レースの意匠

quesera

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一章

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 馬車廻しのある表通りから、路地へ抜けると、せせこましく覆い建つ民家の影に、仕立屋が隠れるように店を開く。戸上の看板と、出窓に飾られたドレスを見なければ、店と分からぬ佇まいである。看板には、この店特有のレースを見立てたふち飾りが施され、針と糸巻きの模様も彫られている。店の名は、店主が処代わりする度、変えられてきた。
 領主の他、貴族の保養地を軸に人々が集って暮らす、ここドムトルの町では、サムウォル仕立屋と店を構えている。店主は、白髪清らかに気品を備え、流石は貴人の纏う服を設える婦人だと、町人から畏敬の目で追われる、グライアヌ。町で『イア』と名が通るのも、孫のイヨーリカがそう呼ぶからだ。
 十八になるイヨーリカには両親が居ない。いや、記憶にないと言うべきか。一時は下男も居た家族だが、両親が其々若くして亡くなり、下男も老齢を機に暇乞いをした。
 その間、幾つの町や村で暮らしたのか。ドムトルの他、三つの住まいまでしか記憶に辿れないイヨーリカは、知らない。去る下男を恋しがったかも、記憶に薄い。
 祖母のグライアヌと二人で暮らした月日が、イヨーリカの生きた月日に等しかった。

「イヨーリカ、帰りはお頼みするのだよ」
「分かっているわ。あちらの都合で急かされるのよ? 当然のことだわ」
 イヨーリカは、明日の夜会に急遽招かれた、商家の娘の意固地につき合わされ、作りかけのドレスを急ぎ仕上げに館へ呼ばれた。
 王都から離れ、貴族が憩いを見出しに訪れる町では、ドレスの流行など、往来する貴婦人を見るしか計り得ない。田舎娘がそれを真似て着飾り、町には遅れて流行が届く。
 そんな町で、仕立ての繊細さ、縫製の丁寧さ、一風変わったレースやふち篝が、良家の子女を生来より端正に際立たせると評され、然程流行を競うでもない場ではサムウォルの店のドレスは重宝された。が、羽や金糸も、輝石さえ縫いこまないドレスは、貴族の訪問着と注文されても、夜会で披露されることはなかった。
 商家のお嬢様はそこに勝負を賭けたらしい。身分不相応のドレスを似せて装って赤恥をかくより、位以上の気品さを、質素で、それでいて折り目正しいドレスを身に纏うことを選んだ。
 正しい判断だったと見える。仕上げに腰周りの調整を縫い留めていたイヨーリカは、姿見を眺めるお嬢様が漏らす、惚れ惚れとしたため息を聞いた。
 白と黄を基調に仕立てたドレスは、胸周りを深くとの要望もあって、宛ら貞淑な下着とも見まごう妖艶さを醸し出すが、如何せん張りある生地と夥しく縫い上げた全貌からは、王后もかくやとの威厳が漂っている。
 イヨーリカは、仕事着に散る屑を敷布の上に払い落とし、立ち上がり様、我ながらやりすぎたかと娘を見回した。胸元がこうも開いていなければ、厳かな娘だと嫁の声も掛けられただろうが、これでは一夜の相手にしても神々しくて男供は腰が引けるのでは。
 眺め見つつ、合わせる髪飾りを渡し、髪形を幾つか提示した後、破格の報酬を払う客のため、首筋や胸肌へ手入れに化粧薬を摺りこんだ。
 窓を見れば、夜の帳が落ちて久しい闇が窓の外に広がっている。美貌を極めんと未だイヨーリカを引き止めそうなお嬢様に一礼をし、明日気が変わればと、胸を覆うレースを一巻き小間使いへ渡した。
「私はこれにて下がらせていただきます。お嬢様も明日に備え、お休みになられますように。肌の調子を整えるには睡眠が一番かと」
 漸く仕立屋を帰す気概を見せたお嬢様に、追い出されるよう部屋を出ると、にこやかに主人が進み出た。女中頭と思しき婦女が盆に支払い金を載せて寄こしている。高額ならば手形が良かったのだが、と目前の金貨に怯むも、見栄っ張りなお嬢様にサムウォル店も高価な生地を買い付けており、どの道支払いに消えるか、と、苦笑いで受け取った。
「いつもご贔屓にありがとうございます」
「すまなかったね。急に出向いてもらって。まあ、あれのわがままにも困ったものだが、そろそろいい話も来なければ、これもまた頭が痛いものだからね。許してやってくれ」
 玄関先で見送る主人に、イヨーリカも微笑んだ。娘想いの父親だ。
 手こずらせた店に詫びるほどの主人を持つ商家だが、娘はその跡取りでありながら、今宵は胸を膨らませながら眠りにつくのだろう。商家を継ぐ婿を探してではなく、より良き嫁ぎ先を夢見て。

 祖母の心配を他所に、主人は馬車を出してくれた。夜遅くに支払い金を抱えて辻馬車に乗るなど正気の沙汰ではなく、感謝はするが、御者は往復しなければならない。そこまでの手間を惜しまずして上位との婚姻を熱望するのか。イヨーリカは揺られる馬車の中で一人ごちた。私には縁のない話だ。
 嫁に行くにも、嫁ぐ娘の背を守る男親もいなければ、軽んじられて碌な話も来ないとイヨーリカは知っている。増して、祖母がいる。どこに祖母の面倒まで保障するお人好しがいるというのか。が、先ほどのお嬢様は十七になったと主人が嘆いていた。十六でお披露目したが、選びすぎて機を逃し、頭を抱えて夜会の招待状を強請ったのだろう。
 良家の娘は存外生きにくいのだな、と、己の引け目に感じる境遇に頭を振った。町の娘などは大概婚期が遅いものだ。祖母の気が変わらねば、この町で。変わったなら、新しい土地で、娘の心が騒ぐ出会いでもあるかもしれない。イヨーリカは、窓へ顔を巡らせた。

 馬の嘶きが妙に闇に響く。夜霧で湿り気が出る石畳では、馬の蹄が弾く音も嘶きも、石畳や民家の壁に甲高く抜けるのだが、不思議と音の逃げる先に広がりを感じる。イヨーリカは、窓に掛かる布を捲くった。
 明かり一つ見えない。そんな夜遅くだったろうか。えらく飛ばしているようだが。その割には蹄の音が、鈍い。 窓に顔を寄せようと腰を浮かしたところで、軽く息を吸った。木の枝が窓を打ったのだ。それも次々と。
 跳ね上がる動悸を鎮めんと腰を下ろし、深く息を吸った。何処だ?
 寄り道を話さないとも思えない。近道に舗装していない道などない。町の中心の館から町の外れに向かうのだから。まさか…いや、仮にも商家の使用人だ。一着の支払金ごときで職を追われる真似など…まさか、私を?
 御者に尋ねようと天井を穿つところだったが、手を止め、その手を再び窓に伸ばした。

 辛うじて悲鳴を飲み込んだ。窓に映った顔に、胸が激しく唸る。自分の顔に驚くなんて、と、苦笑で落ち着かせようとするが、笑みに上がった口角も程なく緩み、瞼と供に声なき声で開き切った。人の顔だ!
 闇に青白い顔がこちらを見ている。しかし、可笑しな話だ。こちらとて腰が浮くほどに馬車が駆け始めている。人の顔が付いて来られる筈も。やはりこれは私の顔かと安堵したいが、目にする光景がそれは違うと告げてきた。 顔が次第に間近になり、窓に手が現れたかと思うと、覗き込む顔と目が合った。
 悲鳴は止まらない。後ろに引き下がるが、直ぐに背が対面の窓に着く。取っ手がくるりと回る。既に喉からの悲鳴に泣き声が混る。何かないかと見回して、道具箱を見止めるも、かじりつく前に、湿った空気が流れ込む先へ気取られた。

「美しいお嬢さんが同席とは、嬉しいね」
 風に靡いて乱れた、髪。長髪を後ろで束ねるも、余りの行動に束から乱れ落ちた髪が掛かる、肌蹴たシャツ。顔に纏わりつく髪を払って表れる、引き締まった顔。心にもない口調で、戸の外を伺ってばかりの男。
 男の発する気負いと、無謀だったと知れる荒い息に、乗じた汗。それが一緒くたに室内を占領し、もはや悲鳴さえ出ない。目だけが泳ぐ。男の形相に。
 馬車が急いて道外れたのはこの男のせいなのかと、再び御者へ信頼を戻そうとした矢先、男が戸を閉めた。
「私と組まないか?」
 後ろ手に道具箱を廻し、イヨーリカは冷や汗に身を固めた。組む?
 風貌は町人に近い。が、シャツも、たくし込んだズボンも、仕立てが余りに上等だ。色落ちはしているが、それは幾度とない洗濯に耐えた証でもあり、顔や手でも汚れを汗が拭っているが、参じて清潔ささえ感じられる。野党の輩ではないと見えるのは、怯える娘を前に舌なめずりするでもなく、暖かく誘う金茶の瞳のせいかもしれない。 汗に濡れて濃く色を放つ茶の髪も、散切りでなく、指に滑らかな風情だ。勝手に座る余裕を見せる男の爪は、草の染みが混じるようだが垢に塗れてはいない。鼻筋は歪み無く、若干薄い唇は酒の匂いさえ遠ざけるほど美麗。
「組んで損はないと思うが?」
 意図も見えず、抗う息の合間に、声を絞り出した。
「組んで…何をするの?」
「先ずは、御者を始末する」
 イヨーリカは、背後で蓋を弾く。恐怖に、指を刺す物さえ感じず、ただ鋏を探った。
「おっと。これは頂けないな。御者より私が美丈夫だとは思わなかったか?」突き出した鋏に暫し眉を顰めるも、男は、仰け反っていた身を正すと、真摯な面持ちで声を低めた。「何故、武器を持たない?」
 一考して、顔を横に振った。
「行き先は? どこへ行く?」
「…ドムトル」
「御者はドムトルへ行く気はないようだが? ここはシロンの森だ」
 あなたが追うから、との言葉を、イヨーリカは止めた。見えないまでも御者の方へ視線を彷徨わせていたらしい。機に、鋏が手から弾き落とされた。痛む手首以上に、状況に混乱して、涙が頬を流れている事態さえ感覚がない。
「どうやら…仲間ではないようだな。となると…荷は、あなただ」

 もう、身が、緊張を受け付けない。どう、と座椅子に中腰のままの腰を下ろした。
「君は、ドムトルへ行くと思っていた?」
 頷いた。
「で、御者が途中で、森へ道を変えたと知っているのか?」
 頭を振った。
「なら、御者が服を脱ぎ変えた理由を知らないのだね?」
 首を横に振った。何が起きているのか、目まぐるしい状況に発狂しそうだ。
「もう一度聞こう。君は、ドムトルへ行けば、安全なのか?」
 緊張が一気にほぐれ、肯けば涙の粒が零れて膝に落ちていく。
「では、約束しよう。ドムトルへ君を連れて行く。だから、しっかりと聞いて。君にお願いがある。私が乗り移ったのに、止まらない所をみれば、走りきる積りのようだ。私が御者を止める。その間、ここから動かないで。いい? 馬車が止まっても外に出ないで、私の指示に従って欲しい」
 逐一頭を振って返していたが、男が戸を開けると気づくと、呆然と自分の手を見下ろした。男のシャツを掴んでいた自分を。
「大丈夫だ。必ず、助ける」
 思うようにならずに固まる手を、柔らかく解いた男。手を膝へ置き返し、瞳で誓約してくる。思わず、イヨーリカも瞳に信頼を浮かばせた。信じると。
 空を散らす炸裂音が二度、森に木霊した。森の夜道を失踪するだけでは生じない衝撃が、馬車を揺らす。上からも側面からも、幹や枝が擦れて折れる音がイヨーリカに襲い掛かる。馬の嘶きと泡を吐く息とが荒ぶる風の中に流れ、怒声も微かに混じるよう。戦況に固唾を呑むうち、背を打ち付ける揺れに、頬を酷くぶつければ、口内に血を味わう間もなく瞬時に身が冷えた。

 馬を宥める声。よろける足音に、葉を踏みしめる足音。取っ手を凝視し、戸が開く間際に、鋏を拾い上げて握り締めた。
 足元に、昏倒した男が投げ込まれた。御者だ。鋏ごと、体の向きを、投げ入れた男へ向けた。男は銃を手にしている。
「縛るのを手伝ってくれ。ああ、鋏で服地を裂けばいい」
 刃を向けたを気にも留めず、男が汗を拭っている。言われるままに、裂いて紐にしようと御者に覆いかぶさるも、と、手を見下ろした。組んだ指が絡まり両手を解けないでいる。困惑して男を見れば、労わる笑みを忍ばせてくる。身が温まり、血の流れを感じた。
 悴む手で道具箱に布を漁る。イヨーリカには、御者に触れるのが困難に思われたから。銃を御者に向けたまま、男が紐に指示を加えていく。イヨーリカも布の性質を少なからず知る。縛った後に、思いつき様、水筒を開けて紐に茶を掛けた。これで、女手で結んだ紐も解くことはできないだろう。
 御者の体を完全に馬車の中へ入れれば、立つ場もなく、イヨーリカは恐る恐る馬車の外へ降りた。男が手招きしたからだが、闇夜に指笛を吹いていたからでもある。
 森の闇に獣の毛色が浮かぶ。落ち葉を軽やかに踏みしだき、一頭の馬が現れた。馬が男へ頬を摺り寄せる様を見て、イヨーリカは会得した。男は馬から乗り移ったのだ。

 馬車の二頭へ連なるよう馬を繋いだ男が、さて、と、イヨーリカを見た。
「ドムトルへ送るけれど、悪党を中で見張る? 前に座る?」
 昏倒した男を見張るも寒気立ち、身震いして御者席に並んだ。も、後ろを見張るよう言い付かり、体を横向けた。体勢がきつい。
「寄りかかって構わない。見張りに集中してもらわないといけないから」
「気を失っているわ」
「御者の他に居ただろ。乗る前に引きずり落としたが。追ってくれば不味い」
 沈黙に、知らなかったのかと男が呆ける様を、その男の腕に背を着けでさえ想像に容易い。背に男の声が響くを、震える身には心地よく染みる。
「何で攫われる羽目に?」
 得体の知れない男の前で金目の話をして良いものか、イヨーリカは口を噤んだ。
「…身に覚えはないわ。あ、あなたは? 何故、馬車にきたの?」
 訊いて、訊くべきではなかったかと身が竦んだが、男は飄々と馬を御している。
「夜の森に、招待も受けずに家紋入りの馬車が乗り込むなんて、そうはないさ。でもって、御者は辺りを伺っている。ともすれば、一人の男が御者の隣に合流した。御者は受け取った服に着替え始めた。使用人の服を仕舞い、そして、銃を取り出した。で、もう一人は、家紋を消しに掛かった。ね? 馬車を止めて悪巧みでも訊こうか、とも思い立つさ」
「あきれた…。危険だと知って飛び込むなんて…」
「おかげで、助かっただろ?」
「…ええ。今、あなたの向こう見ずに思い切り感謝しているわ。ありがとう。省みずに割って入ってくれて、本当に…私、一味だと思われたのね…でも、感謝だわ」
 苦々しくお礼を言えば、背を通して含み笑いが届いた。
「陰謀には美女が付き物だ。こんなお嬢さんの片棒なら担いでもいいかな、と揺らいだけどね」
「ふーん。何せ暗いものね。目も霞んだのよ、ご愁傷様」
「えらく謙遜だな。盗まれるほどの美女だと自覚していないのじゃないか? 私もいつもはうろついてないぞ? 次からは、自分の顔を鏡に映して相談するんだな、夜に一人で出かけられる器量か」
「仕方ないわ…仕事だもの」
 寄りかかる腕に気まずい反応が走ったと感じ、慌てて言い直した。
「仕立屋なの。今日はどうしてもと頼まれて服を仕上げに行っていたから。御者はそこの使用人だから、思いもしなかったわ」
「使用人…ではないだろうね。主人の客に銃を向ける使用人を囲む悪党、ドムトルには心当たりがないな」
「あら、町の人?」
「市にはよく行くからね。もう一人も捕まえたかったんだが」
「逃げたのではない?」
「やっかいだな…そうだな、このまま領主の館へ向かおうと思うが」
 それは、と、イヨーリカは反論した。あのお嬢様は領主の館でお披露目されるのだ。その家の使用人に襲われたなど訴え出ようものなら、取りやめになるかもしれない。
「客を庇うのか? 主人が黒幕でないとしても、身元不確かな使用人で女性を送った責任はあるだろう!」
 イヨーリカは、熱を含む腕から、僅かに背を離した。温まった背に、夜露に湿った風が吹き込む。と、何かの段差に乗り上げた馬車が揺らぎ、御者席の背にしこたま肘をぶつけてしまう。痛みに片目を瞑れば、開いた片目で腹に回る腕を見下ろした。腰に廻した手で再び手綱を握る男からは、確固たる意思が放たれて、イヨーリカも従わざるを得ない。

 手綱を振るう振動が腹を擦る。息が頭上に掛かり、肩越しに後背を観察する意識も、熱にぼやけていきそう。あたたかい。瞬時疼いた胸から、甘い息が漏れる。寄り掛かりたいと、頬を埋めてみたいと、吐息が幻想に誘い込む。
 胸中を叱咤して、声を出した。
「助けて頂いたあなたに頼むのは心苦しいけれど、判事へ届け出るだけで済ませたいの」
「しかし、下手に噂が流れでもしたら面倒だ。先にこちらの言い分を公にできる場へ駆け込むが最善と、私は指摘しておくよ」
「噂? 事件の?」
「ああ、そうだ。こうだった、と、公表せずに、襲った犯人が捕まれば、実はああだったのではないかと君に要らぬ憶測が付き纏う」
 証人がいるではないか、との反論を、イヨーリカは飲み込んだ。危険を押してまで手を貸した恩人に、これ以上何を期待して良いものか。思案に暮れれば、ため息が掛かった。
「分かったよ。君が望むなら、判事の家へ行こう。ただ、約束して。暫くは身辺に気を配って欲しい。御者はただの悪党ではない。君に想い入れがあるか、君が持つ何かが目当てか、動機でもない限り、人攫いにああも万全な仕度などしない。いずれにしろ、君にはその自覚も、自分を尊重する気もないようだからね。助け甲斐のない娘さんだよ」
「ごめんなさい。でも、ありがとう」
「ああ」

 馬の蹄が敷石を踏み始め、月が霧を遠ざける夜半。静かな夜空に軽やかな馬の駆け足が響く頃には、明かりもまだ灯る民家がちらほら見え、安堵に笑みが零れて、男を見上げた。チラと見下ろす男の目にも落ち着きが漂っている。
 それとなく、やはり背後の見張りを促され、馬車を止める間、一人、銃を構えた。体から、暖が去り、身震いする。
 一度庇護を受けるとこんなにも頼るようになるのかと、イヨーリカは、今のひ弱な心境をいぶかしんだ。もっとあの胸に居たかったと騒ぐ、この想いを。
 銃を渡し、判事の家の戸を打つ。宿直の者へと引き渡される御者は、未だ瞼を開かない。その手打ちを与えた男を、手腕の定かをイヨーリカは眺めた。判事にロワンと名乗っている。シロンの森で暮らす森番だと身上を話すが、判事も胡散臭く身体を見定めている。イヨーリカも当然だと肯くまでもなく、彼は判事の指摘に笑い、森の生態の研究に小屋を借りれば、城主から番も仰せ付かったから、守のようなものだ、と語った。
 学者なのだ。イヨーリカは目を背けた。

「取り調べに人手が塞がれているらしい。家まで送ろう」
 馬に水をやったところで、ロワンが近寄ってきた。誘惑に抗えない、と頷いた。暫くはまだ傍に居られると。
 月光にすっかり霧が息を潜め、道に並ぶ漆喰の壁や石畳を、煌々と月が照らし出す。馬上の途に身を置くイヨーリカは、足元で馬を引く男の手に、黒い影を認めて、小さく叫んだ。血溜だ。
 と、遠くから自分を呼ぶ声が通路に木霊してくる。祖母が家の前から路上へ足を進めるさまを見て、イヨーリカは手を借りて馬上から滑り降りていた。が、ロワンの歪む顔が視野に入り、思わず声高に叫んでいた。
「イア! この人、怪我をしているの!」

 血相を変えて駆けつけたイアは、見も知らぬロワンに噛み付きそうだったが、負傷した手を見るや、家の中へ案内した。手洗に水を張る合間、イアがロワンの血を拭う間にも、イヨーリカは一部始終を語っては、ロワンがいなければ、と、イアから賛辞を引き出すばかり。
「まあ、まあ…。それは、お世話になりました。何とお礼を申し上げてよいやら」
「いえ、こんな男でも人の役に立てたのかと、今、自我自賛中でしてね。いい気分ですよ、人助けも。ただ…」
「ただ? 何か私どもに…」
「あ、いえ、悪党の目論見が気になりましてね。明日は、いえ、既に今日ですが、遠出の用事がありまして、判事殿にはお会いできそうもないのです。仕返しがないと良いのですが。いや、中途半端に手助けして、懸念を残してしまい、申し訳ない」
「とんでもない! 感謝のほどは言い尽くしようもありません。どうぞ頭をお上げくださいませ」
「そうよ。ロワン様に謝られても困るわ…お礼だって」
 ロワンの傷に柔らかな布を巻くイヨーリカは、傷を負わせたどころか、謝罪に頭を下げさせたのかと、差し出すお礼もない節に胸を痛めた。この傷にキスを捧げたいくらいなのに。
「様とは、随分と距離を置かれたようだ。ああ、お礼を気にするなら、市に顔を見せに来てくれないか。君の無事を知らせに」

 失礼する、と、戸を抜け出ていくロワンの姿を、顔を赤らめて見送ったイヨーリカは、無事でよかったと、機に抱擁するイアの胸に頬を摺り寄せた。
「良かった…。あのお方様々だねぇ。市には何か持って行きなさい。何がいいかね」
「ハンカチ! それがいいわ。刺繍もして」
 お礼を伝える運びになると心待ちに瞳をきらめかせる孫に、考え込んだ風のイアが微かに笑った。
「ハンカチね。あなたの見る目は確かなようね」
「ハンカチが?」
「いいえ、ね。何でもありませんよ」

 判事へはイアが断固として対応に出かけた。イヨーリカにしてみれば、然したる被害を被ったとも攫われる間際であったとの感覚も薄く、噂を種に店を訪ねる客にうんざりで、事件には背を向けて忘れ去ってしまいたいばかりだ。
 商家の主人が謝罪に訪れた時には、暫く周辺に警護の者を置くとの申し出に、かどわかしは事実であったかと背筋を凍らせもしたが、次第にハンカチの縫い取りに熱中していった。
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