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二一章

地下の世界とドクロ顔の怪人

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 ジャックとビリーのふたりは地下通路を進むうち、縦横に水路の走る広大な空間へと出ていました。淡い光に照らされたそこはあたかも洞窟のなかに眠る地下湖のよう。なんとも幻想的な雰囲気でありました。
 「なんてこった」
 さしものジャックもそのあまりに神秘的な雰囲気に心を打たれたようでした。
 「ここは本当にオペラ座ノワールの地下か? 何だって、劇場の地下にこんな広大な地下水路があるんだ?」
 「オペラ座ノワールは単なる劇場ではない。レストランもあれば、温泉施設もある。そこには当然、エステサロンもある。宿泊施設もな。一日で使われる水の量は膨大なものになる。その水をまかない、処理するためには、この程度の水路は必要となるのだろう」
 「それもそうか。しかし……」
 ジャックは怖気を振るったように言いました。
 「……何ともうすっ気味の悪い場所だぜ。いまにも水のなかからデロデロネトネトの化け物が這い出してきそうだ」
 ジャックの言葉にビリーは意外そうな声をあげました。
 「何だ。君はあの手のデロデロネトネトが苦手か? 男子というものはあの手の化け物に婦女子が襲われ、あんなことやこんなことをされるのを見るのが大好きだと思っていたがな」
 「お前は何を読んでんだ⁉」
 ジャックは呆れたように言いましたが、ビリーはあくまで真剣そのもの。メガネの奥の大きな目を向けて、マジマジと見つめながら尋ねるのでした。
 「何だ。ちがうのか?」
 「あ、いや……ちがうとは言い切れねえんだが」
 あまりにも真剣なビリーの視線に押され――。
 ついつい正直に答えてしまうジャックでありました。
 「ところで、ジャック。気がついているか?」
 「何がだ?」
 どうやら話題がかわったらしいことにホッとして、ジャックは尋ねました。ビリーは静かにつづけます。
 「これほど大がかりな水路が縦横に走る地下施設だというのに、不快な湿度をまるで感じない」
 「……そう言えば」
 「それどころか、床には埃ひとつ落ちていない。ネズミの毛一本、見当たらない。見事に手入れが行き届いている。おそらく、メンテナンス用のロボットが常に巡回しているのだろう。これほどまでに自分の作った作品に愛情を注ぐとは。いや、さすがはエイリーク翁。まさに、職人の鑑。尊敬せずにはいられないな」
 「盛りあがってるところ悪いがな。忘れるなよ。その職人の鑑とやらがクリス嬢をさらったんだぞ」
 「ふむ。それはどうかな」
 「どうかなって……お前が言ったんだろう。クリス嬢をさらったロボットはあのじいさん以外には作れないってな」
 「たしかにそう言った。だからこそ、エイリーク翁の仕業だと考えたわけだが、こうなると揺らいでくるな」
 「なぜ?」
 「職人魂の持ち主に悪人はいない」
 「あー、あー、言ってろよ、まったく」
 さすがにあきれ果て、ジャックは足を速めました。
 ビリーの案内で広大な地下水路をさらに進んでいくと前方に一軒の家が見えてきました。地下水路のなかにただ一軒、ポツリと家が建っている有り様というのは何ともシュールなものでありました。
 「おい、見ろよ、ビリー。こんなところに家があるぞ」
 言われてビリーは楽しそうに答えました。
 「ほうほう。地下の水路にたたずむ一軒の家、か。ますます『オペラ座の怪人』らしくなってきたな」
 「喜ぶな。そもそも何でこんなところに家があるんだ」
 「おそらく、地下水路の管理を行うための作業所だろう。となれば、地下世界の仕掛けを操ることも出来るはずだし、ロボットをメンテナンスするための機械類も揃っているはず。人知れず機械職人が自分の城とするためには最適の場所だな」
 「つまり……あそこがクリス嬢の連れ去られた場所ってことか」
 「その可能性は高いと思う。刑事の勘は何と言っている?」
 ビリーに言われてジャックは空気を嗅ぎ、匂いを確かめるような仕種をしました。その姿はまさに獲物の匂いをかぎ分けようとする猟犬そのままでありました。やがて、
 「……いるな」
 ジャックはポツリとそう言いました。
 「クリス嬢はあの家のなかにいる。おれの刑事の勘ははっきりとそう言っている」
 「勘とは経験の蓄積に他ならない。根っからの刑事である君がそう言うのならそうなのだろう。クリス嬢はあの家にいる。それがわかったところでどうする? あの家に向かうのか?」
 「当たり前だ。市民を救うのが警察の仕事となんだからな。さらわれた人間がいるなら何がなんでも行く。そして、助け出す。それだけだ」
 「その心意気は立派だが、むやみに近づいたら返って危険にさらすのではないか? このまま近づけば向こうからは丸見えだ。クリス嬢が人質に取られる可能性もあると思うぞ」
 言われてジャックは考え込みました。辺りを見回しました。
 「……できれば、物陰にでも隠れてこっそり近づきたいところだが」
 「それは無理だな。見ての通り、この一帯は完全にフラットな地下水路だ。身を隠せる場所はひとつもない。それとも、いっそ水路に潜って近づくか?」
 「水路に潜ったところで丸見えなのはかわりないな」
 ジャックは小首をかしげました。それから、言いました。
 「ビリー。お前、銃は持っているか?」
 「ああ。君に刑事部に引き抜かれたときに贈られた銃は肌身離さずもっているぞ。単にもっているというだけで撃ったことはないがな」
 「贈ったんじゃなくて単なる備品の支給なんだが……まあいい。銃を捨てろ」
 「捨てる?」
 「そうだ。武器を捨てて両手をあげて近づくんだ。こちらに害意がないと見れば向こうもいきなり撃ってくるような真似はしないだろう」
 「撃ってきたら?」
 「そのときはそのときだ」
 「君らしいな、まったく」
 ビリーは『やれやれ』と頭を振りましたが、その声には何とも言えない好意と親しみが込められていたのでした。
 ジャックとビリーは銃をその場に置き、両手をあげた姿勢で家に近づきました。ジャックは上着と、さらにはトレードマークの帽子まで脱いでいきました。すべては武器など持っていない、害意はない、と相手に知らせるためです。
 ジャックはビリーに対しても白衣を脱いでいくよう言ったのですが『白衣は科学者の魂だ。例え、首を落とそうとこの白衣を置いていくわけには行かん』という抵抗に遭って断念したのでした。
 「それより、ジャック。君が自慢の帽子を置いていくとはな。少々、見損なったぞ。君の帽子に対する思いはその程度のものだったのか?」
 あほう、と、ジャックはビリーの言葉を一蹴しました。
 「おれと帽子の間には切っても切れない運命があるんだ。だから、安心して置いていけるんだよ」
 「なるほど。真実の愛さえあれば離ればなれになっても恋人でいられる。そう言うことだな」
 「そういうこった」
 大真面目にそう答えるジャックでありました。
 ふたりは一歩いっぽ慎重に歩を進めていきました。その間、ジャックの野生の本能はなにがしかの危険を感じていたでしょうか。家に近づくことに危険を察知していたでしょうか。
 いいえ、何も感じていませんでした。危険に近づけば必ず感じるはずのあの感覚、首の後ろの毛がチリチリと焼け付くような感覚がまるで感じられないのです。
 ――どういうことだ? あの家には危険はないってことか? だとすれば、クリス嬢をさらった犯人はあのなかにはいないのか?
 ビリーがジャックの勘を信じる以上にジャックは自分自身の勘を信じていました。その本能が危険を察知しないと言うのであれば用心を重ねる必要もありません。一刻も早く家に押し入り、クリス嬢を助け出して――そして、帽子を拾い――地上に戻る。それこそが警察署長としての役目と言うものでありました。
 ジャックは歩を早めました。見る者がいればその無警戒振りに呆れ、ハラハラしたことでありましょう。それでも、さすがに家のなかをのぞき込むような真似はせず、壁に隠れ、密かに内部の様子をうかがおうとしました。
 そのときです。
 ぞわり、と、それまで一本たりとも動くことのなかった首筋の毛が一斉にそそけ立ちました。
 「ジャック!」
 ビリーの悲鳴が響きました。
 そのときにはもちろん、ジャックはすでにその場にはいませんでした。獲物の逆襲をかわす猟犬の素早さで横に飛んでおりました。その直後、いまのいままでジャックのいたその場所に、轟音を立てて金属の塊が落ちてきたのです。
 ドクロの顔を浮かべたその姿。
 それはまさにクリス嬢をさらったあの怪人、オペラ座ノワールの踊り子たちの間で噂となっていた『オペラ座の幽霊』そのものでありました。
 幽霊ではなく、実態をもつ存在。
 それも、重々しい金属の固まりたるロボットであることを示すかのように、その怪人は轟音を立てて落ちてきました。
 落下の衝撃で床はひび割れ、小さなクレーターまで出来ていました。もし、ジャックがとっさに飛び退くことなくその場にいれば、まともにその身の上に落下され、体中の骨をグシャグシャにされていたことでしょう。危険を察知する猟犬の本能がジャックの生命を救ったのでありました。
 「出やがったか!」
 ジャックは叫びました。
 嬉しそうな声でした。
 楽しそうな声でした。
 舌なめずりして獰猛な笑みを浮かべました。
 獲物あっての猟犬。獲物がいなければ猟犬とはなり得ません。獲物の出現に心を沸き立たせるのは猟犬の本能であり、自然なことでありました。
 ジャックはそのまま怪人に向かって突進しました。
 「ジャック、無茶だ! 相手はロボット、金属の塊なんだぞ。素手で殴ったりすれば砕け散るのは君の拳だ!」
 「わかってらあっ!」
 ジャックは叫びました。
 ビリーは忠告しましたが、ジャックとて見た目ほどバカ……失礼、単純、いえ、勇猛すぎるわけではありません。そもそも、ジャックがいきなり怪人に向かって言ったのは怪人がビリーの方に向かわないようにするためだったのです。
 怪人が右腕を振るいました。
 金属の拳がジャックを殴りつけようと迫ります。
 ジャックは叫びました。
 「遅い!」
 ジャックは怪人の手首をつかむとそのまま相手の腕にぶら下がるような姿勢を取り、そのまま巻き込んで投げ飛ばしました。
 逆一本背負い。
 アマレスの世界でそう呼ばれる技でありました。
 重々しい音を立てて機械の怪人が背中から床にたたきつけられました。
 ジャックは逃しませんでした。怪人の手首をつかんだまま相手の腕を両足で挟み込み、思い切り背を仰け反らせました。バキッと、乾いた音がして怪人の右肘は逆方向に曲がっておりました。それを確認してジャックは飛び退きます。腰を落とし、構えます。
 「へっ、もろいな。機械の肘ってのはよ」
 「ジャック!」
 ビリーの悲鳴にも似た叫びが響きました。
 「何ということをするのだ、君は! 技術の粋とも言うべきエイリーク翁の傑作を傷つけるとは! そんなことは許されんぞ!」
 「……勘弁してくれよ、まったく」
 さすがにげんなりするジャックでありました。
 機械仕掛けの怪人がジャックに迫りました。残された左腕を振り上げます。その動きを見てジャックはうそぶきました。
 「素人だな」
 機械ですから力はあります。しかし、動作は遅いし、何より動きに無駄がありすぎました。ジャックの目から見れば力だけが取り柄ののろまな素人に過ぎません。
 手首をつかむ。
 飛びあがる。
 両足で挟み込む。
 一回転して背中から地面に叩きつける。
 背筋をそらし、一気にへし折る。
 柔道の飛びつき十字固め。
 その手本として動画にされそうなぐらいなめらかな動きでありました。
 機械仕掛けの怪人はたちまち両腕の肘を折られ、だらんとぶら下がりました。
 機械ですから当然、痛みは感じません。ですが、肘関節を折られてしまってはまともに動かすことはできません。まったくの無防備にされてしまったと言ってよかったでしょう。
 そんな怪人にジャックは語りかけました。
 「まだやるかい? 今度は膝を砕く。そうすりゃ動けなくなるぜ。おとなしく捕まるならこれ以上、傷つけずにおいてやるよ」
 言われて機械仕掛けの怪人はジリジリと後ろに下がりました。そして――。
 いまはまだ無事な両足を使って高々と後方にジャンプし、姿を消したのでした。
 「ああ、まて!」
 ビリーが悲痛な声をあげました。後を追おうとして駆け出しました。ジャックが制止の声をあげました。
 「おい、ビリー! 深追いは危険だ」
 しかし、ビリーは必死に叫びました。
 「行くな、まってくれ! そんな両肘を折られたまま行くなんて……わたしに修理させてくれ!」
 「そこかよ!」
 思わず怒鳴るジャックでありました。
 ともあれ、どうにがビリーをなだめてジャックは家のなかに入りました。そして、ついに見つけたのです。
 家の奥、おそらくは仮眠用と思われる、ベッドの置かれた小さな部屋。そのなかでベッドの上に寝かされているクリス嬢を。
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