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欠落
私の中から、何かがゆっくりと削ぎ落とされていくのを感じる。
それは苦しさではなく、静かな、どこまでも静かな感覚だった。
怒りや悲しみ、喜びや期待といった感情のすべてが、薄い霧のように体から抜け落ちていく。
残るのは、空虚な私自身だけ――それで十分だと思った。
朝、鏡の前に立つ。
かつてなら「今日のドレスはどうかしら」と侍女たちに尋ねていたはずだが、今はそれを考える気力もない。ただ、勧められるままに袖を通し、整えられる髪を受け入れるだけ。
「お似合いですわ、アリシア様」
侍女たちの言葉にも、私は何も感じない。
それが本心であれお世辞であれ、どちらでもいい。ただ、言葉が耳を通り過ぎていくだけだ。
食事の席でも同じだった。家族が何を話そうと、目の前に運ばれる料理がどれほど美味しくても、私の内側は静寂に包まれていた。
味わう気持ちも、会話に加わる意志もない。ただ、与えられたものを受け入れるだけ。
家の中で交わされる言葉が次第に私を避けていくのを感じる。私が反応しないことで、周囲の人々が気まずさを覚え始めているのだろう。けれど、それすらも私にはどうでもよかった。
ある日の午後、エリーナがティーセットを運んできた。
庭の見える小さなサロンで、一人静かに座っていた私の前に、彼女はカップを並べ、香り高い紅茶を注ぐ。
「どうぞ、アリシア様。今日はお好みの茶葉をお選びしました」
彼女はそう言いながら、丁寧にティーカップを私の前に置いた。
私の目の前には、小さな湯気を立てる紅茶がある。それを見ても、何の感情も湧かない。ただ、そこにあるという事実だけが認識される。
「お気に召しますでしょうか……」
エリーナの声はどこか不安げだった。彼女の視線がちらちらと私を窺うのを感じるが、私は何も答えなかった。
答える言葉が見つからないのだ。ただ、その紅茶を静かに見つめているだけだった。
そのときだった。
エリーナの手元が一瞬ぶれるのが視界に入った。次の瞬間、彼女の持つポットからお茶が溢れ、私の右手に滴り落ちる。
「あっ――!」
彼女の顔が一瞬青ざめる。ポットを置き、慌ててハンカチを取り出して私の手に押し当てる。
「申し訳ありません! 本当に、本当に申し訳ありません……!」
彼女の声が震える。動揺と恐怖がその声に滲み出ていた。侍女として致命的なミス――それを自覚しているのだろう。
だが、私はただ彼女の動作を見つめるだけだった。痛みも怒りも、恥も感じなかった。右手が濡れた感触はあったが、それ以上の何かを覚えることはない。
「アリシア様……その、大丈夫でいらっしゃいますか?」
エリーナが私の顔を覗き込む。その目は、不安と後悔に揺れていた。
けれど、私は何も答えない。ただ、ぼんやりと彼女を見つめるだけ。
「……どうして、何もおっしゃらないのですか?」
エリーナの声が掠れる。私はそれにどう反応すればいいのかわからなかった。感情が湧き上がらないのだ。だから、何も言わずに彼女を見つめ続けた。
そのとき、エリーナが突如として泣き出した。
「どうして……どうしてそんなに何も感じない顔をなさるのですか……! 私が悪かったのです、本当に酷いことを言いました……どうか叱ってください、怒ってください、お願いです……!」
彼女の涙がぽたぽたと床に落ちる。その音が耳に届いても、私は何も感じなかった。
ただ、彼女の言葉が虚空に溶けていくのを見つめるだけだった。
私は、もはや誰にも期待していない。自分にも、他人にも。
そうすれば、こうした「後悔」や「謝罪」ですら、私には関係のないものになる。
エリーナの泣き声はやがて静まり、部屋には再び静寂が戻った。
その静寂が、今の私には心地よかった。
それは苦しさではなく、静かな、どこまでも静かな感覚だった。
怒りや悲しみ、喜びや期待といった感情のすべてが、薄い霧のように体から抜け落ちていく。
残るのは、空虚な私自身だけ――それで十分だと思った。
朝、鏡の前に立つ。
かつてなら「今日のドレスはどうかしら」と侍女たちに尋ねていたはずだが、今はそれを考える気力もない。ただ、勧められるままに袖を通し、整えられる髪を受け入れるだけ。
「お似合いですわ、アリシア様」
侍女たちの言葉にも、私は何も感じない。
それが本心であれお世辞であれ、どちらでもいい。ただ、言葉が耳を通り過ぎていくだけだ。
食事の席でも同じだった。家族が何を話そうと、目の前に運ばれる料理がどれほど美味しくても、私の内側は静寂に包まれていた。
味わう気持ちも、会話に加わる意志もない。ただ、与えられたものを受け入れるだけ。
家の中で交わされる言葉が次第に私を避けていくのを感じる。私が反応しないことで、周囲の人々が気まずさを覚え始めているのだろう。けれど、それすらも私にはどうでもよかった。
ある日の午後、エリーナがティーセットを運んできた。
庭の見える小さなサロンで、一人静かに座っていた私の前に、彼女はカップを並べ、香り高い紅茶を注ぐ。
「どうぞ、アリシア様。今日はお好みの茶葉をお選びしました」
彼女はそう言いながら、丁寧にティーカップを私の前に置いた。
私の目の前には、小さな湯気を立てる紅茶がある。それを見ても、何の感情も湧かない。ただ、そこにあるという事実だけが認識される。
「お気に召しますでしょうか……」
エリーナの声はどこか不安げだった。彼女の視線がちらちらと私を窺うのを感じるが、私は何も答えなかった。
答える言葉が見つからないのだ。ただ、その紅茶を静かに見つめているだけだった。
そのときだった。
エリーナの手元が一瞬ぶれるのが視界に入った。次の瞬間、彼女の持つポットからお茶が溢れ、私の右手に滴り落ちる。
「あっ――!」
彼女の顔が一瞬青ざめる。ポットを置き、慌ててハンカチを取り出して私の手に押し当てる。
「申し訳ありません! 本当に、本当に申し訳ありません……!」
彼女の声が震える。動揺と恐怖がその声に滲み出ていた。侍女として致命的なミス――それを自覚しているのだろう。
だが、私はただ彼女の動作を見つめるだけだった。痛みも怒りも、恥も感じなかった。右手が濡れた感触はあったが、それ以上の何かを覚えることはない。
「アリシア様……その、大丈夫でいらっしゃいますか?」
エリーナが私の顔を覗き込む。その目は、不安と後悔に揺れていた。
けれど、私は何も答えない。ただ、ぼんやりと彼女を見つめるだけ。
「……どうして、何もおっしゃらないのですか?」
エリーナの声が掠れる。私はそれにどう反応すればいいのかわからなかった。感情が湧き上がらないのだ。だから、何も言わずに彼女を見つめ続けた。
そのとき、エリーナが突如として泣き出した。
「どうして……どうしてそんなに何も感じない顔をなさるのですか……! 私が悪かったのです、本当に酷いことを言いました……どうか叱ってください、怒ってください、お願いです……!」
彼女の涙がぽたぽたと床に落ちる。その音が耳に届いても、私は何も感じなかった。
ただ、彼女の言葉が虚空に溶けていくのを見つめるだけだった。
私は、もはや誰にも期待していない。自分にも、他人にも。
そうすれば、こうした「後悔」や「謝罪」ですら、私には関係のないものになる。
エリーナの泣き声はやがて静まり、部屋には再び静寂が戻った。
その静寂が、今の私には心地よかった。
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