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二二章

ドリアン·グレイとお洒落なティーセット

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 謎の怪人にさらわれたうら若き乙女の監禁されている部屋。
 そう聞いてあなたはどんな印象を思い浮かべることでしょうか。
 薄暗い地下牢のなか、両手に手錠をかけられて吊り下げられている図?
 ぬいぐるみや人形など、愛玩用のオモチャで埋め尽くされた猟奇的な部屋?
 純白のドレスに天蓋付きのベッド、静かに寝かしつけられ、人形扱いされている様?
 暴れん坊ジャックが思い描いていたのはクラシックな思考の刑事らしく、殺風景な部屋に置かれたベッドの上に、両手両足を拘束されて猿ぐつわを噛まされている、といういたって平凡な光景でありました。ですが、実際にクリス嬢が寝かされていたのはそのいずれともちがうものでした。
 そこはおそらく、作業員のための仮眠室だったのでしょう。さして広くはなく、飾りもない実用一点張りの部屋。そのなかにはふたつのシングルベッド。そのベッド自体も実用一転振りのシンプルなものでした。ホテルなどで見かけるような豪奢さはまったく縁のない代物でした。
 クリス嬢はそのベッドの片方に寝かされていたのです。
 それだけならジャックの想像もさほど離れていなかったと言えるでしょう。ですが、クリス嬢はどこも縛られてはいませんでした。手にも、足にも、ロープひとつかかっていません。口にも猿ぐつわも何もかけられていません。一切、拘束されることなく、ただ安らかにその場で寝かされていたのです。
 そう。
 まるで、ロープをかけることでその繊細な肌に傷が付くことを怖れているかのように。
 そして、何よりも違和感のあったのは部屋の片隅に置かれたひとつのテーブルセットでした。小さな丸いテーブルとやはり、小さな木製の椅子。どちらもこじんまりとした可愛らしいデザインの家具でした。このような殺風景な部屋のなかではなく、森の木立の陰に置かれ、涼風にくすぐられながら午後のお茶の時間を優雅に楽しむ。そんな場面にこそふさわしいテーブルセットでありました。
 そして、そんなテープルセットにふさわしく、テーブルの上にはおそらくはお手製と思われる可愛いテーブルクロスが敷かれ、さらにその上にはイギリス製の、決して豪華ではありませんがシックな雰囲気の趣味の良いティーセットが並んでおりました。カップはもちろん、受け皿にティースプーン、ポットにミルクジャー、砂糖入れ、お湯差し、茶こしまで揃っておりました。すぐそばには品の良い小ぶりな茶壺まで置いてあるという念の入れようです。ポットにはたっぷりとお湯が入れられ、ティーコージーがかけられておりました。ゲストがいくらでもたっぷり飲めるように、そして、その間、お湯が決して冷めないように、とのホストの心遣いが感じられる組み合わせでありました。
 それらの茶器が可愛いテーブルの、可愛いクロスの上に並ぶ光景はそれ自体が一面の花畑のよう。女性であれば、いえ、乙女心を持つ人であれば誰もが心をときめかせ、うっとりせずにはいられない。そんな雰囲気なのでありました。
 さらに、テーブルの上にはケーキスタンドが置かれ、三段構えのそのスタンドにはクッキー、ケーキ、一口サイズのサンドイッチが載せられ、これまた乙女心を刺激するもてなし振りなのでありました。
 それらの様子は森の木陰や、クラシックな貴族の邸宅の一室に置かれているのならさぞかし様になったことでしょう。ですが、この地下世界のなかにポツンと建つ家のなか、それも、実用一点張りの作業員用の仮眠室とあっては何とも強烈な違和感があるのでありました。
 ジャックもまたその違和感に顔をしかめました。
 「……こんなところにティーセットを用意するなんざ、いったい、どういう野郎だ?」
 「ゲストをもてなそうという心持ちだけははっきりと伝わるな。しかし、許せないことがある」
 「許せないこと?」
 ジャックが思わず尋ねると、ビリーは拳を握りしめ、目のなかに怒りの炎をたぎらせて、力説したのでございます。
 「なぜ、ケーキやクッキーなのだ! 人をもてなすならばパーツ取りに使えるジャンク品の山を置いておくべきだろう」
 「……それで喜ぶのはこの世にお前だけだ」
 そうツッコんでおいてジャックは改めてクリス嬢に目を向けました。
 これだけ至れり尽くせりのもてなし振りを見せられて、却って不安になったのです。
 ――まさか、クリス嬢を殺しておいて、死体にもてなししてるんじゃねえだろうな。
 そう思って見るとクリス嬢はピクリとも動きません。肌はまだまだ血色が良く、頬はバラ色で、死の気配は感じられません。ですが、もし、薬品などで殺されたばかりなのだとしたら……。
 「おい、ビリー」
 「うむ」
 言われてビリーはうなずきました。愛用の携帯端末を取り出し、捜査します。淡々と事実を語る口調で告げました。
 「バイタル値異常なし。生命反応オールグリーン。ただ眠っているだけだな」
 「そうか」
 ホッと、ジャックは一息つきました。
 まずは一安心と言ったところです。しかし、そうなると、場違いなティーセットの件がますます気にかかるのですが……。
 「……とりあえず、起こしたいところだが」
 「そうだな。婦女子の寝顔をジロジロ見ていては変態呼ばわりは避けられまい」
 「ジロジロ見てるわけじゃねえ!」
 ジャックは思わず怒鳴りました。その声が気付け薬がわりに効いたのでしょうか。
 「ん……」
 クリス嬢は小さな声をあげて身じろぎしました。
 「ありゃ。起こしちまったかな?」
 「君の怒鳴り声は『死者でも起きる』と有名だからな。いまのうちに婦女子の寝顔に見入っていたことへの言い訳を考えておくことだ」
 「だから、見入ってなんかねえ!」
 再びの怒鳴り声が決め手となったのでしょう。クリス嬢は両目を開き、起きあがりました。ジャックを見て開口一番に言いました。
 「あ、あなたは……」
 ジャックは気まずそうに身じろぎしました。ビリーに言われたことを、実はけっこう気にしていたのでございます。それでもせいぜい礼儀を保ってトレードマークの帽子を胸元に抱え、挨拶しました。
 「お、おはようございます、クリス嬢。いや、何も、あなたの寝顔を見ていたわけでは……」
 と、却って疑われそうなことを口走ってしまいましたが、クリス嬢は気がつかなかったようです。それとも、気付いていながら相手のために無視したのでしょうか。だとしたら、何とも心根の優しい少女でありました。
 クリス嬢はその大きな目でふたりを見て、バラのような唇を開きました。
 「ジャックさんと、あなたは……」
 「助手のビリーだ。あなたとは警察署で一度、会っただけだからな。分からなくても無理はない」
 「あ、でも、そのメガネと白衣は覚えています」
 言われてビリーは喜びに目を輝かせました。
 「おお! この白衣の良さがわかるか。さすが、歌姫、違いが分かる。実はこの白衣はそんじょそこらの白衣ではなく……」
 「……おい、ビリー。白衣自慢している場合じゃねえだろうが」
 「そう言う君こそ、その帽子は何だ。相手を警戒させないためにと置いてきたのに、わざわざ取りに戻っていたではないか。この帽子フェチめ」
 「帽子抜きじゃ銃も当てられねえんだよ。常識だろうが」
 その呑気なやりとりにクリス嬢は『クスッ』と、小さな笑いを漏らしました。その声でようやく、ジャックはまたしても自分がビリー相手に漫才をやらかしてしまったことに気がついたのです。恥じ入ったように、頬を染め、居住まいを正しました。
 「……これは失礼。ところで、クリス嬢。何がどうなったかは覚えておいでですか?」
 「はい。あたしはあのドクロの顔の怪人にさらわれて……」
 「そうです。そして、この地下世界の家に連れ込まれたのです」
 「地下世界?」
 「オペラ座ノワールの地下に広がる一大世界です」
 「そう……ですか。そんな場所に……」
 クリス嬢は戸惑ったように、不思議そうに当たりを見渡しました。と言って、室内からでは地下世界にいるとの実感は感じられなかったことでしょうが。
 「ところで、クリス嬢。体の方はその……ご無事ですか?」
 「はい。別に痛いところもありませんし」
 「ですが、注意はした方がいい。おい、ビリー」
 「うむ。では、クリス嬢。簡単なものだが検査をさせてもらいたい。よろしいかな?」
 「はい。お願いします」と、クリス嬢は礼儀正しく頭を下げました。
 ビリーは愛用の携帯を手にクリス嬢に近づきます。
 『何をしている、ジャック。男はさっさと外に出ろ』などと言う気遣いをここで見せるビリーではありません。何しろ、かの人自身が裸を見られても何とも思わないという羞恥心の欠落した人格。他人にとって裸を見られることは恥ずかしいことなのだという感覚が理解できないのです。ですから、ジャックがまだ部屋のなかにいるのにもかまわずにクリス嬢の衣服に手をかけ、脱がそうとしました。あわてたのはジャックです。
 「お、おい、こら、ちょっとまて!」
 「どうした? 大声を出して」
 「おれがまだいるのにいきなり脱がすやつがあるか!」
 「………? 何の問題がある? 君がいたところで診察には何の支障もないぞ」
 「そう言うことじゃなくてだな……!」
 見てみると、クリス嬢は服を脱がされたかけた格好のまま、耳まで真っ赤にしてうつむいておりました。ジャックはいたたまれなくなりました。
 「と、とにかく! 診察はおれが部屋を出てからにしろ、いいな! 終わったら呼びにこい!」
 ジャックはそう叫び残し、その場から逃げ出したのでございます。
 二〇分ほどもたったでしょうか。ビリーがドアを開け、ひょこっとメガネ美少女にしか見えない顔を覗かせました。
 「診察が終わったぞ、ジャック。しかし、なぜ、こんなところでコソコソしている? まったく、君は変わり者だな」
 「あほう!」と、もはや『変わり者はお前だ!』と叫ぶ気にもなれず、その一言ですませるジャックでありました。
 ジャックはビリーに促されるままに部屋に戻りました。
 ――もしや。
 と言う不安が胸をよぎりましたが、さすがにクリス嬢はきちんと服を着ておりました。ベッドの上で上半身だけを起こした姿勢で座っておりました。
 ジャックは内心、安堵の息をつきました。ビリーが診察結果を報告します。
 「外傷は一切なし。身体内部の損傷も心配なさそうだ。脳波、血圧、心拍数、すべて異常なし。寝ている間にレイプされた形跡も……」
 「そう言うことを本人の前で言うんじゃねえ!」
 ビリーはジャックに怒鳴られて、メガネの奥の大きな目をさらに大きく見開き、キョトンとした表情を浮かべました。
 「何を怒鳴る? 診察結果を知るのは当人にとっても重要なことだ」
 「そりゃあ、そうだろうが……」
 ジャックは言うべき言葉が見つかりませんでした。医学的な知識はたっぷりあっても性的な知識・欲求は皆無という偏った性癖の持ち主であるビリーです。この手の話の微妙さを理解しろと言っても無理な話。ジャックは頭をかきむしりました。
 「ああ、もう! とにかく、黙ってろ。いいな」
 言われてビリーは頭の周りに『?』マークを飛ばしてキョトンとしておりました。
 一方、クリス嬢はというと、かわいそうに、耳まで真っ赤に染めてうつむいたまま、口昼を噛みしめておりました。
 ――まだ一七歳なんだよなあ。
 痛々しいほど初々しいその姿に心を痛めながら、ジャックは刑事としての役職に立ち戻りました。
 「あ、あ~、クリス嬢……」
 「……はい」
 『はい』と、小声で答える姿がまたたまらなく保護欲をそそるものでありまして、ジャックは思わず全力で抱きしめてしまうところでした。
 どうにかこうにか、かろうじてその衝動を抑えると、咳払いしてからトレードマークの帽子を胸に掲げました。そして、真摯な姿勢で頭を下げしまた。
 「ご無事で何よりです、クリス嬢。警察署長たる私がいながらあなたをさらわせてしまったのは一生の不覚。どのように非難されても構いません。ですが、ここはまだ危険です。どうか、私に地上までの護衛を許していただきたい。警察署長たるの名誉に懸け、あなたを無事に地上に戻すことをお約束します」
 「そんな……非難だなんて」
 クリス嬢はジャックの何とも芝居がかった大仰な言い回しに違和感を感じたようでした。その視線はしばらく宙をさ迷っていましたがやがて、部屋の片隅にあるテーブルに掛けられたクロスの上にとまりました。その視線が切なげなものであることにジャックは気がつきました。
 「どうしました、クリス嬢。何か気になることでも……?」
 「いえ……」
 クリス嬢は曖昧に答えると起きあがりました。ベッドを降り、テーブルに向かいます。そして、ポットから紅茶を注ぐと一口、飲みました。
 「クリス嬢!」
 ジャックが叫びました。毒が入っていないという保証がない以上、用意された紅茶を飲むような真似は決してするべきではありませんでした。暴れん坊ジャックともあろう者がついうっかりクリス嬢が実際に紅茶を飲むまで止めるのを忘れてしまったのは、かの人の仕種があまりにも自然なものだったからでありました。
 ジャックの心配をよそにクリス嬢はそっと目を閉じ、口のなかに含んだ紅茶を味わっておりました。
 舌の上で転がし、味わいを確かめ、香りを嗅ぎ……まるで、一流のソムリエが年代物のワインを鑑定するかのような姿勢でありました。
 「……やっぱり」
 「やっぱり?」
 「これはフィリップの煎れたお茶です。かの人の好きだった茶葉なんです」
 「フィリップ?」
 「あ、すみません。ドリアン・グレイと言えば分かりますか?」
 「ドリアン・グレイ? 半年前に不審な死を遂げたという?」
 「脳が抜き取られていたという猟奇的な噂のある御仁だな」
 「おい、ビリー」
 ビリーの直接的すぎる表現をジャックはたしなめました。ですが、クリス嬢は――少なくとも表面上は――気にした様子もなく、答えました。
 「はい。そのドリアン・グレイです。あまりにもそのあだ名が広まったのでそれが本名みたいに言われていますが、本名はフィリップと言うんです。あたしとフィリップはその……特別に親しい関係で」
 クリス嬢はそう言うと頬をほのかに赤く染めてうつむき、言葉を濁しました。その言葉の意味は察してくださいという意味でした。もちろん、ジャックは立派に察しました。その横でビリーが頭の上に『?』マークを点灯させていたのは……やはり、かの人らしいことなのでありました。
 「フィリップはいわゆる女子力男子で、とても細やかな気遣いのできる人でした。テーブルクロスやランチョンマットといった小物を作るのも好きで、とても上手に作ることが出来たんです。それに、紅茶も好きで……この『好き』というのは自分が飲むのが好き、と言う意味ではなく、他の人に振る舞い、楽しんでもらうのが好き、と言う意味なのですが……」
 「すると?」
 「はい。一目見て分かりました。このテーブルクロス。これはまちがいなくフィリップの作ったものです。それに、この紅茶。これもまちがいなくフィリップが好きだった茶葉を、フィリップ自身が煎れたものです」
 「それは確かなのですか?」
 「はい」と、クリス嬢はきっぱりと断言しました。
 「あたしはフィリップの部屋で何度もお茶をご馳走になりました。この味を間違えるわけがありません」
 クリス嬢は『疑問の余地なし』とばかりに断言します。ジャックは首をかしげました。
 フィリップ――ドリアン・グレイはすでに死んでいる。しかし、いま、この場にはそのドリアン・グレイの作ったテーブルクロスが敷かれ、ドリアン・グレイの煎れたお茶がある。これはいったいどういうことか。ドリアン・グレイが殺されたというのがそもそものまちがいなのか。それとも――。
 ジャックはかぶりを振りました。そして、言いました。
 「……警察の一番の役割は市民の保護だ。とにかく、クリス嬢、地上に戻りましょう。すべては、あなたの安全を確保してからのことです」
 そうして、ジャックたち三人は地上への道をたどり始めました。帰りは行きと違い複雑な地下通路が組み替えられることもなく、おかげでジャックたちはほぼ一本道を進むように戻っていけました。行きに比べてストレスはないも同然の道のりでありました。その道すがら、クリス嬢はジャックの質問に答えて言いました。
 「あれは……あの怪人はエリック、だと思います」
 「エリック?」
 「元祖『オペラ座の怪人』だな」
 ジャックが呟くと、ビリーが答えました。クスリ嬢はコクンと頷きました。
 「ええ。そのエリックです。いつの頃からか、あたしが劇場にひとりでいると、どこからか声がかけられるようになったんです。その声の主は決してあたしの前に姿を現わすことはありませんでした。でも、いつも、あたしを励ましてくれたり、レッスンの相手をしてくれたりしていたんです。ですから、オペラ座の怪人の名前をとって『エリック』と呼んでいたんです」
 「そのエリックがあの怪人だと?」
 「……多分。エリックの姿を見たことはないのでハッキリとは言えませんが」
 「……ふむ。しかし、あの部屋の小物や紅茶を用意したのはフィリップ……ドリアン・グレイ」
 「……はい」
 クリス嬢は小声で答えました。
 ――いったい、どういうことなのか。
 ジャックは柄にもなく考え込みました。気が付いてみれば、ビリーも何やら考え込んでいる様子です。
 やがて、ジャックたち三人は地上へと戻りました。その途端――。
 音を立てて強烈な光が三人を包みました。
 ビリーも、クリス嬢も、いきなりのことに目を覆いました。ジャックだけはさすがに目を覆って隙を作るような真似はせず、その強烈な光のなかでも相手を睨み付けました。
 そこには何十人という完全装備の人間たちが立っていました。
 ジャックはうめき声をあげました。
 「……死刑権解放同盟」
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