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二五章

そして、かの人は鬼となった

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 「武器を捨てて手をあげろ!」
 精密機械に埋め尽くされた部屋のなかに原始の炎をまとったかのような怒声が響きました。霧と怪奇の都警察署長ジャック・ロウこと暴れん坊ジャックが相棒のビリーと共にドアを蹴破って乗り込んできたのでした。
 「……まったく。こんな乱暴な突入の仕方をしてクリス嬢に何かあったどうするつもりなんだ?」
 「小屋のコンピュータにハッキングして内部の様子を撮影したのはお前だろ」
 「それはまあ、そうだが……」
 不満そうなビリーを尻目にジャックは室内のふたりに目を向けました。
 「武器を捨てろ! 手をあげるんだ!」
 ジャックは改めてそう怒鳴りましたがもとより、部屋のなかのふたりは武器など持っておりません。そのことを承知で、それでもあえてそう怒鳴り声を上げたのは刑事の本能と言うものでした。
 部屋のなかのふたり、テオドラことクリスチーヌとエイリーク翁はジャックの言葉をふたつとも無視しました。もとより武器を持っていないのですから最初の叫びに従えるはずがありません。そして、ふたつ目の叫びには従う気がありませんでした。
 エイリーク翁はクリスチーヌに命令されたままにロボットドクターの操作に没頭しております。目はコンソールを凝視し、額には脂汗。どれほど集中してこの作業に従事しているかが一目で分かる姿でした。その姿はまさに己の技術のすべてを懸けてひとつの作業を成し遂げようとする職人そのもの。ジャックでさえ思わず、
 ――こんな状況でなけりゃあ、無条件に尊敬してやれるんだが。
 そう思ったほどでした。
 ――残念ながら、せっかくの職人気質を使う方法を間違えたな。
 そう思い、ふと哀れみを覚えたのでした。
 そしてもうひとり、クリスチーヌはそんなエイリーク翁をかばうかのようにスッとジャックたちの前に立ちはだかりました。もちろん、実際には『かばった』のではなく、『邪魔をさせない』ためだったのですが。
 それにしても、見事な動きでありました。いつ歩いたのかもわからない、まるで氷の上を滑るようななめらかな動作。さすがに長年の鍛練を積んできた舞台女優でありました。
 「テオドラ、いや、クリスチーヌ」
 ジャックはクリスチーヌに向かい、そう呼びかけました。
 「クリス嬢誘拐及びドリアン・グレイ殺害容疑で逮捕する。おとなしくお縄に付け」
 「そう」と、クリスチーヌは静かに答えました。その瞳に燃える欲望はとても八〇代の老人のものではありませんでした。これからの人生に対する、ガツガツと飢えた野心をむき出しにした一〇代の若者のものでした。
 クリスチーヌは一〇代の渇望を目に宿したままつづけました。
 「わたしのことを知っているの。それに、ドリアン・グレイ殺しのことも知っている。誰に聞いたの?」
 「ドリアン・グレイ本人にさ」
 「そう」と、クリスチーヌは繰り返しました。
 「あの小僧はそこまで知っていたのね。エイリーク。あなたはあの小僧の生命を助けただけではなく、そんなよけいなことまで教えていたのね」
 「………」
 クリスチーヌはエイリーク翁を詰問しましたが、当のエイリーク翁は返事ひとつしようとはしませんでした。それが果たして作業に没頭しているからなのか、それとも、答えたくないからなのか、それは余人にはうかがい知ることのできないことでありました。
 「やはり、あなたはわたしを裏切っていたのね。この世でただひとり、機械よりも愛した人間であるこのわたしを」
 「………」
 「しかも、わたしを裏切りながらも結局は自分で事を構えることはできない。誰かが止めてくれることを期待して、わたしに従うことしかできない。本当の卑怯者ね」
 「気分出してるところ、悪いんだがね、クリスチーヌさんよ。『逮捕する』と言ったろうが。痴話ゲンカはあとでやってくれ。拘置所の牢屋のなかでな。まずはおとなしくお縄に付きな」
 「お断りよ」
 クリスチーヌは当然のごとくそう答えました。
 「あなたのような若造に分かるわけがない。わたしはこの瞬間のために親友を殺し、その脳を食らい、七〇年以上にわたる研鑽を積んできた。それだけのことをしてやっと、やっと、わたしの望みが叶うときがきた。その瞬間を邪魔はさせない」
 クリスチーヌの稲妻のような命令がエイリーク翁に下されました。
 「エイリーク! お前はそのまま作業をつづけなさい。このふたりはわたしが殺す」
 その宣告にジャックは眉をひそめました。
 「殺すだと?」
 「ええ。あなたたちふたりを殺せば、この件を知る者は誰もいなくなる。そうすれば、誰にも邪魔されることはない。わたしはわたしの肉体を取り戻し、史上最高の歌姫クリスとして舞台に立つことができる」
 「……とんでもねえ、ばあさんだな」
 「あなたのような若造にはわからない。そう言ったでしょう」
 「……また人を殺すのか、クリスチーヌ」
 呻くようなそのささやき声はエイリーク翁のものでした。命じられた作業に没頭しつつ唯一、愛した女性に向かい、問いかけたのでした。その問いに対するクリスチーヌの答えは微塵も揺らぎはありませんでした。
 「その通りよ」
 「君はもう人間じゃない」
 「その通りよ。わたしは人間ではない。わたしは鬼。鬼となった。テオドラを殺し、その脳を食らったとき、わたしに向かってそう言ったのはお前でしょう」
 クリスチーヌがエイリーク翁と会話を交わしている間、ジャックもまた相棒のビリーと会話を交わしておりました。
 「ジャック。あの台は精密手術用のロボットドクターだ。エイリーク翁はどうやらクリス嬢の頭蓋骨を切開手術するつもりのようだ。このままではクリス嬢の脳味噌を引きずり出されてしまうぞ」
 「チッ、狂ってやがる」
 そう吐き捨ててからジャックはビリーに尋ねました。
 「ロボットドクターとやらにハッキングして操作を乗っ取れるか?」
 「やろう」
 『やろう』というその表現に、ジャックはニヤリと笑いました。
 「さすが、頼りになる相棒だぜ。そっちは任せた。おれは、あのばあさんを……」
 逮捕する。
 ジャックがそう言おうとしたまさにその瞬間でした。スッと、音も立てずにクリスチーヌの身が動きました。
 ――なに⁉
 ジャックは思わず驚愕しました。
 クリスチーヌとジャックの間はたっぷり五メートルはあったはずです。その距離が瞬時にして消滅しておりました。そうとしか思えない速やかさでクリスチーヌは距離を詰め、ジャックの眼前に迫っていたのです。
 音も立てずにクリスチーヌの右腕が跳ね上がりました。その腕自体が一本の鞭となってジャックの顔面を襲います。
 「………!」
 ジャックはとっさにその一撃をかわしました。しかし――。
 暴れん坊ジャックともあろう者がこれほど必死で相手の一撃を避けたのはいったい、いつ以来のことだったでしょうか。
 ――じょ、冗談じゃねえ! あんなにきわどかったのはガキの頃、酔っ払いの空手家とやり合ったとき以来だぞ。
 ジャックは心に冷や汗をかきながらそう思いました。ですが、実はそれどころではなかったのです。ぬめり、と、頬に不快な感触を感じました。クリスチーヌに視線を向けたまま頬をぬぐい、その感触を確かめます。すると予想通り、手にはベッタリと血が付いておりました。
 「……マジかよ。このおれが避けきれなかった。しかも、頬を切り裂くなんざあ、あんた、指先に刃物でも仕込んでのか?」
 「あなたはきっと、大層な格闘家なんでしょうけど」
 クリスチーヌは静かに告げました。
 「舞台俳優を舐めないことね。身体コントロールに関してはこちらもプロよ」
 その言葉とともに――。
 今度はクリスチーヌの右足が跳ね上がりました。満月を描いて繰り出された蹴りがジャックの頭部に襲いかかります。ジャックは後方に跳んでその一撃をかわしました。クリスチーヌの蹴りは宙を裂き、通り過ぎました。そう思った瞬間には今度は左足が跳ね上がり、後ろ回し蹴りがジャックを狙ってきます。ジャックはさらに後方に跳んでその一撃をかわします。しかし、クリスチーヌの攻撃はとどまることを知りません。殴り、払い、蹴り、また殴る。四本の手足が嵐のように回転し、ジャックに襲いかかります。ジャックはたちまち壁際に追い込まれておりました。
 ――う、うそだろ! このおれが防戦一方って……いままでどんなに強え格闘家や武術家とやり合ったって、こんなことはなかったぞ!
 いくら強えったって八〇過ぎのばあさん、しかも、格闘技は素人のはずなのに……。
 ……格闘技の素人。
 その言葉が思い浮かんだとき、ジャックは気が付きました。自分が防戦一方に追い込まれているその理由に。
 ――そうか。『素人なのに』じゃねえ。『素人だから』だ。本人が言っているとおり、このばあさんは俳優だ。格闘家じゃねえ。その動きはあくまでもダンス、舞であり、格闘技や武術じゃねえ。そして、おれは舞には素人。だからこそ、舞い手であるばあさんの動きは予測出来ねえし、予測出来ねえから反応しきれねえ。防戦一方に追い込まれるわけだ。しかし、ってこたあ……。
 ニヤリ、と、ジャックは笑いました。
 「マジでたまげたぜ、ばあさん。八〇過ぎてそんな動きができるなんざあ、思わず自分の老後に安心しちまうぜ。だがな。今度はこっちの番だぜ」
 ジャックは突進しました。相手がどんな攻撃をしてこようが頑健な自らの肉体で受けとめ、一気に攻勢に出る。そのための動きでした。日本刀や銃をもっていると言うのならいざ知らず、素手による一撃で自分の戦闘能力を奪うなど、世界中のどんな人間にも出来はしない。最初の一撃にさえ耐えて懐に潜り込めば、そこからは自分が攻撃出来る。
 その計算あっての動きでした。
 そして、実際にその通りとなりました。クリスチーヌの一撃がまともにヒットしましたが、その一撃はジャックの頑健な肉体に跳ね返され、まともな痛手を与えることはできませんでした。逆に、攻撃を仕掛けたことが隙となり、ジャックの接近と反撃を許す羽目になったのです。
 「オラオラオラァッ!」
 叫びとともにジャックの両拳が嵐となって打ち込まれます。ジャックは決して『老人を敬う』という一般的な美徳と無縁の人間と言うわけではありません。普段であれば、お年寄りが階段を上れずに困っていれば迷うことなく手を差しのべ、背負って階段を渡してあげる。その程度のことはする人間です。ですが、それはあくまで相手が『罪なき市民』であった場合。犯罪者であることが明白である以上、女性だろうが、年寄りだろうが、容赦すると言うことはありません。それこそが、生まれついての猟犬というものでした。
 ジャックの攻撃はすさまじいものでありました。プロボクシングの世界ランカーでさえ、こうまで速く、力強い連打を立てつづけに行うことは不可能だったでしょう。その攻撃をことごとくかわしてのけたクリスチーヌもまた、通常の人間ではありませんでした。しかし――。
 かわしただけ。反撃に転ずることが出来たわけではなく、今度はクリスチーヌが追い込まれておりました。へへっ、と、ジャックは笑ってみせます。
 「どうだい、ばあさん。たしかにおれにはあんたの舞いの動きは見切れねえ。だが、舞い手であるあんたにも、このおれの格闘技の動きは見切れねえだろう。条件は同じだぜ」
 「……舐めないことね。私はあなたが生まれて、生きてきた時間の三倍、鍛練を積んできたのよ」
 「へへっ。そいつはおもしれえ。試してみようじゃねえか」
 ジャックは構えをとりました。腰を落とし、深い呼吸を繰り返し、炭田に気を集中します。肚の底から熱い塊が背筋にそって立ちのぼり、全身の細胞をかっかと燃えあがらせます。
 「Rock'n'roll!」
 叫びと共にジャックは突進します。その身に向かってクリスチーヌの四本の手足が水銀の鞭と化して襲いかかります。四本の手足がジャックの腕を、足を、胴を、次々と打ち抜きます。ジャックの強靱な肉体はその苛烈な攻撃のことごとくを受けとめました。頭部だけはガードしながら、攻撃を受けてもうけても近づきます。
 ジャックの目的はシンプルでした。殴られても、蹴られても、我慢して近づく。近づいてとっ捕まえる。ただ、それだけ。なんともジャックらしい馬鹿、いえ、愚鈍、いえ、勇猛すぎる作戦でした。
 ――殴られても、蹴られても倒れねえ。そのタフさが格闘家の売りなんたぜ、ばあさん!
 ジャックのその作戦は確かに正しかったのです。何十回となく水銀の鞭で打たれ、全身に重いしびれを感じながらもついにジャックはクリスチーヌの身を射程内に捉えました。腕を伸ばし、老嬢の細い、そのくせ、異様な力を秘めた腕をつかみあげました。
 「終わりだ!」
 ジャックは叫びました。
 一度、捕まえてしまえばシンプルな筋力と重量がものを言います。そのどちらもクリスチーヌはジャックに遠く及びません。力ずくで引きずり倒され、組み伏せられ、あっという間に肘関節を極められておりました。何とか離れようもがくクリスチーヌに向かい、ジャックは言いました。
 「無駄だぜ、ばあさん。関節技ってのは一度、決まったら絶対に外せねえんだ。あんたはたしかに強い。異常なぐらいな。けど、こうなっちまったらせっかくの動きも無意味だ。おとなしく……」
 捕まるこった。
 ジャックがそう言おうとした刹那でした。ジャックの腕のなかで枯れ枝の折れるような音が響きました。
 ――なに⁉
 ジャックは驚愕のあまり力が抜けました。クリスチーヌはその隙を見逃しませんでした。全身が骨のないヘビになったかのようにスルリと動き、ジャックの腕のなかから逃れておりました。立ちあがったときにはその腕はだらりと垂れ下がっておりました。
 「あ、あんた……」
 さすがのジャックが息を呑んでその姿を見つめました。クリスチーヌはあろうことか、ジャックの戒めから逃れるために自ら肘ををへし折ったのです。
 「……そこまでするか、普通?」
 「普通の人間がこんな真似をするとでも?」
 クリスチーヌの言葉はまったくもって納得できるものでありました。
 「言ったでしょう。わたしは七〇年以上に渡ってこの瞬間のために鍛練を重ねてきた。その邪魔はさせない。どうあってもわたしを止めたいなら、わたしを殺すしかない。あなたに殺せる? 丸腰の年寄りを。お優しい犯罪応援団に?」
 「ぐっ……」
 言われてジャックは明らかにたじろぎました。警察の仕事は犯人を殺すことじゃない。逮捕することだ。その信念を持つジャックです。武装した凶悪犯ですら殺すことは職務に反すると思っているのに、丸腰の老いた女性を殺すなど、かの人にできるはずもありませんでした。その弱みをクリスチーヌは正確に見抜いておりました。嘲るように事実を指摘します。
 「つくづく警察というものは無力ね。人命第一を掲げるばかりに人ひとり助けることもできない。これが死刑権解放同盟ならためらわずにわたしを撃ち殺し、クリスを助けるでしょうに。それができないあなたはわたしを止めることは出来ない。私の手で殺されるのよ」
 またしても――。
 音もなくクリスチーヌの体が動き、ジャックに迫ります。そのときです。
 「やったぞ、ジャック!」
 歓喜に満ちたビリーの叫びが響きました。
 「ロボットドクターの制御を奪い取った! しかし……これは……」
 携帯端末の画面を見つめるビリーの顔に驚愕が広がりました。
 「ジャック、大変だ! クリス嬢は……!」
 「キャアアアアッ!」
 悲鳴が響きました。
 クリス嬢の悲鳴でした。ビリーの操作によってロボットドクターの戒めを解かれ、意識を取り戻したのです。そのクリス嬢は反射鏡に映る自分の姿を見て悲鳴をあげたのです。
 すでに七割方切り開かれた頭蓋骨。そこからのぞく器官。それは紛れもなく機械でありました。クリス嬢の頭蓋骨のなか、それに収められていたのは人間の脳ではなく、紛れもなく機械であったのです。
 けたたましい音が鳴り響きました。
 地下室の壁を崩し、ひとつの物体が飛び込んできたのです。
 ドクロ顔の怪人。
 ドリアン・グレイ。
 目の前を流れる光景はまるでスローモーションのようでした。地下室の壁が崩れ、そこからドクロ顔の怪人が飛び出してくる。怪人はまっすぐにクリスチーヌのもとに向かい、肘の折れた両腕で老嬢の華奢な体をつかみあげる。そのまま飛び出してきた穴に戻っていく。
 その一連の動作がまるで、時の流れそのものが遅くなったかのようにゆっくりと流れて見えたのです。しかし、実際にはそれは極めて迅速に行われた行為でした。その証拠に老いてなお、あれほどの身体能力を誇っていたクリスチーヌがよけることはおろか、声ひとつあげることができない、暴れん坊ジャックにして反応することすらできない、そんな一瞬の出来事だったのですから。
 怪人とクリスチーヌ。
 そのふたりの姿が崩れた壁の向こうに消えたとき、ジャックはようやく我に返りました。
 「ビリー、ここは頼む!」
 事件の鍵を握る存在であるエイリーク翁、自分の頭蓋骨のなかに機械の脳が置かれていることを知ってショックを受けているクリス嬢。もちろん、このふたりをこの場に置いていくことには大きなためらいがありました。ですが、ジャックと言えど分身はできません。どちらか一方を選ばなければならないところでした。そして、ジャックは怪人とクリスチーヌを追う方を選びました。それは理性と言うより刑事としての本能の決断でした。
 ――あの野郎、クリス嬢を守るためにクリスチーヌを道連れにする気だな!
 そう直感したのです。
 いえ、それは刑事としての本能と言うより、男としての本能、と言うべきだったのかも知れません。ともあれ、ジャックはその場をビリーに任せ、ふたりを追いました。
 壁を崩されて一続きになった隣の部屋から階段を駆け上がり、外に出ます。地下水路の張り巡らされた広大な地下世界へと。
 そのときにジャックの聞いた音。それはこの世のものとも思えないほどの口惜しさの声。自分の望みが絶たれることへの無念の思いを凝縮させた声。いったい、どうしたら人間にここまでの無念さを現わすことが出来るのか。そう思わせるほどの声でありました。
 ――クリスチーヌ。
 ジャックは心にその名前を呟きました。それがクリスチーヌの声であることは疑いの余地はありませんでした。
 それを聞いたとき、ジャックは思わずクリスチーヌに同情し、その名を呟いたのです。
 クリスチーヌに同情する謂れなどまったくないジャック。そのジャックをして思わず同情させてしまう。クリスチーヌの叫びはそれほどまでに激しく、深いものであったのです。
 そして、クリスチーヌの叫びにつづいて聞こえた音。それは重い物体が勢いよく水に飛び込む音でした。
 ――やっぱりか!
 ジャックは自分の直感が正しかったことを知りました。水に飛び込んでしまえば生身の体のクリスチーヌは息ができず、機械の体のドリアン・グレイは二度と浮かぶことはできません。ドリアン・グレイは自分の機械の体を錘に、クリスチーヌをおぼれ死にさせようと言うのです。
 ――あの馬鹿野郎! 機械の体で水に飛び込んだりしたら自分だってタダじゃすまねえだろうに。
 それを承知であえてクリスチーヌと共に水に飛び込む……。
 ――そうまでしてクリス嬢を守りたいのか、ドリアン・グレイ。
 ジャックは同じ男として、かの人の思いを痛切に感じ取りました。
 ジャックは目の前に広がる水路を見渡しました。激しくかき乱されてはずの水面はしかし、すでに静けさを取り戻しており、ドリアン・グレイとクリスチーヌがどこに飛び込んだのは科はわかりませんでした。だからと言ってジャックは迷って時を無駄にするようなことはしませんでした。どこに跳びこんだかわからないのならすべてを探せばいい。どうせ、水路はひとつにつながっているのだから、どこにでも跳び込んで泳いで探せばいい!
 それが、生まれついての単純馬鹿、いえ、天然、いえ、行動力過多のジャック・ロウという人間でありました。
 ジャックはスーツの上着とトレードマークの帽子を脱ぎ捨てると、そのまま音高く水のなかに跳び込みました。
 ……どれだけの時間がたったことでしょう。ジャックがやっとの思いで絡み合ったまま、水路の底に沈んでいるふたりの体を見つけ、ビリーに連絡してウインチで引き上げたときにはもう、クリスチーヌは事切れておりました。いくら人並み外れた鍛え抜かれた肉体を誇っていようともしょせんは生身の人間。水のなかで生きていられるようには出来ていないのです。そして、もうひとり、ドクロ顔の怪人ことドリアン・グレイも……。
 「……駄目だ。さしものエイリーク翁も防水加工にまで気を使ってはいなかったらしい。水のなかで使うことを考えて作ったロボットではないから当たり前だが。脳内に血を循環させるポンプがショートして機能停止してしまっている。おかげで脳が酸欠になってしまった。もう手遅れだ。完全に死んでいる。蘇生処置をしても無駄だ」
 ビリーに言われてジャックは忌々しさを込めて舌打ちするのと、首を左右に振るのを同時にやってのけました。
 「チッ。なんてこったい。このジャックさまの目の前でみすみすふたりも死なせちまったなんてな」
 「いや……」
 ジャックの言葉にビリーは言い淀みながら答えました。
 「……ふたりではない。三人だ」
 「なに⁉」
 「来てくれ」
 ビリーは先に立って歩きだしました。件の作業小屋に入るとそこにはいまだ自失したままのクリス嬢ともうひとり、眠ったように息絶えているエイリーク翁の死体がありました。
 「これは……」
 「すまない。わたしのミスだ。エイリーク翁は歯のなかに毒の入ったカプセルを仕込んでいたんだ。それを噛んで服毒自殺した。あまりにも静かだったので気付けなかった。わたしが気付いたときにはもう完全に死亡していて手の施しようがなかった。毒を飲んだ直後に気付いていれば何とか蘇生処置もできたと思うが……本当にすまない」
 「……いや。お前ひとりにこのふたりを押しつけて外に出たおれの責任だ。お前はよくやってくれたさ」
 ジャックは死者を悼むためにエイリーク翁の遺体に近づきました。そして、気がついたのです。エイリーク翁の胸ポケット。そのなかに分厚い紙の束が収められていることに。
 ジャックはその紙の束を取り出しました。
 「この書を読むものへ」
 そう記されたそれはエイリーク翁の手による長いながい手紙でした。
 そして、この手紙によって今回の事件の真相が明かされたのです。七〇年以上前からはじまる因縁の物語が。
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