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一四章

機械の友

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 「帰れ」
 ジャックとビリーの来訪を受けたエイリーク翁の第一声はそれでした。
 しかも、ジャックたちの方を見もしません。作業室のドアを何度ノックしても返事がないので、さすがに業を煮やしたジャックが勝手にドアを開けてなかに入ると、エイリーク翁は席について絡繰り細工の調整をしている最中でありました。
 その姿はまさに『職人』と言うべきもので、何人たりとも声をかけるのをためらうような集中力に満ちておりました。暴れん坊ジャックですら一瞬、あまりに真摯なオーラに包まれた後ろ姿に気圧され、作業が終わるまでまとうかと思ったほどでありました。
 いえ、実際にまったのです。トレードマークの帽子を胸に掲げ、直立不動の姿勢のまま。
 無礼、強引、遠慮なし……その化身とさえ言われる暴れん坊ジャックともあろう者が相手の用が済むまでまとうとしたのです。これはまったくもって前代未聞なことでありまして、それほどまでにエイリーク翁の放つ職人オーラはすさまじいものだったのです。しかし――。
 やはり、ジャックはジャック。相手に敬意を払っての待ちの姿勢も長くはつづきませんでした。とは言え、これに関しては責められるべきはエイリーク翁の側だったでしょう。何しろ、いつまでたっても絡繰り細工に没頭するばかりで一度たりともこちらを見ようとしないのです。それは、もはや『仕事に打ち込んでいる』と言うよりも目の前のこの人物こそ、同じ作業を繰り返すだけの絡繰り細工なのではないか。そう思わせるレベルのものでありました。
 例え、完璧に躾けられた忠犬であったとしても、こんな態度を取られては忍耐の緒も切れるというもの。まして、ジャックは生まれついての猟犬であって忠犬ではありませんでしたからなおさらです。三時間ほどじっと待ち続けた後、ついに叫びました。
 「おい!」
 ジャックは怒りのあまり――いつもビリーに注意するよう言われているとおりに――唾を飛ばしながら怒鳴りました。
 「ドアを開けて入ってきたんだ! 気付いてるはずだろ。少しはこっちを見やがれ!」
 そう怒鳴りつけるジャックに対し、エイリーク翁は静かに言ったのです。『帰れ』と。
 それはあたかもそびえ立つ岩盤のように静かで、しかも、重々しく、いささかも揺らぐ気配を感じさせない声でした。さしものジャックが一瞬、気を呑まれ、押し黙りました。それほど古強者と言っていい印象の声だったのです。
 エイリーク翁はその一言を言ったきり、また押し黙りました。いえ、『黙った』と言うより、『もう用は済んだ』と思っている、そんな印象でした。絡繰り細工の調整に没頭するばかりで振り返りもせず、声もあげず、黙々と作業に集中しておりました。
 ジャックはさすがに向かっ腹を立てました。
 「おい、少しはこっちを向けよ! おれはジャック・ロウ。この霧と怪奇の都の警察署長だ。暴れん坊ジャックと言った方が早いかも知れないが……」
 「帰れ」
 ジャックの言葉に対し、エイリーク翁はただそれだけを返しました。
 「あんたに聞きたいことがあってきたんだ。それにさえ答えてくれりゃあすぐに帰るさ」
 「帰れ」
 「だから、あんたに聞きたいことがあるって言ってんだろ。これは物見遊山じゃねえ。警察の捜査だ。答えないというなら公務執行妨害でしょっぴくぞ」
 「帰れ」
 「おれは警察署長だぞ! 警察の相手が出来ねえってのか!」
 「帰れ」
 ただひたすらに――。
 エイリーク翁はそれだけを繰り返します。口調の変化も、感情の起伏も一切感じさせず、かわることなく静かで重々しい岩盤のような言葉を繰り返すのです。ジャックは何と言っていいか分からず口をむやみと動かしました。ですが、声はひとつとして出てきません。
 相手が自分の言葉に反応し、言葉をもって返してくればそこから会話に持ち込むことも可能でしょう。ですが、こうも同じことを、同じように返されたのでは会話に持ち込みようがありません。まして、ジャックはもともと口より先に手が動くタイプ――ビリーに言わせると『手しか動かないタイプ』――ですので、そのままだったらエイリーク翁の肩に手をかけ、無理やり振り向かせる……ぐらいのことはしていたことでしょう。
 となると、かなりまずいことになります。何しろ、仮にも警察署長たる身が一般市民に暴行を加える形になるのです。ジャックは自分で自分を逮捕しなくてはならなくなります。その窮地を救ったのは何とも意外な、と言うよりも、場違いに聞こえる声でした。
 「……素晴らしい」
 陶然とした小さな声が響きました。
 それはあたかも極上のワインに出会えたソムリエのような、千年を超える名画に出会った芸術家のような、そんな声でした。
 ジャックは思わず声のした方を向きました。それまで頑なに作業台の方にばかり向いていたエイリーク翁でさえ、思わず声のした方に向き直りました。そこでは大きなメガネに白衣をまとった愛らしい少女に見える女性が、うっとりと夢心地の表情をして立っておりました。
 「……ああ。何と言うことだ。この金属の合わせ目のなめらかさ。やすりの懸け具合といい、完璧だ。これこそ、まさに技術。職人芸そのもの。これほどの技と出会えるとは……」
 「はあ? 何言ってんだ、お前?」
 ジャックは思わずそう言いそうになりした。ですが、それよりも早く、声をかけたものがおりました。
 エイリーク翁です。
 偏屈な職人像そのままの老人がビリーに声をかけたのです。
 「ほう。分かるのかね、お前さん」
 その言い方がまた、ジャックに対して『帰れ』と繰り返していたときとは打って変わって上機嫌で好意的なものなのでありました。少なくとも、先ほどまでジャックに対して繰り返していた口調と比べれば、孫に対する祖父のように感情のこもった声なのでした。
 ――おいおい、何だよ、おれとの態度の差は。
 ジャックがそう思い、思わず拗ねてしまったのも納得のちがいなのでありました。
 ビリーはエイリーク翁に向き直りました。うっとりと酔いしれたような瞳のまま、エイリーク翁に語ります。
 「もちろん分かりますとも、エイリーク卿」
 ――エイリーク卿だあ? おれに対してはそんな丁寧な言い方したことねえだろ、一度だってよ。
 と、またも拗ねてしまうジャックでありました。
 ビリーはジャックの内心などどこ吹く風、気にする風もなくつづけます。
 「これほどまでに魂のこもった職人技、めったに見られるものはありません。まさにプロの仕事。いや、千年先まで残す価値のある仕事です」
 「ふむ。では、お前さん。これをどう見るね?」と、エイリーク翁はいままで没頭していた絡繰り人形のパーツを見せました。ビリーは山盛りアイスクリームを差し出された三歳の女の子のように目を輝かせました。
 「おお! これはまた素晴らしい。この歯車の一本いっぽんの微妙な角度。かみ合わせの妙。これほどの技術に出会えるなど人生でめったにあることではありません。見せていただいたこと、感謝しますぞ、エイリーク卿」
 「ふむ。お前さん、なかなか見所があるようだ。では、これなどは……」と、エイリーク翁は次なる絡繰りを見せようとします。ビリーは期待に爛々と目を輝かせて見つめています。その態度たるやアイドルを追いかける少女のようでした。さすがにジャックが口を挟みました。
 「お、おいおい、何をそんなに盛りあがってんだよ。たかだか歯車ひとつのことで……」
 「たかだかではない!」
 ビリーとエイリーク翁、ふたりの声が見事にそろってジャックに叩きつけられました。
 「この歯車一つひとつの微妙な調整によって、絡繰りごとの個性が出て、生命を吹き込む。ただの絡繰りが新しい生命となるんじゃ。それをたかだかじゃと⁉」
 「そうだ、断じて許せん暴言だ! エイリーク卿に謝れ!」
 エイリーク翁のみならずビリーにまでそう叱られて、ジャックもさすがに気圧されました。
 「あ、ああ、すまん、気を悪くしたなら謝る……」と、一応謝ったのですが――。
 その頃にはビリーとエイリーク翁の興味はとっくに次に移っておりました。ふたりは新しい絡繰りを取り出してはすっかり夢中なっているのです。すっかり無視されてしまったジャックは――とうとう本格的に拗ねて、ふて寝してしまったのでありました。
 「いや、実に素晴らしい。何とも有意義な時間を過ごさせていただきました、エイリーク卿」
 「お前さんこそなかなか見所がある。よければまた来るがいい」
 「ぜひ! おや、何をしている、ジャック。帰るぞ。わたしはもう充分に堪能した。これ以上はさすがに食べ過ぎというものだ」
 「あほう! 何しにここに来たのか忘れてんじゃねえ! 長々とオタク話にのめり込みやがって」
 「………? 何を怒っている? ここに来たのはそもそもエイリーク卿の技を見せていただくためだろう」
 「ちがう! 機械オタクのお前にとってここがどんなに魅力的な場所か知らねえが、刑事としての仕事を忘れるな! ここにきたそもそもの目的を思い出せ!」
 「そもそもの目的? だから、エイリーク卿の職人技を見ることで……」
 「ちがう! クリスチーヌのことを聞きに来たんだろうが」
 そう言われて――。
 ビリーはたっぷり一分間、黙り込んで考え込んだのでした。
 「おお、そうか! そうそう、そういう話だったな。いや、そのおかげでこれだけの職人技を見ることができたのだ。まったく、有意義なことだったな」
 「言ってろ! エイリーク卿とやら。いま、言ったとおりだ。あんたにはクリスチーヌのことを聞きに来たんだ」
 「クリスチーヌだと?」
 「そうだ。もう七〇年以上も前、この劇場で人気絶頂だったにも関わらず、突如として失踪した歌姫。あんたはそのクリスチーヌと仲が良かったと聞いた。あんたなら何か知っているんじゃないかと思ってな」
 「……クリスチーヌ、か」
 エイリーク翁は深い息を吐き出しました。
 「まさか、あんたたちみたいな若造からその名を聞くことがあろうとは思わなかったな」
 「若造で悪かったな、ご老人」
 「少しまっているがいい」
 エイリーク翁はそう告げて部屋の奥へと入っていきました。
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