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二三章

怪人がやってきた

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 目を射貫くかのような強烈なライトの光を煌めかせ、ジャックたちを包囲しているのは紛れもなく死刑権解放同盟のメンバーでありました。しかも、隊長級に率いられた実戦部隊などではありません。大君リヴィエラ自身が率いる本隊であったのです。
 「……リヴィエラ」
 その姿を見てジャックはうめきました。
 『警察の仕事は犯人を殺すことじゃない。市民を守ることだ』を掲げるジャックにとって『危険人物を殺し尽くすことこそ市民の安全を守る道』と断言するリヴィエラはまさに不倶戴天の敵。決して、その主張を認めることのできない相手でありました。その天敵の姿を見て身構えるのはごく自然なことでありました。
 一方の死刑権解放同盟大君リヴィエラ・デューティーはジャックなど相手にしませんでした。
 「その女性を渡してもらおう」
 リヴィエラはただそれだけを言いました。いいえ。『言った』のではありません。『命令』したのです。決定済み、変更不可、拒否権皆無の絶対命令として。それは、ジャックのことを最初から『対等の相手』とは認めていないことを意味しておりました。
 もちろん、かの人も死刑権解放同盟の大君として霧と怪奇の都警察署長を知らないはずはありません。知っていた上で、見事なまでにその存在を無視してのけたのです。
 「そうはいかねえ」
 ズイッと、ジャックはクリス嬢をかばうように腕を広げ、死刑権解放同盟の前に立ちはだかりました。
 「クリス嬢は警察が保護した。てめえらにクリス嬢を連れて行く権利はねえ」
 ジャックが言ったそのときです。
 「権利ならあるわ」
 リヴィエラとはちがう女性の声が響きました。あたかも、モーゼが渡る紅海のように人の群れが別れ、そのなかからひとりの人物が現れました。その人物を見てクリス嬢が悲鳴に近い声をあげました。
 「テオドラ先生⁉」
 そうです。その場に姿を現わしたのは紛れもなくオペラ座ノワールの主任講師テオドラであったのです。
 テオドラはキッとジャックを睨み付けました。これまでオペラ座ノワールの主任講師として何百、何千という生徒を見据え、怯えさせ、従わせてきた視線。百戦錬磨の女教師の眼力。普段のジャックであればそんな目で見られただけで苦手意識を刺激され、尻尾を丸めたブルドックのようにおとなしくなっていたことでしょう。しかし、今回は違いました。いまのジャックには守るべき市民がいるのです。市民の安全を守るためならばいくらでも勇猛になれる。
 それがジャック、暴れん坊ジャックという男なのでありました。
 ジャックは根っからの女教師の視線に臆することなく胸をそびやかし、真っ向からテオドラを見返しました。そして、尋ねるように拒否しました。
 「権利がある? どういうことだ?」
 「警察を名乗るなら調べてみるがいいわ。わたしはその娘の正式な法的な保護者でもある。そのわたしが死刑権解放同盟に保護を求めた。である以上、死刑権解放同盟にはクリスを連れて行く完全な権利があるわ」
 「ぐっ……」
 『法的』という言葉を持ち出されては警察としてはどうしようもありません。ジャックは内心の思いとは別に黙らざるを得ませんでした。そんなジャックを救うかのように口を開いたのはビリーでありました。
 「あいにくですが、テオドラ嬢。そうはいきません。クリス嬢は誘拐事件の被害者、事件解明のために事情聴取を受けてもらう必要があります」
 ――でかした!
 ビリーの毅然として、そして、論理的な発言にジャックは内心で快哉を叫びました。ですが、この程度のことでたじろぐほど死刑権解放同盟大君リヴィエラ・デューティーの信念は生温いものではありませんでした。かの人は一切の迷いなく断言したのです。
 「事件の解明など無用だ。犯人を殺せばそれで被害の発生は防げる。その娘を連れて行けば犯人は必ず現れる。そこを我々が抹殺する。それで事件は終わりだ」
 「てめえっ!」
 さすがにキレたジャックが『怒髪天を突く』という表現そのままの表情でリヴィエラを睨み付けました。口から大量の唾を吐き出しながら叫びます。
 「市民を囮に使うつもりか⁉」
 「市民の安全を守るためだ。お前たち犯罪応援団にとやかく言われる筋合いはない」
 ジャックとリヴィエラのふたりがいまにも殴り合いを始めそうなやりとりをしているその間に、テオドラはジャックを無視してクリス嬢に近づきました。さすがにオペラ座ノワールの主任講師と言うべきでしょうか。八〇過ぎとはとても思えない力強い腕がクリス嬢の腕をつかみあげました。
 「さあ、来なさい、クリス」
 「で、でも……」
 クリス嬢は抵抗するそぶりを見せましたがしょせん、主任講師に抗い切れるはずもありません。戸惑った様子を見せながらテオドラに引っ張られるままに付いていきます。
 ジャックはそんなふたりのもとに駆けよりました。テオドラの、枯れ木のように細いけれどその実、鋼鉄の芯が入っているような体に手をかけ、クリス嬢から引き離そうとします。
 「おい、よせよ! 嫌がってるだろうが」
 がっ、と、音を立ててジャックの体が吹き飛ばされました。
 「ジャック⁉」
 「ジャックさん⁉」
 ビリーとクリス嬢の悲鳴が響きました。死刑権解放同盟のひとりが手にしたライフルで思い切りジャックの顔面を殴りつけたのです。それはまさに、人間を襲おうとしている野良犬を追い払おうとする仕種そのものでした。
 「……てめえ」
 トレードマークの帽子を吹き飛ばされ、殴られた跡からは血が出ています。だからと言って怯むようなジャックではもちろん、ありません。それどころか暴れん坊ジャックの本能が目覚めたと言わんばかりに腰を落とし、拳を構え、息を整え、いつでも格闘戦に移行できるよう体制を整えました。ですが――。
 ジャックの周囲はすでにリヴィエラ率いる死刑権解放同盟の本隊によって包囲されておりました。何十というアサルトライフルが微動だにせずジャックに狙いを付けています。これでは、さすがの暴れん坊ジャックもどうすることもできません。しかも、死刑権解放同盟の包囲の絶妙なこと。一人ひとりが適度な距離を取り、一斉にライフルを発射しても決して同士討ちになることはない配置。加えて、素手の人間が襲いかかるには遠すぎ、銃弾をよけるには近すぎるという絶妙な距離。それはまさに、死刑権解放同盟の練度の高さを物語るものでありました。これが例え世界一の武道家であったとしても、もはや身動きひとつすることは敵わなかったことでしょう。
 「クッ……」
 ジャックもまた、脂汗を流して歯がみするしかありませんでした。
 「さあ、来なさい。クリス」
 テオドラが改めて言いました。八〇過ぎの老嬢とは思えない力で一〇代の歌姫を引きずっていきます。
 「ジャックさん、ジャックさん!」
 クリス嬢は必死に抵抗しましたが、すべては無駄でした。テオドラの鬼のような力に引きずられ、死刑権解放同盟の本隊が築く人の壁の向こうに連れて行かれました。
 「クッ……」
 ジャックは唇を噛みしめながら死刑権解放同盟大君リヴィエラ・デューティーを睨み付けました。
 ――負け惜しみでしかない。
 と、自らも承知の上で、リヴィエラに言わずにはいられませんでした。
 「……これがてめえらのやり方か。力ずくで人を従え、支配する。そんなやり方で本当に市民の安全を守れると思ってやがるのか?」
 「わたしの両親は強盗に殺された。前科者の強盗にな」
 「なに⁉」
 「強盗殺人の罪で服役していたところが出所後、一年としないうちにわたしの家を襲い、わたしの目の前で両親を惨殺したのだ。そして、わたしもその男にレイプされた。そのとき、わたしはまだ八歳だった。たった八歳の女の子が目の前で両親を殺され、自分自身もレイプされたのだぞ! それがお前たち犯罪応援団のやったことだ。やつが危険人物であることは分かっていた。逮捕などと言う手間をかけずにさっさと殺していれば、わたしがあんな目に遭うことはなかった。だから、わたしはやってきたのだ。自分で自分の身を守ることのできるこの都市へな」
 「………」
 「それとも、お前たちの望みは八歳の女の子が目の前で両親を殺され、自分自身もレイプされる世の中を守ることか?」
 リヴィエラのその言葉にジャックは――。
 何も言えませんでした。
 リヴィエラはきびすを返しました。何も言えずにただ立ち尽くしている刑事に蔑みの視線ただひとつを投げかけて。
 やがて、潮を引くように死刑権解放同盟の全部隊が去って行きました。
 その場にはジャックとビリーのふたりだけが残されました。
 「……ジャック」
 ビリーが気遣うようにジャックに近づきました。すると、
 「ちっくしょおおおおおっ!」
 ジャックのどうしようもない叫びが響きました。
 その日、霧と怪奇の都の警察署は暴れん坊ジャックという名の台風に見舞われ……たかと言うとそんなことはまったくなく、むしろ、不気味なほどの静けさに包まれておりました。
 その原因は何と言ってもジャック本人にありました。クリス嬢を死刑権解放同盟に連れ去られ、仕方なく警察署に帰ってきて以来、むっつりと黙り込んで署長の椅子に座り込んでいたのです。その様子を見ればどんなに剛胆な――あるいは、まったくの無神経な人間であろうとも、物音ひとつ立てる気にはなれなかったことでしょう。
 まるで、警察署そのものが音のない世界に移転してしまった。そんな重苦しく、陰鬱な空気のなか、やはり、この人物だけは少々違いました。ビリーです。空気を読まないことでは人類最強、『鋼の女』ウィルマ・ベイカーがジャックに近づき、声をかけたのです。
 「リヴィエラの言ったことを気にしているのか?」
 「………」
 「警察の仕事は犯人を殺すことじゃない。市民を守ることだ。それが君の信念だろう。あの一言で曲げてしまうほど簡単なものだったのか?」
 「分かってるよ! けどな……」
 ジャックが何かを言おうとして、それでも、何も言えず口をつぐんだそのときでした。
 「ジャック」
 「なんだ?」
 「言うのが遅れたが報告しておくべきことがある」
 「なに?」
 「わたしはまちがっていた。あのドクロ顔の怪人。あれはロボットではない」
 「何だと⁉」
 「君があの怪人と戦っている間、わたしも何も見物していたわけではない。コンピュータにハッキングし、動きを制御しようとしていた。ところが、どうにも出来なかった」
 「出来なかった? お前が?」
 『ああ、そうだ。どうしようもなかった」
 「セキュリティが万全だったってことか?」
 「そうではない。侵入できなかったとか、そう言う意味の話ではないんだ。まったく、反応しなかったんだ」
 「反応しなかった? どういう意味だ?」
 「そんなことは有り得ない。侵入出来ないと言うならともかく、反応しないなどと言うことは有り得ないんだ。相手が機械ならばな」
 「なら、どういうことだ?」
 「わからない。だが、これだけは言える。あのドクロ顔の怪人はロボットではない。コンピュータ仕掛けではないんだ」
 ビリーがそう言った直後のことでありました。メガネをかけた愛らしい少女にしか見えない顔が驚愕にこわばりました。それはまるで、怪談話が苦手な人間が実際に幽霊を見てしまったときのような表情でした。
 つられてジャックもビリーの視線を追いました。そして、その先。警察署の窓の外に信じられないものを見たのです。
 警察署の窓、その外に浮かぶドクロの面。
 そう。クリス嬢をさらった、あのドクロ顔の怪人が窓の外に立っていたのです。
 「てめえ……」
 ジャックは言葉を途中で止めました。怪人の目を見つめました。
 ――こいつは人間だ。
 ジャックはそう直感しました。こいつはロボットなんかじゃない。まちがいなく人間だ。それはまさに刑事の勘。いままで何千という人間に関わってきた捜査官ならではの経験が告げる事実でした。
 ですから、ジャックは静かに口を開きました。人間相手に語りかけたのです。
 「てめえ……何者だ?」
 怪人の口が開きました。機械仕掛けの口から機械仕掛けの声が流れ出ました。
 「僕は……」
 怪人はその一言を発しました。
 「ドリアン・グレイだ」
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