2 / 18
一章
二
しおりを挟む
市の朝は好天に恵まれた。昨夜の雨で、空気の塵も敷石の砂も洗い清められたよう。木々の葉先が日を浴びて照り輝いている。
市には近辺からの交易物も持ち込まれ、大抵は荷車を店代わりに品を広げる。いつもは賑わう人と塵埃でむせ返る市も、今日は清々しい気を吸いつつ、洗われた陽の注ぐ中で店先を散策できる。
ロワンは買出しに来るのだろうか、と、市の奥まで来たイヨーリカは辺りを見渡した。
一際高い声がさざめく荷車に若い娘達が群がっている。品は芳香を放つ物らしい。緑の苔を見止めれば、その上に薄茶の茸が積まれてある。隣は、表皮に霜が乗ったかに斑な赤い実。特に娘らが好む物でもあるまいに、と、見上げて、納得した。
「来たな。待っていたよ」
笑顔の背後も、晴天で眩しい。いや、心持ち、真朋に目を見られないのは、日差しのせいでもないだろう。
「店を出していたのね。森で取れたの?」
瑞々しい産物の他、乾物も幌の枠から吊るされている。幌はすっかり巻き上げられ、露を含んだ産物が、緑に赤に輝いて、森の息吹を醸し出す。畑の産物より鮮度も鮮やかだ。誇らしげに説明するロワンに、陽に溶け出すまま聞惚れていたが、やや痛い視線を感じ、娘達に場を譲った。
荷車の脇に立つ木から、離れた木へ、紐と共に掛かる布で、場が仕切ってある。その向こうから、馬達の鼻息が聞こえる。イヨーリカはその先へ抜け、懐かしい友の背を撫ぜた。布を通して他愛もない笑い声が抜ける中、対して、語らぬ友と話し込んでもみた。そうこうする内、残念がる声が聞こえたと思うと、ロワンが布を捲って現れた。
「もう終わったの?」
「ほら、殆どあちらが持っていくからね」
布を捲って示す先は、軽食を出す店のようだ。薄く焼いたパンに、油で炒めた茸を挟んでいる。赤いジャムを塗った物もある。火で頬を照らす女が、ロワンに気付いて軽く手を振る。熱さに竦めば、ロワンが暖かなパンを手に持たせたところだった。
寄越した丸椅子に腰掛け、ロワンは木元の岩に座り、二人で熱々のパンを頬張る。油の香りと鼻腔を擽る茸の匂いが堪らなく旨い。
早々に食べ終わったロワンは、樽の水で手ぬぐいを濡らした。油で光る革靴に水滴が散る。硬い革で頑丈な造りの靴だが、底面は毛の側を外にしている。森のしたばきには、具合が良いのだろう。前は長靴だったと身なりを見れば、木には他の衣服が掛かる。手ぬぐいで汗を拭かんと、シャツの前を外すロワンに、唖然とした。布の仕切りは、着替えの場だったからだ!
「ごめんなさい! 私、今」
「いや、こちらこそ、見苦しいなりですまない。一仕事の後だから、汗を拭いてからと…待って、どこ行くんだ? 測るんだろ?」
布に伸ばした手を止めた。待てと言われても、着替えを覗く趣味はない。測る?
「着替えるのでしょう?」
「そうだが。測らないのか?」
「何を?」
「何を、って、寸法じゃないのか」
間があった。が、思案しても事態が読み取れない。
「私が、測るの?」
「私ではどこを測ればいいのか分からないよ。シャツなんて縫ったことないからな」
穴が開くほど正気なのかと見つめれば、居心地悪そうにロワンが顎を掻いた。祖母がお礼にシャツを進呈すると申し出た、と言う。
は、と、笑いを自己へ向けてみた。確かに、木に掛かる服を見ても、森番の男がハンカチなど何処で使うというのだ。それも刺繍付の。愛用は手ぬぐいなのだから、と、苦々しくロワンが握る布を見やった。この間の騒動で、シャツも痛んだか破れたかしたに違いない。イアは、孫が馬鹿なお礼をする恥を未然に防いでくれたようだ。
「汗なんて。脱がなくてもいいのよ。このまま採寸するわ。でも、イアに会ったの?」
「イア? ああ、グライアヌさんか。判事殿の家でね。市の牢へ移送されたと聞いた。相棒の居所は吐かないままだともね」
「とっくに逃亡しているわよ」
「だといいんだが」
背後で採寸を終え、前に回って、似合う型を容姿に重ねて思案する。その視界の中、ロワンが口籠っているよう。軽く咳払いもしている。採寸に男の肢体へ触れるも慣れたイヨーリカだが、中には萎縮し過剰に振舞う性質の男もいる。ロワンは割りに慣れた風だったが、その手の男だったのかと、巻尺を巻き取ろうとした。
「会える暇は、そうは作ってもらえないかな?」
巻く手が止まる。深く動悸を鳴らせば、後は小刻みに衝撃の余波が血に乗せられ、全身を巡る。掴まれた手でも、動揺は読み取られているだろう。
「あれから君の安否が気に掛かって。傷は良くなったのか?」
不意に口元へと手が添えられ。指が口角をなぞった。余韻が唇を充血させる。開いた唇から思うよう息も吐けず、胸を疼かせる甘い息が、胸の内で充満し、より一層胸を締め付ける。
「帯刀してはどうかな。使えるのだろう? 幾分かは」
女二人暮らし故に、多少の手ほどきは受けている。仕草を観察されていたかと思えば、想われていたのかと、胸が温まる。満足げな吐息が漸く胸から絞り出された。
「だが、あれでは不足だろう。暇を見て、手を加えたい。何時なら構わない?」
瞼を瞬いた。会うのは、私と会うのは、護身術でも覚えさせるため?
思い上がりに、先程より頬に朱が混じるというものだ。
「結構だわ! いえ…お願いするわ」
報われぬ恋にしがみ付くみっともない女には成りたくないと、日頃そんな娘を眺めたものだが、まさか自分がそうなるとは。でも、会いたいもの。柔らかな瞳が返答を待ってくれている。厚意を利用する自分がさもしいが、イヨーリカは答えた。
「できれば、市の日が。昼までに店開きするなら、その後でお願いするわ」
「上等だ。では、急いで荷造りしよう。あー、名を聞いてなかったな」
「そう? イヨーリカよ。よろしく、ロワン」
川縁に出た。荷車から解き放たれた馬も、ロワンの愛馬も、登り詰めた日差しをたっぷりの睫に溜めて、のんびりと草を食む。平らな草場で、それは始まった。
剣さばきも指南するが、専ら素手での回避術を教えるロワン。であれば、時に相手役をロワンが演じるが、かわせない。町娘が知ろうはずもない剣に驚くロワンも、これには、荒い息の中、叱咤が飛び交う。とて、イヨーリカはロワンを弾くもままならい。襲われても、ロワンなら、と、身が砕けてしまうのだから。
剣の筋は良いのに、と、怪訝そうな男から一通りの型を教わると、次回は鍛錬だと、次を約束する二人。逢引ではないが、十分待ち遠しい。
家まで送ったロワンに、イヨーリカを連れ出した苦情を珍しくも言わぬイアが、訳を聞きつつ、眉を顰めた。
「またえらく健全なお出かけだねぇ」
「随分と寛容なのね、ロワンには」
憎まれ口の影で、想いを隠す。でも、確かにこんなイアは見たことがない。宿屋の息子のヨハと夜店へ出かけた時は、嫁入り前の娘は身を慎めと、随分な小言を貰った。前の町でも、学び舎に男子も通うと知って、行儀作法を学ぶだけの手習い所へ所属を移された。専ら学業はイアが家で教えたようなものだ。
それでも、町の娘の大半は手習い所へもそうは通わないのだから、恵まれている。商いの家なら娘とて学び舎へ行きもするだろうが、算術だけでなく地理や歴史も学んだ奇特な娘は、この町でもイヨーリカぐらいだろう。
が、教養と品性を持てと口煩いイアは、この商いにそれらが役立つと知っての親心なのだろうが、年頃の娘からは敬遠されるわ、男共には冷やかされるか物好きに恭しく扱われるかで、恋人を作るには足枷だった。
ヨハだけだ。キスをする仲になったのも。幼い頃にもあるが、それは勘定に入らない。それだけ身辺に男の影を嫌った祖母だが、ロワンには気安いようだ。
「ハンカチは喜んだの?」
「だって! シャツをあげるのでしょう? 採寸してきたわよ」
「渡さなかったの? 渡せばいいのにね」
「要らないわよ」
「そうかね。すんなり受け取るだろうよ、あの男なら」
青葉がうだつ頃合となった。あの商家のお嬢様が夜会で店の名を引き合いに出したとみえ、上流のお客も増え始めている。忙しさにかまけ、合間にロワンのシャツを仕立てたりで、ロワンの手解きを知ってからは町の修練場には出向かないでいた。
ヨハの親友の鍛冶屋が、余財で修練場を設け、若者などを募って自衛団を組んでいる。保養地と名高いドムトルでは、社交期ともなれば住民の半数以上が町から消える。貴族もそうだが、周りに群がる商い人も共に流れていく。
当然、防衛機能は崩壊する。残る町人は顔見知りばかりで治安が悪くなりようもないが、外からの襲撃には守る術もないと、振るう相手は野生の獣だったりするのだが、自衛団が設けられた。
手習い所で仲の良かったヨハの妹に連れられ、専ら若者の集う場と化した自衛団の修練場へ通っては、長に剣を習った。小さい頃に下男から仕込まれていたイヨーリカは、勘が戻るのも時間の問題で、男手相手にも交えたりした。住民が減る時期は、商売も相手がいないため、狩に勤しむ者もいて、糧を得れる弓の修練には多くの町の者が集う。
今は、滞在する貴族相手へ住民が挙って群がる繁忙期。修練場に集う人も疎らだから、出向かない自分が浮き彫りになるとも思わず、ヨハが店に理由を尋ねに訪れた時は少なからず驚いた。
「皆が心配しているよ、リッカ」
「うん、手も塞がっていて。大口の注文も頂いたところだから、まだ当分は」
「この間の一件を気に病んでいるの?」
普段は人当たりも軽やかなヨハが、実直な面差しでいる。ふわふわと渦巻く赤茶の髪の様に似て、相変わらず口調は柔らかだが、緑の瞳が翳って宛ら深海を思わせる色合いだ。
一件とはどの件か、との返事を飲み込んだイヨーリカは、噂に群がって来訪した知合いの中にそういえばヨハが居なかったと思い当たり、裁縫の手を止め、お茶を出した。
「何よ、今頃。皆は、災難だったね、と、慰めに来たのに」
「それは、遠慮していたからだよ!」
久しぶりの友をからかった積もりだったが、意外にも冗談が通じないヨハに、慌てて取り繕った。
「分かっているわ。それがヨハの優しいところよね。顔を見に来てくれてありがとう」
「うん。なあ、市の日は休みだろ? 今、楽師らが泊まってんだ。宿で演奏も聞けるからさ。家に来なよ」
「行けないわ」
「もう人目を避けなくてもいいだろ」
ヨハが拒絶に傷ついた瞳でいる。が、思いもしない言葉にイヨーリカは、苛立った。
「単に忙しかっただけよ。ヨハまで勘ぐるの?」
「皆、言ってるさ! 俺だって、親父から会うのは止められてたんだ。暫く経ったし、親父の心配も消えただろって、漸く説得して来たんだ! 断るなよ」
「説得って…心配って何よ、それ…。人前に出られないことなんて起きなかったわ!」
「知ってる! リッカを助けってたってやつが、家の食堂で自慢げに話してたよ!」
追い出そうかとせっついたヨハを、思わず、掴んだ。ロワンが?
「そもそもリッカが堂々と出てきてれば、良かったんだ。そんな元気な顔してんだもんな、直ぐに噂も静まったよ。なら、あいつの出る幕でもなかったのに。いい餌食だよ、かみさん連中の。まあ、おかげで親父からも許可が出たんだけどさ」
「そう…」
すっかり声を潜めたイヨーリカに、ヨハが頬を照らして笑った。
「なあ、だから見に来いよ。宮廷で演奏する楽師らしいぞ」
「あの、でもね、その日は都合が」
「もういいだろ。そんな働かなくとも、さ」
強張った笑みのヨハに、一度は収めた苛立ちが爆発した。
「今働かなくて何時働くのよ! ヨハも少しは家業を手伝えば?」
「やってるさ! 真面目に。だから、お許しが出たんだよ」
「へぇ? 遊んでいいって?」
「違うよ。結婚だよ」
「結婚! 良かったわね! だったらもっと稼がないと」
続きは言葉にならない。口が塞がれている。咄嗟に腕だけはヨハの胸に突いたらしい。けれど、ヨハが背に廻した腕をきつく締めていく。瞳の間近で、ヨハの瞳が煌いて閉じていく。呆然と成り行きを許していたが、ヨハが唇を奪っているのだと気づき、辛うじて顔を逸らした。
「大事にするよ…」
と、囁きを耳にすれば、イヨーリカはヨハを突き飛ばしていた。
よろけたヨハの手が、台の上の道具箱をなぎ払った。針が床に散乱する音が、鈴の音の様に広がる。何にも執着しなかったヨハが、今、目前で決死の視線を寄こしている。試してみるかと軽くキスを誘った、少年ではない。近寄る足取りに、思慮を含んだ重々しさを漂わす。
「待って」
言い放てば、ヨハが口を結んで立ち止まった。
「俺は前からリッカを貰うって決めてた」
貰う? ヨハの家に? 私がヨハの家に嫁ぐ? さっぱり想像もできず、頭を振った。
「分かったわ」
「じゃあ」
「違う! ヨハの言いたい事は分かった。でも…」
「考えてなかった?」
半笑いで瞳が空ろに泳ぐヨハを見れば、心当たりに胸が痛む。確かにヨハ以上に身近な男は居なかったし、それはヨハにも言える。
「今は、まだ…」
「なら、求婚を預けるから、考えてよ」
「え、ええ。そう…ね」
昼下がりの賑やかな人通りも、黙りこくった二人の静けさには勝てず、その喧騒を戸や窓を通して運んでも来ない。イヨーリカが先に動いた。イアが戻ってくる頃合だ。ヨハも視線の先を感じたようだ。無理に笑みをひねり出して、戸へ向かった。
「また、来るよ」
「ええ。またね、ヨハ」
思考が纏まらないまま、床の針へ手を伸ばす。拾っては刺し、刺しては指を舐めてばかり。帰宅したイアが怪訝そうに顛末を尋ねるが、茶器が出ていると気づく祖母も、言い訳に上の空の孫からは何も聞き出せなかった。
店が捌けたロワンが、サムウォル仕立屋にイヨーリカを尋ねる。この頃はそれが市の日の恒例となっていた。昼も早々に現れたロワンは、先日渡したシャツを着付けており、何時になくはしゃいでいるよう。イアに促され、そんなロワンにハンカチを渡した。幾重にも満面の笑みでお礼を言うロワン。
捉え処ない男だ、と、イヨーリカはヨハとの一幕を思い起こした。ブロッソンの宿に何故泊まったのだろう。
実家は知らないが、今は森番と暮らすロワン。身なりも、このシャツも、森番には少々品行方正過ぎやしまいか。見立てたイアは彼の風貌から察したのだろうが、単衣に森番と言っても、その地位には幅がある。
貴族に仕える森番なら、部下を従え、就寝は貴族の館でか、旅に出ても同等の屋敷宿だろう。扱う森の領地の広さと帰属する主人の位如何で、領主だったり、館の執事以上の身分を得ていたり、獣同様の暮らしぶりだったりもする。が、森小屋に就寝を義務付けられないほどの森番が、ブロッソンの宿風情に宿を取るだろうか。増して、旅という程の距離もない。
シロンの森は、ドムトルの領主の管轄にない。ドムトルはヤーシュト男爵の領地だが、シロンの森はウォーグ卿が所有する。町の者もシロンの森へ狩には入らない。ならばシロンの森の産物は物珍しいから、市で売れ行きが良いのも頷けるが、売り上げを卿に収めなければいけないだろうに、宿に一泊するのだろうか。市の日ではなく別の用事で?
知らない一面があるのかと、イヨーリカは嫉妬に心が塞ぐ。諸全は、仮住まいに仮の職業。何時かは帰るのだろうか。研究とやらを終えて。
ヨハなら気心も知れて、何分、家の事情も明らかだ。ヨハが求婚に思い至るのも当然で、町で同年の娘は何人もいまい。商いを知る娘なら宿の嫁として具合もいいだろうし、身分も相応だ。しかも、祖母に配慮できる結婚だ。
しかし、裁縫に染まって生きてきたイヨーリカにとって、裁縫で生計を立てない人生など、思っても見ない未来だった。
それに、傍に居れば胸が騒ぐロワンと出会ってしまった。本業は学者らしいが、シロンの森番だとて、町娘には求婚を期待できる人達ではない。そうと胸に釘を刺しても、ロワンに会う日を心待ちにしてしまう。
ヨハの求婚を受けるのは、困難だろう。と、イアと談笑するロワンを見て、不思議にも、こうして縫い物をしている姿が自然で馴染んだ光景のように思えた。
いつもの川辺で、馬達が涼しげな木陰を楽しむ中、汗を散らす二人。男は若干苛立たしく女を煽るが、草の蒸せる香りに汗の匂いも混じると感じて、女は一向に凄みは持てない。男の生真面目さに、女もやや機嫌を損ね、川面が午後のだるい日差しを照り返す中、男が不意に打ち切った。
「そんな当て身では衝撃を中てられないよ」
靴を脱いでズボンを捲くったロワンは、川に足を沈めに進む。イヨーリカも水に浸した布で肌を冷やそうと、川に下りた。
「怪我をさせたくないもの」
「では、実際の敵に同情は無用だと、言っておくよ。暫くは顔を出せないから」
首に当てた布が、重く草の上に落ちた。拾って挿し掲げてくるロワンの顔を、まともに見られない。手を伸ばせば触れる距離に今居るロワンが、恋しく、胸が苛まれる。
「ほら、どうしたの?」
「う、ん」
ロワンの隣へ腰を下ろした。頬を刺す日差しに茹だる気温だが、お腹の辺りが不安に冷え冷えとしている。と、頻りに布を当て直す横で、またも手を止める言葉をロワンが言ってのける。
「また、訪ねても、よいものかな」
訊ねるでも自問でも取れる口調のロワンに、イヨーリカははっきりと頷いた。
「結婚をするのではないのか? 申し込まれたのだろう?」
「それ…。あ、いいえ、返事はまだ」
ちゃぷり、と、ロワンが水音を立てる。視線は水面を追ってばかりだ。
「ヨハといったかな、彼が、私に跪いた。感謝すると。ああ、宿でね、イヨーリカの話題が出たから、まあ、その、私が偶然、捕縛を手伝ったと話しておいた。その方がいいと思ってね」
「そう。ありがとう、噂を消してくれて」
「いや、まあ、私がしなくとも、きっと彼が正しただろうけどね。彼は、噂も耳に貸さない勢いだった。彼の矜持を挫いたようだったが、それでも、君を救ったことも、噂話の場に混じったことへも、お礼を言っていた。そうできる振る舞いでもない」
ロワンが口を噤んだ。が、せせらぎに混じる水音が、何か言いたげだと知らしめている。水に漬けた足は何を探るでもない。水底の土ぼこりを沸き起こしては、石を裏返し、また石を転がすが、特に熱中してでなく、思案に暮れての手持ち無沙汰とみえる。
「返事を訊いても構わないかな?」
長い間を過ごして、ロワンが顔を上げた。イヨーリカは萎縮した。ヨハへの返事を訊かれるのか、断ると言えば、理由も訊ねられるのか、何故こうも私の結婚に関心など持つのか。この男に対してより、ヨハにはすんなりと返事を返せるだろう。胸の内を知られるのがこれ程怖い男はいまい。
「君の心に、少しは、私も居るのだろうか」
また無言が続く。けれど、今度は見つめあったまま。そして、もう瞼を開けては居られない。誰が教えたでもない、誰から教わったでもない、自然に瞼を閉じ、キスを受け入れる。何も言われずとも、唇を求められていると、この唇が知っていた。
齎された心地よさに陶酔する。キスは、何度と、数えられる類なのか、重なる唇は、離れず、しかし、何度も求め合う。いつ終わるとも知れず、気付けば、ロワンの胸で甘い息を吐いていた。
「これが答えと思ってもいいのか?」
抱かれた胸から響く声に、頷いた。
「では、私も、覚悟をしないとな」
気力も砕けて身を預けていた胸から、体を起こした。
「忘れて! 今のは…」
覚悟。それをさせてしまうのだ。私の気持ちを知って? 町の娘に好かれたと知って、キスをして、覚悟? 私が恋人になってしまうから? 恋人…なんて愚かな!
イヨーリカは、立ち上がらせてくれたロワンから、咄嗟に離れた。イアが知ったら、イアがあれ程口煩く言って聴かされ続けてきたのに、そこへ私が足を踏み入れたと知ったら、イアは…。
「無駄だよ。君の唇は、君より素直で、雄弁だから」
陽も低くなって鈍いきらめきを放つ水面に反し、ロワンの瞳が明るく潤んで輝く。けれど、口元は、これからの覚悟を、その苦慮を躊躇っているかのよう。
「君を迎え入れる準備もしないといけない。戻りは少し伸びるが、留守の間、彼の求婚は受けないでくれよ?」
「帰して!」
イヨーリカは声高に叫んだ。肌寒い夕方の風が、イヨーリカのスカートをはためかせる。その音にめげず、声を荒げた。
「家に帰して! この話はお終いよ」
「何故? イヨーリカ、君は私を」
「そんなこと、望んでないから。あなたとは…。帰さないなら、一人で帰るわ!」
日が落ちるのも時間の問題だ。言い合いを続ければ、日暮れに帰る羽目になる。そうなれば、イヨーリカが拒否したところで、周囲はその目で見るだろう。愛人に落ちたと。
戸惑っているロワンも、空に日差しの暗さを見止めたよう。納得しないとため息は漏らすが、イヨーリカを馬に乗せた。岐路は、蹄の音がのろく響く、嫌な道のりだった。また訪ねると言うロワンに、イヨーリカは首を振るばかりで、家へ駆け込んだ。
「夕餉には呼ばなかったのかい?」
「ロワンは、もう来ないわ!」
市には近辺からの交易物も持ち込まれ、大抵は荷車を店代わりに品を広げる。いつもは賑わう人と塵埃でむせ返る市も、今日は清々しい気を吸いつつ、洗われた陽の注ぐ中で店先を散策できる。
ロワンは買出しに来るのだろうか、と、市の奥まで来たイヨーリカは辺りを見渡した。
一際高い声がさざめく荷車に若い娘達が群がっている。品は芳香を放つ物らしい。緑の苔を見止めれば、その上に薄茶の茸が積まれてある。隣は、表皮に霜が乗ったかに斑な赤い実。特に娘らが好む物でもあるまいに、と、見上げて、納得した。
「来たな。待っていたよ」
笑顔の背後も、晴天で眩しい。いや、心持ち、真朋に目を見られないのは、日差しのせいでもないだろう。
「店を出していたのね。森で取れたの?」
瑞々しい産物の他、乾物も幌の枠から吊るされている。幌はすっかり巻き上げられ、露を含んだ産物が、緑に赤に輝いて、森の息吹を醸し出す。畑の産物より鮮度も鮮やかだ。誇らしげに説明するロワンに、陽に溶け出すまま聞惚れていたが、やや痛い視線を感じ、娘達に場を譲った。
荷車の脇に立つ木から、離れた木へ、紐と共に掛かる布で、場が仕切ってある。その向こうから、馬達の鼻息が聞こえる。イヨーリカはその先へ抜け、懐かしい友の背を撫ぜた。布を通して他愛もない笑い声が抜ける中、対して、語らぬ友と話し込んでもみた。そうこうする内、残念がる声が聞こえたと思うと、ロワンが布を捲って現れた。
「もう終わったの?」
「ほら、殆どあちらが持っていくからね」
布を捲って示す先は、軽食を出す店のようだ。薄く焼いたパンに、油で炒めた茸を挟んでいる。赤いジャムを塗った物もある。火で頬を照らす女が、ロワンに気付いて軽く手を振る。熱さに竦めば、ロワンが暖かなパンを手に持たせたところだった。
寄越した丸椅子に腰掛け、ロワンは木元の岩に座り、二人で熱々のパンを頬張る。油の香りと鼻腔を擽る茸の匂いが堪らなく旨い。
早々に食べ終わったロワンは、樽の水で手ぬぐいを濡らした。油で光る革靴に水滴が散る。硬い革で頑丈な造りの靴だが、底面は毛の側を外にしている。森のしたばきには、具合が良いのだろう。前は長靴だったと身なりを見れば、木には他の衣服が掛かる。手ぬぐいで汗を拭かんと、シャツの前を外すロワンに、唖然とした。布の仕切りは、着替えの場だったからだ!
「ごめんなさい! 私、今」
「いや、こちらこそ、見苦しいなりですまない。一仕事の後だから、汗を拭いてからと…待って、どこ行くんだ? 測るんだろ?」
布に伸ばした手を止めた。待てと言われても、着替えを覗く趣味はない。測る?
「着替えるのでしょう?」
「そうだが。測らないのか?」
「何を?」
「何を、って、寸法じゃないのか」
間があった。が、思案しても事態が読み取れない。
「私が、測るの?」
「私ではどこを測ればいいのか分からないよ。シャツなんて縫ったことないからな」
穴が開くほど正気なのかと見つめれば、居心地悪そうにロワンが顎を掻いた。祖母がお礼にシャツを進呈すると申し出た、と言う。
は、と、笑いを自己へ向けてみた。確かに、木に掛かる服を見ても、森番の男がハンカチなど何処で使うというのだ。それも刺繍付の。愛用は手ぬぐいなのだから、と、苦々しくロワンが握る布を見やった。この間の騒動で、シャツも痛んだか破れたかしたに違いない。イアは、孫が馬鹿なお礼をする恥を未然に防いでくれたようだ。
「汗なんて。脱がなくてもいいのよ。このまま採寸するわ。でも、イアに会ったの?」
「イア? ああ、グライアヌさんか。判事殿の家でね。市の牢へ移送されたと聞いた。相棒の居所は吐かないままだともね」
「とっくに逃亡しているわよ」
「だといいんだが」
背後で採寸を終え、前に回って、似合う型を容姿に重ねて思案する。その視界の中、ロワンが口籠っているよう。軽く咳払いもしている。採寸に男の肢体へ触れるも慣れたイヨーリカだが、中には萎縮し過剰に振舞う性質の男もいる。ロワンは割りに慣れた風だったが、その手の男だったのかと、巻尺を巻き取ろうとした。
「会える暇は、そうは作ってもらえないかな?」
巻く手が止まる。深く動悸を鳴らせば、後は小刻みに衝撃の余波が血に乗せられ、全身を巡る。掴まれた手でも、動揺は読み取られているだろう。
「あれから君の安否が気に掛かって。傷は良くなったのか?」
不意に口元へと手が添えられ。指が口角をなぞった。余韻が唇を充血させる。開いた唇から思うよう息も吐けず、胸を疼かせる甘い息が、胸の内で充満し、より一層胸を締め付ける。
「帯刀してはどうかな。使えるのだろう? 幾分かは」
女二人暮らし故に、多少の手ほどきは受けている。仕草を観察されていたかと思えば、想われていたのかと、胸が温まる。満足げな吐息が漸く胸から絞り出された。
「だが、あれでは不足だろう。暇を見て、手を加えたい。何時なら構わない?」
瞼を瞬いた。会うのは、私と会うのは、護身術でも覚えさせるため?
思い上がりに、先程より頬に朱が混じるというものだ。
「結構だわ! いえ…お願いするわ」
報われぬ恋にしがみ付くみっともない女には成りたくないと、日頃そんな娘を眺めたものだが、まさか自分がそうなるとは。でも、会いたいもの。柔らかな瞳が返答を待ってくれている。厚意を利用する自分がさもしいが、イヨーリカは答えた。
「できれば、市の日が。昼までに店開きするなら、その後でお願いするわ」
「上等だ。では、急いで荷造りしよう。あー、名を聞いてなかったな」
「そう? イヨーリカよ。よろしく、ロワン」
川縁に出た。荷車から解き放たれた馬も、ロワンの愛馬も、登り詰めた日差しをたっぷりの睫に溜めて、のんびりと草を食む。平らな草場で、それは始まった。
剣さばきも指南するが、専ら素手での回避術を教えるロワン。であれば、時に相手役をロワンが演じるが、かわせない。町娘が知ろうはずもない剣に驚くロワンも、これには、荒い息の中、叱咤が飛び交う。とて、イヨーリカはロワンを弾くもままならい。襲われても、ロワンなら、と、身が砕けてしまうのだから。
剣の筋は良いのに、と、怪訝そうな男から一通りの型を教わると、次回は鍛錬だと、次を約束する二人。逢引ではないが、十分待ち遠しい。
家まで送ったロワンに、イヨーリカを連れ出した苦情を珍しくも言わぬイアが、訳を聞きつつ、眉を顰めた。
「またえらく健全なお出かけだねぇ」
「随分と寛容なのね、ロワンには」
憎まれ口の影で、想いを隠す。でも、確かにこんなイアは見たことがない。宿屋の息子のヨハと夜店へ出かけた時は、嫁入り前の娘は身を慎めと、随分な小言を貰った。前の町でも、学び舎に男子も通うと知って、行儀作法を学ぶだけの手習い所へ所属を移された。専ら学業はイアが家で教えたようなものだ。
それでも、町の娘の大半は手習い所へもそうは通わないのだから、恵まれている。商いの家なら娘とて学び舎へ行きもするだろうが、算術だけでなく地理や歴史も学んだ奇特な娘は、この町でもイヨーリカぐらいだろう。
が、教養と品性を持てと口煩いイアは、この商いにそれらが役立つと知っての親心なのだろうが、年頃の娘からは敬遠されるわ、男共には冷やかされるか物好きに恭しく扱われるかで、恋人を作るには足枷だった。
ヨハだけだ。キスをする仲になったのも。幼い頃にもあるが、それは勘定に入らない。それだけ身辺に男の影を嫌った祖母だが、ロワンには気安いようだ。
「ハンカチは喜んだの?」
「だって! シャツをあげるのでしょう? 採寸してきたわよ」
「渡さなかったの? 渡せばいいのにね」
「要らないわよ」
「そうかね。すんなり受け取るだろうよ、あの男なら」
青葉がうだつ頃合となった。あの商家のお嬢様が夜会で店の名を引き合いに出したとみえ、上流のお客も増え始めている。忙しさにかまけ、合間にロワンのシャツを仕立てたりで、ロワンの手解きを知ってからは町の修練場には出向かないでいた。
ヨハの親友の鍛冶屋が、余財で修練場を設け、若者などを募って自衛団を組んでいる。保養地と名高いドムトルでは、社交期ともなれば住民の半数以上が町から消える。貴族もそうだが、周りに群がる商い人も共に流れていく。
当然、防衛機能は崩壊する。残る町人は顔見知りばかりで治安が悪くなりようもないが、外からの襲撃には守る術もないと、振るう相手は野生の獣だったりするのだが、自衛団が設けられた。
手習い所で仲の良かったヨハの妹に連れられ、専ら若者の集う場と化した自衛団の修練場へ通っては、長に剣を習った。小さい頃に下男から仕込まれていたイヨーリカは、勘が戻るのも時間の問題で、男手相手にも交えたりした。住民が減る時期は、商売も相手がいないため、狩に勤しむ者もいて、糧を得れる弓の修練には多くの町の者が集う。
今は、滞在する貴族相手へ住民が挙って群がる繁忙期。修練場に集う人も疎らだから、出向かない自分が浮き彫りになるとも思わず、ヨハが店に理由を尋ねに訪れた時は少なからず驚いた。
「皆が心配しているよ、リッカ」
「うん、手も塞がっていて。大口の注文も頂いたところだから、まだ当分は」
「この間の一件を気に病んでいるの?」
普段は人当たりも軽やかなヨハが、実直な面差しでいる。ふわふわと渦巻く赤茶の髪の様に似て、相変わらず口調は柔らかだが、緑の瞳が翳って宛ら深海を思わせる色合いだ。
一件とはどの件か、との返事を飲み込んだイヨーリカは、噂に群がって来訪した知合いの中にそういえばヨハが居なかったと思い当たり、裁縫の手を止め、お茶を出した。
「何よ、今頃。皆は、災難だったね、と、慰めに来たのに」
「それは、遠慮していたからだよ!」
久しぶりの友をからかった積もりだったが、意外にも冗談が通じないヨハに、慌てて取り繕った。
「分かっているわ。それがヨハの優しいところよね。顔を見に来てくれてありがとう」
「うん。なあ、市の日は休みだろ? 今、楽師らが泊まってんだ。宿で演奏も聞けるからさ。家に来なよ」
「行けないわ」
「もう人目を避けなくてもいいだろ」
ヨハが拒絶に傷ついた瞳でいる。が、思いもしない言葉にイヨーリカは、苛立った。
「単に忙しかっただけよ。ヨハまで勘ぐるの?」
「皆、言ってるさ! 俺だって、親父から会うのは止められてたんだ。暫く経ったし、親父の心配も消えただろって、漸く説得して来たんだ! 断るなよ」
「説得って…心配って何よ、それ…。人前に出られないことなんて起きなかったわ!」
「知ってる! リッカを助けってたってやつが、家の食堂で自慢げに話してたよ!」
追い出そうかとせっついたヨハを、思わず、掴んだ。ロワンが?
「そもそもリッカが堂々と出てきてれば、良かったんだ。そんな元気な顔してんだもんな、直ぐに噂も静まったよ。なら、あいつの出る幕でもなかったのに。いい餌食だよ、かみさん連中の。まあ、おかげで親父からも許可が出たんだけどさ」
「そう…」
すっかり声を潜めたイヨーリカに、ヨハが頬を照らして笑った。
「なあ、だから見に来いよ。宮廷で演奏する楽師らしいぞ」
「あの、でもね、その日は都合が」
「もういいだろ。そんな働かなくとも、さ」
強張った笑みのヨハに、一度は収めた苛立ちが爆発した。
「今働かなくて何時働くのよ! ヨハも少しは家業を手伝えば?」
「やってるさ! 真面目に。だから、お許しが出たんだよ」
「へぇ? 遊んでいいって?」
「違うよ。結婚だよ」
「結婚! 良かったわね! だったらもっと稼がないと」
続きは言葉にならない。口が塞がれている。咄嗟に腕だけはヨハの胸に突いたらしい。けれど、ヨハが背に廻した腕をきつく締めていく。瞳の間近で、ヨハの瞳が煌いて閉じていく。呆然と成り行きを許していたが、ヨハが唇を奪っているのだと気づき、辛うじて顔を逸らした。
「大事にするよ…」
と、囁きを耳にすれば、イヨーリカはヨハを突き飛ばしていた。
よろけたヨハの手が、台の上の道具箱をなぎ払った。針が床に散乱する音が、鈴の音の様に広がる。何にも執着しなかったヨハが、今、目前で決死の視線を寄こしている。試してみるかと軽くキスを誘った、少年ではない。近寄る足取りに、思慮を含んだ重々しさを漂わす。
「待って」
言い放てば、ヨハが口を結んで立ち止まった。
「俺は前からリッカを貰うって決めてた」
貰う? ヨハの家に? 私がヨハの家に嫁ぐ? さっぱり想像もできず、頭を振った。
「分かったわ」
「じゃあ」
「違う! ヨハの言いたい事は分かった。でも…」
「考えてなかった?」
半笑いで瞳が空ろに泳ぐヨハを見れば、心当たりに胸が痛む。確かにヨハ以上に身近な男は居なかったし、それはヨハにも言える。
「今は、まだ…」
「なら、求婚を預けるから、考えてよ」
「え、ええ。そう…ね」
昼下がりの賑やかな人通りも、黙りこくった二人の静けさには勝てず、その喧騒を戸や窓を通して運んでも来ない。イヨーリカが先に動いた。イアが戻ってくる頃合だ。ヨハも視線の先を感じたようだ。無理に笑みをひねり出して、戸へ向かった。
「また、来るよ」
「ええ。またね、ヨハ」
思考が纏まらないまま、床の針へ手を伸ばす。拾っては刺し、刺しては指を舐めてばかり。帰宅したイアが怪訝そうに顛末を尋ねるが、茶器が出ていると気づく祖母も、言い訳に上の空の孫からは何も聞き出せなかった。
店が捌けたロワンが、サムウォル仕立屋にイヨーリカを尋ねる。この頃はそれが市の日の恒例となっていた。昼も早々に現れたロワンは、先日渡したシャツを着付けており、何時になくはしゃいでいるよう。イアに促され、そんなロワンにハンカチを渡した。幾重にも満面の笑みでお礼を言うロワン。
捉え処ない男だ、と、イヨーリカはヨハとの一幕を思い起こした。ブロッソンの宿に何故泊まったのだろう。
実家は知らないが、今は森番と暮らすロワン。身なりも、このシャツも、森番には少々品行方正過ぎやしまいか。見立てたイアは彼の風貌から察したのだろうが、単衣に森番と言っても、その地位には幅がある。
貴族に仕える森番なら、部下を従え、就寝は貴族の館でか、旅に出ても同等の屋敷宿だろう。扱う森の領地の広さと帰属する主人の位如何で、領主だったり、館の執事以上の身分を得ていたり、獣同様の暮らしぶりだったりもする。が、森小屋に就寝を義務付けられないほどの森番が、ブロッソンの宿風情に宿を取るだろうか。増して、旅という程の距離もない。
シロンの森は、ドムトルの領主の管轄にない。ドムトルはヤーシュト男爵の領地だが、シロンの森はウォーグ卿が所有する。町の者もシロンの森へ狩には入らない。ならばシロンの森の産物は物珍しいから、市で売れ行きが良いのも頷けるが、売り上げを卿に収めなければいけないだろうに、宿に一泊するのだろうか。市の日ではなく別の用事で?
知らない一面があるのかと、イヨーリカは嫉妬に心が塞ぐ。諸全は、仮住まいに仮の職業。何時かは帰るのだろうか。研究とやらを終えて。
ヨハなら気心も知れて、何分、家の事情も明らかだ。ヨハが求婚に思い至るのも当然で、町で同年の娘は何人もいまい。商いを知る娘なら宿の嫁として具合もいいだろうし、身分も相応だ。しかも、祖母に配慮できる結婚だ。
しかし、裁縫に染まって生きてきたイヨーリカにとって、裁縫で生計を立てない人生など、思っても見ない未来だった。
それに、傍に居れば胸が騒ぐロワンと出会ってしまった。本業は学者らしいが、シロンの森番だとて、町娘には求婚を期待できる人達ではない。そうと胸に釘を刺しても、ロワンに会う日を心待ちにしてしまう。
ヨハの求婚を受けるのは、困難だろう。と、イアと談笑するロワンを見て、不思議にも、こうして縫い物をしている姿が自然で馴染んだ光景のように思えた。
いつもの川辺で、馬達が涼しげな木陰を楽しむ中、汗を散らす二人。男は若干苛立たしく女を煽るが、草の蒸せる香りに汗の匂いも混じると感じて、女は一向に凄みは持てない。男の生真面目さに、女もやや機嫌を損ね、川面が午後のだるい日差しを照り返す中、男が不意に打ち切った。
「そんな当て身では衝撃を中てられないよ」
靴を脱いでズボンを捲くったロワンは、川に足を沈めに進む。イヨーリカも水に浸した布で肌を冷やそうと、川に下りた。
「怪我をさせたくないもの」
「では、実際の敵に同情は無用だと、言っておくよ。暫くは顔を出せないから」
首に当てた布が、重く草の上に落ちた。拾って挿し掲げてくるロワンの顔を、まともに見られない。手を伸ばせば触れる距離に今居るロワンが、恋しく、胸が苛まれる。
「ほら、どうしたの?」
「う、ん」
ロワンの隣へ腰を下ろした。頬を刺す日差しに茹だる気温だが、お腹の辺りが不安に冷え冷えとしている。と、頻りに布を当て直す横で、またも手を止める言葉をロワンが言ってのける。
「また、訪ねても、よいものかな」
訊ねるでも自問でも取れる口調のロワンに、イヨーリカははっきりと頷いた。
「結婚をするのではないのか? 申し込まれたのだろう?」
「それ…。あ、いいえ、返事はまだ」
ちゃぷり、と、ロワンが水音を立てる。視線は水面を追ってばかりだ。
「ヨハといったかな、彼が、私に跪いた。感謝すると。ああ、宿でね、イヨーリカの話題が出たから、まあ、その、私が偶然、捕縛を手伝ったと話しておいた。その方がいいと思ってね」
「そう。ありがとう、噂を消してくれて」
「いや、まあ、私がしなくとも、きっと彼が正しただろうけどね。彼は、噂も耳に貸さない勢いだった。彼の矜持を挫いたようだったが、それでも、君を救ったことも、噂話の場に混じったことへも、お礼を言っていた。そうできる振る舞いでもない」
ロワンが口を噤んだ。が、せせらぎに混じる水音が、何か言いたげだと知らしめている。水に漬けた足は何を探るでもない。水底の土ぼこりを沸き起こしては、石を裏返し、また石を転がすが、特に熱中してでなく、思案に暮れての手持ち無沙汰とみえる。
「返事を訊いても構わないかな?」
長い間を過ごして、ロワンが顔を上げた。イヨーリカは萎縮した。ヨハへの返事を訊かれるのか、断ると言えば、理由も訊ねられるのか、何故こうも私の結婚に関心など持つのか。この男に対してより、ヨハにはすんなりと返事を返せるだろう。胸の内を知られるのがこれ程怖い男はいまい。
「君の心に、少しは、私も居るのだろうか」
また無言が続く。けれど、今度は見つめあったまま。そして、もう瞼を開けては居られない。誰が教えたでもない、誰から教わったでもない、自然に瞼を閉じ、キスを受け入れる。何も言われずとも、唇を求められていると、この唇が知っていた。
齎された心地よさに陶酔する。キスは、何度と、数えられる類なのか、重なる唇は、離れず、しかし、何度も求め合う。いつ終わるとも知れず、気付けば、ロワンの胸で甘い息を吐いていた。
「これが答えと思ってもいいのか?」
抱かれた胸から響く声に、頷いた。
「では、私も、覚悟をしないとな」
気力も砕けて身を預けていた胸から、体を起こした。
「忘れて! 今のは…」
覚悟。それをさせてしまうのだ。私の気持ちを知って? 町の娘に好かれたと知って、キスをして、覚悟? 私が恋人になってしまうから? 恋人…なんて愚かな!
イヨーリカは、立ち上がらせてくれたロワンから、咄嗟に離れた。イアが知ったら、イアがあれ程口煩く言って聴かされ続けてきたのに、そこへ私が足を踏み入れたと知ったら、イアは…。
「無駄だよ。君の唇は、君より素直で、雄弁だから」
陽も低くなって鈍いきらめきを放つ水面に反し、ロワンの瞳が明るく潤んで輝く。けれど、口元は、これからの覚悟を、その苦慮を躊躇っているかのよう。
「君を迎え入れる準備もしないといけない。戻りは少し伸びるが、留守の間、彼の求婚は受けないでくれよ?」
「帰して!」
イヨーリカは声高に叫んだ。肌寒い夕方の風が、イヨーリカのスカートをはためかせる。その音にめげず、声を荒げた。
「家に帰して! この話はお終いよ」
「何故? イヨーリカ、君は私を」
「そんなこと、望んでないから。あなたとは…。帰さないなら、一人で帰るわ!」
日が落ちるのも時間の問題だ。言い合いを続ければ、日暮れに帰る羽目になる。そうなれば、イヨーリカが拒否したところで、周囲はその目で見るだろう。愛人に落ちたと。
戸惑っているロワンも、空に日差しの暗さを見止めたよう。納得しないとため息は漏らすが、イヨーリカを馬に乗せた。岐路は、蹄の音がのろく響く、嫌な道のりだった。また訪ねると言うロワンに、イヨーリカは首を振るばかりで、家へ駆け込んだ。
「夕餉には呼ばなかったのかい?」
「ロワンは、もう来ないわ!」
0
あなたにおすすめの小説
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
悪役令嬢の心変わり
ナナスケ
恋愛
不慮の事故によって20代で命を落としてしまった雨月 夕は乙女ゲーム[聖女の涙]の悪役令嬢に転生してしまっていた。
7歳の誕生日10日前に前世の記憶を取り戻した夕は悪役令嬢、ダリア・クロウリーとして最悪の結末 処刑エンドを回避すべく手始めに婚約者の第2王子との婚約を破棄。
そして、処刑エンドに繋がりそうなルートを回避すべく奮闘する勘違いラブロマンス!
カッコイイ系主人公が男社会と自分に仇なす者たちを斬るっ!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
通りすがりのエルフに求婚された貧乏男爵令嬢です〜初対面なのに激重感情を向けられています〜
東雲暁
恋愛
時はヴィトリア朝時代後期のイングランド。幻想が消え、文明と科学が世界を塗り替えようとしていた時代。
エヴェリーナ・エイヴェリーはコッツウォルズ地方の小さな領地で慎ましく暮らす、17歳の貧乏男爵令嬢。ある日父親が嘘の投資話に騙されて、払えないほどの借金を背負うはめに。
借金返済と引き換えに舞い込んできたのは、実業家との婚約。彼はただ高貴な血筋が欲しいだけ。
「本当は、お父様とお母様みたいに愛し合って結婚したいのに……」
その婚約式に乱入してきたのはエルフを名乗る貴公子、アルサリオン。
「この婚約は無効です。なぜなら彼女は私のものですから。私……?通りすがりのエルフです」
......いや、ロンドンのど真ん中にエルフって通り過ぎるものですか!?っていうか貴方誰!?
エルフの常識はイングランドの非常識!私は普通に穏やかに領地で暮らしたいだけなのに。
貴方のことなんか、絶対に好きにならないわ!
ティーカップの底に沈む、愛と執着と少しの狂気。甘いお菓子と一緒に飲み干して。
これは、貧乏男爵令嬢と通りすがりのエルフの、互いの人生を掛けた365日の物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁
瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。
彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる