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二六章
そして、伝説へ……
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この書を読むすべてのものへ。
これは自分、エイリークとふたりの歌姫、クリスチーヌとテオドラ、三人の物語である。
すべては七〇年以上前のあの頃にさかのぼる。あの頃、我々は若かった。若くて希望に燃えていた。自分、エイリークは舞台細工の職人として、クリスチーヌとテオドラは歌姫として、それぞれに世界の頂点を極めようと野心に燃えていた。我々は互いに刺激しあい、互いの夢を語りあいながら実現に向けて励んでいた。
とくに、クリスチーヌとテオドラのふたりは目指すものが同じであり、唯一無二のライバルであったことから急速に親密さを増していった。クリスチーヌの神がかった歌唱力に対抗しうるものはテオドラしかいなかったし、テオドラの幻想すら抱かせる表現力に拮抗しうるものはクリスチーヌしかいなかった。ふたりは互いに切磋琢磨しながら世界一の歌姫を目指していた。ふたりはそのなかで関係を深め、強い友情の絆を結び、さらにはそれを超えて恋人にまでなっていった。
自分、エイリークはそんなふたりの関係を見守りながら自分の夢、世界一の舞台細工師を目指していた。我々の努力は報われつつあった。自分は舞台細工師として、クリスチーヌとテオドラは歌姫として、それぞれに腕を上げ、重要な役を任されることも多くなった。とくにクリスチーヌは並み居る先輩たちを押しのけ、主役の座を射止めるまでになっていた。
だが、その頃からクリスチーヌの様子がおかしくなってきた。いつもふさぎ込みがちになり、考え事をしている様子だった。見かねた自分とテオドラはクリスチーヌに尋ねた。いったい、何をそんなに気にしているのかと。クリスチーヌは答えた。
「理不尽だと感じるのよ」
「理不尽?」
「そう。理不尽。あたしはいままで何人もの先輩たちを押しのけ、主役を演じてきた。皆、あたしより年上で、あたしより長い間、修行してきた人たち。その人たちが若いあたしに押しのけられてしまう。やがてはあたしも歳をとり、自分の半分も修行していない若い人間に主役の座を奪われる。それが理不尽でなくてなんだと言うの? 芸は鍛錬を積むことでしか上達しない。時をかければかけるほど熟成され、見る人を感動させる芸術の高みに至る。でも――長い時間をかけて鍛錬すればするほど肉体は歳をとり、衰え、若さという最大の魅力を失っていく。人生のすべてを鍛錬に注ぎ込み、どんなに芸を熟成させたところで、その頃にはその芸を披露するにふさわしい若い肉体は失われている。だったら、鍛錬することに何の意味があるの? どうして、若さを保ったまま鍛練を積みつづけることができないの? それさえできれば史上最高の歌姫になれるのに……」
クリスチーヌは当時一六歳。わずか一六歳の少女がすでに自分の老い予感し、そのことに怯えている。その現実に自分は何も言えなかった。そんなクリスチーヌにテオドラは言った。
「あなたが歳をとればわたしも歳をとる。若さを失い、主役を張ることが出来なくなっても、歳相応の役をこなすことで見る人を感動させることができるならそれでいいじゃない」
しかし、テオドラのその言葉はクリスチーヌの心には届かなかった。クリスチーヌはますます悩み、ふさぎ込むようになり、せっかくの評価も落ちる一方だった。
自分とテオドラはそんなクリスチーヌをひどく心配していた。そしてある日、クリスチーヌはとうとうひとつの線を越えてしまう。
テオドラを殺し、その脳を食ったのだ。
その光景を目撃した自分は愕然とした。クリスチーヌに尋ねた。
「なぜだ⁉ なぜ、テオドラを殺した⁉ 君とテオドラは親友であり、ライバルであり……恋人だったんじゃないか!」
「だからこそ、よ」
クリスチーヌはそう答えた。
「あたしにはテオドラの肉体が必要なの。長いながい鍛錬をこなし、歌姫としての技量を完成させることのできる素質を持った肉体がね。あたしはテオドラの脳を食べることでこの身にテオドラを取り込んだ。あたしはテオドラと共に新しいテオドラとなるのよ」
「クリスチーヌ……」
「さあ、エイリーク。あたしの脳をテオドラの肉体に移植して」
「何だって⁉」
「あなたなら簡単でしょう。そして、あたし、いえ、わたしの体、このクリスチーヌの肉体を保存して。この若さのままに。そしてわたしは歌姫としての技量を完成させたとき、若いままの肉体に戻り、史上最高の歌姫となるのよ」
――そこまで思い込んでいたのか。
芸の道にはまり込んだものの業と言うものだろうか。クリスチーヌの思いに自分は恐れおののいた。
こんなことは間違っている。
それは分かっていた。分かっていながら自分はクリスチーヌに従った。なぜなら、クリスチーヌを愛していたからだ。幼少の頃より人間になじめず、人間よりも機械を相手してきた自分。その自分がただひとり、機械よりも愛した人間。それがクリスチーヌ。クリスチーヌの思いは何よりも芸の道にあり、テオドラという恋人もいた。自分がどんなに思おうとその思いが叶うことはない。
それもまた分かっていた。
分かっていたが自分はクリスチーヌと共にいられるだけで満足していた。だから、言われるがままに従ったのだ。クリスチーヌと共にありつづけるために。
――自分がこの手術を行えば完全な共犯関係となる。共犯となればクリスチーヌは秘密を守るためにも自分と共に生きていかなければならない。自分から離れることは出来なくなる。
何と、身勝手でおぞましい理屈だろう。しかし、そのときの自分は間違いなくそう思い、その思いに従ったのだ。
そして、自分はクリスチーヌの脳をテオドラの肉体に移植し、クリスチーヌの肉体には制御用の機械脳を取り付け、人工冬眠させた。こうしてクリスチーヌの肉体は時から切り離された。いつか、クリスチーヌ――テオドラとなったクリスチーヌが自分が歌姫として完成されたことを知り、その肉体に戻ろうとするそのときまで。
これがクリスチーヌ失踪の真相。
クリスチーヌがテオドラを殺し、その脳を食らうに至ったいきさつについては正直なところ、自分にもわからない。ただ、テオドラは自ら望んで犠牲になったのではないかと思っている。テオドラは本当にクリスチーヌを愛していたからだ。そして、かの人もまた根っからの歌姫だったから。
ギリギリのところではかの人もまた、鍛練を重ねることで技量が満ちていくのに反比例して若さを失い、魅力をなくしていくことを怖れ、クリスチーヌとひとつになり、完成された技量と一〇代の若さを併せ持つ史上最高の歌姫となる道を選んだのではないか。
自分にはそう思えるのだ。
そして、七〇年以上の時がたった。その間、自分は舞台細工の演出家として働きつづけた。テオドラとなったクリスチーヌはオペラ座ノワールの主任講師として後進の指導に当たる一方、鍛練を重ね、歌姫としての技量を深めていった。そして、一年前。クリスチーヌはついに言った。
「わたしの肉体を蘇らせて」と。
そう。クリスチーヌは自分の技量が円熟の極みに達し、歌姫として完成されたのを感じたのだ。
自分はクリスチーヌに言われるままにかの人の肉体を蘇生させる準備に入った。だが、問題がひとつ。テオドラの肉体をもったクリスチーヌがどんなに優れた技量をものにしていようとも、七〇年以上もの間、凍結保存されていたクリスチーヌの肉体にはその技量を発揮する準備が出来ていない。若いままのクリスチーヌの肉体で、完成された技量を発揮するためには一から鍛え直さなくてはならない。そこで、我々は一計を案じた。保存用の機械脳に架空の人格を与え、『クリス』というひとりの人間として蘇らせたのだ。
このクリスの人格としては自分の知るクリスチーヌ、自分とテオドラの三人で共に夢を語り、切磋琢磨していた頃のかの人の人格を移し込んだ。そして、クリスチーヌはクリスを、失踪したクリスチーヌのひ孫としてオペラ座ノワールに連れ込み、手ずから鍛え上げたのだ。
クリスの技量が一定に達すると、クリスチーヌは準備段階として機械脳に自分の意識をダウンロードし、操るようになった。クリスの言動がときとして別人に見えていたのはそういうわけなのだ。そして、時が満ちればクリスチーヌは自らの肉体に戻り、いよいよ史上最高の歌姫となる。そのはずだった……が、ここでどうしてもあるひとりの人物について話ておかなければならない。
ドリアン・グレイ。
そう通称されるひとりの青年のことを。
クリスとドリアン・グレイはオペラ座ノワールの訓練所で偶然、出会い、急速に親密さを増していった。クリスにとってドリアン・グレイの存在はときとして歌以上に重要なものとなっていたようだ。それを見たクリスチーヌは危惧に刈られた。
このままではドリアン・グレイとの愛を選び、歌姫としての鍛錬をおろそかにするのではないか。そして――。
クリスチーヌはドリアン・グレイを殺した。
「なぜ殺した⁉ 何も知らない若者まで!」
そうなじる自分に向かい、クリスチーヌは当たり前のように答えた。
「わたしは史上最高の歌姫となる。それだけよ」
ああ、クリスチーヌはもう決して引き返せない場所まで来ているのだ。
自分はそう悟った。
いや、とっくに悟っていたはずだ。クリスチーヌがテオドラを殺し、その脳を食ったとき、その時点でもはや引き返すことなど出来ようはずもないことを知っていた。知っていて目を閉ざし、クリスチーヌに協力してきたのだ。
このときも本来であればクリスチーヌの犯罪を暴露し、ドリアン・グレイを弔うべきだった。だが、自分にはそうするだけの覚悟はなかった。結局、自分にできたことはドリアン・グレイの脳をこっそり抜きだし、自分の作ったロボット体に移植して生かすことだけだった。
――脳さえ生きていればクローン技術を使い、生身の肉体に戻ることもできる。
そう思って。
自分はロボット体となったドリアン・グレイにすべてを話し、謝罪した。むろん、ドリアン・グレイにとって自分の謝罪など何の意味もないことだった。ドリアン・グレイにとって大切なのはただひとつ。
クリスを守る。
それだけだった。
そう。ドリアン・グレイはクリスを愛していた。クリスが機械脳をもつ架空の人格であることを知った上でなお、かの人を愛し、かの人のためにクリスチーヌと対決し、かの人を守ることを誓ったのだ。
そして、運命のいたずらか、それとも、ドリアン・グレイの一途な思いが運命をかえたのか。クリスはひとりの刑事と出会った。
霧と怪奇の都警察署長ジャック・ロウ。
かの人の介入によってクリスチーヌの計画はかわりはじめた。クリスチーヌは焦っている。予定よりも早くクリスの肉体を取り戻そうとしている。そして、ドリアン・グレイは何としてもそれを阻止しようとしている。
この物語の結末がどうなるのか、それは自分にはわからない。
ただ、この書を読むものがいると言うことは、そのときにはすでに自分は死んでいるはずだ。そして、クリスチーヌも。
なぜなら、自分がクリスチーヌを残して先に死ぬことは有り得ないからだ。
クリスとドリアン・グレイはどうなるのだろう?
機械の脳と人の体をもつ女と、人の脳と機械の体をもつ男。
願わくばこのふたりには生き延びて幸せになって欲しいと思う。それが、クリスチーヌの罪業を知りながら止めることもできず、ズルズルと協力を重ねた卑劣で弱虫な自分にできる最後の願い。そして、自分の死によって我々三人の物語は終わりを告げるのだ。
永遠に。
△ ▽
……これにて、霧と怪奇の都を彩る伝説のひとつ、『機械仕掛けの歌姫』の物語はお終いでございます。ご静聴、ありがとうございました。
霧と怪奇の都の案内人は私にそう告げた。
おいおい、ちょっと待ってくれ。
頭を下げる案内人を前にそう言わずにはいられなかった。
それじゃまったくの尻切れトンボじゃないか。肝心のクリス嬢はいったい、どうなったんだ?
きれいな八重歯が特徴的な案内人はニッコリと微笑んだ。
『この伝説を聞いた誰もがそうお尋ねになります』
そう言わんばかりの表情だった。
「その点に関してはこのような伝説が残されております。すべてを知ったクリス嬢は、自らを気遣うジャックとビリーのふたりに対し、こう宣言したとのこと。
『あたしはたしかに機械の脳に架空の人格をインストールされた存在。でも、まちがいなく、ひとりの人間から命がけで愛されたのです。それが、単なるロボットだなどと言うことがあるでしょうか。いいえ、あたしは人間です。機械の脳をもつ人間なのです』」
……機械の脳をもつ人間。
私はその一言に感銘を受けた。そう言い切れるようになるまでいったい、どれだけの葛藤があったことだろう。そのことを詳しく聞きたいとも思ったが……やめておくことにした。その点に関しては自分で様々なドラマを空想してみたい。
――それで、クリス嬢はそのあと、どうなったのかな?
「クリス嬢はそのまま歌姫をつづけましたわ。老いることのない機械の脳を生かして修練を重ね、ついには『史上最高の歌姫』と呼ばれるまでになったのです。そして、かの人の演じる『人魚姫』は世界中の少女たちに夢と希望を与えたと言われております」
――史上最高の歌姫。クリスチーヌが望んでやまなかった存在だな。
「はい。クリスチーヌの望みはこのような形で叶ったと申せましょう」
――そうか。それではクリス嬢はいまも健在なのかな?
「それはわかりません。クリス嬢が表舞台から姿を消してもうずいぶんになります。ただ……」
――ただ?
「一説には時の制限がある肉体を離れ、いかなる制限ももたないネット世界に居場所を移し、『永遠の歌姫』になったとも言われております。いまでもネット世界を漂流しているとふいに、どこからともなく、その歌声が響いてくると言われております」
――永遠の歌姫。
「ふふ、伝説です。すべては霧の彼方の伝説ですわ」
……そろそろ、この都を離れるときがきた。
私は案内人に礼を言った。案内人は優美に一礼すると、特徴的な八重歯を覗かせながら私に言った。
「ぜひ、またお越しくださいませ。このわたくし、ルーシー・ウェステンラ・ドラキュラ女伯爵が心を込めておもてなしさせていただきます」
終
これは自分、エイリークとふたりの歌姫、クリスチーヌとテオドラ、三人の物語である。
すべては七〇年以上前のあの頃にさかのぼる。あの頃、我々は若かった。若くて希望に燃えていた。自分、エイリークは舞台細工の職人として、クリスチーヌとテオドラは歌姫として、それぞれに世界の頂点を極めようと野心に燃えていた。我々は互いに刺激しあい、互いの夢を語りあいながら実現に向けて励んでいた。
とくに、クリスチーヌとテオドラのふたりは目指すものが同じであり、唯一無二のライバルであったことから急速に親密さを増していった。クリスチーヌの神がかった歌唱力に対抗しうるものはテオドラしかいなかったし、テオドラの幻想すら抱かせる表現力に拮抗しうるものはクリスチーヌしかいなかった。ふたりは互いに切磋琢磨しながら世界一の歌姫を目指していた。ふたりはそのなかで関係を深め、強い友情の絆を結び、さらにはそれを超えて恋人にまでなっていった。
自分、エイリークはそんなふたりの関係を見守りながら自分の夢、世界一の舞台細工師を目指していた。我々の努力は報われつつあった。自分は舞台細工師として、クリスチーヌとテオドラは歌姫として、それぞれに腕を上げ、重要な役を任されることも多くなった。とくにクリスチーヌは並み居る先輩たちを押しのけ、主役の座を射止めるまでになっていた。
だが、その頃からクリスチーヌの様子がおかしくなってきた。いつもふさぎ込みがちになり、考え事をしている様子だった。見かねた自分とテオドラはクリスチーヌに尋ねた。いったい、何をそんなに気にしているのかと。クリスチーヌは答えた。
「理不尽だと感じるのよ」
「理不尽?」
「そう。理不尽。あたしはいままで何人もの先輩たちを押しのけ、主役を演じてきた。皆、あたしより年上で、あたしより長い間、修行してきた人たち。その人たちが若いあたしに押しのけられてしまう。やがてはあたしも歳をとり、自分の半分も修行していない若い人間に主役の座を奪われる。それが理不尽でなくてなんだと言うの? 芸は鍛錬を積むことでしか上達しない。時をかければかけるほど熟成され、見る人を感動させる芸術の高みに至る。でも――長い時間をかけて鍛錬すればするほど肉体は歳をとり、衰え、若さという最大の魅力を失っていく。人生のすべてを鍛錬に注ぎ込み、どんなに芸を熟成させたところで、その頃にはその芸を披露するにふさわしい若い肉体は失われている。だったら、鍛錬することに何の意味があるの? どうして、若さを保ったまま鍛練を積みつづけることができないの? それさえできれば史上最高の歌姫になれるのに……」
クリスチーヌは当時一六歳。わずか一六歳の少女がすでに自分の老い予感し、そのことに怯えている。その現実に自分は何も言えなかった。そんなクリスチーヌにテオドラは言った。
「あなたが歳をとればわたしも歳をとる。若さを失い、主役を張ることが出来なくなっても、歳相応の役をこなすことで見る人を感動させることができるならそれでいいじゃない」
しかし、テオドラのその言葉はクリスチーヌの心には届かなかった。クリスチーヌはますます悩み、ふさぎ込むようになり、せっかくの評価も落ちる一方だった。
自分とテオドラはそんなクリスチーヌをひどく心配していた。そしてある日、クリスチーヌはとうとうひとつの線を越えてしまう。
テオドラを殺し、その脳を食ったのだ。
その光景を目撃した自分は愕然とした。クリスチーヌに尋ねた。
「なぜだ⁉ なぜ、テオドラを殺した⁉ 君とテオドラは親友であり、ライバルであり……恋人だったんじゃないか!」
「だからこそ、よ」
クリスチーヌはそう答えた。
「あたしにはテオドラの肉体が必要なの。長いながい鍛錬をこなし、歌姫としての技量を完成させることのできる素質を持った肉体がね。あたしはテオドラの脳を食べることでこの身にテオドラを取り込んだ。あたしはテオドラと共に新しいテオドラとなるのよ」
「クリスチーヌ……」
「さあ、エイリーク。あたしの脳をテオドラの肉体に移植して」
「何だって⁉」
「あなたなら簡単でしょう。そして、あたし、いえ、わたしの体、このクリスチーヌの肉体を保存して。この若さのままに。そしてわたしは歌姫としての技量を完成させたとき、若いままの肉体に戻り、史上最高の歌姫となるのよ」
――そこまで思い込んでいたのか。
芸の道にはまり込んだものの業と言うものだろうか。クリスチーヌの思いに自分は恐れおののいた。
こんなことは間違っている。
それは分かっていた。分かっていながら自分はクリスチーヌに従った。なぜなら、クリスチーヌを愛していたからだ。幼少の頃より人間になじめず、人間よりも機械を相手してきた自分。その自分がただひとり、機械よりも愛した人間。それがクリスチーヌ。クリスチーヌの思いは何よりも芸の道にあり、テオドラという恋人もいた。自分がどんなに思おうとその思いが叶うことはない。
それもまた分かっていた。
分かっていたが自分はクリスチーヌと共にいられるだけで満足していた。だから、言われるがままに従ったのだ。クリスチーヌと共にありつづけるために。
――自分がこの手術を行えば完全な共犯関係となる。共犯となればクリスチーヌは秘密を守るためにも自分と共に生きていかなければならない。自分から離れることは出来なくなる。
何と、身勝手でおぞましい理屈だろう。しかし、そのときの自分は間違いなくそう思い、その思いに従ったのだ。
そして、自分はクリスチーヌの脳をテオドラの肉体に移植し、クリスチーヌの肉体には制御用の機械脳を取り付け、人工冬眠させた。こうしてクリスチーヌの肉体は時から切り離された。いつか、クリスチーヌ――テオドラとなったクリスチーヌが自分が歌姫として完成されたことを知り、その肉体に戻ろうとするそのときまで。
これがクリスチーヌ失踪の真相。
クリスチーヌがテオドラを殺し、その脳を食らうに至ったいきさつについては正直なところ、自分にもわからない。ただ、テオドラは自ら望んで犠牲になったのではないかと思っている。テオドラは本当にクリスチーヌを愛していたからだ。そして、かの人もまた根っからの歌姫だったから。
ギリギリのところではかの人もまた、鍛練を重ねることで技量が満ちていくのに反比例して若さを失い、魅力をなくしていくことを怖れ、クリスチーヌとひとつになり、完成された技量と一〇代の若さを併せ持つ史上最高の歌姫となる道を選んだのではないか。
自分にはそう思えるのだ。
そして、七〇年以上の時がたった。その間、自分は舞台細工の演出家として働きつづけた。テオドラとなったクリスチーヌはオペラ座ノワールの主任講師として後進の指導に当たる一方、鍛練を重ね、歌姫としての技量を深めていった。そして、一年前。クリスチーヌはついに言った。
「わたしの肉体を蘇らせて」と。
そう。クリスチーヌは自分の技量が円熟の極みに達し、歌姫として完成されたのを感じたのだ。
自分はクリスチーヌに言われるままにかの人の肉体を蘇生させる準備に入った。だが、問題がひとつ。テオドラの肉体をもったクリスチーヌがどんなに優れた技量をものにしていようとも、七〇年以上もの間、凍結保存されていたクリスチーヌの肉体にはその技量を発揮する準備が出来ていない。若いままのクリスチーヌの肉体で、完成された技量を発揮するためには一から鍛え直さなくてはならない。そこで、我々は一計を案じた。保存用の機械脳に架空の人格を与え、『クリス』というひとりの人間として蘇らせたのだ。
このクリスの人格としては自分の知るクリスチーヌ、自分とテオドラの三人で共に夢を語り、切磋琢磨していた頃のかの人の人格を移し込んだ。そして、クリスチーヌはクリスを、失踪したクリスチーヌのひ孫としてオペラ座ノワールに連れ込み、手ずから鍛え上げたのだ。
クリスの技量が一定に達すると、クリスチーヌは準備段階として機械脳に自分の意識をダウンロードし、操るようになった。クリスの言動がときとして別人に見えていたのはそういうわけなのだ。そして、時が満ちればクリスチーヌは自らの肉体に戻り、いよいよ史上最高の歌姫となる。そのはずだった……が、ここでどうしてもあるひとりの人物について話ておかなければならない。
ドリアン・グレイ。
そう通称されるひとりの青年のことを。
クリスとドリアン・グレイはオペラ座ノワールの訓練所で偶然、出会い、急速に親密さを増していった。クリスにとってドリアン・グレイの存在はときとして歌以上に重要なものとなっていたようだ。それを見たクリスチーヌは危惧に刈られた。
このままではドリアン・グレイとの愛を選び、歌姫としての鍛錬をおろそかにするのではないか。そして――。
クリスチーヌはドリアン・グレイを殺した。
「なぜ殺した⁉ 何も知らない若者まで!」
そうなじる自分に向かい、クリスチーヌは当たり前のように答えた。
「わたしは史上最高の歌姫となる。それだけよ」
ああ、クリスチーヌはもう決して引き返せない場所まで来ているのだ。
自分はそう悟った。
いや、とっくに悟っていたはずだ。クリスチーヌがテオドラを殺し、その脳を食ったとき、その時点でもはや引き返すことなど出来ようはずもないことを知っていた。知っていて目を閉ざし、クリスチーヌに協力してきたのだ。
このときも本来であればクリスチーヌの犯罪を暴露し、ドリアン・グレイを弔うべきだった。だが、自分にはそうするだけの覚悟はなかった。結局、自分にできたことはドリアン・グレイの脳をこっそり抜きだし、自分の作ったロボット体に移植して生かすことだけだった。
――脳さえ生きていればクローン技術を使い、生身の肉体に戻ることもできる。
そう思って。
自分はロボット体となったドリアン・グレイにすべてを話し、謝罪した。むろん、ドリアン・グレイにとって自分の謝罪など何の意味もないことだった。ドリアン・グレイにとって大切なのはただひとつ。
クリスを守る。
それだけだった。
そう。ドリアン・グレイはクリスを愛していた。クリスが機械脳をもつ架空の人格であることを知った上でなお、かの人を愛し、かの人のためにクリスチーヌと対決し、かの人を守ることを誓ったのだ。
そして、運命のいたずらか、それとも、ドリアン・グレイの一途な思いが運命をかえたのか。クリスはひとりの刑事と出会った。
霧と怪奇の都警察署長ジャック・ロウ。
かの人の介入によってクリスチーヌの計画はかわりはじめた。クリスチーヌは焦っている。予定よりも早くクリスの肉体を取り戻そうとしている。そして、ドリアン・グレイは何としてもそれを阻止しようとしている。
この物語の結末がどうなるのか、それは自分にはわからない。
ただ、この書を読むものがいると言うことは、そのときにはすでに自分は死んでいるはずだ。そして、クリスチーヌも。
なぜなら、自分がクリスチーヌを残して先に死ぬことは有り得ないからだ。
クリスとドリアン・グレイはどうなるのだろう?
機械の脳と人の体をもつ女と、人の脳と機械の体をもつ男。
願わくばこのふたりには生き延びて幸せになって欲しいと思う。それが、クリスチーヌの罪業を知りながら止めることもできず、ズルズルと協力を重ねた卑劣で弱虫な自分にできる最後の願い。そして、自分の死によって我々三人の物語は終わりを告げるのだ。
永遠に。
△ ▽
……これにて、霧と怪奇の都を彩る伝説のひとつ、『機械仕掛けの歌姫』の物語はお終いでございます。ご静聴、ありがとうございました。
霧と怪奇の都の案内人は私にそう告げた。
おいおい、ちょっと待ってくれ。
頭を下げる案内人を前にそう言わずにはいられなかった。
それじゃまったくの尻切れトンボじゃないか。肝心のクリス嬢はいったい、どうなったんだ?
きれいな八重歯が特徴的な案内人はニッコリと微笑んだ。
『この伝説を聞いた誰もがそうお尋ねになります』
そう言わんばかりの表情だった。
「その点に関してはこのような伝説が残されております。すべてを知ったクリス嬢は、自らを気遣うジャックとビリーのふたりに対し、こう宣言したとのこと。
『あたしはたしかに機械の脳に架空の人格をインストールされた存在。でも、まちがいなく、ひとりの人間から命がけで愛されたのです。それが、単なるロボットだなどと言うことがあるでしょうか。いいえ、あたしは人間です。機械の脳をもつ人間なのです』」
……機械の脳をもつ人間。
私はその一言に感銘を受けた。そう言い切れるようになるまでいったい、どれだけの葛藤があったことだろう。そのことを詳しく聞きたいとも思ったが……やめておくことにした。その点に関しては自分で様々なドラマを空想してみたい。
――それで、クリス嬢はそのあと、どうなったのかな?
「クリス嬢はそのまま歌姫をつづけましたわ。老いることのない機械の脳を生かして修練を重ね、ついには『史上最高の歌姫』と呼ばれるまでになったのです。そして、かの人の演じる『人魚姫』は世界中の少女たちに夢と希望を与えたと言われております」
――史上最高の歌姫。クリスチーヌが望んでやまなかった存在だな。
「はい。クリスチーヌの望みはこのような形で叶ったと申せましょう」
――そうか。それではクリス嬢はいまも健在なのかな?
「それはわかりません。クリス嬢が表舞台から姿を消してもうずいぶんになります。ただ……」
――ただ?
「一説には時の制限がある肉体を離れ、いかなる制限ももたないネット世界に居場所を移し、『永遠の歌姫』になったとも言われております。いまでもネット世界を漂流しているとふいに、どこからともなく、その歌声が響いてくると言われております」
――永遠の歌姫。
「ふふ、伝説です。すべては霧の彼方の伝説ですわ」
……そろそろ、この都を離れるときがきた。
私は案内人に礼を言った。案内人は優美に一礼すると、特徴的な八重歯を覗かせながら私に言った。
「ぜひ、またお越しくださいませ。このわたくし、ルーシー・ウェステンラ・ドラキュラ女伯爵が心を込めておもてなしさせていただきます」
終
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これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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