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【番外編】男爵の敗北と誇りについて
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──父親というのは、実に割に合わない立場である。
家長として貴族の威厳を求められながら、実態は領地経営という地味な仕事に追われる日々。
娘を持つ父親であれば尚更だ。いつかは手放さねばならない宝物を育てながら、彼女が幸せになることを願い、それでも寂しさに苛まれる。
……とまあ、そんな感傷に浸れるのは、晩酌のひとときだけだ。
暖炉の火が揺れ、ワインのグラスを傾けながら、私は深々と椅子にもたれかかった。
ゆっくりとした時間の流れを楽しむ──そう、この娘婿が話しかけてこなければ、の話だが。
「──お義父様は、亡き奥様のどのような弱みを握って結婚されたのですか?」
不意に投げ込まれた言葉に、ワインを吹き出しかける。
「……何だい、それは」
私はクロードを見やる。
相変わらず隙のない佇まい、完璧な礼儀作法、しかし、その口から発せられる言葉の破壊力は貴族社会の常識をいとも容易く粉砕する。
「いえ、私の観察が正しければ、お義母様は美しく気位の高い名家のご令嬢であったかと。そのような方が、男爵家に嫁いだのには何か理由があるのでは?と」
私は頭を抱えたくなった。
なんということだろう…娘婿が“元蜘蛛”であることよりも、彼が平然とこういうことを聞いてくる方が恐ろしい。
「……確かに、彼女は気高く、凛々しく、そして私には到底釣り合わないほどの才媛だったよ…」
懐かしい記憶がよみがえる。
彼女は強く、美しく、賢く、誰にも媚びず、常に誇り高くあろうとしていた。
そんな彼女が、どうしてこの男爵家に嫁いできたのか──そう問われるのは、実に当然のことだ。
私はグラスを置き、ため息をついた。
「弱みを握った、というのは違うな。強いて言うなら」
クロードが静かに耳を傾ける。
「彼女の『負けず嫌い』に、うまくつけ込んだ……!」
クロードの眉がわずかに動いた。
“興味深い”とでも言いたげな表情。……いや、もしかすると彼は感情すら蜘蛛の糸のように制御しているのかもしれない。
「……お義母様が、負けず嫌い?」
「そうだとも。何しろ、私は彼女に勝負を挑んで結婚したのだからな」
暖炉の炎が、ぱちりと音を立てる。
クロードが静かに問いかける。
「……勝負とは?」
私は遠い記憶を手繰り寄せながら、ゆっくりと語った。
「──『どちらが先に相手を好きにさせるか』、という勝負だった」
クロードのまばたきが、一瞬止まった。
「……」
普段は冷静沈着な男だが、この時ばかりは明らかに驚いていた。
「それはまた、随分と……」
「くだらないと思うか?」
「……いえ、理論的には興味深い賭けかと」
彼の答えに私は笑った。
「彼女は、私のことをなんとも思っていなかった。むしろ、私のような凡庸な男と結婚するなど、ありえないと考えていた」
「それは非常に理解できます」
「私は彼女にこう言ったんだ。『ならば、私が先に君を惚れさせたら、君は私の妻になってくれるか?』と…!」
クロードは無言で続きを促した。
「彼女は笑って、即座にこう返したよ。『いいわ。あなたが私を本当に夢中にさせたなら、認めてあげる。でも、あなたが私を好きになった方が先だったら、あなたの負けよ』と」
──そして、結果はどうだったか?
私は静かにワインを口に含み、少しだけ苦笑を浮かべた。
「私の負けだったよ。彼女を夢中にさせる前に、私が彼女に夢中になってしまった」
クロードが、じっと私を見つめている。
「お義母様は、その時どうなされたのですか?」
「……私を見て、勝ち誇った顔をしていたな。そしてこう言った。『でも、あなたがそんなに私を好きになったのなら、結婚してあげてもいいわね』と」
私は肩をすくめてみせた。
「結局、私は彼女に負け続けたよ。生涯をかけてな」
クロードは沈黙したまま、考え込むように視線を落とす。
おそらく、私と妻の関係を、自分とアトラの関係と重ねて考えているのだろう。
やがて、クロードはぽつりと呟いた。
「……負け続ける結婚、ですか」
私は微笑みながら、再びワインを傾けた。
「悪くないものだよ、クロード。好きな人に負け続ける人生というのはな」
クロードが、珍しく少し考え込むような表情を浮かべた。
そして、静かに礼を述べると、部屋を後にした。
──やれやれ。娘婿というのは、まったく妙なことを聞いてくるものだ。
私は暖炉の炎を見つめながら、ふと遠い日々を思い出した。
勝負に勝ち、それでも私と結婚し、彼女は最後まで気高く美しかった。
──私の敗北は、きっと一生、揺るがないのだろう。
だが、それこそが、私にとっての“誇り”なのだ。
家長として貴族の威厳を求められながら、実態は領地経営という地味な仕事に追われる日々。
娘を持つ父親であれば尚更だ。いつかは手放さねばならない宝物を育てながら、彼女が幸せになることを願い、それでも寂しさに苛まれる。
……とまあ、そんな感傷に浸れるのは、晩酌のひとときだけだ。
暖炉の火が揺れ、ワインのグラスを傾けながら、私は深々と椅子にもたれかかった。
ゆっくりとした時間の流れを楽しむ──そう、この娘婿が話しかけてこなければ、の話だが。
「──お義父様は、亡き奥様のどのような弱みを握って結婚されたのですか?」
不意に投げ込まれた言葉に、ワインを吹き出しかける。
「……何だい、それは」
私はクロードを見やる。
相変わらず隙のない佇まい、完璧な礼儀作法、しかし、その口から発せられる言葉の破壊力は貴族社会の常識をいとも容易く粉砕する。
「いえ、私の観察が正しければ、お義母様は美しく気位の高い名家のご令嬢であったかと。そのような方が、男爵家に嫁いだのには何か理由があるのでは?と」
私は頭を抱えたくなった。
なんということだろう…娘婿が“元蜘蛛”であることよりも、彼が平然とこういうことを聞いてくる方が恐ろしい。
「……確かに、彼女は気高く、凛々しく、そして私には到底釣り合わないほどの才媛だったよ…」
懐かしい記憶がよみがえる。
彼女は強く、美しく、賢く、誰にも媚びず、常に誇り高くあろうとしていた。
そんな彼女が、どうしてこの男爵家に嫁いできたのか──そう問われるのは、実に当然のことだ。
私はグラスを置き、ため息をついた。
「弱みを握った、というのは違うな。強いて言うなら」
クロードが静かに耳を傾ける。
「彼女の『負けず嫌い』に、うまくつけ込んだ……!」
クロードの眉がわずかに動いた。
“興味深い”とでも言いたげな表情。……いや、もしかすると彼は感情すら蜘蛛の糸のように制御しているのかもしれない。
「……お義母様が、負けず嫌い?」
「そうだとも。何しろ、私は彼女に勝負を挑んで結婚したのだからな」
暖炉の炎が、ぱちりと音を立てる。
クロードが静かに問いかける。
「……勝負とは?」
私は遠い記憶を手繰り寄せながら、ゆっくりと語った。
「──『どちらが先に相手を好きにさせるか』、という勝負だった」
クロードのまばたきが、一瞬止まった。
「……」
普段は冷静沈着な男だが、この時ばかりは明らかに驚いていた。
「それはまた、随分と……」
「くだらないと思うか?」
「……いえ、理論的には興味深い賭けかと」
彼の答えに私は笑った。
「彼女は、私のことをなんとも思っていなかった。むしろ、私のような凡庸な男と結婚するなど、ありえないと考えていた」
「それは非常に理解できます」
「私は彼女にこう言ったんだ。『ならば、私が先に君を惚れさせたら、君は私の妻になってくれるか?』と…!」
クロードは無言で続きを促した。
「彼女は笑って、即座にこう返したよ。『いいわ。あなたが私を本当に夢中にさせたなら、認めてあげる。でも、あなたが私を好きになった方が先だったら、あなたの負けよ』と」
──そして、結果はどうだったか?
私は静かにワインを口に含み、少しだけ苦笑を浮かべた。
「私の負けだったよ。彼女を夢中にさせる前に、私が彼女に夢中になってしまった」
クロードが、じっと私を見つめている。
「お義母様は、その時どうなされたのですか?」
「……私を見て、勝ち誇った顔をしていたな。そしてこう言った。『でも、あなたがそんなに私を好きになったのなら、結婚してあげてもいいわね』と」
私は肩をすくめてみせた。
「結局、私は彼女に負け続けたよ。生涯をかけてな」
クロードは沈黙したまま、考え込むように視線を落とす。
おそらく、私と妻の関係を、自分とアトラの関係と重ねて考えているのだろう。
やがて、クロードはぽつりと呟いた。
「……負け続ける結婚、ですか」
私は微笑みながら、再びワインを傾けた。
「悪くないものだよ、クロード。好きな人に負け続ける人生というのはな」
クロードが、珍しく少し考え込むような表情を浮かべた。
そして、静かに礼を述べると、部屋を後にした。
──やれやれ。娘婿というのは、まったく妙なことを聞いてくるものだ。
私は暖炉の炎を見つめながら、ふと遠い日々を思い出した。
勝負に勝ち、それでも私と結婚し、彼女は最後まで気高く美しかった。
──私の敗北は、きっと一生、揺るがないのだろう。
だが、それこそが、私にとっての“誇り”なのだ。
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