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見えない輪郭── 『言葉にならぬ謎を抱えて』
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──人の心には、誰にも見えない隙間がある。その隙間に落ち込んだ真実は、いつも静かに息を潜めている。
台所で料理長から肉料理の詳細な説明を受けながら、私の頭の中では自然とその料理に最適なワインが次々と浮かび上がっていた。ワインというものは不思議なもので、料理の味を引き立てるだけでなく、その場の空気さえも変えてしまう力を秘めている。
説明を終え、自室へ戻るために廊下を歩いていると、伯爵の姿を見つけた。いつもの威厳ある面持ちとは少し違い、どこか考え込むような表情をしている。
「伯爵様、少しだけよろしいでしょうか」
私が声をかけると伯爵は軽く頷き、無言で私を自身の書斎へと導いた。書斎の扉が閉じられ、部屋は静かな空気に包まれる。
「それで、クロード君。話とは何だ?」
伯爵の声にはわずかに緊張感が含まれていたが、私は落ち着いて話を始めた。
「サンゼールについてお尋ねしたいのです。彼がここで働くようになった経緯を教えていただけませんか」
伯爵家の忠実な執事、サンゼール。彼について、どうしても聞きたいことがある。
彼の態度や言動、そしてティタ嬢との関係性に関して、どうしても腑に落ちない部分が私の中に引っかかっているのだ。その違和感は明確な形を持っていないが、まるで微かな痒みのように私の胸の奥で静かに存在を主張している。
伯爵は静かに溜息をつき、どこか遠くを見つめるように語り出した。
「ある日突然、サンゼールは屋敷に現れた。給金はいらないから、ただ働かせてくれと必死な様子だった。その頃ティタは少し荒れていてな。何をしても落ち着かず、私も手を焼いていたのだが、サンゼールが穏やかに接するようになってから、ティタは次第に安定を取り戻したんだ」
どこか懐かしげな声で彼は続ける。
「ある時、ティタが新しいドレスを気に入らないと言い出してな。怒りに任せて裾を乱暴に破いたことがあった。周りはただ呆然と見ているだけだったが、サンゼールだけは違った。彼は静かに近づき、『とても似合っていますよ』と優しく微笑みかけて、その場でドレスの破れた裾を丁寧に直し始めたんだ」
伯爵の視線が柔らかくなり、記憶を追うように言葉を紡いだ。
「その後、サンゼールはティタに手を差し伸べ、二人で静かにワルツを踊った。あの時のティタの表情は忘れられない。後で聞いた話だが、実はそのドレスはティタがとても気に入って選んだものだったそうだ。しかし、あるパーティーで他の令嬢から『お盛んな貴女には、清純な白いドレスなんて似合わない』と心ない言葉をかけられて傷ついていたらしい」
ふっと息を吐いた後、その表情は再び曇る。
「二人は仲良くなったように見えたのだが……ある日ティタが泣きながらサンゼールを臆病者だと詰り、サンゼールは黙って項垂れていた。恐らくティタが告白して振られたのだろうな」
話を聞き終えた私は、小さく頷いた。
──事情は大体分かった。しかし、それでも腑に落ちない。どこか微かな違和感が胸の奥に引っかかる。
サンゼールに対して、なぜか既視感を抱いている自分に気付く。それはただの見た目の印象や物腰だけではない。彼の瞳に浮かぶ微かな影や、ふとした瞬間に見せる表情の奥にある何かに、私は以前どこかで触れたことがあるような感覚を覚えるのだ。
だが、その違和感を今ここで口にすることは憚られた。感情とは不安定であり、時に筋が通らないものだ。それに余計なことを言うのは、まだ時期尚早である。
「ありがとうございます、参考になりました」
私が静かにそう告げると、伯爵は安心したように微笑んだ。
「クロード君、君が来てから何かと変わったな。ティタもサンゼールも、私自身もだ」
その言葉には微かな感慨が込められていたが、私はただ静かに微笑むことしかできなかった。
──違和感というものは、砂粒のように小さなものだ。だが、それが靴の中に入れば、どれほど歩きづらくなることか。
いずれその砂粒を取り出す日が来るまで、私は静かに忍耐強く待つことしかできない。今はただ、目の前の勝負に集中しよう。私に与えられた仕事を全力で果たすことが、最も重要な使命だ。
言葉にできぬ違和感を抱えながら、それでも私は前に進む。いつかその正体が、静かに語りかける日まで。
台所で料理長から肉料理の詳細な説明を受けながら、私の頭の中では自然とその料理に最適なワインが次々と浮かび上がっていた。ワインというものは不思議なもので、料理の味を引き立てるだけでなく、その場の空気さえも変えてしまう力を秘めている。
説明を終え、自室へ戻るために廊下を歩いていると、伯爵の姿を見つけた。いつもの威厳ある面持ちとは少し違い、どこか考え込むような表情をしている。
「伯爵様、少しだけよろしいでしょうか」
私が声をかけると伯爵は軽く頷き、無言で私を自身の書斎へと導いた。書斎の扉が閉じられ、部屋は静かな空気に包まれる。
「それで、クロード君。話とは何だ?」
伯爵の声にはわずかに緊張感が含まれていたが、私は落ち着いて話を始めた。
「サンゼールについてお尋ねしたいのです。彼がここで働くようになった経緯を教えていただけませんか」
伯爵家の忠実な執事、サンゼール。彼について、どうしても聞きたいことがある。
彼の態度や言動、そしてティタ嬢との関係性に関して、どうしても腑に落ちない部分が私の中に引っかかっているのだ。その違和感は明確な形を持っていないが、まるで微かな痒みのように私の胸の奥で静かに存在を主張している。
伯爵は静かに溜息をつき、どこか遠くを見つめるように語り出した。
「ある日突然、サンゼールは屋敷に現れた。給金はいらないから、ただ働かせてくれと必死な様子だった。その頃ティタは少し荒れていてな。何をしても落ち着かず、私も手を焼いていたのだが、サンゼールが穏やかに接するようになってから、ティタは次第に安定を取り戻したんだ」
どこか懐かしげな声で彼は続ける。
「ある時、ティタが新しいドレスを気に入らないと言い出してな。怒りに任せて裾を乱暴に破いたことがあった。周りはただ呆然と見ているだけだったが、サンゼールだけは違った。彼は静かに近づき、『とても似合っていますよ』と優しく微笑みかけて、その場でドレスの破れた裾を丁寧に直し始めたんだ」
伯爵の視線が柔らかくなり、記憶を追うように言葉を紡いだ。
「その後、サンゼールはティタに手を差し伸べ、二人で静かにワルツを踊った。あの時のティタの表情は忘れられない。後で聞いた話だが、実はそのドレスはティタがとても気に入って選んだものだったそうだ。しかし、あるパーティーで他の令嬢から『お盛んな貴女には、清純な白いドレスなんて似合わない』と心ない言葉をかけられて傷ついていたらしい」
ふっと息を吐いた後、その表情は再び曇る。
「二人は仲良くなったように見えたのだが……ある日ティタが泣きながらサンゼールを臆病者だと詰り、サンゼールは黙って項垂れていた。恐らくティタが告白して振られたのだろうな」
話を聞き終えた私は、小さく頷いた。
──事情は大体分かった。しかし、それでも腑に落ちない。どこか微かな違和感が胸の奥に引っかかる。
サンゼールに対して、なぜか既視感を抱いている自分に気付く。それはただの見た目の印象や物腰だけではない。彼の瞳に浮かぶ微かな影や、ふとした瞬間に見せる表情の奥にある何かに、私は以前どこかで触れたことがあるような感覚を覚えるのだ。
だが、その違和感を今ここで口にすることは憚られた。感情とは不安定であり、時に筋が通らないものだ。それに余計なことを言うのは、まだ時期尚早である。
「ありがとうございます、参考になりました」
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いずれその砂粒を取り出す日が来るまで、私は静かに忍耐強く待つことしかできない。今はただ、目の前の勝負に集中しよう。私に与えられた仕事を全力で果たすことが、最も重要な使命だ。
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