしょう。クリス嬢はたしかに安堵の笑みを浮かべたのでございます。
「とにかく!」
ドン! と、ジャックは自分の厚い胸板を叩いて見せました。ご自慢のヴィクトリア朝英国風スーツが勢いに押されて波打ちます。
「すべてはこのジャック・ロウにお任せあれ。あなたになりすまし、あなたを不安がらせる不埒な輩の正体、このジャック・ロウが必ず暴き出し、捕えてみせます」
どうか、戦艦大和にでも乗った気持ちで安心してお任せください。
ジャックはいつもの野太い笑みとともにそう付け加えたのでした。
「はい。お任せします、ジャックさん」
にっこりと、一七歳らしい若さにあふれた笑顔を向けられて――。
さしものジャックも胸をときめかせたのでした。
そうして、クリス嬢は何度も礼を言いながら帰って行きました。
ジャックはその後ろ姿を見送りながら、トレードマークの帽子を胸に掲げて呟きました。
「……可憐だ」
「うむ。たしかに素晴らしく魅力的な女性だ。君が舞いあがるのもよく分かる」
ジャックの呟きにビリーも心から賛同したのでした。
「うるせえ」と、ジャックは言うには言いましたが、その口調は『デレデレ』と言うにふさわしいものでありました。
「そう言うお前こそ、柄にもなくかの人の話に熱心だったじゃないか。何か気になることでもあるのか?」
「ああ。君は気がつかなかったのか。君の思い人はこう言っていた。『田舎で過ごしていた頃』とな」
「ああ。そう言えばはじめて会ったときにもそんなことを言っていたな。それがどうかしたか?」
「気付かないのか? この都市は火星開発用の実験場として作られた封鎖都市だ。全面をドームに覆われたこの都市のなかに『田舎』と呼べるような場所はない」
そう言われてジャックの顔にも徐々に理解の色が広がりはじめました。
ビリーはつづけました。
「もちろん、この都市にも人里離れた森のなかに居を構える変わり者はいる。しかし、かの人たちにしても『田舎』などと言う表現は使わない。『森のなか』と言う」
「じゃあ、どういうことだ? 外の世界からきたってことか?」
「それなら『外の世界』と言うだろう。いま、君が外の世界と言ったとおりにな。この都市が世界の中心として燦然と輝く大都会と言うならいざ知らず、現実はそうではない。この都市自体が極寒の氷原に作られた辺境の都市、田舎中の田舎なのだぞ」
「……言われてみれはたしかに奇妙な表現だな」
「ああ。どうやら、君の思い人は記憶に重大な混乱があるようだ。それが果たして薬物の影響なのか、それとも、自然な病などによるものなのか。それはわからないがな」
「……どうも、想像していたよりずっとデカい山にぶち当たったようだな。行くぞ、ビリー。本人からも依頼されたし、何としても真実を突き止めるんだ」
「心得た」
そううなずいた後、ビリーは付け加えました。
「しかし、ジャック。その前にひとつ、指摘しておくべきことがある」
「なんだ?」
「『戦艦大和に乗った気で』と君は言ったが、戦艦大和は最初の出撃であっけなく撃沈された船だ。乗り込むのはごめんだな」
ビリーにそう指摘され――。
ジャックは思い切り、顔をしかめたのでありました。
その確信はジャックのなかで、もはや絶対のものとなっておりました。
ですから、次の日、クリス嬢が警察署を訪れ、こう言ったときにも驚きはしませんでした。
「あれはあたしではありません」
クリス嬢は開口一番、そう言い切ったのです。
「昨日のパレードで、あたしが主役の歌姫として唄い、踊った。誰もがその話で持ちきりです。でも、あれはあたしじゃない。絶対にあたしじゃないんです。あたしは昨日はやはり部屋でひとり、歌の練習をしていたんです。パレードになんて出ていません」
「しかし、昨日のパレードで見た歌姫はまちがいなく君の姿をしていた」と、ビリーがそう言いました。言われてクリス嬢はビクッと身をすくめました。
「……はい。あたしも昨日のパレードは動画で見ました。たしかに、あれはあたしです。あたし以外の何者でもありません。でも、ちがうんです。絶対に別人です。あの歌声がなによりの証拠です。残念ですけど、あたしにあんな奇跡みたいな歌が唄えるはずがありません。あんな声が出せるなんて……あれは絶対に別人なんです」
……こんなことを言っても信じてもらえないでしょうけど。
自信のなさ故でしょう。クリス嬢は蚊の鳴くような声でそう付け加えました。ですが、ジャックはそのガッシリした手で歌姫のきゃしゃな手をつかむと力強く宣言しました。
「いや、信じますよ、クリス嬢」
「本当に!」
クリス嬢の顔がたちまち喜びに輝きました。
「ええ、もちろん。おれも昨日の歌姫には会った。しかし、あれはあなたじゃない。絶対にちがう。だから、あなたの言葉を信じる」
「ああ、ありがとうございます……! 本当に信じてもらえるなんて……正直、思ってもみませんでした」
「ご心配なく。市民を守るのが警察の仕事ですから」
そう言ってジャックは笑みを浮かべました。決してハンサムとか、美形とか、そんな表現のできる笑みではない、それでも、見る人をとても安心させてくれる。そんな優しさと力強さに満ちた笑みでした。
クリス嬢のその笑みにほだされたのでしょう。そっと頬を赤らめ、うつむいたものでございます。
「しかし、そうすると昨日のクリス嬢はいったい誰だったのかな?」と、ビリーが尋ねました。もちろん、クリス嬢に答えられるわけもありません。
「その……実は最近、時々こういうことがあって……」
「最近?」
「はい。あたしは一年前、田舎に住んでいたところをテオドラ先生に見出されて……」
「まってくれ」と、ビリーが口を挟みました。
「いま、君は田舎と言ったな。どこの田舎だ?」
「田舎は田舎です。それ以外、言いようがありません」
クリス嬢は苛々した様子でビリーの質問に答えました。
「とにかく、あたしは一年前、田舎で過ごしていたところをテオドラ先生に見出されてオペラ座ノワールに在籍するようになったんです。もちろん、何の実績もない小娘に過ぎないあたしがオペラ座ノワールに在籍するなんてとんでもないことです。かなり揉めたらしいです。くわしいことは知りませんが。でも、テオドラ先生がかなり強引なやり方をして認めさせたらしいです」
「ふむ。なぜ、かの人はそこまでして君をオペラ座ノワールに入れたのかな?」
「大事な原石だから。先生はそう言い張るばかりで、あたしからは何とも。とにかく、あたしにとっては願ってもないチャンス。先生の元で必死に勉強に励みました。ところが……」
クリス嬢の表情が突然、曇りました。何か思い出したくもないとても悲しいことを思い出してしまった。そんな様子でした。
ジャックが助けるように口を挟みました。
「ところが……?」
「あ、いえ……」
「クリス嬢」
ジャックはじっとクリス嬢の顔をのぞき込みました。そして、これ以上ないほどの真摯な面持ちで言ったのです。
「ここは警察署であり、おれは刑事だ。そりゃあ、言いずらいことも多々あるだろう。しかし、ひとたび、警察に相談に来たからにはすべてを語ってくれ。何ひとつ、包み隠すことなく。そうでなければおれは何もできない。頼む。すべてを話してくれ。おれが君を助けることができるように」
そう言って真摯な面持ちのまま頭を下げるジャックの姿は、誰がどう見ても『刑事』と言う他はないものでした。そのあまりにも刑事な姿勢にクリス嬢も覚悟を決めたのでしょう。やはり、言いずらそうなまま、それでも、はっきりと語り出しました。
「その……ちょっと、言いずらいんですけど、ジャックさんと会ったころからなんです」
「おれと会ったころ?」
「はい。ジャックさんと夜の川辺で会ったあの頃からなんです。あたしがいるはずのない場所に、あたしがいたと言われるようになって……覚えてくれていますよね? はじめてあたしの楽屋を訪れてくれたときのこと。あたしが観客からブーイングを受けたあの日のことです」
「ええ。覚えてますよ、もちろん」
――実際にはその前にも楽屋に行ってはいますがね。ただし、会ったのは『もうひとりのあなた』でしたが。
ジャックはそう思いましたが、口に出して言うことはありませんでした。この際は言う必要のないことのはずでしたし、下手にそんなことを言おうものならクリス嬢をより一層不安にさせ、怯えさせ、さらに口を重くしてしまう結果になるだろう。そう思ったからでございます。
――とにかくいまは、クリス嬢にすべてを話してもらうことが先決だからな。
ジャックはそう思い、聞き役に徹したのでした。
クリス嬢はつづけました。
「多分、あのときがはじめてだと思うんです。まわりから、あたしが出ているはずのない舞台に、それも、主役として出演して、奇跡のような歌声を披露したと言われて……でも、そんなはずはない。絶対にそんなはずはないんです。その日はあたしはたしかに家でひとり、歌の練習をしていたんです。そのことにまちがいありません。まして、舞台で主役を務めたことなんてありません。それなのに、周りの人たちはあたしが主役を務めた、唄えるはずのない歌声を披露した、一体、何をやったんだと問い詰められて……」
そう告げるクリス嬢の愛らしい顔が曇りました。それはまわりからの扱いに対する悲しさと言うよりも、自分自身に対する不審故だったでしょう。
「あの……」と、クリス嬢はすがるような目付きでジャックを見つめました。愛らしい顔に不安をいっぱいに溜めて、大きなうるんだ瞳で上目遣いに見つめるその仕種。まさに、天性の小悪魔。殿方であれば例えそれがどんな堅物であろうとも――いえ、女性に免疫のない堅物であればこそ――一目で心奪われてしまう。そんな仕種でありました。ですが――。
このときのジャックは例外でした。『不安に震える市民』を前に完全無欠の刑事モードに入っているジャックにはいかなる色仕掛けも通用しません。例えそれが、無自覚小悪魔の天然仕種であったとしても。
人間である前にまず、刑事。
もし、この世にそんな生き物がいるとすれば、それはまさにジャック・ロウのことであったのですから。
ジャックはクリス嬢の小悪魔な仕種にも心を乱されることはなく、クリス嬢の言葉を待ちました。クリス嬢はやがて、尋ねました。
「……もしかしたら、ジャックさんもご存じだったんですか? あたしがオペラ座ノワールの舞台に主役として立ったことを」
「……ええ」
ちょうどその日、劇場にいましたから。
ジャックがそう付け加えると、クリス嬢は身を震わせました。
「そう……ですか」
そう言ったきり、押し黙りました。しかし――。
何秒後のことでしょうか。クリス嬢はいきなり、堰が切れたかのように内心を吐露しはじめたのです。
「ジャックさん! あたしはどうしてしまったんでしょう? あたしはそんなこと覚えていない。本当に覚えていないんです。例え、他のことを忘れることがあったとしてもオペラ座ノワールの舞台で主役を勤めたことを忘れるなんて、それだけはありえません! でも、周りの人は皆『たしかにいた』と言います。もし、周りの人たちの言っていることが正しくて、あたしが間違っているんだとしたら……あたしは……あたしは……」
それまで必死に保ってきた神経の糸が切れてしまったのでしょう。クリス嬢はワッと泣き出しました。それこそ、子供のように泣きじゃくったのです。いえ、実際にクリス嬢はまだ子供なのでした。何しろ、まだ一七歳でしかないのですから。
――そうだよな。まだ一七歳なんだよな。
その一七歳の少女がこんな不安を抱え、怯えている。
――助けてやらなきゃ。何としても。
掲示としての使命感と人間としての情。
その双方でジャックはそう決意しました。
そして、ビリーとふたり、不器用すぎるほど不器用にクリス嬢を慰め、かの人が落ち着くのを待ちました。
やがて、さすがに泣き疲れてしまったのでしょう。クリス嬢もようやく落ち着きを取り戻しました。もう少し幼い子供でもあればそのまま眠ってしまっていたことでしょう。さすがに一七歳と言う年齢ではそこまで無邪気ではいられません。まして、オペラ座ノワールの歌姫として活動している身。『単なる一七歳』ではいられない立場なのですから。
「す、すみません、取り乱してしまって……」
泣き腫れた目をハンカチで隠しながら、クリス嬢はそう謝ります。ジャックは見る人を安心させる野太い笑みを浮かべて慰めました。
「何の。泣きたいときは思い切り泣けばいい。遠慮はいりません。市民の救いとなるのが警察なんですから。なあ、ビリー」
「うむ。その通りだ。我々はそのためにあなたたちに雇われている。遠慮は無用です、クリス嬢」と、ビリーもメガネの奥の大きな目に笑みを湛えながら言ったものです。
ふたりの態度にクリス嬢も安心したのでしょう。そっと微笑みました。
――いい笑顔だ。これがかの人の素か。舞台に立っているときよりよっぽど魅力的だな。
さしもの『刑事ジャック』もこのときばかりは男に戻り、そんな感想を抱いたのでした。
「さて、クリス嬢」
徒、ジャックは『刑事モード』に戻って『守りべき市民』に向かって語りかけました。
「お話は分かりました。あなたの不安もね。ですが、安心してください。あの日、舞台に立っていたのはあなたじゃない。絶対にあなたじゃない。それはこのおれ、ジャック・ロウが保証しますよ」
「そ、そうですか……」
ジャックにそう言われてクリス嬢は安心したような笑みを浮かべました。
考えてみれば奇妙な話ではあります。ジャックの話が正しければ自分の知らない、自分にそっくりな人間がいて、自分の知らないところで自分として行動している、と言うことになります。安心して笑みをこぼすことができるような状況にはほど遠い、極めて不気味な状況のはず。ですが、そんな状況でも自分自身が自分の知らないところで行動している、と思うよりはマシと言うことなのでしょう。クリス嬢はたしかに安堵の笑みを浮かべたのでございます。
「とにかく!」
ドン! と、ジャックは自分の厚い胸板を叩いて見せました。ご自慢のヴィクトリア朝英国風スーツが勢いに押されて波打ちます。
「すべてはこのジャック・ロウにお任せあれ。あなたになりすまし、あなたを不安がらせる不埒な輩の正体、このジャック・ロウが必ず暴き出し、捕えてみせます」
どうか、戦艦大和にでも乗った気持ちで安心してお任せください。
ジャックはいつもの野太い笑みとともにそう付け加えたのでした。
「はい。お任せします、ジャックさん」
にっこりと、一七歳らしい若さにあふれた笑顔を向けられて――。
さしものジャックも胸をときめかせたのでした。
そうして、クリス嬢は何度も礼を言いながら帰って行きました。
ジャックはその後ろ姿を見送りながら、トレードマークの帽子を胸に掲げて呟きました。
「……可憐だ」
「うむ。たしかに素晴らしく魅力的な女性だ。君が舞いあがるのもよく分かる」
ジャックの呟きにビリーも心から賛同したのでした。
「うるせえ」と、ジャックは言うには言いましたが、その口調は『デレデレ』と言うにふさわしいものでありました。
「そう言うお前こそ、柄にもなくかの人の話に熱心だったじゃないか。何か気になることでもあるのか?」
「ああ。君は気がつかなかったのか。君の思い人はこう言っていた。『田舎で過ごしていた頃』とな」
「ああ。そう言えばはじめて会ったときにもそんなことを言っていたな。それがどうかしたか?」
「気付かないのか? この都市は火星開発用の実験場として作られた封鎖都市だ。全面をドームに覆われたこの都市のなかに『田舎』と呼べるような場所はない」
そう言われてジャックの顔にも徐々に理解の色が広がりはじめました。
ビリーはつづけました。
「もちろん、この都市にも人里離れた森のなかに居を構える変わり者はいる。しかし、かの人たちにしても『田舎』などと言う表現は使わない。『森のなか』と言う」
「じゃあ、どういうことだ? 外の世界からきたってことか?」
「それなら『外の世界』と言うだろう。いま、君が外の世界と言ったとおりにな。この都市が世界の中心として燦然と輝く大都会と言うならいざ知らず、現実はそうではない。この都市自体が極寒の氷原に作られた辺境の都市、田舎中の田舎なのだぞ」
「……言われてみれはたしかに奇妙な表現だな」
「ああ。どうやら、君の思い人は記憶に重大な混乱があるようだ。それが果たして薬物の影響なのか、それとも、自然な病などによるものなのか。それはわからないがな」
「……どうも、想像していたよりずっとデカい山にぶち当たったようだな。行くぞ、ビリー。本人からも依頼されたし、何としても真実を突き止めるんだ」
「心得た」
そううなずいた後、ビリーは付け加えました。
「しかし、ジャック。その前にひとつ、指摘しておくべきことがある」
「なんだ?」
「『戦艦大和に乗った気で』と君は言ったが、戦艦大和は最初の出撃であっけなく撃沈された船だ。乗り込むのはごめんだな」
ビリーにそう指摘され――。
ジャックは思い切り、顔をしかめたのでありました。
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
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