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一七章
オペラ座の怪人は歌姫をさらう
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「こっちだ!」
ジャックはそう叫ぶなり、走り出しました。悲鳴を聞いてから行動に移すまでの間に一瞬の躊躇もありませんでした。
突然の悲鳴に驚き、呆気にとられ、どこから聞こえてきたのか確かめる。
そんな、時間を無駄にするようなことはしませんでした。そんなことは人間のやること。生まれついての猟犬には『躊躇』などと言う言葉は無縁のものなのです。
するべきことは一刻も早く悲鳴のあがった現場に駆けつけること。
それ以外のことはすべて無駄、無意味。それこそが根っからの猟犬というものでした。
「お、おい……」
置いてけぼりを食った形のビリーは焦りました。追いかけようにも、かの人の足ではジャックに追いつけるはずがありません。
「……仕方がないか」
ビリーは白衣のポケットのなかからひとつの錠剤を取り出しました。口のなかに放り込み、飲み下します。すると、どうでしょう。かの人の体内にたちまち力があふれかえり、技術畑の人間とは思えない猛烈な速度で駆け出したではありませんか。
それは、ビリーお手製の筋力増強剤でした。もともとは単なる趣味で作った薬品で、ずっとそのままにしてあったのですが以前、とある事件で使用したものでした。そのときは効果は高いのですがその分、副作用もひどく、使用後に何日もの間、ひどい筋肉痛に襲われるというやっかいな代物でした。ビリーもジャックと共に服用し、その後、ひどい筋肉痛に悩まされ、自分をそんな目に遭わせたジャックを毒付きつづけたものです。それに懲りたビリーは薬品を改良し、効果は弱冠劣るものの副作用の少ない新作を作りあげていたのです。
ビリーは薬の効果でジャックの姿を見失うことなく追いかけていくことが出来ました。ジャックはと言えば、迷路のように広大で複雑な劇場のなかを一瞬の躊躇も迷いもなく駆けていきます。道順を確かめる、などという手間は必要ありませんでした。猟犬の本能に任せて駆けつづければ必ず、悲鳴のあがった現場に着く。それこそが生まれついての猟犬というものでした。
普通の人間であれば複雑な順路に迷い、途方に暮れ、たっぷり一〇倍もの時間のかかったであろう道のりをしかし、ジャックはものの数分で駆け抜けました。そして、猟犬の本能が示すままにやってきた悲鳴の現場では、いままさにひとつの犯罪が行われようとしておりました。いえ、それは外の世界では犯罪であってもこの霧と怪奇の都では犯罪ではありませんでした。なぜなら、そこで行われようとしていたのは殺人だったからです。死刑権が解放されているこの霧と怪奇の都では誰が誰を殺しても構わない。故に殺人罪は存在しないのです。
しかし、もちろん、霧と怪奇の都警察署長・暴れん坊ジャックにそんな理屈は通用しません。かの人にとって殺人とはあくまでも犯罪であり、犯罪は取り締まる。
それこそが刑事の誇りというものでした。
刑事の眼前、そこには三人の人物がおりました。いえ、正確にはふたりの女性とひとりの――何と言うべきでしょう。人形、ロボット、いえ、怪人……。そう。ふたりの女性とひとりの怪人がいたのです。
ふたりの女性のうちひとりはまだ一〇代とおぼしき少女であり、もうひとりは八〇過ぎと思える高齢の女性でした。それは、クリス嬢とオペラ座ノワールの主任講師テオドラでありました。
クリス嬢は気を失っている様子で床に倒れ、そして、テオドラは――。
怪人によって首に手をかけられ、宙吊りにされ、壁に背中を押しつけられておりました。
テオドラは首を締め上げられ、圧迫された顔がどんどん赤くふくらんでいきました。このままでは顔が空気を入れすぎた風船のように破裂してしまうのではないか。そう思わせる光景でありました。そして、テオドラの首に手をかけているのは……。
――ドクロ野郎か!
そう。それは以前、ジャックが劇場の闇のなかに見たドクロの顔でした。
――こいつだ! こいつがオペラ座の怪人だ!
ジャックはそう直感しました。
「テオドラを放せ!」
ジャックはそんな叫びをあげて、動きを止めるような真似はしませんでした。銃を抜いたりもいたしません。そんなことをして動きを止めていれば、その間にテオドラは殺されてしまうかも知れません。怪人のしていることは首を絞めて窒息させるなどと言うそんな生温いものではなく、首の骨をへし折るという、凄惨なものだったのです。
テオドラを救うためには一刻の猶予もありませんでした。威嚇して放すよう警告する暇などありません。かと言っていきなり発砲したとしても当たるかどうかわかりません。この狭い室内で外れてしまえば目標からそれた銃弾がどこにどう跳ね返るかわかりません。それでは、助けるはずのテオドラや、床に倒れているクリス嬢の身が危険にさらされます。
ですから、ジャックは銃に頼ったりはしませんでした。そのかわりに頼ったものは鍛え抜いた己自身の肉体。ジャックは自ら、人の姿をした銃弾と化してドクロの顔の怪人に突っ込んでいったのです。
アメリカンフットボールのスカウトが巨額の契約金をつんで欲しがるような、そんなスピードとパワーに満ちた突進でした。
ふわり、と、怪人が動きました。
テオドラを放し、体をくの字に曲げて、ジャックの突進をかわしました。テオドラの体が壁沿いに伝わり落ちます。
ジャックはドクロの顔の怪人を睨み付けました。
――こいつ。何の体術を身に付けてやがる。
ジャックがそう思ったのも無理はないほど、ドクロの顔の怪人のうごはなめらかなものでした。音もなく飛び退き、床に着地するその姿は、人と言うより人の姿の蜘蛛と言いたくなるほどでした。
ドクロの顔の怪人が動きました。
滑るように、懸けるように。
その動きはまさに得物を狙う蜘蛛。なめからで、素早く、しかも、どこか薄気味悪い動きでありました。
ドクロの顔の怪人はその腕にクリス嬢を抱えると背を向けました。劇場の闇の奥目がけて駆け出しました。
「逃がすか!」
ジャックが叫びました。
「ジャック!」
やや遅れてビリーが駆けつけました。
「ビリー! テオドラ先生を頼む!」
そう叫び残し、ジャックはドクロの顔の怪人を追って駆け出しました。
駆ける、
駆ける、
駆ける!
ドクロの顔の怪人を追いかけて、人の姿のハウンド・ドッグが駆け抜けます。しかし――。
――チイッ! なんて野郎だ。このおれが追いつくことも出来ねえ。
距離に関わらず、オリンピックの強化選手に選ばれるほどの脚力を持つジャックです。そのジャックの足から逃れられる人間などそうそういるものではありません。まして、このドクロ顔の怪人は、一〇代の少女とは言え、人ひとりを脇に抱えているのです。それでいてジャックが追いつけないほどの速さで走る。怪人の正体が何であれ、並の人間でないことは確実でありました。
――だが、おれから逃げられると思うなよ!
ジャックはそう心に叫びます。
ジャックは刑事。
生まれついての猟犬。
人の姿のハウンド・ドック。
追跡にかけてはまさに、人類最強の逸材。
そのジャックの追撃から逃れる相手などいるはずがありませんでした。……相手が人間であるならば。
怪人の小脇に抱えられているクリス嬢は身動きひとつしませんでした。ぐったり力なく抱えられるがままです。
――気を失っているようだな。いまはその方がいい。下手に暴れたりしたら身が危険だ。
ジャックは追跡をつづけます。ドクロの顔の怪人は闇に覆われた複雑な劇場の道を迷うことなく駆け抜けます。
――なんて奴だ。この劇場によほど詳しくなきゃああはいかねえ。
ジャックは、ビリーのオペラ座の怪人についての解説を思い出しました。
『オペラ座の怪人はオペラ座の地下に住み、広大な地下世界のありとあらゆる仕掛けを知り尽くし、神出鬼没の芸当を実際にやってのけた。そのために『オペラ座の幽霊』と呼ばれた』
いま、ジャックの目の前の走るドクロの顔の怪人もまたエリックを彷彿とさせる存在でした。
――チッ。ますますそんな感じになって来やがったぜ。
ジャックは走りながら息を整えました。走りながら体力を回復するための特別な呼吸法です。気の長い追跡行を覚悟しての手段でした。
ドクロの顔の怪人が曲がり角の向こうに姿を消しました。
ジャックはすぐに後を追います。しかし――。
「なにっ⁉」
ジャックは思わず叫びました。
目の前にはもはや何もいませんでした。ドクロの顔の怪人も、怪人に抱えられていた歌姫も。いくら照明の届かない暗闇のなかとは言え、怪人が角を曲がってからジャックが追いかけるまでに姿が見えなくなるほどの時間が合ったはずがありません。にもかかわらず、姿を消した。となれば――。
「隠し通路か⁉」
ジャックは叫びました。
刑事であればその程度のことは容易に見当が付きます。ジャックは勢い任せの追跡から一転、足を止め、当たりを慎重に調べはじめました。床を、壁を、天井を、それこそネズミの穴どころかアリの穴さえ見逃すまいとするかのように。ですが――。
ジャックの刑事としての鋭い視力をもってしても、そこには何の異変も仕掛けも見て取ることはできませんでした。
「……姿が見えなくなるほどの時間は立ってねえ。隠し通路かなにかに入り込んだのはまちがいねえんだ。しかし、おれ様の目をもってしても仕掛けひとつ見つからねえ。ってことは……」
――こいつは、プロの仕事だ。しかも、正真正銘、本物のプロの。
ジャックはそう結論づけ、一種の戦慄を覚えました。これほど精緻な仕掛けを施すことのできるプロともなれば、敵に回すとなればさぞ恐ろしい相手となるにちがいないからです。
「……いまは戻るか」
熟練のプロが相手となれば下手に深追いするのは危険すぎます。クリス嬢のことは気に懸かりましたが、生かしたまま連れ去ったからにはすぐに危害を加える気もないでしょう。しばらくは安全なはず。
――となれば、いまはとにかく戻ってビリーの知恵を借りるべきだ。
生まれついての猟犬はそう判断しました。イノシシのようにただ突っ込むだけでは猟犬は務まらないのです。
ジャックは来た道を引き返しはじめました。と言っても、ドクロの顔の怪人を追いかけて無我夢中で走ってきたものですからどこをどう走ってきたのかなど覚えてはいません。ですが、心配はしていませんでした。かの人は猟犬。覚えはなくても猟犬の本能に任せれば帰れないはずはありませんでした。その確信通り、ジャックは迷うこともなく悲鳴のあがった現場に帰ってきました。そこにはビリーがただひとり、手持ちぶさたな様子で立ち尽くしておりました。
「ああ、ジャック。帰ったか。よかった」
「お前ひとりか? テオドラ先生はどうした?」
「それが……」
ビリーは言いづらそうに、口惜しそうに告げました。
「死刑権解放同盟に協力を依頼しに行くと言って……」
「何だと⁉」
「すまない。わたしには止められなかった。あの老嬢、八〇代とは思えないほどのすごい力でな。さすがに大劇場の主任講師と言うべきか、体力が並の人間ではなかった。何より、意思が堅牢すぎた。止めようとすれば、足をへし折って動けなくするしかなかっただろう。容疑者でも何でもない民間人を怪我させるわけには行かないと思い、結局、見逃すことになってしまった」
すまない、と、頭を下げるビリーに対し、ジャックはうなずきました。
「適切な判断だ。警察が牙をむくのは犯罪者だけだ。民間人には傷ひとつ付けちゃいけねえ」
「そう言ってもらえるとホッとする」
「しかし……」と、ジャックは忌々しさを込めて呟きました。
「死刑権解放同盟を頼るとはな。すぐそばにこうして警察がいるってのによ」
「それこそ仕方がないな。それこそが霧と怪奇の都の住人のメンタリティであり、常識なのだから。それより、ジャック。テオドラ嬢が気になることを言っていた」
「気になること?」
「ああ。『……あいつ』と、テオドラ嬢はたしかにそう言ったんだ。『……あいつ』とな」
「『あいつ』だと?」
「そうだ。言ったというより、つい、こぼした、という感じだったな。うっかり本音を漏らしてしまったと言うことなのだろう」
「『あいつ』か。それが、あのドクロ顔の怪人のことなら、テオドラ先生はあの怪人のことを知っていることになるな」
「だろうな。そう言う口調だった。しかし、ジャック。君はあのドクロ顔を『怪人』と呼んでいるが、人間だと思っているのか?」
「なに?」
「あれは人間ではない」
「何だと⁉」
「あれはロボットだ。まちがいない」
「ロボットだと⁉」
ジャックは叫びました。かぶりを振って否定しました。
「あり得ねえ! あれがロボットだなんて。あれはどう見たって機械の動きじゃなかった。あのなめらかさ、あの自然さはどう見ても生き物のものだった。ロボットなんかのはずがねえ」
その言葉にビリーは首を横に振って答えました。
「ジャック。君が犯罪者相手のプロであるように、わたしは機械相手のプロだ。そのわたしが言うんだ。あれはロボットだったと。あのドクロ顔はまちがいなく機械仕掛けのロボットだ」
「しかし……やはり、考えられねえ。機械にあんななめらかな動きができるなんて。あれは、生き物の動き以外の何物でもなかった」
「ああ。それはわたしも驚いた。まさか、ロボットにあそこまで生物を模倣した動きができるとはな。もちろん、並の技術者に実現できるような動きではない。熟練の技術者がその魂を込めた技を披露してはじめて可能になる。そういう動きだ」
「……熟練の技術者。おい、もしかして」
ジャックの言葉にビリーはうなずきました。
「そうだ。あんなロボットを作れるのはエイリーク翁以外には考えられない」
「付いてこい、ビリー!」
叫ぶなりジャックは走り出しました。エイリーク翁の城たる作業室に向かって。
ジャックは作業室に着くと躊躇なくドアを蹴破り、なかに飛び込みました。しかし――。
そこにはもはや誰もいなかったのでありました。
ジャックはそう叫ぶなり、走り出しました。悲鳴を聞いてから行動に移すまでの間に一瞬の躊躇もありませんでした。
突然の悲鳴に驚き、呆気にとられ、どこから聞こえてきたのか確かめる。
そんな、時間を無駄にするようなことはしませんでした。そんなことは人間のやること。生まれついての猟犬には『躊躇』などと言う言葉は無縁のものなのです。
するべきことは一刻も早く悲鳴のあがった現場に駆けつけること。
それ以外のことはすべて無駄、無意味。それこそが根っからの猟犬というものでした。
「お、おい……」
置いてけぼりを食った形のビリーは焦りました。追いかけようにも、かの人の足ではジャックに追いつけるはずがありません。
「……仕方がないか」
ビリーは白衣のポケットのなかからひとつの錠剤を取り出しました。口のなかに放り込み、飲み下します。すると、どうでしょう。かの人の体内にたちまち力があふれかえり、技術畑の人間とは思えない猛烈な速度で駆け出したではありませんか。
それは、ビリーお手製の筋力増強剤でした。もともとは単なる趣味で作った薬品で、ずっとそのままにしてあったのですが以前、とある事件で使用したものでした。そのときは効果は高いのですがその分、副作用もひどく、使用後に何日もの間、ひどい筋肉痛に襲われるというやっかいな代物でした。ビリーもジャックと共に服用し、その後、ひどい筋肉痛に悩まされ、自分をそんな目に遭わせたジャックを毒付きつづけたものです。それに懲りたビリーは薬品を改良し、効果は弱冠劣るものの副作用の少ない新作を作りあげていたのです。
ビリーは薬の効果でジャックの姿を見失うことなく追いかけていくことが出来ました。ジャックはと言えば、迷路のように広大で複雑な劇場のなかを一瞬の躊躇も迷いもなく駆けていきます。道順を確かめる、などという手間は必要ありませんでした。猟犬の本能に任せて駆けつづければ必ず、悲鳴のあがった現場に着く。それこそが生まれついての猟犬というものでした。
普通の人間であれば複雑な順路に迷い、途方に暮れ、たっぷり一〇倍もの時間のかかったであろう道のりをしかし、ジャックはものの数分で駆け抜けました。そして、猟犬の本能が示すままにやってきた悲鳴の現場では、いままさにひとつの犯罪が行われようとしておりました。いえ、それは外の世界では犯罪であってもこの霧と怪奇の都では犯罪ではありませんでした。なぜなら、そこで行われようとしていたのは殺人だったからです。死刑権が解放されているこの霧と怪奇の都では誰が誰を殺しても構わない。故に殺人罪は存在しないのです。
しかし、もちろん、霧と怪奇の都警察署長・暴れん坊ジャックにそんな理屈は通用しません。かの人にとって殺人とはあくまでも犯罪であり、犯罪は取り締まる。
それこそが刑事の誇りというものでした。
刑事の眼前、そこには三人の人物がおりました。いえ、正確にはふたりの女性とひとりの――何と言うべきでしょう。人形、ロボット、いえ、怪人……。そう。ふたりの女性とひとりの怪人がいたのです。
ふたりの女性のうちひとりはまだ一〇代とおぼしき少女であり、もうひとりは八〇過ぎと思える高齢の女性でした。それは、クリス嬢とオペラ座ノワールの主任講師テオドラでありました。
クリス嬢は気を失っている様子で床に倒れ、そして、テオドラは――。
怪人によって首に手をかけられ、宙吊りにされ、壁に背中を押しつけられておりました。
テオドラは首を締め上げられ、圧迫された顔がどんどん赤くふくらんでいきました。このままでは顔が空気を入れすぎた風船のように破裂してしまうのではないか。そう思わせる光景でありました。そして、テオドラの首に手をかけているのは……。
――ドクロ野郎か!
そう。それは以前、ジャックが劇場の闇のなかに見たドクロの顔でした。
――こいつだ! こいつがオペラ座の怪人だ!
ジャックはそう直感しました。
「テオドラを放せ!」
ジャックはそんな叫びをあげて、動きを止めるような真似はしませんでした。銃を抜いたりもいたしません。そんなことをして動きを止めていれば、その間にテオドラは殺されてしまうかも知れません。怪人のしていることは首を絞めて窒息させるなどと言うそんな生温いものではなく、首の骨をへし折るという、凄惨なものだったのです。
テオドラを救うためには一刻の猶予もありませんでした。威嚇して放すよう警告する暇などありません。かと言っていきなり発砲したとしても当たるかどうかわかりません。この狭い室内で外れてしまえば目標からそれた銃弾がどこにどう跳ね返るかわかりません。それでは、助けるはずのテオドラや、床に倒れているクリス嬢の身が危険にさらされます。
ですから、ジャックは銃に頼ったりはしませんでした。そのかわりに頼ったものは鍛え抜いた己自身の肉体。ジャックは自ら、人の姿をした銃弾と化してドクロの顔の怪人に突っ込んでいったのです。
アメリカンフットボールのスカウトが巨額の契約金をつんで欲しがるような、そんなスピードとパワーに満ちた突進でした。
ふわり、と、怪人が動きました。
テオドラを放し、体をくの字に曲げて、ジャックの突進をかわしました。テオドラの体が壁沿いに伝わり落ちます。
ジャックはドクロの顔の怪人を睨み付けました。
――こいつ。何の体術を身に付けてやがる。
ジャックがそう思ったのも無理はないほど、ドクロの顔の怪人のうごはなめらかなものでした。音もなく飛び退き、床に着地するその姿は、人と言うより人の姿の蜘蛛と言いたくなるほどでした。
ドクロの顔の怪人が動きました。
滑るように、懸けるように。
その動きはまさに得物を狙う蜘蛛。なめからで、素早く、しかも、どこか薄気味悪い動きでありました。
ドクロの顔の怪人はその腕にクリス嬢を抱えると背を向けました。劇場の闇の奥目がけて駆け出しました。
「逃がすか!」
ジャックが叫びました。
「ジャック!」
やや遅れてビリーが駆けつけました。
「ビリー! テオドラ先生を頼む!」
そう叫び残し、ジャックはドクロの顔の怪人を追って駆け出しました。
駆ける、
駆ける、
駆ける!
ドクロの顔の怪人を追いかけて、人の姿のハウンド・ドッグが駆け抜けます。しかし――。
――チイッ! なんて野郎だ。このおれが追いつくことも出来ねえ。
距離に関わらず、オリンピックの強化選手に選ばれるほどの脚力を持つジャックです。そのジャックの足から逃れられる人間などそうそういるものではありません。まして、このドクロ顔の怪人は、一〇代の少女とは言え、人ひとりを脇に抱えているのです。それでいてジャックが追いつけないほどの速さで走る。怪人の正体が何であれ、並の人間でないことは確実でありました。
――だが、おれから逃げられると思うなよ!
ジャックはそう心に叫びます。
ジャックは刑事。
生まれついての猟犬。
人の姿のハウンド・ドック。
追跡にかけてはまさに、人類最強の逸材。
そのジャックの追撃から逃れる相手などいるはずがありませんでした。……相手が人間であるならば。
怪人の小脇に抱えられているクリス嬢は身動きひとつしませんでした。ぐったり力なく抱えられるがままです。
――気を失っているようだな。いまはその方がいい。下手に暴れたりしたら身が危険だ。
ジャックは追跡をつづけます。ドクロの顔の怪人は闇に覆われた複雑な劇場の道を迷うことなく駆け抜けます。
――なんて奴だ。この劇場によほど詳しくなきゃああはいかねえ。
ジャックは、ビリーのオペラ座の怪人についての解説を思い出しました。
『オペラ座の怪人はオペラ座の地下に住み、広大な地下世界のありとあらゆる仕掛けを知り尽くし、神出鬼没の芸当を実際にやってのけた。そのために『オペラ座の幽霊』と呼ばれた』
いま、ジャックの目の前の走るドクロの顔の怪人もまたエリックを彷彿とさせる存在でした。
――チッ。ますますそんな感じになって来やがったぜ。
ジャックは走りながら息を整えました。走りながら体力を回復するための特別な呼吸法です。気の長い追跡行を覚悟しての手段でした。
ドクロの顔の怪人が曲がり角の向こうに姿を消しました。
ジャックはすぐに後を追います。しかし――。
「なにっ⁉」
ジャックは思わず叫びました。
目の前にはもはや何もいませんでした。ドクロの顔の怪人も、怪人に抱えられていた歌姫も。いくら照明の届かない暗闇のなかとは言え、怪人が角を曲がってからジャックが追いかけるまでに姿が見えなくなるほどの時間が合ったはずがありません。にもかかわらず、姿を消した。となれば――。
「隠し通路か⁉」
ジャックは叫びました。
刑事であればその程度のことは容易に見当が付きます。ジャックは勢い任せの追跡から一転、足を止め、当たりを慎重に調べはじめました。床を、壁を、天井を、それこそネズミの穴どころかアリの穴さえ見逃すまいとするかのように。ですが――。
ジャックの刑事としての鋭い視力をもってしても、そこには何の異変も仕掛けも見て取ることはできませんでした。
「……姿が見えなくなるほどの時間は立ってねえ。隠し通路かなにかに入り込んだのはまちがいねえんだ。しかし、おれ様の目をもってしても仕掛けひとつ見つからねえ。ってことは……」
――こいつは、プロの仕事だ。しかも、正真正銘、本物のプロの。
ジャックはそう結論づけ、一種の戦慄を覚えました。これほど精緻な仕掛けを施すことのできるプロともなれば、敵に回すとなればさぞ恐ろしい相手となるにちがいないからです。
「……いまは戻るか」
熟練のプロが相手となれば下手に深追いするのは危険すぎます。クリス嬢のことは気に懸かりましたが、生かしたまま連れ去ったからにはすぐに危害を加える気もないでしょう。しばらくは安全なはず。
――となれば、いまはとにかく戻ってビリーの知恵を借りるべきだ。
生まれついての猟犬はそう判断しました。イノシシのようにただ突っ込むだけでは猟犬は務まらないのです。
ジャックは来た道を引き返しはじめました。と言っても、ドクロの顔の怪人を追いかけて無我夢中で走ってきたものですからどこをどう走ってきたのかなど覚えてはいません。ですが、心配はしていませんでした。かの人は猟犬。覚えはなくても猟犬の本能に任せれば帰れないはずはありませんでした。その確信通り、ジャックは迷うこともなく悲鳴のあがった現場に帰ってきました。そこにはビリーがただひとり、手持ちぶさたな様子で立ち尽くしておりました。
「ああ、ジャック。帰ったか。よかった」
「お前ひとりか? テオドラ先生はどうした?」
「それが……」
ビリーは言いづらそうに、口惜しそうに告げました。
「死刑権解放同盟に協力を依頼しに行くと言って……」
「何だと⁉」
「すまない。わたしには止められなかった。あの老嬢、八〇代とは思えないほどのすごい力でな。さすがに大劇場の主任講師と言うべきか、体力が並の人間ではなかった。何より、意思が堅牢すぎた。止めようとすれば、足をへし折って動けなくするしかなかっただろう。容疑者でも何でもない民間人を怪我させるわけには行かないと思い、結局、見逃すことになってしまった」
すまない、と、頭を下げるビリーに対し、ジャックはうなずきました。
「適切な判断だ。警察が牙をむくのは犯罪者だけだ。民間人には傷ひとつ付けちゃいけねえ」
「そう言ってもらえるとホッとする」
「しかし……」と、ジャックは忌々しさを込めて呟きました。
「死刑権解放同盟を頼るとはな。すぐそばにこうして警察がいるってのによ」
「それこそ仕方がないな。それこそが霧と怪奇の都の住人のメンタリティであり、常識なのだから。それより、ジャック。テオドラ嬢が気になることを言っていた」
「気になること?」
「ああ。『……あいつ』と、テオドラ嬢はたしかにそう言ったんだ。『……あいつ』とな」
「『あいつ』だと?」
「そうだ。言ったというより、つい、こぼした、という感じだったな。うっかり本音を漏らしてしまったと言うことなのだろう」
「『あいつ』か。それが、あのドクロ顔の怪人のことなら、テオドラ先生はあの怪人のことを知っていることになるな」
「だろうな。そう言う口調だった。しかし、ジャック。君はあのドクロ顔を『怪人』と呼んでいるが、人間だと思っているのか?」
「なに?」
「あれは人間ではない」
「何だと⁉」
「あれはロボットだ。まちがいない」
「ロボットだと⁉」
ジャックは叫びました。かぶりを振って否定しました。
「あり得ねえ! あれがロボットだなんて。あれはどう見たって機械の動きじゃなかった。あのなめらかさ、あの自然さはどう見ても生き物のものだった。ロボットなんかのはずがねえ」
その言葉にビリーは首を横に振って答えました。
「ジャック。君が犯罪者相手のプロであるように、わたしは機械相手のプロだ。そのわたしが言うんだ。あれはロボットだったと。あのドクロ顔はまちがいなく機械仕掛けのロボットだ」
「しかし……やはり、考えられねえ。機械にあんななめらかな動きができるなんて。あれは、生き物の動き以外の何物でもなかった」
「ああ。それはわたしも驚いた。まさか、ロボットにあそこまで生物を模倣した動きができるとはな。もちろん、並の技術者に実現できるような動きではない。熟練の技術者がその魂を込めた技を披露してはじめて可能になる。そういう動きだ」
「……熟練の技術者。おい、もしかして」
ジャックの言葉にビリーはうなずきました。
「そうだ。あんなロボットを作れるのはエイリーク翁以外には考えられない」
「付いてこい、ビリー!」
叫ぶなりジャックは走り出しました。エイリーク翁の城たる作業室に向かって。
ジャックは作業室に着くと躊躇なくドアを蹴破り、なかに飛び込みました。しかし――。
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言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
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