劇場の闇に潜む怪人は、機械仕掛けの歌姫に愛を捧げる

藍条森也

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一六章

噂話は賑やかに

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 「クリス? そりゃあ、一言で言うと生意気ってことね。伝説の歌姫のひ孫だが何だか知らないけど先輩に対する礼儀ってものがなっちゃいないもの」
 「田舎者だから仕方ないのよ。自分でも『田舎から出てきた……』なんて言ってるぐらいだし」
 「大体、伝説の歌姫のひ孫って言うのも怪しいものだしね。どれだけすごい歌姫だったか知らないけど、七〇年以上も前に消えた歌姫なんて誰も知らないんだから」
 「でも、テオドラ先生がわざわざごり押しして在籍させたのよ? それだけの理由はあるんじゃない?」
 「どうせ、遠縁の娘とか何とかそんなコネじゃない?」
 「でも、時々すごい歌を唄うのは確かじゃない。ほら、この間だって……」
 「……ああ。パレードのときはたしかにすごかったわ。その少し前の公演で主演したときも……」
 「何言ってるの。たったの二回じゃない。あれ以外のときはてんで大したことないって分かってるでしょ」
 「それはそうだけど……」
 「そうよ。あれぐらいの歌ならあたしだって唄えるわ。それなのに、あの子ばっかりテオドラ先生にひいきされて……」
 「でも、たった二回でも何でもあれだけすごい歌を唄ってのけたんだもの。やっぱり、才能はあるはずよ。歌はまぐれでうまく唄えるようなものじゃないもの」
 「何かヤバい薬でも使ったんじゃないの?」
 「それ、ありそう。パレードのときも、その前に主演したときも、すごい歌を披露したときは二回とも様子が変だったもんね」
 「ほんと。普段のクリスとは全然、別人だったわ」
 「でなきゃ、カペラ座の怪人にこっそりレッスンを受けてるとか……」
 「きゃー、ありそう!」
 控え室に一斉に踊り子たちの笑い声が響きました。
 よほどクリスのことを誰かに話したかったのでしょう。ジャックとビリーが控え室に捜査のために訪れると、その場にいた踊り子たちはこぞってクリス嬢のことを話し出しました。もはや、捜査協力という域を遙かに超えてクリス嬢を肴にしての女子会と言った雰囲気。若い女性同士のおしゃべりが花開き、さしものジャックも気圧されて何も言えない有り様なのでありました。
 「あ、あ~その、なんだ?」
 それでもジャックは勇気を奮い起こして口を挟みました。いえ、『勇気』と言うよりも『職業意識』と言うべきだったでしょう。『おれは刑事だ。おれは刑事だ。ここには仕事できているんだ』と、何度となく自分に言い聞かせた末、ようやく発することのできた言葉でしたから。
 踊り子たちの視線が一斉にジャックに注がれます。一瞬、気圧され、縮みあがってしまったのは――こんなにも多くの女性の視線を集めたことのない身としては致し方のないところであったでしょう。
 「普段とは別人だったって、どう別人だったんだ?」
 「そのままの意味だけど?」
 「いや、だから、もう少し具体的に……」
 「そうねえ。なんて言うかずいぶんと年上に感じたわ」
 「年上?」
 「正確に言うと、何十年も舞台に立ってきたベテランみたいな落ち着きと貫禄を感じちゃったのよね」
 「ああ、それ、わかる。あのときのクリスに対してはあたしもつい、敬語を使いたくなっちゃったもん」
 「全然、違ってたわよね」
 「一番、年かさの部類の人たちでもあそこまでの貫禄は出せないわよね?」
 「そうね。あんな凄みをもっているのは、せいぜいテオドラ先生ぐらいじゃない?」
 「幽霊に取り憑かれてるから自分も歳とっちゃったとか?」
 「あるある」
 きゃはははは、と、控え室はまたも黄色い笑い声に包まれました。
 ジャックは困り切った様子で、それでも、とにかく、どうにか、こうにか、質問しました。
 「さっきから怪人だの幽霊だの言ってるが、それは何のことなんだ?」
 「ああ、オペラ座の怪人よ。もちろん」
 「もちろんって言われたって……」
 踊り子たちの間では『オペラ座の怪人』と言えばもはや説明の必要もない有名な存在。その一言ですべての説明は済んだと思ったのでしょう。それ以上、誰も語ろうとはしませんでした。
 「あと、クリスって言えばやっぱりあれよね。ドリアン・グレイ」
 「ああ、それは外せないわ」
 「ドリアン・グレイ?」
 「あだ名よ、もちろん。クリスと仲の良い男の子に、そう呼ばれる役者がいたのよ」
 「何でドリアン・グレイなんだ?」
 「ムチャクチャ美男子だったからよ、もちろん」
 「何で美男子だとドリアン・グレイなんだ?」
 ジャックは誰ともなく尋ねましたが、誰も答えようとはしませんでした。これもやはり、踊り子たちにとっては自明のことで誰もわざわざ説明する必要を感じなかったのでしょう。
 「それで、そのドアリン・グレイがどうしたんだ?」
 「死んだわよ」
 「死んだ?」と、ジャック。『死』という一言に刑事魂が火を吹き、それまで困り切っていた表情が一気に引き締まりました。両方の眉を急角度に吊りあげながら尋ねました。
 踊り子のひとりが淡々と語りました。
 「ええ。半年ほど前のことだけどね。アパートの自分の部屋で死体になっているのを発見されたんですって。しかも、脳味噌を取り出されていたって」
 「きゃー、スプラッタ!」
 「噂でしょ、それは」
 「でも、火のないところに煙は立たないって言うじゃない」
 「そう言えばさ。オペラ座の怪人が現れ始めたのって、ドリアン・クレイが死んでからじゃない?」
 「言われてみればそうかも。それじゃ何? オペラ座の怪人の正体はドリアン・グレイの幽霊?」
 「あるかも! あのふたり、仲良かったもんねえ」
 「死んでもクリスと一緒にいたいってこと? 純愛ねえ」
 もはや、ジャックとビリーのことなどすっかり忘れ、おしゃべりに興じる踊り子たちでありました。もはや、完全に女子会になってしまったことを悟り、ジャックはビリーを促してそっと控え室を出て行きました。
 もちろん、女子会真っ盛りの踊り子たちはそんなことには気が付きません。ふたりがいなくなったのもかまわず女子会をつづけたのでした。
 「あ~くそっ。若い女のキンキン声を聞かされまくると頭がくらくらすらあ」
 「はっはっ。君もまだまだ修行が足りんな」
 「うるせえ。じゃあ、お前は平気なのかよ」
 ジャックに言われてビリーは耳の辺りをとんとんと叩きました。すると、ビリーの両耳から耳栓の形をした機械が転げ落ちました。
 「わたしの最新作。選択式耳栓だ。あらかじめ必要とする情報の傾向をインプットしておけば、関連する情報以外の声は自動的にシャットアウトしてくれる。これのおかげでずいぶんと静かだたよ」
 「何でおれにも貸してくれないんだよ⁉」
 「君に貸したりしたらわたしの分がなくなるではないか」
 ビリーにとっては自明にもほどがある理由なのでありました。
 ジャックは抗戦不能を悟って深いふかい溜め息をついたのでした。
 「しかしまあ、口数だけは多かったが、とりとめのない話ばかりであまり参考にはならなかったな」
 「そうでもないだろう。少なくともわたしは大いに興味をそそられたぞ。まさか、オペラ座の怪人とドリアン・グレイの名を同時に聞くとはな」
 「だから、なんだよ。その怪人とか、何とかグレイってのは」
 「有名な古典文学の登場人物ではないか。そんなことも知らないとは教養がないのも程があるぞ」
 「うるせえ!……って言うか、お話のなかの連中かよ。なら、今回の件とは何の関係もねえじゃねえか」
 「そうとも言えんだろう。このふたりと今回の件は大いに関連があると思うぞ」
 「どういうことだ?」
 「まず、オペラ座の怪人だが、こちらはパリ・オペラ座の広大な地下世界に住む文字通りの怪人でな。生来の醜さから日の光の下に住むことをやめ、地下世界に閉じこもった男だ。広大な地下世界のありとあらゆる仕掛けを知り尽くし、神出鬼没の芸当を実際にやってのけた。そのために『オペラ座の幽霊』と呼ばれた。だが、あるとき、オペラ座の歌姫に恋をし、ものにしようとする。その歌姫の名前が何とクリスチーヌだ」
 「……伝説の歌姫と同じ名前か」
 「次いでドリアン・グレイだが、これが実は輝くばかりの美男子でな」
 「ああ。それで、美男子だからドリアン・グレイってあだ名が付けられたのか」
 「そう言うことだな。そんなあだ名が付けられたのだからよほどの美男子だったのだろう。それはともかく、このドリアン・グレイというのは本人のかわりに友人の描いた肖像画が歳をとるようになったという数奇の運命の持ち主でな。最後にはその絵の醜さに耐えきれなくなり、その絵を刺し、自分も死んでしまう」
 「なんだそりゃ。絵が本人のかわりに歳をとるとかありえないだろ」
 「そこはフィクションだからな。さて、このドリアン・グレイだが、この人物も歌姫とは浅からぬ因縁がある。物語中盤当たりだが、ひとりの歌姫に恋をしてな。求婚するのだ。ところが、求婚されたことで歌姫は魅力をなくしてしまう。ドリアン・グレイは平凡な娘となった歌姫をフリ倒し、歌姫はそのショックと死んでしまうのだ」
 「ひどい野郎だな。けど、どっちにしてもお話のなかの奴だろう。現実の事件と関わるわけがねえ」
 「普通ならそうだ。しかし、これば偶然かな? このオペラ座ノワールを舞台に、オペラ座の怪人とドリアン・グレイという歌姫に関わるふたりの物語上の人物が語られるというのは。あるいは誰かがこれらの物語を下敷きに何らかの演出をしているのではないか?」
 「……演出だと?」
 「それに、ドリアン・グレイ――と言うのは、この劇場にいた方だが――は、アパートの部屋で変死していたというではないか。本家のドリアン・グレイも自宅でひとり、変死している。これも、偶然なのかな」
 「脳を抜き取られていた。そう言っていたな」
 「ああ」
 「それが解せねえ。たしかにこの霧と怪奇の都じゃあ殺人なんざめずらしくもねえ。『万人に死刑権が解放されるべきだ』なんて馬鹿げた主張をする連中のせいでな。けど、脳味噌が抜き取られていたなんて、そんな猟奇的な事件ならさすがに話題になりそうなもんだ。それなのに、おれは聞いたことねえぞ」
 「ああ、わたしはもはじめて聞いた。しかし、不思議なことではあるまい。殺人だからと言って警察に連絡しようなどと言う物好きが、この霧と怪奇の都にいると思うか?」
 ビリーに言われてジャックは顔をしかめるのと、苦虫を噛み潰すのと、頭から煙を噴きあげるのとを同時にやってのけました。
 「器用だな、君は」と、ビリーが感心して呟いたのも納得の姿でありました。
 「しかし、クリス嬢もその何とかグレイについては何も話なかったぞ」
 「仲が良かったそうだからな。おいそれと余人に話せない事情があったのだろう」
 チラリ、と、ビリーはからかうような視線をジャックに送りました。
 「それとも、そんなプライベートなことまで話してもらえるほど、自分がクリス嬢にとって特別な存在だと思っていたのかな?」
 「……そうじゃねえけどよ」
 ジャックは再び顔をしかめました。
 「しかし。となると、クリス嬢には改めて話を聞かなきゃならねえな。だが、その前に……本丸に攻め込んでみるとするか」
 「本丸?」
 「テオドラのばあさんだよ。どうも、あの先生さまが中心にいるような気がしてならねえ」
 「ふむ。君がそう言うならそうなのだろう。それでは……」
 ビリーがそう言ったのと同時でした。
 「きゃあああああっ!」
 絹を引き裂くような女性の悲鳴が響いたのでありました。
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